王からの手紙
『親愛なる我が臣下、ジャン・ラペルトリ少佐…………』
そんな文句から始まる手紙は、手触りの良い上等な羊皮紙に綴られ、自分でペンを取ったのだろうか、癖が強く乱雑な字だった。封蝋は王家の象徴たる剣と鷲が描かれたものだったが、冒頭に個人的な用件であることが記されている。相手はもちろん、アリアンヌ王だった。
謁見から一月が経つが、ラペルトリがアリアンヌ王と顔を合わせることはなかった。ご機嫌伺いの手紙も、今回が初めてである。となれば、ひと月も放っておいて今更何用か、と女々しい不満のひとつやふたつ、口にしたくなるのも致し方ないことだ。気が滅入っているこの頃ならば、なおさら。
一通り読み終えて、ラペルトリは書状を丁寧に折りたたんだ。
そして、椅子に座ったまま、窓の外へ目をやった。風はなく、窓は開いていた。薄いカーテンは脇に退けられている。小鳥がさえずった。木の葉の緑が眩しい。
王都アプロバシオンの夏は、日差しが強い。そして乾燥している。
ラペルトリが部屋をあてがわれたのは、王が政治を執り行う王宮から丘ひとつ越えた、木立に囲まれた離宮である。数人の召使いは常に詰めているが、離宮のまわりに使われている建物はなく、静養を必要とするラペルトリにとっては適した場所に思えた。
塀代わりの木立は、離宮に住まう人に配慮したものなのだろう。人の声は遠く、邪な視線は遮られる。緑の葉のざわめきと小鳥のさえずりばかりが届くこの場所は、病に伏した者のために整えられたのだと容易に見当がついた。そのような場所に、ラペルトリのような平民が滞在するのは気が引けたが、他の行くところもない。少なくともベッドのはりつけにされている間は、少しばかりの気づまりと気後れは堪えるほかなかった。
ラペルトリの故郷であるフロンティエールは、夏の盛りでも気温が上がらず小雨と曇りが続く。風が山向こうの陰湿さを運んできて、空気はじっとりと湿り、暗い。
故郷ではそうだったから、アプロバシオンの夏はひどく明るく見えた。木々の葉の色が鮮やかな緑なのに驚き、風が乾いて涼やかなのに、はっとする。ベッドから起き上がれるようになると、窓辺に椅子を置いて、外の景色を眺めることが多くなった。
することは、なかった。毎日やってくるメイドのロザリーが、ラペルトリのその日の生活を保障したが、彼女の口からラペルトリがすべきことが語られることはなかった。それどころか、ほとんど口を利かなかった。彼女は常に無駄のない優秀さで彼女の職務を全うしたが、言葉をどこかに置いてきたように一言もしゃべらなかった。初めて会った日に手紙のことを問い詰めた件を根に持っているのか。それ以外に彼女の機嫌を損ねるようなことをした覚えはないので、たぶんそうだろう。単にラペルトリのことが嫌いなのかも知れない。そう思えるのは、彼女がラペルトリと同じ空間にいるのを忌諱するような機敏さで仕事をこなしているからだ。人に嫌われるという経験は乏しいので、確信はなかったが。
本当に嫌われているのか、確かめようとは思わなかった。どうでもいいと思ったからだ。好かれようが、嫌われようが。相手が女であるなら、変に好意を持たれるより、避けられていた方が良いと思うくらいだった。ほとんどの場合、ラペルトリは人にどう思われようが構わなかったので、嫌われたからといって傷つくことはなかった。
それでも、人に最低限嫌われないようにやってきたというプライドは少しばかり傷を作ったのだが。
人を陥れようとする意図は見られなかった。だから放っておいた、という方が正しいかも知れない。手紙のときもそうだった。
どちらにせよ、部屋に籠もり切りというのは、良くはなかった。復員のあとと同じだ。肉体が錆びれていく。ただ、あのときと違うのは、精神的に不安定になっていることだった。論理立てた思考ができないのは頭に居座る鈍痛のせいだが、些細な事に神経質になったり、結論のない堂々巡りを続けて苛立つのは、部屋から出ずに、物言わぬロザリーたった一人を相手にしているせいだ。
移りゆく季節に置いてゆかれる気がしている。アプロバシオンは夏の盛りを迎えようとしている。ラペルトリは、いつまでここにいることが許されるのかも分からずに、こけた身体に形のない歯がゆさをを抱えて、一日をやり過ごしている。
アリアンヌ王からの手紙が届いたのは、そんなころだった。
淡々とした生活はしんしんと冷たい冬の川面のようで、ゆるやかにしかし着実に変化する季節を恐れるように、ラペルトリは規律正しい生活をした。規則的な生活と必要最低限の要求は、メイドであるロザリーを楽させた。
不摂生で、尊大な態度で、日夜遊び歩き、過大な内容の要求をする主人は多く、使用人は忍耐と根気を必要とした。場合によっては忠誠心も。
忠誠心なんて、下らない―――こんなご時世で。むしろ、忠誠心なんてものに囚われているから、貴族はその名誉を失墜させたのだ。
かといって、忍耐と根気と忠誠心を必要としない相手が、必ずしも扱いやすい相手というわけでないことをロザリーは知った。ラペルトリは極めて扱いにくい男だった。
ご機嫌取りと追従は投げ捨てられ、真実と誠実さを差し出させようとする。薄色の目は透明な膜に覆われ、その奥に沈殿した感情を読み取らせる気はないくせに、ぶしつけな視線がこちらの思惑ばかりを見透かそうとする。「心を通じ合わせるのには言葉は不必要」というメイド仲間で流行った少女小説の夢見心地のセリフをロザリーは鼻で笑ったが、真実だったのかしらと今になって思う。ときめきと切なさではなく、不愉快さと胸騒ぎが胸をかき乱すとは、夢にも思わなかったけれど。
ラペルトリに手紙が来た。ひと月以上、部屋に籠もりきりで、見舞いの来客も手紙もなかった男にだ。形式上にしろ、きちんと心配してくれる人がいたのだな、と思っていたら、あろうことかその人物とはアリアンヌ王らしい。
王から直々(じきじき)に手紙が来るとは、いったいどんな関係だろう。それを知るには、本人に聞くか話してやるものかと決めたのに屈する気がして心底いやだが、リスクが高く遠回しな方法になるが以前のように手紙を盗み見るしかない。アリアンヌ王ご本人にアプローチをかけるのはごめんこうむりたい。
王家の刻印を認めたあと、顔色も変えずに封を切り、それが心を落ち着かせるための作法であるかのように黙って手紙を読んでいたラペルトリは、読み終えると手紙を折りたたみ、チェストの上に置いたのをロザリーは確認した。
ラペルトリが部屋を出ることはまずないから、ずっと手紙が目に届くところにいるラペルトリの目を盗んで手紙を読むのは難しい。かとって、こっそり持ち出してもすぐに気づかれそうだ。
そんなことを思案していると、
「ロザリー」
とラペルトリが言った。
「はい?」
しまった、返事をしてしまった。考え事をしていたせいで、まるでメイド仲間に話しかけらたかのように返事をしまい、ロザリーは内心慌てた。ラペルトリは、そんなロザリーの心情など露知らず、
「レクダングル庭園は何処かな?」
「そこへなにかご用でも?」
「用ということはない。陛下が来いという」
「陛下が?」
ロザリーはそう復唱したきり、黙りこくってしまった。陛下のお召しを「用はない」ですって? それだけでも立派な用事だ。むしろ、病で床に臥せっていようが足が無かろうが王のお召しを断るなど許されない。
「それは行かねばなりませんね」
「具合が悪ければ無理はするなと言っている」
ラペルトリは手紙を指し示した。
そんなものはもちろん社交辞令だ。そんなことすら分からないのか、この田舎者は。
「いいですか。陛下のご命令は絶対です。必ず行ってください」
「命令だとは……」