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ソウルガーデン~宵に咲く花  作者: 木柚 智弥
パートナーであるために
4/19

まといつく不安

 小倉小夜子――最初、それは僕にとって、俊くんの思い出の中に出てくるお(とぎ)(ばなし)の女神様のような存在だった。やさしく賢く、そして強い。今の俊くんの(いしずえ)を築いてから、天上へと旅立っていった人。

 その人のことを話す俊くんは、やさしい気配をまとい、自分に愛を注いでくれた存在への感謝と恋慕を滲ませた眼差しを、アトリエの壁に残る彼女の絵に向けながら語ることが多かった。その心の表れが、いみじくも北斗が表現した〈鮮やかでありながら少し哀惜を帯びた〉作品の数々なのだ。

 今もなお、心に宿るその人の面影――それがいつしか僕を苛み始めたのは、紛れもなく柏原北斗の影響に他ならない。


「君が弟子? 納得できないな」

 留学先のパリ大学から休暇で帰ってきた北斗は、中学に上がる前に正式に弟子になった僕を、俊くんのいない隙にギャラリーの別室に連れ出すと、黒曜石のような瞳を光らせて告げた。

「あの人の弟子になるのは、あの人をすべてわかる人じゃなきゃ。君みたいな平凡な子どもに、あの複雑な魂が理解できるとは思えないな」

 そのときの僕は、彼の言わんとすることが半分もわかってはおらず、ただ子どもらしい対抗心で答えただけだった。

「僕は俊くんをずっと見てきました。だからわかると思います」

 そんな僕に、北斗は憐れみのこもった眼差しを向けたものだ。

「ふーん。じゃ、両方の性別を持つってことの意味、わかってるんだ」

「男の人にもなれるし、女の人にもなれるってことでしょう?」

 当時、まだ性というものの本質について、漠然とした知識しか持ち合わせていなかった僕は、男や女の格好を自在にする俊くんに対し、そんなイメージを持っていた。北斗は「話にならないや」と鼻で笑ったあと、僕に向かって宣言した。

「僕はあの人を受け止める準備をしている。僕には有利な点がひとつあるからね。ま、僕が帰ってくるまで、せいぜい頑張ってみて」

 その突き放すような言い方に、あまりそういった感情を受けたことがなかった僕は多少、揺さぶられたものの、特に気には留めなかった。ほんの時々しか会わない大学生に関心を置くほど、僕は暇ではなかったのだ。

 それが徐々にのしかかってきたのは、二年前のあの日、あわや攫われそうだったところを救い出されたとき、大怪我を負って横たわる俊くんの姿に、自分の心の一端を知ってしまったあとだろう。

 事件のあと、俊くんの希望に沿う形で金曜日からの三日間をアトリエで過ごすようになったのだが、その半年後に再会した北斗は僕を見てからこう告げた。

「せいぜい可愛がられなよ。君はどうせ、絵画の小倉蒼雅先生しか愛せないでしょう? 僕は違う。ちゃんとマースを含めた小倉雅俊を理解しているもの。今に雅俊さんは君に苦しくなるよ」

 その頃にはさすがに僕にも意味がわかっていた。

「僕にも理解できるつもりです。マースである雅俊さんのそばにもずっといたんですから」

「タクミの息子としてでしょ?」

 僕の虚勢を、北斗はあっさり破り捨てた。

「まあ、見てなよ。君はこれから雅俊さんを苦しめる。そのとき僕が帰ってくるんだ。僕のこの外見を見て、そんな心境の雅俊さんが揺らがなかったら小夜子さんに失礼だ。小夜子さんが彼の心の(いしずえ)である限り、僕はあの人にとって無視できない存在なのさ」

 アトリエに帰り着いた夜、俊くんが眠ったあとで、僕は密かに寝台を抜け出し、クローゼットの奥にしまってあったアルバムに手を伸ばした。そこには、まさに北斗としか思えないほどに面影の似た、華奢で小柄な女性が黒曜石の瞳を煌めかせて微笑んでいた。それまでも彼女の写真を見たことがないではなかったが、はっきりと北斗と重なったのはこのときからだ。

 やがて北斗の言った「雅俊さんを苦しめる」という言葉が、僕をジワジワと侵食しだした。北斗に指摘された両方の性別、ということの意味が現実味を帯びてきたのだ。

 その存在のすべてで僕を求める小倉雅俊に対し、僕の中で、画家、小倉蒼雅と〈T-ショック〉のマースが少しずつ分かれていった。

 女性である小倉蒼雅を前にしたとき、僕の心は止めようもなく彼女に傾き、内側から湧き上がる昂ぶりを自覚せずにはいられない。

 その反面、男性を表すマースに対してそこまでの感情は生まれない。小さい頃から僕を慈しんで守ってくれた、身近で大切な存在であることは疑いもないが、彼の本能から来る求めの気配を察しても、戸惑いが先に立って応じるまでに至らない。

 その心境を敏感に読み取った俊くんは、けして僕に無理強いすることはなかった。けれども、自然の一端を封じさせたことによって、彼が心に澱を溜めていくのもわかってしまった。

 まさにその頃、宣言どおり北斗が帰ってきたのだ。

「ほらね」

 それらを見破った北斗はすぐに俊くんに求婚した。去年の冬のことだ。むろん俊くんは断った。が、北斗は持ち前のしたたかさ、機転のよさで僕を牽制し、その後も俊くんの心を探りながら小夜子さんに似た姿を焼き付けていった。そんな北斗に対し、葛藤に揺れだした彼が目を留めはじめることを、どうして責めることができるだろうか……!


「――あっっ」

 小さな叫びが僕を現実に引き戻した。

 薄暗い明かりの中、アトリエの二階にある僕たちの寝室で、今日一日、小倉蒼雅として過ごした人を僕は手に入れていた。焦がれた姿を前にして手を伸ばした挙げ句、心を物思いへと飛ばしてしまっていたらしい。

「ごめん――大丈夫?」

 身を伏せて力を抜くと、俊くんは甘やかな呼気を漏らして息を継いだ。

「ああ……少し驚いただけだ」

「え……?」

「おまえが、いつもと様子が違うから」

「………」

 僕は添うように横になり、その細身の体を抱き寄せた。

 ――北斗は僕を揺さぶる一方で、ひとつの結論も与えてよこした。即ち、それがたとえマースの姿であっても北斗に奪われたくはないということだ。その結論だけを拠り所に、他の問題を心の隅に押しやって僕は目黒へ行くことを決めた。

 自信はない。僕の中に純然と分かたれている〈マース〉に対し、どうしていけばいいのかまだ答えは見つかっていない。けれども目黒へ行くと伝えたあとで僕に示されたあの作品を見たとき、胸を貫いた感動とともに自分もまたすべてを受け止めて応えたいと感じたのだ。

「和巳?」

 特徴的なアーモンド型の瞳が僕を覗いている。

「なんでもないよ……」

 僕は冷めてきた体を暖めるように腕の力を込めた。

 目黒へ行く――。それを告げた夏以降、俊くんの目に宿っていた焦燥は減った。北斗への眼差しに変化はないものの、態度には余裕を感じる。

 この決心がどう跳ね返ってくるのか。その不安に僕は揺らいでいる。それに健吾は違和感を感じ、優花は見抜いた。いずれ拓巳くんにも伝わってしまうだろう。

 とにかく今は個展を無事、乗り切ること。

 俊くんを師匠に持つ以上、〈ギャラリー・柏原〉との縁は続く。個展のあと、僕が目黒に行くことを、北斗が気づいていないとは思えないが、彼にとっても小倉蒼雅は疎かにはできない画家。その弟子である僕に、あからさまに敵意を示すことは難しいだろう。

北斗なら、無理して手を加えなくてもいずれボロが出るさとか考えていそうだな。

 そんなことを思い巡らしているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。


 翌日からは一般客が解禁された。

 といっても野放しにするわけにはいかないので、あらかじめ電話で申し込みをしてもらい、事前に入場券を購入するシステムになっている。余れば当日券になるが、余らないことのほうが多い。

 一般の初日に当たる日曜日はさすがに混んでいたが、平日の夕方は穏やかに過ぎた。

 小倉蒼雅としてフロアに立ち、優雅にバイヤーをもてなす姿はマースのファンたちもわきまえていて、昨今では本人目当てに騒ぎ立てるような輩は少なくなった。逆に、男のバイヤーや入場者が、展示された作品よりも美しい作者に熱い視線を向けているのが気になる。が、柏原オーナーが個展の運営上、もっとも懸念しているのは、小倉蒼雅が目的の(よこしま)な男ではなく、小倉雅俊の糟糠の妻に当たる男だ。

「和巳君、見えられました。スタッフルームまでお願いします」

 来た!

 個展も残りあと三日。Gプロの手伝いスタッフに耳打ちされ、僕は足早にフロアを出た。時計に目をやると午後一時まであと五分、僕の休憩時間ぴったりだ。

 あれ? でも今日って、ラジオ番組の収録で一時半にならないと空かないとか沖田さんが言ってなかったっけ。

 この週の僕は拓巳くんの付き人はしない。昨日までは授業があったので午後の四時過ぎでないとここへは来られなかったが、十月半ばの週後半は学園が連休になっていて、今日は金曜日ながら一日中詰めている。

 むろん、僕の学園の年間行事計画表を把握する俊くんがそこに合わせたのだが、普段は自分の予定表などには頓着したこともない拓巳くんが、この個展スケジュールだけは時間単位でチェックし、こうしてピンポイントに僕の動ける時間を狙ってくる。近年、その精度がやたらと高まっているのは、作品が置かれだした僕が、会場を迂闊に離れられなくなってきたからだ。

 きっと祐さんに『あとはヨロシク』とか言って押しつけてきたな……。

 廊下を一直線に突っ切り、曲がり角の手前のドアを開けると、Gプロのスタッフを迫力の美貌で脅しつけ、裏口から案内させたのであろう長髪の男が目の前に立っていた。奥には犠牲者と見られる若い男女二人の姿もある。

「和巳。昼休みだろう? どこか食べに行こう」

 僕はため息を吐き、二重切れ長の美しい瞳を期待に輝かせる姿をチェックした。

 背中までの長髪を(うなじ)で結わえ、キャップを被った姿は、一応カモフラージュにはなっているようだ。黒のジーンズにブルゾンといった服装もありふれている。いざとなれば、ここからほど近い健吾の家のレストランに駆け込むという手もある。

「拓巳くんの時間は? 何時までに戻るの?」

「二時半に芳弘の美容室に行くことになっている」

 真嶋さんの開く美容室もここからすぐ近くだ。

 さすがは沖田さん。そのまま逃げ出さないよう真嶋さんをストッパーに用意したようだ。

「わかった。じゃ、俊くんに断ってくるね」

 返事を聞いた拓巳くんは、他では百パーセント拝めないという、辺りに花が飛び交うような笑顔をよこした。

「おまえが休憩に入ることはヤツだってわかってるさ」

 奥のほうから物が落ちる音がするのは、顔が見える位置に立っていたせいで、今の笑顔を目撃してしまったスタッフ二人が魂を奪われたために違いない。

「そうはいかないよ。外に出るなら受付のスタッフさんにもちゃんと断らないと」

 苦笑して言うと、拓巳くんもそれ以上は突っ込まなかった。僕は備え付けのパイプ椅子を拓巳くんに勧めると、スタッフ二人のもとに走り寄って耳打ちした。

「申し訳ありませんがそういうわけですので外出許可を取ってきます。すぐ戻れるとは限らないので、ここから出ないように見張っていてください」

 二人は青い顔で訴えてきた。

「あの、もし出たいとか言われちゃったら……」

「まずはサングラスをかけてもらってください。あとはお二人が気をしっかり持って引き止めてくださいっ」

 なおも訴えてきそうな二人を振り切り、僕は廊下に出た。

 一時間以上の休憩は気が引けるが、これに付き合わないと『和巳の作品を見たいから』などと言いつつ、来場者のフリをした彼が僕のそばをうろつくことになる。なまじ作者の父親なのでモンクも言えない。個展会場ではキャップはかえって目立つので意味がなく、サングラスのみの姿になる。するとどこからともなくSNSなどで情報を入手したファンの女の子やロック少年たちがビルを取り囲みはじめる。この情報化社会でそれを阻止するのは不可能だ。

 ところがここには入場者制限があるので彼にはなんの影響もない。むしろ粘ると周囲のスタッフから懇願された僕がお守役に付くので満悦なくらいだ。かくして個展の来場者とファンが外に入り乱れ、道路にまで混雑を起こし、会場責任者は頭を抱えるハメになる。

 けれども当の責任者を含め、ダレも彼に面と向かって『お願いだから来ないでください』とは言えない。なぜなら彼のもうひとつの異名〈鉄壁の無表情〉が威力を発揮するからだ。

 以前、会場責任者に懇願された柏原オーナーが説得を試みたことがある。

「高橋さん。ちょっといいかな」

 しかしそう言ったきり、次の言葉は出てこなかった。呼びかけに含まれた牽制の気配を嗅ぎ取った拓巳くんが、氷のような無表情で「なんですか」と振り向いたからだ。あの美貌に至近距離から冷たく見つめられた柏原オーナーは言葉を続けられず、

「いや、あの、ごゆっくり……」

 と言ってしまった。オーナーですらこの有り様では、他のスタッフに可能なはずもない。俊くんとしても、蒼雅の姿でいつものようにやり合うわけにもいかず、苛立ちを募らせつつも控えめに注意するしかない。やがてその矛先は僕へと向かい……あ、なんか考えるのがヤになってきた。

 昼時とあって人影もまばらな廊下を戻ると、ちょうどバイヤーを見送り、廊下からフロアに入ろうとしていた俊くんを見つけた。

「すみません先生。例の人が来ましたので一旦、外出します。真嶋さんのお店に二時半だそうですが、どうしましょうか」

 僕の呼びかけに、今日はクリームイエローのスリムドレスに身を包んだ俊くんは美しい額に縦ジワを寄せた。

「……二時半」

「戻ってきてもよければそうしますが」

「中途半端な……仕方がない。なるべく早く芳さんの店に捨ててきなさい」

 あまり僕には使わない先生口調に、つい笑いが漏れた。

「ありがとうございます」

「今日は北斗が顔を出すかもしれない。無用なトラブルは避けたいからな」

 俊くんは僕に一歩近づくと、念を押すような表情を向けてきた。

「こっちにはなんの含みもないが、ヤツが北斗を見ればうるさく言ってくるのは間違いない」

 俊くんとしても、北斗の顔立ちが小夜子さんに似通っていることを、拓巳くんに知られると厄介だとは認めている。

 さりげなく肩に添えられた俊くんの指先が、一瞬だけ力を増した。

「ギャラリーの関係者である以上、いつか顔を会わせるんだろうが、なるべくならおまえを目黒に迎えたあとがいい」

 耳元でささやかれ、僕は狼狽しそうな内心を抑えながら返事を返そうと顔を向けた。すると出口から出てきた二人の男女が視界に飛び込んできた。

 あれは……っ!

 目を疑っていると、向こうが僕に気づいた。

「やあ、高橋君。こんなところにいたの?」

 そして隣に立つ俊くんを見ると、あからさまな興味の目を向けてこう言った。

「わあ、ホントだ。〈T-ショック〉のマースが女装してる」

 それは紛れもなく、先週Gプロで行き合った阿部眞矢に他ならなかった。

「……!」

 あまりに不躾な言い様に絶句していると、今日は洒落たジャケット姿の阿部眞矢は、隣に立つ女子に言った。

「ほら、見てごらんよ。せっかく来たんだもの。話の種になるよ?」

 はにかんだ様子の女子は、チラチラと珍しいものを見るような視線をこちらによこした。

「お戻りください、先生」

 僕は咄嗟に俊くんを後ろに押しやり、阿部眞矢に歩み寄って腕をつかむと、少し先の曲がり角まで移動した。

 阿部はキョトンとした表情で僕を見た。

「なんだい?」

「わざわざ個展にまで足を運んだにしては、作者に対しての敬意が微塵も窺えませんね。礼儀を知らないと笑われますよ」

「え? こんなところに来るの、初めてだからかな。僕、何かヘンなこと言った?」

「作者を前にして『話の種になる』とはどういう意味ですか。失礼な」

「だってそうでしょ? あの有名なバンドで女の子にキャーキャー騒がれてる男がさぁ。ISって凄いね」

 僕は胸元をつかみ上げそうな自分を押さえた。なぜかは疑問だが、一応は入場券を持った客だ。

「どうも阿部さんは作品には興味がないようですね。なぜここに来たんですか? 冷やかし目的なら警備の対象にさせてもらいますよ」

 阿部は怯むでもなくあっさりと理由を明かした。

「前に優花ちゃんに話を聞いて、ここの入場券を頼んでおいたんだよ。デートのきっかけになればと思って。月曜日に受け取ったときに一枚を渡そうとしたら、外出禁止になったから行かれないって断られちゃって」

 優花……っ、間が悪すぎ!

 僕はくじけそうな自分を叱咤した。

「なるほど。そしてすぐに別の彼女を連れるわけですね」

 冷めた目線を女子に投げると、阿部は口を尖らせた。

「だって一人じゃつまらないじゃん。でも彼女はマースに興味があるっていうから、それなら無駄にはならないかなって」

 この男が相手だとウンザリ感が増すのはなぜだろう。全然話が噛み合わない。すると阿部はさらにこう言った。

「ちゃんとお金を払ってるんだから相応の見返りがないと。まあ、珍しい性別のヒトを見れたから来た甲斐はあったかな」

 ねぇ、と楽しげに隣の女子に頷きかける阿部を僕は睨みつけた。

「その失礼な物言いはやめなさい!」

「えー? だってホントのことなんでしょう? サイトで公表してるくらいなんだから別にいいじゃん。前から聞いてみたいと思ってたんだけど、君はそのあたりのこと、どのくらい知ってるの?」

 こん……のっ……!

 こいつには何を言っても無駄と悟り、さっさと追いやろうと気持ちを切り替えたとき、背後から声がかかった。

「何を?」

 振り返ると、俊くんが僕のすぐ後ろまで来ていた。

「先生……っ」

 先ほどの場所から立ち去らずにいたのだ。

 彼は僕の隣に来ると、正面から阿部眞矢を見据えた。

「何を聞きたい?」

 少々気圧されながらも阿部は喋り出した。

「わあ、近くで見るともっと不思議。まるっきり女のヒトだ。あの、両方持ってるってどんな気持ちなんですか? やっぱり男に興味があるの? それとも女? 両方かな。それって両刀使いって言うんですよね?」

 な………っ!

 あまりに不躾な質問に身を乗り出そうとすると、俊くんの手がスッと上がって僕を遮った。すると。

「そんな無礼な質問に答える必要ありません、先生!」

 曲がり角の奥から切り裂くような鋭い声がした。目を向けると、そこには肩を怒らせた北斗が立っていた。

「北斗」

 つかつかと歩み寄った北斗は、黒曜石の瞳を阿部眞矢に向けた。

「おまえは目上の方に対する口の聞き方を知らないのか。身の程知らずのガキが」

 蔑みを含んだ声音に、阿部がムッとした。

「ガキって……あんたこそいきなり失礼じゃん。僕は聞かれたから質問しただけだよ」

「プライバシーを傷つけるような質問は論外だ。無礼者が! 出ていけ。二度と先生の前に顔を晒すんじゃない!」

 その剣幕に押されながらも、阿部は反抗的な顔で北斗を見下ろした。

「あんたスタッフの人? お客に対してその態度はいいわけ?」

「私はこのビルの管理担当者だ。不審人物を排除する権限を持っている」

「あんたが?」

 阿部は目を見張った。スーツを着ていても学生にしか見えない北斗では無理もない。

「ふーん。でもマースは芸能人なんだからプライバシーなんてないじゃん。入場者を不当に不審者扱いしたってマスコミに話したら、面白いことになるよねえ。上司に怒られるんじゃないの?」

 すると北斗は黒い瞳を爛々と燃え立たせた。

「いいだろう。マスコミに話すなら話せばいい。SNSに上げたって先生はビクともしないぞ。〈T-ショック〉には強固に築き上げてきたファンとの絆があるんだ。おまえのほうが逆にバッシングされるだろうさ」

「………」

「そして私は直ちにこのギャラリーの次期オーナーとして、大切な画家の名誉を損なった代償を請求してやる。民事裁判で三百万、覚悟してもらおうか」

「えっ……」

「そのときに私が法廷に立たせるのはおまえじゃない。とんだバカ息子のせいで尻拭いさせられるのはおまえの親だ。つまり、おまえはまだ自分では尻もぬぐえない半人前ということだ! わかったならとっとと失せろっ、このすねかじりが!」

 小柄な体から吹き上がる怒気とともに一喝され、青ざめた阿部眞矢は連れの女子の手を取ると、一瞬だけこちらを見返してから足早に立ち去った。僕は動くこともできず、今、北斗が言った台詞を噛みしめていた。――半人前という言葉を。

 北斗は怒りを孕んだままの眼差しで僕に向き直った。

「あれは君の知り合いなの? 和巳君」

「……知り合いというか、天敵です」

「そう。それにしてはさっきの態度は情けなかったね。侮辱されたのは君の師匠なんだよ? あんな言いたい放題にさせて。ちょっとがっかりだな」

「………」

 さすがに言葉もない。

 僕がうなだれると俊くんが遮った。

「よせ、北斗。和巳が責められる謂われはない」

 北斗は俊くんに向き直った。

「いいえ。蒼雅先生のパートナーなら責められなくちゃなりません。あれはないですよ」

「………」

「でも、パートナーでないなら責められる謂われはないですね。僕もそのほうが嬉しいですよ? こんな、まだ経験も浅い学生さんに色々要求したくありませんし」

 俊くんは瞬時に表情を強張らせた。北斗は宥めるような微笑みを浮かべた。

「実際、先生のような非凡な才能を持ち合わせた方を理解して支えるには、かなりの胆力が必要です。先ほどの様子を見た限りでは、和巳君にはちょっとまだ荷が重いようですね」

 まだ高校生じゃ無理もないですけど、と北斗は続けた。

「でも大丈夫。絵画の世界でのことは僕がサポートできます。先生の名誉を汚すような輩には容赦しませんよ」

 笑顔を向けた北斗に、俊くんの黒目勝ちの眼差しが注がれた。僕の胸の奥で、あの日受け取った何かが勢いを失った。北斗は俊くんの眼差しを受け止めたあとで、僕にその黒曜の瞳を向けてきた。

「君も、蒼雅先生のことは安心して任せてもらっていいよ。あの学生は排除対象にするから。あとは〈T-ショック〉のほうだけど、まあ君じゃなくても、そっちはスタッフさんがしっかりしてるか」

 あまりに的を得すぎていて、言葉を返す気力が湧かない。するとふいに俊くんが顔を横に向けた。釣られて顔を向けるとそこには――。

「拓巳……」

 いつの間にスタッフルームから出てきたのか、少し先の廊下に拓巳くんが音もなく立っていた。



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