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ソウルガーデン~宵に咲く花  作者: 木柚 智弥
パートナーであるために
5/19

揺れ動く心


 拓巳くん……!

 彼は僕たちと目が合うと静かに歩を進め、僕の前で止まった。そしてしばらく無表情に俊くんの顔を眺め、やがてその隣にいる北斗を見下ろした。――小夜子さんに生き写しのその姿を。

「あんたが、柏原北斗なのか」

 正面から見つめられた北斗は、さすがにすぐには返せないようだった。が、まもなく息をひとつ吐き出すと、グッと背筋を伸ばした。

「そういうあなたは〈T-ショック〉のタクミですね。初めまして、柏原北斗です。ギャラリー・柏原へようこそ」

 堂々と対応する北斗に拓巳くんの目線が注がれた。それを遮るように俊くんが問いかけた。

「いつからそこにいた」

 拓巳くんは北斗の顔に目を留めたまま、後ろに見える廊下を親指で指し示した。

「Gプロで見かけた男子が立ち去る前には、そこに来てた。だから話は大体わかった」

「拓巳、私は」

「雅俊」

 拓巳くんはゆっくりと俊くんに目線を移した。

「おまえは、この事実をあえて言わなかったのか」

 それが何を指すのかは、聞かなくてもわかる声音だった。

 彼はさらに眼差しを強めて続けた。

「それとも言えなかったのか」

 俊くんの顔色がサッと青ざめた。拓巳くんは再び北斗に目を戻した。

「先ほどの見事な対応を見させてもらった。あんたは今もまだ雅俊に求婚したいか」

 北斗は淀みなく答えた。

「ええ。もちろん」

「自分の顔が、雅俊にとってどんな意味を持つのか知ってるのか」

「むろんです」

「ずっと面影を追われるぞ。それでもいいのか?」

 少し顎を引いた北斗は口元に笑みを浮かべた。

「構いません。それで雅俊さんが満たされるなら」

 すると俊くんが打ち消すように口を挟んだ。

「おれは小夜子の面影を追ってなんかいない!」

 口調が戻っているのは拓巳くんの影響だろう。

「北斗は北斗だ。そしておれはっきりとその話は断っている。おまえが口を出すことは何もない」

「雅俊。おまえは自分がこの顔にどんな眼差しを向けているのか気がついてないのか」

「……!」

 俊くんは打たれたように目を見開いた。

「前から和巳の様子に引っかかってたんだが、ようやく納得がいった」

 拓巳くんは僕に目を向けてきた。

「和巳。予定変更だ。俺は一旦、事務所へ戻る」

「え?」

「芳弘に連絡して、早く仕事を片付けてから迎えに来る。今日はうちに帰るんだ」

「………」

「何の真似だ、拓巳」

 俊くんの顔が険しくなった。

「今は個展期間中だぞ!」

「しばらくアトリエにはやらない。不満ならおまえが来い。俺も話があるぞ」

 拓巳くんは鋭い目線で俊くんを見据えると、僕には気遣いを滲ませた表情を見せた。

「ここで無理をしてもいいことはないと思う。迷うなら、ひとまず今日だけでも帰れ。いいな?」

 その染み入るようなやさしい声音に、僕は諦めた。――それ以上、虚勢を張り続けることを。

「……わかりました」

「和巳……っ!」

「閉館する頃にまた来る。午後の仕事、しっかりな」

 拓巳君は俊くんの声を遮るように告げるとクルリと踵を返し、そのまま振り返ることなく去っていった。僕は俊くんに頭を下げた。

「すみません、先生。昼食を買ってきます。……失礼します」

 そして彼の目線から逃れるように、足早にそこを離れた。僕の背中に北斗の得意気な目線が注がれていることを感じながら――。


 それから午後の仕事をどうこなしたのかは覚えていない。

 僕は任された受付や入場者の案内、作品の説明に没頭しながら、その実、誰に何を話したかなど、まったく頭に入ってはいなかった。

 北斗はそのままフロアに留まり、ギャラリーのオーナー代理として来場者と言葉を交わしながら、俊くんに新たなバイヤーを紹介したりしていた。目の端に映る二人の姿は、否応なく僕に現実の立場を教えた。

 すなわち、二人は対等の大人同士であり、僕は自分自身すら支えられない未成年なのだと。


「目黒行きを見合わせろってどういう意味だ」

 その夜、蒼雅の装いを解く間も惜しんでやってきた俊くんは、いつになく静かに切り出した拓巳くんに食ってかかった。

「おれが願って和巳が受けた話だ。一度認めたおまえが口出すことじゃない!」

 僕はソファーの隅に腰かけ、隣に座る拓巳くんと、その向かいに座る俊くんを見ていた。

「冷静になれ、雅俊。俺が何を言いたいのか、おまえにわかってないとは言わせないぞ」

「北斗のことならおまえの勘ぐり過ぎだ。おれにそんなつもりはない」

「じゃ、どうして一番おまえの心に触れているはずの和巳が、こんな揺らいだ状態になってるんだ!」

 拓巳くんはソファーから身を乗り出した。

「あの北斗の態度を見れば、和巳がおまえら二人にどう感じていたかなんてすぐにわかるぞ」

「北斗の態度?」

「自信満々だったな。あの手のタイプには見覚えがある。俺たちが過去に堕とされていた世界でな」

「………」

「狙った相手を確実に手に入れていると確信したホストそのものだ」

 俺たちが堕とされていた世界――肉親や家族たる人に強要された夜の世界のことだ。拓巳くんは父親の店で客を取らされ、俊くんは当主に売られていた。そこには、夜に生きる者たち同士の争いがあったのだという。

 拓巳くんは硬質な光を放つ薄い色の瞳で俊くんを見据えた。

「わざと和巳がまだ若年であることを強調して自信を失わせていた。北斗が求婚してから半年以上だ。さぞかし裏で和巳に見せつけていただろうよ」

 そうだろう? と顔を覗いてくる拓巳くんに答えられずにいると、顔色を変えた俊くんが聞いてきた。

「そうなのか、和巳」

 僕は目を伏せた。

「僕の心が弱いからです」

 拓巳くんは首を横に振った。

「そうじゃない。このバカ師匠が自分のことにかまけて注意を怠っていたからだ」

 肩に添えられた手のひらの温もりがじんわりと伝わってくる。

「いつもの雅俊なら、あんな態度をおまえに晒す人間に気づかないはずがない。ちゃんとおまえの様子から察して、何らかの手を打ったはずだ。それができなかったのは雅俊自身が目を曇らせていた証拠だ」

 拓巳くんは俊くんに向き直ると厳しい声音で言った。

「あの顔を前にして心が鈍っていたんだ。おまえのために憤る顔、おまえに向ける愛情のこもった笑顔……小夜子さんを彷彿とせずにはいられない。俺でさえ懐かしく感じたほどにな。それを見抜かれるのが嫌だったから俺に隠したんだろうが」

「そんなことはない」

「そのわりには浮かない顔だな」

「………」

「いずれにしても、雅俊。あんな男がそばにいる状態で、今のおまえに和巳はやれない。少し時間を置け」

「拓巳!」

「別におまえを責めるつもりはない。誰だって自分に深く刻まれた面影に抗うことは難しい。俺のこの顔が親父を狂わせ、和巳の外見が若砂に似通っていた二年前まで、俺自身が揺さぶられたように」

「………」

 ――拓巳くんの美貌は母親、つまり僕の祖母に当たる人に生き写しなのだという。彼女は拓巳くんを生んだあと、父親の前から逃げるように姿を消した。その恨みが、拓巳くんの虐待へと向かったのだ。

 そして若砂とは、デビュー当時、どうにか地獄の環境からは抜け出せたものの、虐待によって損なった魂をさ迷わせていた拓巳くんと出会い、愛を注ぎ、心を支えてその魂を再生させた人、僕を産み、間もなく病に倒れた人の名だ。ようやく手にした幸せを瞬く間に失った拓巳くんは、僕を育てることで辛うじて心の崩壊を防いだ。その人の面影を色濃く映した僕を溺愛することで孤独を癒し、自分自身を保ってきたのだ。それを知るがために僕も、そして周囲の人たちも、彼が僕への執着から行う数々の奇行を受け入れてきた。

「二年前、おまえが俺に言ったことをそのまま返してやる。今、おまえがやることは和巳に執着して手元に置くことじゃない。自分の心と向き合うことだ。そうしたら、北斗を無視できない自分を認めることができるだろう」

「………」

「北斗があんなに自信を深めている原因を探ってみろ。必ずそれはおまえの中にあるはずだ。それを取り除かない限り北斗は諦めないだろうし、和巳は自信を持てなくなる。なにしろ相手は成人、しかも仕事の取引先相手なんだからな」

 俊くんが苦い表情になった。

「いつになく冷静な態度だな。おまえからそんな説教を食らうとは」

「経験者なんでな」

 拓巳くんが立ち上がると、俊くんも席を立った。けれどもその顔に笑みはなかった。

「おまえがなんと言おうとおれには北斗への気持ちなんてない。アトリエにある和巳の荷物は予定通り目黒へ移す」

「雅俊」

「ようはコミュニケーションが取れてなかったってことだろ? ならしっかり深めてやろうじゃないか」

「雅俊、そうじゃないだろう」

「今日は色々あったからしょうがない。ここへ置いていく。だが明日からはいつもどおりだ!」

 俊くんは脱いだコートをつかみ、つられて立ち上がった僕の視線をも振り切るように体を返した。それを拓巳くんはドアの前で捕まえた。

「強引なことはやめろ。おまえらしくもない。ただでさえおまえたちの先には高いハードルがあるのに」

「………」

「目黒のマンションへ行ったらそれと向き合うんだぞ? 和巳は俺とは違う。俺と若砂のようにはいかないんだ。その前から問題を抱えている場合じゃないだろう」

「わかってる。でも嫌だ。おれだってそんなに余裕なんてない!」

「雅俊!」

「明日は帰さないからな!」

 俊くんは鋭い声で言うと、つかまれた腕を振り切ってドアの向こうへと消えた。玄関まで追っていった拓巳くんは、しばらく経ってから引き返してきた。

「まったく。計画したらまっしぐらなところは楽曲作りと同じだな。和巳はおまえの楽譜じゃねっつーの」

 彼はぼやきながらソファーに戻ると、立ったままの僕にも隣に座るよう促した。

「別にあいつの言葉に従う必要はないからな」

「拓巳くん。僕、明日はアトリエに戻るよ」

「和巳?」

 拓巳くんは眉を少し吊り上げた。

「あんな切羽詰まった顔したやつのところにか?よしとけ。ロクなことにならんぞ」

「だから。さっきの俊くんの様子がちょっと気になったんだ」

「『余裕はないんだ』ってところか?」

 さすが糟糠の妻。ちゃんと気がついている。

 拓巳くんは思案顔になり、やがてこちらを向いてからこう言った。

「和巳。本当はおまえ自身もまだ、あいつを受け入れる覚悟ができてないんじゃないのか?」

 もしかしたら見抜かれるかもしれない――そう構えていたにもかかわらず、僕はビクッと体を震わせてしまった。

 読み取った様子の拓巳君はさらに続けた。

「なのに目黒行きを決めた、その理由を言え」

「……それは」

「言いにくいなら俺が言ってやる。北斗のせいだな?」

「………」

「北斗の存在が無視できなくなったから、そこへの不安に目をつぶって自分に勢いをつけたんだ」

 僕がうなだれると拓巳くんはため息を吐いた。

「だから日に日にそんな追い詰められたような顔になっていったんだな。そんなことじゃ、ますます北斗につけ込まれるだけだろうに」

「……はい」

「雅俊にも葛藤があるようだし」

 背もたれに体を預けた拓巳くんに、僕は少しだけ勇気を出した。

「拓巳くん。聞いていい?」

「なんだ」

「僕を産んでくれた人、若砂さんを……拓巳くんはどうやって受け入れたの?」

 拓巳くんは少し目を見張った。

「……おまえだけは〈お母さん〉でいい」

 僕は首を横に振った。

 高橋(たかはし)(わか)()――旧姓、戸部(とべ)(わか)()

 それは、〈クレスト〉のデザイナー、アヤセ・トベの片腕だった〈弟〉、俊くんと極めて似た体質を持つ、ひとつ年上の幼馴染み、同じ病院に通っていたISの人なのだった。

 拓巳くんは、体が女性化したあとも男性の心を留めていた若砂さんを丸ごと受け入れたのだという。僕と俊くんにとっては、その意味でも拓巳くんはひとつの指標となる存在なのだ。

 無惨な過去によって精神に深い傷を負った拓巳くんは、昔の辛い出来事を思い出すとフラッシュバックを起こす。そのため、つい最近に至るまでその名は口にすら出せなかったが、最近は少しずつ話を聞かせてもらえるようになってきた。

「大切な人だから拓巳くんに倣うよ」

 拓巳くんは若砂さんのことを、絶対に妻とは呼ばないし言わせなかったという。女性化しながらも〈男〉であることを望んだ若砂さんへの心からだ。

「……若砂には、雅俊のような二面性はなかった」

 拓巳くんは背もたれから身を起こした。

「二面性?」

「心のこと。芳弘に似た包容力と、やさしさや細やかさはあったが、あくまでも性格であって性差じゃなかった。俺が惹かれたのはその魂だったから迷うこともなかったんだ」

 拓巳くんはちょっと言いにくそうに横を向いた。

「……雅俊を知っていたから、体の構造を理解していたのも大きい。若砂はそこだけが不安だったようだから、俺には問題じゃなかった。だからうまくいったんだと思う」

 けどおまえはちょっと違うぞ、と拓巳くんは続けた。

「若砂は清いままだったから、俺の導くままに受け入れてくれた。それでも心は〈男〉なんだから、時々は血が騒ぐようで求められることもあった。だが俺はそれには困らなかったんだ」

 拓巳くんの薄い色の瞳に陰が差した。

「十代のはじめに違法店にぶちこまれて男の客を取らさせられるなんて目に遭ってたから、そのあたりのことには戸惑わずに済んだ」

 皮肉な結果なんだけどなと拓巳くんは目を伏せた。

「精神的なことも。俺にはもう、普通の男が持つような、異性への衝動とか支配欲がなかった。若砂が俺を選んだのは多分、心の部分でも俺が普通の〈男〉じゃなかったからなんだと思う」

 でも、と拓巳くんは僕を見た。

「雅俊は小夜子さんに愛され、彼女を愛したから、魂はまず〈男〉を宿した。その後、おまえを想うようになってからは女性の部分も確実に増した。若砂より遥かに複雑な状態だ」

 僕にもそれはよくわかった。時々血が騒ぐ――まさしく俊くんの心情を現した言葉だ。彼を受け入れるならそれを呑まねばならない。問題は、僕にそれができるのかということ――。

「体のほうは、成長期に女性化しそうだったのを、バンドの活動のために薬で男性に留めた。けど、副作用が強くて途中でやめたから、男性化も止まったはずだ」

 つまり今は、精神的にも肉体的にも〈両性〉だ、と拓巳くんは嘆息した。

「そしておまえは性格こそ穏やかだが、体と魂は完全な〈男〉だ。そのおまえにとって、パートナーが二面性を持っているというのは厳しいハードルだ。体だけだって混乱するだろうに、心も、となると。だから無理はしないほうがいい……」

 拓巳くんの顔色がだんだん悪くなってきた。僕は肩を支え、背中をさすった。

「ありがとう、拓巳くん。たくさん話してくれて」

 僕の負担を減らすために、少しでも役に立つことは伝えたい――そんな気持ちでいてくれているとわかっていた。

「僕も無理したくはないよ。今話してくれたこと、とても身に染みた。よく考えて行動する。でも、明日はアトリエに戻るよ。自分のことより俊くんが心配なのも正直な気持ちなんだ」

「……そうか」

「少し横になってね。水を持ってくるから」

「ああ、頼む」

 ソファーに横になる拓巳くんに、隅に畳んであった膝掛けをかけてからその場を離れた。


 次の日の個展会場は土曜日とあって、十時の開館時から混雑を極めた。

 俊くんとは挨拶こそ交わしたものの、その後は仕事をこなすのが精一杯になり、声を聞くゆとりもないままにその日一日を過ごした。淡いブルーシルクのワンピースドレスを着こなした俊くんは今日も美しかったが、その顔には昨日までの華やかさが欠けていて、時折合わせる目線にはどこか余裕がなく、昨夜どんな様子で過ごしていたのかが窺える姿だった。

 だから、無言のままにタクシーでアトリエに帰りついたあと、リビングのローテーブルの上に、酒瓶が転がっているのを見つけても驚かなかった。

 またテキーラを……お酒には強くないのに。

 内心でつぶやきながらソファーの前で立ち止まると、後ろから俊くんが抱きしめてきた。

「―――」

 背中に熱が伝わり、首筋に吐息がかかる。僕は胸に回された二つの手をそれぞれ握った。

「俊くん」

「………」

「僕はどこにも逃げないよ」

「和巳……!」

 握った手をずらし、指先でゆっくりとなぞると、首筋にすべらかな頬が押し当てられた。

 ――時々、不思議に思う。この美貌と才能を兼ね備えた人がなぜ、僕を選んだのか。

 俊くんはずいぶん早い時期に、彼の絵に引き込まれていく僕の中に自分への受信機を見いだし、やがて感性の一致を確信して心に思い定めたのだという。

 彼にとって、それは年齢や立場より重要だったというのだけれど、世間の事情を知るにつれ、その傍らにあることが分不相応に感じられて怖くなる。けれどもこんな姿を見てしまうと、やはりそば近くにいて寄り添いたいと思うのだ。

 僕は昨日一晩考えたことを伝えた。

「拓巳くんの言ったことは、僕も重く受け止めた。今、無理して目黒に行くことは、長い目で見たら良くないことかも知れない」

 俊くんの手が僕の胸をビクッとつかんだ。

「でもそれは、誰かに言われて取りやめることじゃない」

 僕は胸をつかむ手を少しだけ外すと、俊くんに向き合うように体を回した。

「ごめんね。僕は未熟で愚かだから、自分の不安に負けたんだ。俊くんを北斗さんに取られたくない一心で、自分を誤魔化して目黒に行こうとした」

 俊くんは僕の肩に頭を伏せ、背中をぎゅっと締めつけてきた。

「ちゃんとそのことを明かして、その上でどうしたらいいか、二人で話し合わないと」

 長い巻き毛の頭をなでながら「ね?」と声をかけると、しがみつく力が少しだけ緩んだ。

「僕ね。昨日の二人の会話を聞いていて思い出したんだ。二年前、僕のせいで俊くんに大怪我を負わせて、そばから身を引こうとしたとき」

 俊くんは少しだけ顔を上げた。

「あまりにも未熟だからアトリエにいる資格がないと僕が伝えたら『ここで成長すればいい』と言ってくれたよね」

 それを思い出したよ、と告げると首筋に柔らかい感触が落ちた。

「だから正直に言うよ。僕はまだ自分が手探り段階で、〈男〉でもある俊くんを受け止められるのか見当がつかない」

 僕は頭をなでていた腕を背中に回した。

「今の僕に言えるのは、『小倉雅俊』という存在のすべてを受け入れたいと望んでいること――これだけなんだ」

 できるかどうかには確信が持てなくて。

「こんな僕に、目黒に行く資格があるんだろうか」

 かえって苦しめる結果になりはしないか……。

「だから少しだけ時間をもらって、俊くんにもよく考えてほしいんだ」

 すると、首筋に落とされていた唇がフッと動いて僕のそれを塞いだ。

「―――」

 熱を帯びた柔らかい感触が僕を満たしていく。

 それはやさしく僕を絡め取り、やがて離れていった。

「それでもいい。おれにはおまえが必要なんだ」

 再び肩に頭を預けた俊くんは言った。

「おまえがおれを受け入れたいと願っている……それだけでいい。目黒に来てくれ」

「俊くん……」

 その言葉には少しだけ、あの焦燥感が滲んでいた。

「北斗のことはおれもこれから気をつける。もしおまえがどうしても気になるなら、いっそギャラリー・柏原との取引をやめたっていい」

「……!」

「おれが北斗の顔に気を取られているというのなら、あいつとはもう会わないから」

 ああ――。

 この言葉。この心をもらって、何を恐れることがあるだろうか。

 だから僕はこう告げた。

「ありがとう。その気持ちだけ受け取るよ。でもどうか気持ちだけで。自分のために師匠が大事な取引先とのつながりを断った、なんてことになったら、僕のほうがいたたまれなくてそばにいられなくなっちゃうから」

 少しおどけたように笑いかけると、俊くんもようやく「それは困る」と微笑んでくれた。




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