学園祭
「……じゃ結局、目黒のマンションへは学園祭のあとに行くってことにしたのか?」
健吾の問いかけに、僕は頷きながらボードの留め金を回した。体育館では、他にもあちこちで美術部員がステージ設置の作業を進めている。
「うん。まあ、うちの学園祭が個展の十日あとだったから、もともとそうしてもらおうかと考えてもいたんだ」
その前に目黒に行ったとしても、その間の土日は美術部員として学園祭準備に忙殺されている。自宅に持ち帰っての作業もあるので落ち着かないことおびただしい。
「だから俊くんもわかってくれたよ」
僕は明日からの学園祭で健吾たちが立つステージのバックを飾るボードの出来映えを確認した。
「いいねぇ~」
持ってきたアンプのコードをつなぎ終えた健吾が近寄ってきた。
漆黒の地に銀色の鳥――単純化された一筆書きのような大鷲。それは健吾の憧れ、祐さんのトレードマークだ。そこに彼のいるバンド名〈ブラック・イーグル〉の横文字が斜めに殴り書きされている。
「しっかしそっくりに描いたなぁ、この大鷲マーク。祐司さんやファンのヒトに怒られない?」
「本人に許可は取ったよ」
「なんか恐れ多くなってきたな。来るんだろ? 一般公開日」
「うん。多分」
明日から始まる学園祭四日間のうち、最初の三日は学園内のイベントで、中等部と高等部が交流し、音楽会や体育祭が開かれる。対して最終日は保護者への門戸が開かれる日だ。そこに〈T-ショック〉のメンバーは顔を揃える。
「祐司さんまで来てくれるのは嬉しいんだけど、なんでそうなったんだろ。前は真嶋さんと拓巳さん、それとは別行動で雅俊さんが来てたんだよな」
その当時、僕の保護者として、学園の行事には拓巳くんと、僕の〈伴侶〉を自称する俊くんがお忍び女装姿で来るようになっていた。女装は、もともとは付属小学校時代、入学式に出席した拓巳くんがあまりに騒がれたため、学園側から配慮を求められたのがきっかけで始めた苦肉の策なのだ。
僕を弟子にした頃から参加しだした俊くんは、そのお忍びがとてもうまくいったので、個展で騒乱防止を要望された際にそれを応用してみた。するとこれがまた大成功し、以後、学校行事と絵画関係をすべて女装で通すことにした。
――女性画家、小倉蒼雅の誕生だ。その姿に僕がクラッときてしまったというわけだ。
画家、小倉蒼雅は学生にはあまり知られていないため、俊くんはさして注目を浴びることなく僕の参観を楽しんでいた。それに比べ、「目立たないようにしてくれるなら」との条件で普通のカッコウを許された拓巳くんは、気さくな雰囲気の真嶋さんと連れ立つためなのか、ホントの保護者でありながら、なかなか周囲の注目を逃れられずにいた。そんなときに、誘拐未遂事件の発端となるあの出来事が起こったのだ。
「二年前の事件のとき、祐さんが偵察に来たでしょ。あのときの様子で拓巳くんが味をしめたの」
「ああ、凱斗さんのことか」
「そう。音を聞けば人柄がわかるからって」
当時、学園の高等部二年に、知る人ぞ知るドラマーが転入してきた。彼は僕の存在を知ると執拗に絡み、僕が知り得なかった出生時の事情を暴いて過去を語れない拓巳くんを追い詰めた。それもそのはず、彼の父親はGプロの元社員、〈T-ショック〉を最初に担当した敏腕マネージャーであり、のちに事件を起こし、責任を問われて解雇された男だったのだ。
転落した人生の中で、男は息子を虐待し、息子は恨みを抱いて成長した。その捌け口として、〈タクミ〉の息子である僕に当たらずにはいられなかったのだ。
「凱斗さんも、あれをきっかけに変わった人の一人だよな」
「そうだね」
そのドラマー、浜田凱斗は、彼の父親が僕の誘拐計画に加担したとき、結果としてそれを阻止するのに協力した。今ではGプロに所属するスタジオミュージシャンとして、〈T-ショック〉のレコーディングやコンサートに参加している。
「あのときに拓巳くんは、祐さんがそばにいると誰も視線すらよこせないことに気がついたんだ」
その正体を探るため、学園祭のステージに出るという浜田凱斗を祐さんが偵察に来た。身長約百九十センチ、黒革の上下に身を包み、ソフトリーゼントにサングラスの出で立ちで学園に来た祐さんは、思いっきり浮いていた。
もちろん学生たちも、それが〈T-ショック〉のユージであることはわかっている。しかしあまりの威圧感に、声をかけるどころかそばに寄るのもためらわれる。まして直視など論外だ。かくして彼の座る周辺に、遠巻きに見守ることが精一杯の空間が出来上がった。隣に座っていた拓巳くんがそれに目をつけたのだ。
「お陰で拓巳くんは気ままにあちこち見学できるようになったんだよ。祐さんは、もともと自分のギター以外のことには鷹揚だから、年に一回行事に付き合うくらいは構わないって言ってくれてるらしいよ」
「ははは。いかにも祐司さんらしい。――ところで、美術室に戻すのはこれだけか?」
「うん。ありがとう」
僕は残った資材を抱えた健吾に頷くと、自分の道具を持ち、他の美術部員に声をかけてから外に出た。中庭の通路を横切って美術室を目指す。
「凱斗さんついでに聞くけど」
隣を歩く健吾がふいに尋ねてきた。
「その後、例の人の動向はどうなったんだ?」
僕は、時々問われるその質問に代わり映えのしない返事を返した。
「真嶋さんの調べる限りでは、お店をまた移動したようだって」
「行き先は?」
「今、真嶋さんのお友達が調査中」
「そうか……」
例の人。それは僕を拉致――本人は『招待』と言っているようだが――しようとした犯人を指す。拓巳くんと真嶋さんの天敵、もう十数年に渡って対立する僕の祖父、拓巳くんを虐待した父親、高橋要のことだ。
五十代半ばほどのホストクラブ経営者で、かなりの資産家だという彼は、何度違法を問われてもギリギリのところで逃れ、しばらく行方を眩ましたかと思うと、いつの間にかまたクラブを経営しているという、大変な世渡り上手だ。
二年前の事件のとき、その現場に居合わせ、僕を助ける働きをした健吾は、そこではじめて事情を知り、以降は犯人に対しての表現を改めた。すなわち、〈あの変態ヤロー〉から〈例の人〉だ。僕もあまり思い出したくはない。
頭の中に浮かび上がってきた面影を振り払おうとしたとき、健吾の鋭い声がした。
「おい和巳! 前!」
「えっ? あっ!」
警告も虚しく僕の胸に何かがぶつかり、そして跳ね返った。僕は咄嗟に持っていた道具を脇に放り、後ろに倒れそうな姿に手を伸ばした。
「大丈夫ですかっ」
辛うじてつかむことができた腕を引っ張り、ライトイエローの上着の背中を支えると、相手は僕の腕にすがるようにして体勢を戻した。顔を上げたその人は、明るいブラウンのカールした髪をふんわりと束ね、大きめのダークブラウンのサングラスをかけていた。色が下に向かって薄くなるタイプのものだ。彼女は僕の問いかけに頷くと、タイトなロングスカートの裾を優雅な手つきで払い、サングラスを取った。
うわっ、綺麗な――外国人さん?
そう見えたのは、すらりとした八頭身のスタイルに、明るい髪と白い肌、彫りの深い端麗な顔立ちもさることながら、切れ長に整った目が青みがかった茶色をしていたからだ。しかしそれ以上に目を引くのは、四十代前後に見えるその女性の美しい顔立ちにそぐわない、右瞼の端に残る傷痕――。
「~~、…」
落ち着いた色の唇が何事か言葉を発し、僕は我に返って失礼を詫びた。
「すみませんっ。お怪我がなくてなによりでした」
あっ、日本語で言っちゃった。
そう思う間もなく返事が返ってきた。
「こちらこそ。お荷物を運んでらっしゃったのに、よけてあげられなくてごめんなさいね」
流暢な日本語だ。
笑いかけてくる彼女に、地面に手を伸ばしていた健吾が体を起こして腕を差し出した。
「どうぞ」
「あら、ありがとう」
彼女は差し出されたつばの広い帽子を受け取ると被り直した。そのとき、つばの角度のせいなのか、瞼の傷が目立たなくなった。すると顔立ちの印象が変わり、不思議な気分が襲ってきた。
どこかで会ったような……?
気がつくと、彼女もまじまじと僕を見ていた。僕たちはしばらくお互いの顔を見合わせ――。
「和巳。ほら荷物」
「あ? ああ、ごめん。ありがとう」
散らばった道具を健吾に全部拾わせたことに気がついた僕は、慌ててそれを受け取った。再び向き直ると彼女もハッとした顔になり、すぐに頬笑みを浮かべた。
「ちょうどよかった。場所をお聞きしたかったの。理事長室はどこにあるのかしら」
「あ、それならここを進んで突き当たりの校舎に入ってから右に曲がればすぐです」
「あと少しだったのね。ありがとう」
「お気をつけて」
彼女は優雅な仕草で会釈をすると、ゆっくりとした足取りで歩み去っていった。その姿が視界から消えたところで、僕らも歩き出した。
やがて反対側の建物に差しかかったところで、健吾が僕に向き直った。
「おンまえ~、よくまあ、あんな美人にすらすらと言葉が出るな」
「へっ?」
健吾の顔はほんのり赤くなっていた。
「そんなにスゴかったっけ?」
「何とまあ……さすが〈衝撃の美貌〉の息子。あんな綺麗な人でもビクともしないのか」
「違うよ。あの傷に目がいっちゃって……」
「傷? どこに」
「右の瞼に、一センチくらい」
もしかしたら深かったのかも、と思うような傷だった。
「そんなのあったなんてわからなかったよ。理事長室へ行くって言ってたよな」
「うん」
「もしかしたら、新しい理事長だったりして」
「あの人が? まさか」
この学園では近々、理事長が代替わりをする予定らしい。理事長には今現在、理事を勤める男女二人の子どもがいる。次の理事長はどちらかだろうというのがもっぱらの噂だ。
「長男さんに変わるだけでしょ?」
「妹さんかもよ?」
「理事長の娘さんが外人さんだったとは知らなかったな」
そんな風に冗談交じりのやり取りをしていたので、僕はそのときひとつの重要な点を見逃した。そのことが後日、僕たちに大きく影響を及ぼすことになった。
翌日からの学園祭は予定どおり開催され、最終日の今日、一般公開日を迎えた。会場には徐々に生徒の家族が姿を現し始めている。
「この学園祭が終わるまでに、優花と一度話をしたいと思って」
クラスが担当する出店でたこ焼きを作りながら、健吾は僕に切り出した。
「何か連絡を取ったの?」
昨日まで美術部の仕事に忙殺されていた僕は、優花の顔すら見ていない。
「一般公開が終わったら最後にダンスパーティーがあるだろ? それを受けるか受けないかを今日の昼までに決めてくれとメールしておいた」
ダンスパーティーは学園祭の華。強制ではないが、パートナーを決めて望むのが理想だ。中等部、高等部の別なく入り乱れるので、いきおいカップルが増える。
「ずいぶんギリギリまで待つんだね」
「それを伝えたのもついこの前だったから」
鉄板を串が舞い、たこ焼きが回る。
「和巳の話でその先輩とやらの人となりが大体わかったんで、今のまま放っておくのはちょっと無責任かなって思ったんだ」
彼の手が繰り出す美しいたこ焼きさばきに見とれながら、僕は使い捨てパックを用意していった。
「昼に、中庭の遊歩道の先にある池で会うことになってる」
「もし来なかったら……?」
僕の質問に、憂い顔の健吾は串を動かしながら出店の天井を仰いだ。――プロだ。
「……俺の好きな優花は、もういないんだってことになるかな」
「………」
「そんな顔しないでいい。人は変わることもある。俺の優花がもういないなら、諦めもつくさ」
そして彼は最後のたこ焼きを少し大きめに作り終えると、並べたパックにギュウっと詰めた。
「ただもしそうなっても、けじめとして一回はちゃんと話し合いたいから、どこかで捕まえるつもりだけどな」
ほら、と健吾は僕にそのパックを手渡した。
「おまえの分。雅俊さん、結局来るんだろ? サービスしといたから仲良くな」
「……ありがとう」
俊くんが今日来ることについて、僕は少し躊躇していた。言わずと知れた阿部眞矢のせいだ。
俊くんは学園祭も当然、女性の姿で来るわけで、それをあの男に目撃されたときのことを心配したのだ。
「やつ一人のためにおまえとの時間を削られるほうが業腹だ」
俊くんは不機嫌に言い放ち、僕は懸念しながらもそれ以上は突っ込めなかった。ただでさえダンスパーティーには呼べないので、これ以上機嫌を損ねるのはちょっとコワい。
「じゃ、俺そろそろ体育館のほうに行くわ。あとよろしくな」
「うん。見に行くからね。ステージ頑張って」
僕は立ち去る健吾の後ろ姿を見送りながら、心の中で決めた。
もし優花が行かないとか言い出したら、首に縄つけてでも僕が連れていくからね……!
「そんなことになってるのか」
「ホントに情けない……」
昼時前の休憩時間に待ち合わせた俊くんを、僕は前に見つけた静かな奥庭のベンチに案内した。
腰かけたところで保温機から出してきた健吾特製のビッグたこ焼きを差し出すと、俊くんは口許を少しほころばせた。好物なのだ。
「だからごめんね。もう少ししたら一回、優花のクラスを覗きに行かせて」
俊くんはそれに頷き、たこ焼きに手を伸ばした。
結局、俊くんは女性か男性かが判別しにくい、お洒落なブラウンのパンツスーツで来てくれた。これはこれで、マースに近い姿ともいえるので油断はできないが、学園祭の人混みならすぐにはバレまい。
「芳さんの育てた娘なんだから、そう間違った判断はしないさ」
隣に座った僕は、横に束ねた巻き毛の間に覗くなめらかな首筋から目を引き離した。
見とれている場合ではない。
「僕も、そうは思ってるんだけどね」
なにしろあの阿部の指導を毎日受けているというのだから、何がどう転ぶか楽観できない。
「あんな、他にも連れ歩く女子がたくさんいるようなやつのために、健吾たちが振り回されていると思うと腹が立つ」
腹立ち交じりにたこ焼きを頬張ると、俊くんが小さく笑った。
「ふぁに(なに)?」
「いや……なんか、健全な学園ドラマみたいで青春だなあって。おまえといると新鮮で楽しいよ」
「………」
俊くんは、バンドの立ち上げと自主ライブの毎日で、高校は通信で資格だけ取ったのだという。拓巳くんも同様で、今の僕の歳にはすでに〈T-ショック〉としてデビューしている。それ以前はハイソな私立学園のピアノ科で、拓巳君は英文科、夜は違法ホストクラブ。この二人に今、僕が体験しているような学校生活はなかったのだ。彼らがわざわざスケジュールを調整してまで僕の行事に顔を出すのは、自分たちが得られなかった過去の時間を僕を通して味わう――そんな理由もあるのだろう。
「そうだ、和巳。おまえにオファーが来たぞ」
「えっ?」
俊くんはたこ焼きのパックを脇に置くと、僕に向き直った。
「さっき柏原さんから連絡がきた。小さなレストランの経営者らしいんだが、一枚注文したいと希望しているようだ」
「ほんとに……?」
俊くんは、薄化粧でも十分に美しい顔に柔らかい笑みを浮かべた。
「おめでとう。一人前への第一歩だな」
これまでも、俊くんの関係者に個展の作品を買ってもらったりしたことはあったけれど、正式にギャラリーを通しての注文は初めてだ。
「あ、ありがとう」
言葉がうまく出せないでいると、俊くんが両手で僕の手を包んだ。
「詳しい話は後日になるだろうが、まずは二人で乾杯しような」
今日は土曜日。すなわちアトリエの日だ。
俊くんの眼差しに艶が滲み出し、僕の手が片方、ぬくもりから離れて腕を遡った。やがて手のひらが頬を捉えたそのとき――。
「あっ、先客がいた?」
灌木の陰から見たくもない姿が飛び出した!
――阿部、眞矢……っ!