ライバルたちの攻勢
俊くんの車に荷物を置き、地下から階段で一階まで戻ると、ロビーの奥に位置する受付のそばに、地下に降りるときは見かけなかったポニーテールの後ろ姿を見つけた。
「優花。今来たの? もうすぐ真嶋さんも拓巳くんと……」
そこまで言って気がついた。他に数人の男女を連れている。
少し手前で足を止めた僕に、真嶋さんに似た彫りの深い美人顔に困惑したような笑みを浮かべて優花が近寄ってきた。
「和巳。よかった、行き違っちゃったかと思ったわ。その姿じゃ紛れちゃってわかりにくいのよね」
バイトではいつも紺のスーツに着替えるので、確かにそうかもしれない。
「どうしたの。真嶋さんと合流するために来たんじゃないの?」
ちらりと後ろに目をやりながら質問すると、優花の声が小さくなった。
「うん。それと先輩が一度Gプロを見てみたいって言うから、ロビーまでならいいかなって……」
「先輩ってどの人のこと?」
いささか鋭い口調で訊くと、わかっているのか優花はバツが悪そうに答えた。
「阿部眞矢先輩……一人のはずだったんだけど」
後ろには優花と同じく旭ヶ丘学園の制服――濃緑のブレザーに光沢のある薄黄色のネクタイを着け、細かいグレーのチェック柄のスラックスやスカートを穿いた、学校帰りと思われる生徒が三人立っていた。少し背の高い男子が一人、体格のよさそうな女子が二人。みんな日焼けしている。
テニス部の。じゃ、アレが例の先輩か。
なるほど、僕と同じくらいの身長で、よく鍛えられた、なかなかに爽やかな顔立ちの男子だ。左右に立つ女子部員の様子からしても人気のあることが見て取れる。しかし――。
「優花。あれじゃ真嶋さんとは帰れないよ。わかってるなら早く連れて帰りなよ。ここには他にもたくさんのタレントさんがいるんだから……真嶋さんの恥になるよ」
声を落としてささやくと、優花は困った顔をした。
「そのつもりなんだけど……」
「優花ちゃん」
ふいに後ろから声がかかった。
「眞矢先輩……」
「どうしたの? 早く中へ行こうよ。彼女たちはあんまり時間がないんだって」
言いながらこちらに近寄ってきた阿部眞矢なる三年生男子は、僕に目を留めるとにっこり笑った。
「あ、もしかして君が高橋和巳君? 僕はテニス部で優花ちゃんを指導してるんだ。君の話、彼女から聞いたよ。ここでバイトしてるんだってね。今日は、お言葉に甘えて友達も連れてきたんだけど、構わないよね?」
「……初めまして。高橋です」
人好きのするような爽やかな喋り口に、なんとなく事情がつかめた僕は優花を見下ろした。優花は僕と目が合うとすまなそうに首をすくめた。
おそらくは優花と阿部眞矢との会話の中で僕の話が出たのだ。
普段の優花なら、不用意に学校の生徒など連れてきたりはしない。が、この相手はなんだか人を巻き込むことに長けている気がする。
優花の表情からしてうまく断れなかったんだろう。マズイとは思ってるらしいな。
僕は仕方なく助け船を出すことにした。
「申し訳ありませんがここから先は入れません。気をつけてお帰りください」
阿部は少し目を見張った。
「どうして?」
真顔で聞かれ、僕のほうが面食らってしまった。
「関係者以外は立ち入り禁止と書いてありますよ。身内といえども簡単には入れないことになっています」
「だって、高橋君は関係者でしょう?」
「ええ。でも阿部さんとは面識がありません」
「優花ちゃんとは姉弟のような付き合いだって聞いたんだけど」
「そうです」
「その、姉弟が連れてきた仲間だよ?」
阿部眞矢は心底不思議そうな顔で聞いてきた。
「せっかく来たんだから、見学くらいはさせてもらってもいいと思うんだけど」
「………」
僕は段々うんざりしてきた。奥にある受付カウンターのお姉さんもこちらを不審そうに見ている。
警備員でも呼んでやろうかな。
僕から不穏なオーラが発されたのを嗅ぎ取ったか、優花が顔を上げ、そして阿部に頭を下げた。
「ごめんなさい、先輩。やっぱりだめです。和巳の仕事の迷惑にもなりますから帰りましょう」
どうやら先ほどのようなやり取りで優花をペースに巻き込み、ここまで案内させたらしい。僕と話したことで優花も目が覚めたのだろう。
「和巳。邪魔しちゃってごめんね。私はみんなと帰るから」
僕が頷こうとすると、阿部が口を開いた。
「ここまでわざわざ来たのにこのまま帰るの? ちょっとそれはないんじゃない?」
語気が少し強くなっている。
「優花ちゃん。君が、姉弟が関係者だって言ったから僕たちは期待しちゃったんだよ。ウソなの?」
「ウ、ウソじゃありません」
「だったら大丈夫だよね? 君はビルの中を知ってるんでしょう? 高橋君には受付だけお願いしてもらえばいいじゃない」
阿部眞矢は僕を見た。
「忙しいなら気にしないでね。見学は彼女に案内してもらうから」
とにかく受付に行こうよと後ろに呼びかける阿部を僕は引き留めた。
「困ります、阿部さん。だいいち、テニスに精進するあなたにはあまり意味のない場所ですよ?」
すると彼はあっさりと言った。
「ああ、僕は大して興味はないんだ。見たいのは彼女たちさ」
「え……?」
阿部の後ろを見ると、二人の先輩女子が顔を輝かせていた。
「〈T-ショック〉のタクミのファンなんだって。でも高橋君は絶対そういうお願いは聞いてくれないんだって? だから優花ちゃんと親しい僕が頼まれたんだよ。僕は約束したら守る主義なんだ」
「………」
隣を見やると、初耳だったのか、優花が少々顔を青ざめさせて口を開いた。
「先輩はそんなこと、一言も……」
「ああ、言わなかったっけ。ごめんね。僕は君との時間が欲しかっただけだよ。お陰で今日も一緒にいられたし。君とデートできるなら、僕はどこだっていいんだ」
「………」
優花が押し黙った。今度は赤くなっている。冗談なのか本気なのかわからないが、優花が秋の木の葉のように翻弄されている現状は横浜港よりも深く理解できた。だが僕には通用しまい。なにしろ翻弄されてきたレベルが違うのだ。
「あなたのお気持ちはわかりましたがやはり許可できません。みなさんを通したら不公平になりますから」
しかし阿部は笑って返してきた。
「言わなければいいじゃない。ねぇ、君たちも内緒だよ」
このっ、しぶとい!
僕がさらに畳みかけようとしたそのとき。
「和巳。どうした?」
背中の方向からよく響くテノールの声がかけられた。振り向くとそこには――。
「拓巳くん」
「待っててくれたのか? ああ、優花も一緒か」
そう言って真嶋さんとともに近づいてきた人こそ話題のヌシ、〈T-ショック〉のボーカル〈タクミ〉こと高橋拓巳、僕の父親だ。
しなやかな細身の体に今日は薄手のロングコートをはおり、スリムジーンズの足を覗かせて立つ姿はすらりとして姿勢がいい。白皙の肌はなめらかで彫りは深く、不思議な薄い色をした二重切れ長の瞳、高く通った鼻梁、薄めに整った濃い色の唇など、すべてがバランスよく収まった顔は日本人離れした妖艶な迫力だ。
撮影後、真嶋さんから髪の手入れでもしてもらったのか、肩下へと落ちかかるサラサラの長髪までいつになく光沢を放ち、僕は何回となく繰り返してきた感想をまたもや胸中に思い浮かべた。
あなたは一体、幾つになりましたか……?
もはや口に出して問う気にもなれない。
〈お父さん〉の呼称があまりにもそぐわず、〈拓巳くん〉と呼び続けて十六年、一昨年には三十を越えたはずなのに、今や別の意味で〈父さん〉がそぐわなくなってきた。
すると真嶋さんの声が僕を現実に引き戻した。
「――優花」
どうやら同じ制服の男女に取り巻かれた優花の姿から、状況を一発で見抜いたらしい。拓巳くんよりさらに高い位置から見下ろす彼の、柔和な中に恐ろしさを秘めた茶色の眼差しが優花に注がれている。やや鋭いその一言だけで何を言いたいかが伝わり、優花は女子としては高い背を縮めてうなだれた。
するとその向こうに、拓巳くんに目を奪われて絶句している三人の顔が目に映った。いつもの初対面者の反応だ。さしもの阿部眞矢も言葉が出ないと見える。僕は咄嗟に閃いた。
そうだ。今のうちに押し切ってしまえっ。
僕はまだ状況を理解していない拓巳くんに笑顔を向けた。
「お疲れ様、拓巳くん。ちょうど今、優花とばったりしてね。部活の用事で近くに来たから真嶋さんを待とうと思ったんだって。こちらは先輩方で、わざわざここまで送ってきてくださったんだよ」
言いながら拓巳くんの背中に手を伸ばし、少し前に押し出して阿部眞矢と女子二人に近づける。すると違う話を作られてあっけに取られた三人の目がさらに見開かれた。
これぞ拓巳くんの異名のひとつ〈衝撃の美貌〉の効果だ。
僕はもう一声畳みかけた。
「優花はエースだから、みなさんから特別に指導してもらってるんだって」
すると彼は思惑どおり、阿部眞矢と女子二人にその端麗な美貌をもろに向けた。
「そうか。優花が世話になったな。外は暗いから気をつけて帰ってくれ」
正面から声をかけられた三人は、反論の声も出せずに頷いた。――これも一般的な反応だ。
「じゃ、行こう」
優花の腕を引っ張って拓巳くんを促そうとすると、横から阿部眞矢の声がした。
「えっと、あの、僕たち、今日は……」
食い下がるような声に、しかし拓巳くんが反応した。
「なんだ?」
無表情に見つめられた阿部は「あ、いえ」と言葉を濁した。僕はさっさと一礼すると、優花を連れて奥のエレベーターへと向かった。
「どうしちゃったんだよ、優花」
二階で降り、事務所のドアの前に着いたところで、僕は拓巳くんたちと離れて優花を廊下の隅に引っ張っていった。
「あの手の生徒を連れてきたらどうなるか、優花だってわかってるはずなのに。なんでここまで来ちゃったの?」
一人を許せば次は二人、三人……とてもじゃないが対応し切れなくなくなる。旭ヶ丘学園にいる〈T-ショック〉ファンだけでも数え切れないのだ。
「らしくないよ、まったく。見た? さっきの真嶋さんの目。今日はちょっと覚悟したほうが……」
言いながら背筋がゾクゾクしてしまった。
真嶋さんは、普段は穏やかな人柄で滅多に怒ることはない。けれども怒りを孕むと誰よりも恐ろしい。むろんそれは優花も知っているわけで、彼女としては、あの先輩たちにはさっさとロビーを見せて、真嶋さんと鉢合わせる前に帰る心積もりだったのだろう。中に入るつもりでいた阿部の要求をかわせずに立ち往生した結果、ああいうことになったのだ。まあ、阿部眞矢に接した今では、向こうが遥かに上手なのだとはわかったけれど……。
「決まった人がいても、心が動くのは止められないか……」
優花が頭を上げて僕を見た。
「わ、私……」
狼狽したような声に僕は我に返った。
「ごめん。優花を責めてるんじゃないよ。人の気持ちは止められないって健吾も言ってたから」
「健吾が……」
優花はまたうなだれた。
「私……どうしたらいいのかわからなくて。健吾を大切に思う気持ちに変わりはないはずなのに、先輩を前にすると……」
途方に暮れたような表情を見れば、優花自身が自分に戸惑っている様子はありありと窺える。けれど――。
「ごめん、相談役になれなくて」
「えっ……?」
優花はこちらを覗くような目線になり、次いで少し目を見張った。
「あれ……なんか。やだ、私。自分のことにかまけていて気がつかなかったわ。どうしたの?」
さすがは優花。僕の姉を自負するだけはある。
「マース、…蒼雅先生と何かあったのね?」
優花は男の姿をしたマースのファンだったため、俊くんが僕に本気だと知って葛藤した結果、自分の中のマースと、デザインアートの女流画家として活躍する小倉蒼雅を分けることで心に折り合いをつけた。僕が付き合うのは女の姿をした蒼雅先生、というわけだ。僕たちの事情を知る少数の人たちは、おおむねそういう認識をしているらしい。
優花はさらに探るような眼差しで僕を見ると続けた。
「心配事がある顔ね。蒼雅先生との間に何か不安があるとか?」
そんなわけないかとつぶやくのを聞きながら口を開こうとしたそのとき、事務所のドアが「バンッ」と開け放たれた。そして。
「和巳!」
美しい顔を怒らせた拓巳くんが、少し離れた壁際に立つ僕を見つけるなりこう言った。
「あんな浮気ヤローのところなんか行くな! 今日は俺と帰れ!」
あちゃぁ。さては事務所にアレが届いてたな。
驚いて立ちすくんだ優花はすぐに僕を見上げた。
「浮気? まさか蒼雅先生が?」
「いや、あのね……」
僕が説明しようとするヒマもなく次なる衝撃がきた。
「ふざけんな! ダレが浮気だこのヤロウッ」
血相を変えた俊くんが拓巳くんのロングコートの袖をつかむ。それを振り払おうと拓巳くんは腕を跳ね上げた。
「言い訳は聞かねぇぞ! あの男からのプレゼントを受け取ってたのが証拠だろ!」
「だから、あれは道具だって言ってんだろ⁉」
「二人とも黙れ」
僕が駆けつけたとき、黒の革ジャンとパンツといった定番の装いで決めた祐さんが二人の首根っこをつかんでいた。
「廊下で恥を晒すな。週刊誌のいい餌食になるぞ」
よく引き締まった体躯ながら百九十センチに届く祐さんがつかむと、俊くんはさておき、拓巳くんまでなんだか子どもに見える。
「とにかく中に入れ。和巳、おまえもだ」
彼は黒髪の間から覗く鷲のように鋭い眼差しを二人に向け、そして僕には少し目元を和らげて言った。僕は真嶋さんによく似た、けれどもまったく印象の異なるその顔に頷きかけ、優花を呼んでから事務所のドアを通り抜けた。
仏頂面の拓巳くんと俊くんを連れた祐さんは、まだスタッフが忙しげにたち歩く中を抜け、事務所の奥にある応接スペースへと移動した。僕が優花を伴って続くと、応接のソファーセットの手前で、真嶋さんが優花を手招きしながら拓巳くんに声をかけた。
「拓巳。僕は一足先に帰るよ。優花に話があるからね」
柔らかい微笑みを浮かべるその目が笑っていないのを、拓巳くんも、あとの二人も読み取ってしまった。
「よ、芳弘。その、よくわかんないけど、お手柔らかにな」
僕がアトリエに行く週末の三日間、拓巳くんは隣の真嶋さんのマンションに入り浸ることが殆どだ。そこで、娘の優花が父親離れしてきたのをいいことに、甘えまくって過ごしているらしいのだが、世話焼きが性分の真嶋さんが喜んで甘やかしているとの説もあり、真相はわからない。優花に言わせると、「あの親にしてこの子あり」なんだそうだ。
「今日は俺、エンリョするから、親子仲良く、な?」
「気を使うことはないよ、拓巳。寂しかったら我慢せずにおいで。優花もありがたく思うんじゃないかな……」
真嶋さんはナニかが含まれた笑みでその場の面々をビビらせると、優花を連れて帰っていった。
「なんで芳兄さんはあんなに怒ってるんだ?」
祐さんの質問に僕がロビーでの出来事をかいつまんで伝えると、それぞれソファーに腰を下ろした三人は納得顔になった。
「芳さん、けじめには厳しいからなあ」
言いながら俊くんがそばに立っていた僕に手を伸ばすと、対面に座る拓巳くんがサッと立ち上がって叩いた。
「キサマにもけじめが必要だ。疑惑がはっきりするまで和巳には触れないでもらおうか」
彼はそのまま僕の肩に手を添えて自分の隣に座らせた。
「あのドでかい箱がナンの道具だって?」
「だから、今度の個展に使う額のセットだ」
「じゃあ、一緒に届いた花束とコレはなんだ!」
そう言って突き出した拓巳くんの指には、一枚のメッセージカードが挟まれていた。白地に花の押し模様が縁を飾る洒落たカードには、このところの僕を揺るがす人物からのメッセージが書かれていた。すなわち、
〈愛する蒼雅先生へ。お使い頂けて光栄です。あなたの求婚者・柏原北斗〉
相変わらず、臆面もない文面だ……。
拓巳くんが声を荒らげた。
「柏原北斗。前からキサマに求婚している奇特なヤローだな。確か前に断ったとか聞いていたが、未だに付き合いがあるってのはどういうことだ!」
「だからっ、おれの絵を扱う大手ギャラリーのオーナーの息子なんだ。社長補佐として働いてるんだから、付き合いがあるのはしょうがないだろ⁉」
俊くんの噛みつくような説明に拓巳くんは食い下がった。
「じゃ、何か? 仕事で付き合いがあると、メッセージの文面が〈愛する蒼雅先生へ〉になっちまうのか? だったら俺は〈クレスト〉の綾瀬に千枚くらい贈らないと見合わねーな」
拓巳くんからメッセージカード贈られても、彼を子供扱いできる綾瀬さんなら意に介すまい……。
密かに想像した僕は拓巳くんが少し気の毒になった。
「それは北斗が勝手に付けてよこすんだ。おれは資材を注文しただけだ」
「ほう? 親しそうだな。名前まで呼び捨てか」
「社長と名字が一緒で、小さい頃から知ってるから今さら変えようがないんだ!」
拓巳くんはスッと立ち上がった。
「いいか、雅俊。俺はおまえがどこでダレとデキようが別に構わないんだ。遠慮なくシアワセになって嫁に行け。今日限り、和巳は返してもらうぜ」
さ、行くぞ、という拓巳くんの剣幕に僕も立ち上がった。するとそれまでうんざりした様子で対応していた俊くんが慌てた顔になった。
「和巳。おまえまでこのバカ親の言うことを本気に取ってんじゃないだろうな」
僕はソファーの背もたれから身を起こした俊くんに笑いかけた。――努力して。
「このままじゃ埒が明かないでしょう? だからごめんね。取りあえず一旦、帰るよ」
「和巳!」
「拓巳くんとご飯食べて、家に着いたら呼ぶから、迎えに来てくれる?」
「和巳。こんな性悪なヤツのところに行くのはもうよせ。優しいにも程がある。少し間を置けば、きっと目が覚めるぞ?」
僕しか拝めないという、慈愛の聖母のような表情を浮かべた拓巳くんにも、僕は微笑みかけた。
「明日からのアトリエは戦場になるんだよ? 朝から始めるから、夜には移動しておきたいんだ。ちゃんと仕事したいから……ね?」
絵画のことを出せば、拓巳くんは黙らざるを得ない。
むろんそれを見越し、二人の落としどころを今までの経験から割り出して言葉を選んだのだ。
案の定、拓巳くんはけぶるような眼差しを僕に向けたあとで嘆息した。
「しょうがない。絵のことはしっかりやりたいんだろうから……」
俊くんの弟子としてアトリエに出入りするようになって六年。最近ではコンクールで入選した僕の作品も三、四点ほど展示させてもらっている。
俊くんを振り向くと、少しだけ曇ったアーモンド型の瞳が訴えるような光を浮かべていた。
「わかったよ。でもなるべく早く呼んでくれよ?」
「うん。ご飯、一緒じゃなくてごめんね」
「いい。おまえが来たら晩酌に付き合ってもらうさ」
それに頷き返してから、僕は拓巳くんと連れ立って事務所をあとにした。
そして今、俊くんの迎えを受け、僕は山手にあるアトリエで夜を過ごそうとしている。
「クッソー、あのヤロー。貴重な週末の夜を削りやがって……」
「まだ言ってる」
寝支度を終え、リビングのソファーに歩み寄ると、俊くんの手が僕に差し伸べられた。
「来いよ」
その手を取ると、彼は自分の隣へと引っ張って座らせた。
「おまえもちょっと飲むか?」
ローテーブルに展開する水割りセットに手を伸ばす俊くんに笑いかけ、僕は用意されていたグラスに氷と水だけを入れて喉を潤した。スッとした冷たさが内側を通り抜けて気持ちがいい。風呂上がりの渇きが治まった僕に、自分のロックを一口飲んだ俊くんが向き直った。
「拓巳の言うことなんか聞くなよ?」
「えっ?」
「北斗のことだ。あいつはおれにとって、愛玩用の子犬みたいなモンなんだ。かわいいから邪険にはしないけど、それだけだ。おまえとは比べられないんだからな」
少しだけ俯く華やいだ美貌にスネた気配が漂っている。Gプロの事務所で、僕が拓巳くんの言葉に従って、俊くんに確認することなく立ち上がったことを言っているのだ。
そこには触れずに僕は答えた。
「東京や横浜にたくさんの支店をもつ〈ギャラリー・柏原〉の御曹司さんに対して愛玩用の子犬はひどいよ」
「おれの本音だ」
向こうは、そうは思ってないようだけどね……。
俊くんに体重を預けられ、僕は見た目よりも線の細いその体を腕の中に包んだ。アルコールの影響を受けて、いつもよりほんのりと高い体温が胸に伝わってくる。
「おれがどれだけおまえを目黒に迎える日を心待ちにしているのか、知らないわけじゃないだろう?」
「………」
それこそが僕の不安の原因であると、彼は知っているのだろうか。
「あんまり焦らす気なら、もう我慢はしないぞ?」
「目黒へ行くのは個展が終わったらすぐだよ?」
「個展を入れたらまだ二週間もある」
「ここまできたら、僕もけじめをつけたいんだ」
「………」
腕の中で俊くんはため息を吐くと、両手を伸ばして僕の頭を捕らえた。
「しょうがない。個展もあることだし、今はこれで耐えるか。……おれも甘いよなぁ」
つぶやきながら僕の顔を自分のそれへと引き寄せていく。導かれるままに預けると、柔らかく甘い感触が唇を包んだ――。