気になる噂
俊くんが不機嫌だ。
「ひでえよ和巳。それが愛する師匠への仕打ちか?」
すると鏡の前に座る拓巳くんがせせら笑った。
「弟子は師匠を越えるんだよ。ヤならすぐ返せ。いつでも連れて帰るぜ?」
俺にはまだ余裕があるからな、と微笑む拓巳くんの髪をセットしながら、真嶋さんがつぶやいた。
「でも、いつか僕たちも同じ目に遭わされたりして」
途端に美しい顔を曇らせた拓巳くんが、僕に真剣な眼差しを向けてきた。――コワい。
「和巳。まさか、親を裏切るつもりじゃないだろうな?」
たまらず僕は叫んだ。
「いーかげんにしてよ! 背が伸びちゃうのはしょうがないでしょ? モンクなら自分の遺伝子に言って!」
高等部の二年生になってから約半年、僕の身長は俊くんを抜き去り、もうすぐ百七十五センチ、拓巳くんまであと四センチに迫っていた……。
「あっはっは!」
「笑い事じゃないよ健吾!」
秋の青空が窓ガラス越しに映る放課後の教室で、腹をかかえて笑う親友、宮内健吾のワックスツンツン頭を、僕は教科書の角で小突いた。
「え~? いいじゃんか、少しくらいスネられたって。オトナは複雑なんだよ、コドモに身長抜かれるのはさぁ」
健吾は僕とほぼ同じ身長だけど、お父さんは去年のうちに抜いている。
「まあ、いつか来るとは覚悟していても、なかなか踏ん切りはつかないんだろうな」
「それにしたって。最近は仕事で揃うたびに拓巳くんがそれをネタにしてからかうから、僕にとばっちりがきて大変なんだよ。昨日のスタジオ収録のときだって、最後は楽屋で俊くんとつかみ合いになって。真嶋さんが仕事でそこにいてくれたからよかったものの……」
「ううっ……あの美しいカオ同士の二人がケンカするところには、ちょっと近寄りたくなかも。でも、どうせいつものジャレ合いだろ?」
僕はブレザーのボタンをかい、ネクタイを直して鞄を持ち上げると、待っていてくれた健吾を促して廊下に出た。
「どうだろうね。年々本気度が増してきてる気がする」
「ま、拓巳さんのは、おまえを取られちゃった憂さ晴らしもあるよな。知ってて言ってるんだから。もともと雅俊さんは骨格が違う」
俊くんは百七十センチ、どちらかといえば男性の中では小柄だ。けれど。
「女性としては大柄になるしな」
健吾の言葉に僕は頷いた。
俊くんこと小倉雅俊、ロックバンド〈T-ショック〉のリーダー、キーボードの〈マース〉は普通の性別ではない。俗に〈IS〉と言われる両性を併せ持った人だ。むろん、体格など普通には比べられない。
「長い付き合いだから心情わかるのさ。からかいついでに、雅俊さんが和巳に当たるのを阻止してんだよ」
僕はため息を吐いた。
「差なんてちょっとしかないのに」
「今はそうでもなぁ……しょうがないさ。そのうちに慣れてくれるよ」
おそらく自分の体験からだろう、健吾は笑って言った。
昇降口に来ると、靴を履き替えながら健吾が質問してきた。
「今日はどこでバイトなんだ?」
「Gプロのビルの三階で来年のコンサートの初打ち合わせ」
「おっ。もしかして始まるのか。結成記念コンサートの企画が」
「うん。そのうちには健吾にも手伝ってもらうから、またよろしくね」
僕が顔を向けると健吾は上機嫌で頷いた。
「任せとけ。軽音楽部の名にかけて役に立って見せるぜ」
「旭ヶ丘学園のスターギタリストを裏方に使って申し訳ないけど」
「なに言ってんだよ。ロック界の頂点に立つ〈T-ショック〉の手伝いだぜ? あのユージのギターテクニックを間近に見られるなら、俺は弁当だって作るゼ」
「あはは。健吾の腕はプロのお父さん仕込みだから、ホントに頼んだりして」
彼のお父さんのレストランは、隠れ家的な個人店でありながらも評判が高く、ここ横浜でもファンが多い。そして僕の父親、〈T-ショック〉のボーカル〈タクミ〉の御用達として、そっちのファンの間でも有名なのだ。
家族でロック好きな宮内家だが、職人気質なお父さんから技を伝授されるには、健吾はロックそのものへの傾倒が強く、最近では家の厨房を手伝うことは滅多にない。
中等部で軽音楽部に入った当初はドラムをやっていたが、まもなくリードギターにハマり、その後は脇目もふらずストイックに精進した結果、かなりのテクニックを身に付けた健吾は、涼やかな男らしい外見と気さくな人柄、そしてそのギターの腕前で今やちょっとした学園の顔だ。
その健吾がもっとも憧れるのが〈T-ショック〉不動の天才ギタリスト、ユージこと井ノ上祐司。僕にとっての祐さんだ。僕がバイトで付き人をやりはじめた中学時代から、健吾にはイベントのときなど手伝ってもらったりしてきたが、最近でははっきりと、僕が拓巳くんと俊くん、健吾が祐さんを担当するようになった。祐さんも、ギターに詳しい健吾の付き人ぶりを評価して指名することがあるほどだ。
「日程が正式に決まったら連絡するけど、取りあえずは半年後、来年の春だと思うからそのつもりでいてね」
「おう」
健吾は嬉しそうに返事を返し、僕たちは昇降口を出た。
今日は中間テスト前の金曜日、部活のない健吾と下校をともにするのは久しぶりだ。
校門を出、坂を少し下ったところで、僕は少ない機会を捉え、少し前から気になっていたことを質問することにした。
「ところで健吾」
「あ?」
健吾は肩に下げたリードギターのバックを背負い直すと、横を歩く僕を見た。
「最近、健吾のところで優花を見かけないね」
すると健吾はスッと顔を前に戻した。僕はすっきりとした横顔が曇るのを見つめながら続けた。
「僕、嫌な噂聞いちゃったんだけど」
「テニス部のヤツのことか?」
健吾の返事に僕は頷いた。
真嶋優花は〈T-ショック〉のタクミ、つまり僕の父の専属ヘアスタイリスト、真嶋芳弘さんの一人娘で、健吾とは二年越しのカップルだ。そして僕にとっては実の姉弟のような存在になる。
真嶋さんは拓巳くんの元後見人、今も親代わりとして手のかかるあのヒトの世話を焼く、僕にとっては大事な家族なのだ。横浜で暮らす僕らはマンションも常に隣同士、父子家庭の男手二人に育てられた仲だ。
僕と優花、そして健吾は仲良しの幼馴染みとしてずっと一緒に過ごしてきた。それが二年前の夏、ロックイベントをきっかけに二人は新たな関係に発展した。当時は三人の均衡が破れたことに少々戸惑ったけれど、いつしかそれが当たり前になった。今ではテニス部で活躍する優花、軽音部で腕を磨く健吾、そしてバイトの傍ら美術部の幽霊部員をする僕は、それぞれ忙しい合間を縫いながらもそれなりにコミュニケーションを取り、お互いにいい関係で助け合って――イヤ、苦労する僕を助けてもらってきた。
その、頼れる二人の仲に、疑問を投げかけるような噂を聞いてしまったのは先週のこと。聞いたときは本気にも取らなかったけれど、それとなく気にかけて二人を見てみたら見過ごせなくなってきた。
「じゃ、ホントなの? 優花が男子テニス部の先輩と……」
「『試合のために、女子部員の選手を指導してくれている』優花は俺にそう言った」
優花は三年生が引退した夏からは部長を任されている。そして噂の相手は引退したばかりの三年、男子部の元副キャプテンで、この横浜でもかなり上位の腕前なのだという。
「もうすぐ新人戦があるからしばらくは顔を出せないって言ってたよ」
「そんなの……中等部からやってきているのに今さら」
「和巳、それ以上は言うな」
健吾が涼しげな目元を細めた。
「俺は、何かが変わったなら優花は必ず正直に言ってくると思ってる。嘘をついてまで俺と付き合い続けはしないだろう」
「健吾……」
「心は縛れないさ。その先輩とかいうヤツに優花が本当に惹かれているのなら、俺がその程度だったってことだ」
「そんな……」
すると健吾が目元を緩めた。
「そんな顔するなよ。俺は、まだそうは思ってないんだぜ? 今はもしかしたらそいつに目が眩んでるかも知れないけど、俺の存在は優花にとって、そんなことでは揺らがないと思ってるんだから」
そう言って爽やかに笑う健吾はこの上もなくいい男だった。
優花のバカッ、何やってんだ。健吾に憧れてる女子なんて、ウチの学校だけでもあふれてるのに。
内心で突っ込んでいると、ふいに健吾が尋ねてきた。
「それはそうと、おまえのほうはどうなんだよ」
「えっ、僕?」
「高等部に入ったら目黒のマンションに来いって雅俊さんに言われてたよな。もう一年以上、過ぎたぜ?」
「それは、えっと、俊くんの秋の個展が終わったら、その……」
「個展って来週だろ? すぐじゃんか! そうか……」
感慨深そうにつぶやかれ、僕はますます赤面してしまった。
「週末に山手のアトリエに行っていたのが、目黒に変わるだけだよ」
「誤魔化すのはよせ。アトリエでは絵画の師匠と弟子の関係がメインだ。目黒はまったくのプライベートだろう。意味が全然違うぞ……って、もしかして、俺を気遣ってた?」
ズバリと言い当てられ、僕は赤面しながら俯いた。健吾はそんな僕の背中を叩いた。
「そりゃ悪かったな。気にしないで早く言えよ。つっても俺がこれじゃ言えないか。そんなラブラブなこと」
「健吾。茶化すのはナシだよ」
僕は少し目を細めて健吾を見た。
「そんな顔で睨むなよ。おまえ最近、ナンとなく拓巳さんの美貌に近づいてきたゾ」
それは、他の人からもたまに言われたりする。前はよく、僕を生んでから半年で亡くなった母に生き写しだと言われたけど、最近では真嶋さんにまで、
「和巳の緩い癖っ毛を完全なストレートにして、襟足の長さをもう十二、三センチ伸ばしたら、拓巳っぽくなるかも」
なんてからかわれるようになった(若い頃の、とつかないところがコワい)。でも拓巳くんの超絶的な美貌と比べられるのはちょっと分不相応だ。ファンの人も怒るだろう。
「目黒に行くってことは、おまえに決心がついたのか?」
「……まだ、自信はないんだけど。これ以上待たせるのは不甲斐ないから」
内心を誤魔化すように言うと、健吾は少し目を見張り、次いで微笑んだ。
「そう思えるならいいさ。きっかけなんて些細なんだから。今を大事にしろよ」
その言葉には重みがあり、自分の判断に少し腰が引けていた僕の心を動かした。
「そうだね。取りあえず踏み出してみようと思う。ありがとう、健吾」
「俺も、心配してくれてありがとな」
頑張れよ、との励ましに僕も返しながら、秋の紅葉が僅かに葉を染め出した木々の中、僕たちは学校の坂道を下っていった。
♢♢♢
「場所は東京Sホール、日程は五月三、四、五の三日間。以上です。では、よろしくお願いします」
マネージャーの沖田さんが締めくくると、社長、スタッフなど総勢十人ほどの関係者が席を立った。社長が専務を伴って退出し、スタッフがそれぞれの担当ごとに集まって打ち合わせを始める。それを横目に見ながら書類をまとめてバックに入れていると、沖田さんが近寄ってきた。
「和巳君、ご苦労様。はい、これ来週の予定表。都合悪い日があったら、早めに教えてね」
「わかりました」
「来週は週末が雅俊君の個展だから忙しいね」
彼は優しそうなメガネ顔にちょっと憂いを滲ませた。
沖田智紀さんは今年三十八歳、ここ目黒にある〈T-ショック〉の所属事務所〈GAプロダクツ〉の社員で、彼らを担当して十三年になる、ベテランマネージャーだ。
七三分けの髪型、中肉中背の体つき、年相応なビジネスマンスーツスタイルなど、日本人のごく一般的な大人の姿で、僕にマトモな感覚を示し続けてくれる貴重な人だ。彼がいなかったら、すべてがその対極にあるような身内のオトナによって、ぼくの常識はかなり阻害されていたことだろう。アレが普通だと思って育ったらエラいことだ。
「――から、十分気をつけてね、和巳君。和巳君?」
沖田さんの呼びかけで僕は我に返った。いけない。つい、思い出しそうになった数々の非常識に心を奪われるところだった。
「すみません。個展の話でしたね。雅俊さんのことですね?」
「そう。会場の混乱を避けないといけないから。最近は君まで騒がれるようになってきたよね」
「僕のことじゃありません。〈タクミ〉が目当てなんです。個展がはじまると、僕がかかりきりなって相手をしてやれないので、彼が会場に出没するようになるでしょう? ファンの子たちがそれを狙ってるんです」
「なるほど、そこなのか……うーん、会場の責任者に頼まれているのに困ったな」
「雅俊さんもイライラしてくるので僕も困るのですが、今のところ阻止するすべがありません」
「結局、最後は祐司君と真嶋さん頼みか……」
ハタから聞いていると、主催者に小さな子どもでもいて、個展会場で騒ぎを起こすことに手を焼いているスタッフ同士のような会話だが、実際には僕の年若い親のコトだ。
そもそも三年前、僕がGプロでバイトすることになったのも、拓巳くんのワガママに振り回される沖田さんが、息子の僕がそばにいると仕事がはかどることに着目し、中学生になるのを待ってましたとばかりに、付き人をしてほしいと頼んできたからだった。外見も中身も非常識に若い拓巳くんへの対策として、最初それはうまくいった。しかし、やがて別の問題が生まれた。それが来週デザインアートの個展を開く小倉蒼雅画伯、バンドでも楽曲やプロデューサーを兼ねる多彩なアーティスト、小倉雅俊の存在だ。
「雅俊君も譲らないからねぇ……」
沖田さんのため息に僕も苦笑で応えた。すると、ふいに背後から声がかかった。
「何を譲らないって?」
振り向いた僕の目の前に本人――僕の絵画の師匠にして二年越しのパートナーである俊くんが、くっきりとしたアーモンド型の目に柔らかい笑みを浮かべて立っていた。
肩下まで伸びてきたブラウンの巻き毛を軽くサイドでまとめ、華やかな美貌が一層引き立つような明るい色のジャケットを着こなしている。
「俊くん。話は済んだの?」
「ああ。まだたいして決められないからな」
僕が目を向けると、彼は悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「拓巳が雑誌の撮影から戻ってくる前にバックレよう」
僕は笑って首を横に振った。
「黙って行っちゃったら後がコワいよ。もうすぐ帰ってくるだろうから我慢してね。夕食は一緒に食べないと、またスネてエラいことになるよ?」
拓巳くんは今も人気の高いファッションモデルでもある。が、本人は面倒になってきたらしく、降るような依頼を袖にして、今では〈T-ショック〉の衣装を引き受ける、メンズブランド〈クレスト〉のデザイナー、アヤセ・トベの作品しかやらなくなってきた。
今日はその〈クレスト〉の新作の撮影があり、この会議には欠席したのだ。もっとも、企画段階はすべて俊くんに丸ナゲな拓巳くんが、会議に顔を出すことは滅多にないが。
「祐さんは?」
「二階だ。一足先に降りた。おれもまだ祐司と話があるから、事務所の応接スペースにいる。支度ができたら来い。今日からはアトリエにこもるから、忘れ物がないようにな」
「うん。一度地下の駐車場に降りて、荷物を置いてくるよ」
「わかった。鍵は持ってるか?」
「大丈夫。この前俊くんから預かったスペアを持ってきたから」
それを聞くと彼は表情を和らげ、「じゃ、あとで」と手を上げてから会議室を出ていった。すると沖田さんがしみじみとつぶやいた。
「こうやって君と話している外見だけ見たら、お似合いの男女カップルに見えなくもないんだけどなぁ」
沖田さんはマネージャーとして僕たちの事情を把握済みだ。
「不思議な人だよね。小倉蒼雅として女性の姿でいる時は女性にしか見えないし、マースとして〈T-ショック〉のステージに立つときはちゃんと男性に見える。華やかな美貌と、いつまでも変わらない若さと、その上……」
「拓巳くんを前にしたときの子ども返った姿、ですよね」
「そーなんだよ……」
僕たちはため息をついた。
未だ超絶美形で知られるボーカルのタクミと、その彼よりひとつ年上でありながら、せいぜい二十二、三歳にしか見えない奇跡の人、マースは、二人で放っておくと段々ガラが悪くなる。宥め役の祐さんが、大柄な体躯にものを言わせて間に立つことでようやく均衡が保たれ、祐さんの従兄でもある真嶋さんが、その豊かな包容力で拓巳くんを甘えさせてあげるとナンとか収まりがつく。
「拓巳君が溺愛する君を、雅俊君が攫っちゃったのも、結局は僕がバイトを頼んだことで接点がグッと増えたからなんだよね……」
沖田さんのせっかくのアイデアは、二人の僕を巡る取り合いによって段々厄介なことになってきた。かといって今更付き人をやめることは、僕に世話をされてご満悦な拓巳くんがもはや納得しない。結局、沖田さんの苦労は種類を変えただけで、量は変わらない有り様になってしまった。
「すみません」
僕が恐縮すると沖田さんは慌てて手を振った。
「ごめんよ。ヘンなこと言っちゃったね。今はもう君がいてくれないと、僕とサブマネージャーの横澤君だけじゃ対応し切れないよ。取りあえずは来週、個展の手伝いを頼むね」
必死に説明する沖田さんに苦笑で応えながら、まずは目前に迫る個展が平穏無事に終わることを祈って会議室を出た。