表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ソウルガーデン~宵に咲く花  作者: 木柚 智弥
パートナーであるために
3/19

北斗

 一週間後、横浜駅から歩いて五分のビルの最上階で、俊くんのデザインアート展が予定どおり開かれた。

 この土曜日から次の週の日曜日まで約一週間、俊くんは完全な女性姿の画家になる。その雅号を〈蒼雅〉と称する。

 それは、今は亡き彼の師匠、義理の姉であり、恋人だった小倉(おぐら)小夜子(さよこ)さんが、自分の雅号〈星雅(せいが)〉からつけた。(ちなみに僕は先年、俊くんから〈(そう)(じゅん)〉の名を授かっている)

 小夜子さんは、俊くんが十一歳のときに母親の再婚に伴って入った山手の大富豪、小倉家の直系で、アトリエの持ち主だった人だ。

 当時から天使の美貌と称えられた俊くんは、その小倉一族の当主、義理の祖父となった人物に、母親の立場を保証する代わりとして、夜の相手をさせられていたのだという。それを、体を張って庇い、命を賭して守ったのが小夜子さんだ。

 絵画や音楽、ピアノに秀でていた彼女は俊くんにそれを伝え、遺言でアトリエを残した。俊くんは小夜子さんを喪った痛手を、絵を描き、楽曲を作ることで昇華し、自分と似たような境遇に置かれていた中学の後輩、拓巳くんのボーカルの才能に託した。それが〈T-ショック〉のはじまりだ。

 虐待によって精神に不安定な部分を抱えた拓巳くんを連れ、真嶋さんや祐さんに助けられながら、地獄のような環境を脱した俊くんは、不屈の魂と才能で十代半ばにしてメジャーデビューを果たし、今日の土台を築いた。言わば、あの二人は糟糠(そうこう)の伴侶とも言える間柄なのだ。

 ……まあ、まさかそのときは、デビュー後僅か一年で、拓巳くんが俊くんの幼馴染みと内縁結婚して子どもをもうけ、長じてはその子どもを巡って、取り合いのバトルを展開することになるなどとは、二人も想像しなかったろう……。


「……ずみ、和巳!」

 気かつくと、蒼雅の姿をした俊くんが目の前にいた。僕は我に返って意識を弟子に戻し、目の前を通り過ぎる招待客に会釈をして見送った。時間は夕方の五時、あと一時間で閉館だ。初日は招待客のみなので、フロアにはあと数人の人影だけしかいない。本番の喧騒は明日からだ。

 僕は挨拶が済んだ様子の俊くんに目を向けた。

 薄い紫ベースのワンピースが作る柔らかいシフォンのドレープが、俊くんの華やかな美貌をやさしく彩っている。長くなった巻き毛を緩く編んで後ろにまとめ、アーモンド型の目尻には薄紫のシャドウを、唇には艶のあるパープルのルージュをのせている。あでやかな立ち姿は、今朝それを一番に目にした僕が、思わず朝から理性を手離そうかと思ったほどの美しい仕上がりだ。

 そのアーモンド型の目が、僕の後ろを見ながら細められた。

「柏原オーナーと北斗が来た。挨拶するから並んで」

 ささやき声の耳打ちに、僕は慌てないように気をつけながら振り返った。

 広いロビーのような造りのフロアに、ランダムに展示された俊くんの作品を見やりながら、中肉中背の、五十前後に見える姿勢のよい紳士と、紺色のストライプの三つ揃いを身につけた、十代後半に見える小柄な少年がこちらに近づいてくる。やがて、フロア奥に並んで立つ僕たちの前に、二人の対称的な姿が立ち止まった。

「ご盛況でなによりですな。蒼雅先生。すでにバイヤーからオファーが来ていますよ」

 このビルのオーナーでもある柏原(かしわばら)晴彦(はるひこ)が、貫禄の滲む角張った顔に笑顔を浮かべて告げてきた。

「ありがとうございます」

 俊くんは蒼雅でいるときに使う優雅な口調で答えた。柏原オーナーは次に隣の僕を見た。

「また背が伸びたかな、和巳君。君の絵もなかなか評判を集めているようだよ」

「恐れ入ります」

 頭を下げると、柏原オーナーの横から声が上がった。

「今回のテーマは〈花〉ですが、今までになくタッチが鮮明ですね、蒼雅先生。なにか心境の変化でも?」

 そう言って僕の師匠を上目遣いに見上げる者こそ、今、もっとも僕ら親子の関心を引く人物、柏原北斗だ。

 きらきらと輝く黒曜石の瞳、肩すれすれの真っ直ぐな黒髪。あどけなさをまとう日本人形のような顔立ちは、父親とは似ても似つかない儚げな容姿だ。俊くんより一回り小柄で、せいぜい十七、八歳ほどにしか見えないが、れっきとした成人――今年二十五歳を迎えるはずの、僕より九歳も年上のリッパなオトコだ。

 この男の何が僕を揺さぶるのかと言えば。

「これは、私のここ一年の心境を表している」

 俊くんは美しく微笑みながら、目を輝かせる北斗に説明した。

「フロアの入り口から奥のこの場所まで、時間軸どおりに展示してある」

「ああ。だから鮮明さに差があるのですね」

 北斗が振り向いた先に、数多くの〈花〉が咲き乱れるように展示されているのが、僕の目にも映った。

 ここからは離れた入り口近くの〈花〉たちは、小倉蒼雅の作品によく見られる、イメージをデザイン化したような、鮮やかな色のうねりで表現されている。それが、段々こちらに近づくにつれて輪郭が鮮明さを増し、僕たちの立つこの奥のスペースに掲げられた、出窓一枚分ほどの大きさの三点は、今までになくはっきりと〈花〉としての姿が描かれている。かといって、静物画のような模写された絵ではなく、彼……イヤ、彼女の頭脳から生み出されたイメージとしての〈花〉だ。

 右の花は、花弁の一枚一枚が色鮮やかな南国の鳥の羽で描かれ、左の花は明るい緑の背景の上に、陽の光を反射する透き通った水の輝きで花弁が描かれている。それらを見渡した北斗の目線が僕の背後で止まった。

「特に、この作品には先生の並々ならぬ意気込みを感じました」

 同意見だった僕も、背後を振り返った。

 それは二つの作品とは違い、静かな夜の雪で花を描いてあった。にもかかわらず、華やかな、心が浮かされるような艶やかな気配が漂っていた。雪の結晶がひとつひとつ重なるたくさんの花弁が、満開の桜のように絵の中央から下を埋めつくし、背景となる上半分は夜空の深い藍色で、そこに輝くような月の光が散りばめられている。降りかかる月光に輝く、夜の雪の花――ひと目見て心を奪われるような作品だった。

「先生の作品はどれも鮮やかな色合いが特徴ですが、少し哀惜を帯びてもいらっしゃいました。それを打ち破るような、瑞々しい歓喜を伝えてくる〈花〉たち……この三点の作品が、もっとも最近の先生の心を表している、ということでしょうか」

 北斗の質問に、俊くんは姿勢を戻した僕にチラッと目線を投げ、妖しい笑みを浮かべてから答えた。

「そう。私の今の心だ」

 その意味が解らないほど感性の乏しい教えは受けてない。僕は物思いも忘れて襲い来る体温の上昇を必死に押さえるハメになった。


 個展が終わったら目黒のマンションへ行く――。

 三ヶ月前、この個展の準備に入る前にそのことを伝えると、俊くんは真剣な眼差しで返してきた。

「それはおれたちにとって別の意味も含んでいる。わかってるのか?」

 僕が頷くと、彼は苦しそうな顔で言葉を継いだ。

「おれの……すべてを受け入れるということだ。無理しなくていい。大事にしたいから。目黒におまえを迎えたら、おれはもう、自分を押さえることはできない」

 自らを戒めるようにして僕を止めた俊くんの心を受け取り、一週間後にもう一度同じ言葉を告げると、彼は黙って僕を抱きしめ、その翌日から猛然とアトリエで作品に没頭した。そうしてできたのがこの三点なのだ。

「〈楽園(らくえん)〉〈(せい)(ほう)〉そして〈宵月(しょうげつ)〉。間違いなくこの三点にはバイヤーのリクエストが殺到するでしょうな」

 目を細めて絵を眺める柏原オーナーに俊くんが告げた。

「この三点の現物は売りに出しません」

 オーナーは驚いた顔になった。

「ギャラリーの展示だけにするのかね?」

「ええ。ですからバイヤーにはレプリカでの対応でお願いします」

 困り顔のオーナーに北斗が口を添えた。

「よろしいじゃありませんか社長。これだけの絵です。売らないとなれば価値が上がります。定期的に展示させていただければ、さぞかし賑わうでしょう。十分、利益が見込めます」

 柏原オーナーはその意見に頷いた。

「なるほど。ではそのことについては北斗、おまえが担当しなさい」

「承りました」

 北斗が頭を下げると、彼は「私は先に行くから、よく打ち合わせるように」と言い残して去っていった。

「ありがとう」

 俊くんが礼を言うと、北斗はあどけなさをまとった顔に、はにかんだような笑みを浮かべた。

「恥ずかしいけど、父は利益が出さえすれば形には頓着しません。でも雅俊さんに喜んでもらえたなら嬉しいな」

 父親がいなくなった途端、北斗の態度が切り変わった。いつもの、俊くんだけに見せる親しげな姿だ。俊くんも慣れた様子になり、黒目勝ちの瞳にやさしい光を滲ませた。

 北斗が歩み寄った。

「ご褒美に他の作品も解説してください。ついでにレプリカの打ち合わせもしちゃいましょうよ」

 俊くんは困ったように笑った。

「今はよせ。今日の私はホスト役だ。個展を見に来てくれた人に挨拶しなければならない」

「もう五時を回りました。あとはそんなに来ないでしょう? どうなの和巳君」

 話を振られ、僕は内心を押し込めて手元に握る紙を見た。

「はい。お見えでない方はあとお二人です」

「じゃあ大丈夫だね。二人なら、見えられればすぐにわかるから。それまではいいでしょう?」

 北斗がねだると、俊くんはしばらく思案してから僕に目を向けた。

「じゃあ、残りの二人が来られたらすぐ呼びに来てくれるか?」

「……承知しました」

 俊くんは少しだけ首を傾げた。すると隣に立った北斗が腕を引っ張った。

「さあ。時間が惜しいから行きましょう。〈花〉にまつわるお話を聞かせてください」

 言いながら北斗はチラリと僕を見、口の端で笑った。気づかない俊くんは艶やかな口元に苦笑を浮かべ、北斗に腕を取られて入り口のほうへと向かっていった。

 我知らず、口からため息が漏れる。するとふいに背後で小さな声がした。

「……あれか。優花が言っていたのは」

 僕は飛び上がりそうな心臓を押さえた。見るといつの間にそこにいたのか、すぐ後ろの壁と柱の間にパンフレットの束を抱えた健吾が立っていた。

「健吾!」

 僕は柱の陰に歩み寄り、圧し殺した声で訊ねた。

「なんでここに」

「昨日、優花からメールがきた。『和巳がおかしいから見に行ってくれ』って」

「よく入れたね。今日は招待客だけなのに」

「俺の顔見知りのスタッフさんに頼んだよ」

 この個展には手伝いのスタッフとして、Gプロからも希望者を募って助っ人に来てもらっている。なにしろ作者が作者なため、ギャラリーのスタッフだけでは人員整理の手が足りないのだ。

「スタッフ用のグッズをもらったのさ。もう小一時間は働いたぜ」

 見ると、健吾はGプロスタッフのパーカーを着て、名札まで首にぶら下げていた。

「全然気づかなかった」

「そりゃそうだ。バレないように観察してたから。ホントは優花自身が確かめに来たかったようだけど、『出入り禁止になったから頼む』って」

「ああ……」

 あの日以来、優花は真嶋さんから、Gプロ関連の施設やイベントに来ることを禁止された。阿部のような輩につけ込まれないためだ。

「それに俺も少し、おまえの態度が引っかかっていたから。お陰で謎がだいぶ解けたぜ。あれが雅俊さんの浮気相手なんだな?」

 ズバッと切り込まれ、言葉が継げないでいると、健吾はさらに続けた。

「おまえが顔を曇らせるだけはある。思わず目を疑ったぜ。普段の雅俊さんからは想像もつかない姿だな。おまえの目の前で、あんな馴れ馴れしい態度のガキに取り込まれるとは」

 拓巳さんが知ったら火を噴くぞ、と付け足す口調がなんだか棘々しい。

「いや、ガキじゃないんだけど」

 僕らより遥かに年上だよとの突っ込みを健吾は無視した。

「しかもおまえに向けた、あのライバル心剥き出しの得意気な目つき」

 振り向いた健吾の目は完全に据わっていた。

「あれ、いったいダレ?」

「〈ギャラリー・柏原〉の跡継ぎ息子」

 僕がかいつまんで説明をすると、健吾は首を捻った。

「そんだけの間柄? あんなに親しげなのに?」

「それには理由があるんだよ」

「理由って」

「柏原オーナーは画壇にデビューする前から俊くんの絵の支援者だったんだけど、それには師匠の小夜子さんが絡んでるんだ」

「雅俊さんのアトリエの持ち主だった義理のお姉さん?」

「そう。柏原さんは元々、小夜子さんの絵を扱っていたんだ」

〈星雅〉の雅号をもつ、俊くん最愛の人。

「それこそ北斗さんがまだ幼少の頃に。小夜子さんから俊くんの絵を紹介されていて、小夜子さんが亡くなったあと、俊くんのデビューを手伝ったんだ。北斗さんとはその頃からの付き合いだから、俊くんにとっては昔を懐かしめる数少ない相手なんだよ」

「ふーん。で、あっちは本気、と」

「彼にすれば、僕のほうが長年想いを寄せてきた蒼雅先生との仲を邪魔する新参者なんだろうね」

 ため息を吐くと、健吾が顔を寄せてきた。

「まさかあの調子で、雅俊さんの見てないところで嫌がらせをされてるとか言わないだろうな?」

「……まあ、ないとはいわないよ」

 半年前、〈ギャラリー・柏原〉で個展を開いたとき、北斗の采配で準備している最中に僕の絵が一枚紛失した。それは間もなく出てきたが、作品の管理について俊くんから注意を受けた。が、北斗が関わったという証拠はない。僕がそう告げると、健吾は呆気に取られた顔をした。

「そんな偶然、あるわけないじゃん。そいつが絡んでるに決まってるだろ。それ、雅俊さんには言ったのか?」

「言ってない」

「なんで! あいつは社長補佐の立場なんだろ? この先だって起こるかもしれないじゃないか」

「だから。俊くんに負担をかけたくないんだ」

「和巳……そりゃヘンだぞ?」

「こんなこと拓巳くんに知れたら連れ戻されちゃうよ。それに、なるべくなら拓巳くんには北斗さんを会わせたくないし」

「拓巳さんはあいつとまだ会ったことがないのか」

「パリに留学していたから。北斗さんが頻繁に手伝うようになったのはここ一年の話なんだ」

 それでも夏休みなど長期休暇の際には、ギャラリーなどで会う機会が僕にはあった。が、拓巳くんは絵画にはノータッチ。関係するのは個展だけで、昨年あった二回の個展では、拓巳くん出没時、北斗は違う担当だった。

「求婚の情報はバッチリ知ってたし、スタッフに探らせて、かなり詳しく北斗さんのことは聞いていたらしいけど、もともと拓巳くんの関心は僕自身にあるわけで、相手がどうこうじゃない。でも顔を見ちゃったらそうはいかないんだよ」

 僕を見た健吾は一旦、口を閉じ、そして小声になった。

「何かあるんだな? おまえに対してあんな挑戦的な目つきができる何かが。それが、俺が引っかかったことの答えか」

「え……?」

「おまえが言ったんだ。『まだ自信がないけど』って。自分に迷いがある……つまり、まだ答えが出せてないのに、おまえを望む雅俊さんのプライベートエリアに踏み込む。いつものバカ正直なおまえじゃあり得ないって気がついたんだよ。そんな無謀な心境に陥った理由ってなんだ?」

 そのとき、入り口から二人の人物がフロアに入ってくるところが目に映った。最後の招待客だ。僕は健吾に時間がなくなったことを伝え、最後にひとつ付け加えた。

「北斗さんの顔」

「えっ?」

「北斗さんの外見は、亡くなった小夜子さんに瓜二つなんだ」

 そして足早にそこを離れた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ