魔物の棲む城
戦争から帰ってきてからは、ラペルトリは、熟睡というものから遠ざかっていた。身体の苦しさが眠りの中まで長引き、荒い呼吸で何度も目覚め、その分だけ繰り返しつたないシナリオの短い夢を見た。主人公はたいていラペルトリ自身だったが、時代はまちまちだった。幼い自分がいれば、少年期の自分もいた。青年の自分もいた。戦争のときの夢か、脈絡のない暗示的な夢が多かった。幼い自分が戦地にいる夢を見たときは、目覚めると、夢の中では剣と一体になっていた右手から血が出ていた。つよく握りしめすぎたのだ。それで、これが夢だったのだと思ったものだ。目覚めた、と思ったそれも夢だったときは、永遠に目覚められないのではないかと恐怖した。
王の御前から辞したあと、あのあとどうやってどのベッドで眠ったのか覚えていなかったが、ラペルトリはベッドで長い間眠っていた。眠っている間、意識は幾度も浮上したが、身体に意思を通す回路が断たれてしまったように感じ、動かすことが出来ず、諦めて目を閉じると、眠りに落ちて短い夢を見る、というのを繰り返していた。
雷に打たれたように四肢が跳ね、身体と意識が同時に覚醒した。ぎょっとしてまだうまく働かない両目で見渡すと、そこは薄闇に包まれた見知らぬ部屋だった。
薄いカーテンがかかっているせいだ。それで、昼なのに暗いのだ。レースを透かして、複雑な紋様を描く影が窓辺に落ちていた。窓は開けてあるようで、カーテンが風に揺れて、影が躍る。
部屋にはラペルトリ一人だった。ラペルトリ一人にはあり余る広さの部屋だった。カーテンやブランケットに施された色鮮やかな刺繍で、自分がまだ城にいることを認識した。手入れする者もなく荒れ放題であろう自宅や、しばらく世話になったアゼマ子爵の邸宅にはない風情があった。しかし、玉座の間とは違い、壁は粗塗りの漆喰で、絵も描かれていない。それほど身分の高くない客人が滞在する部屋だろうか。
そうして部屋を観察していたとき、ノックもなしにドアに開き、腰に白いエプロンをかけた黒いドレス姿のメイドが入ってきた。
「あら、おはようございます」
メイドはさほど驚いた様子もなく挨拶をして、かつかつと窓の方へ行き、カーテンを勢いよく開けた。眩しい陽光があふれた。闇に慣れた目には眩しすぎる光だった。ラペルトリは顔に手をかざし、目を細めた。
「と言ってももう昼ですが。食事はどうなされますか、軽くスープでも?」
メイドは窓際で腰に手を当てて、歯切れ良い物言いで訊ねた。
乱れなくまとめられた髪は乾いた干し草色で、目はエメラルドグリーン。珍しい色だ。年は十六か七くらいだろう。鷲鼻ぎみの鼻は高く、色白で、ませた少女が女性に変わる直前の、気の強さのにじみ出た顔つきの娘だった。
「無理して召し上がらなくても結構ですよ。お身体の調子はいかがですか」
「…………僕はどれくらい眠っていましたか」
「あなたのお世話を仰せつかって、昨日の夕方に来たときにはすでにご就寝でした」
「そうですか。…………身体は、だいぶ良くなりました」
「それはようございました」
メイドは愛想のいい笑顔を浮かべた。
「今日は豆のスープだそうです。一口でもいいのでお腹に入れなくては、元気にはなれませんよ。……それから、これは総司令部からです」
メイドはチェストの上から封筒を取り上げてラペルトリに見せ、
「読み上げますか?」
と言った。そして、ラペルトリの返事を待たずに封を切ろうとする。ラペルトリは驚いて、
「いえ。自分で読みます。それより、食事を。用意はしていただけますか」
メイドは眉毛を上げエメラルドグリーンの目を不穏にきらめかせてラペルトリを見たあと、素直に封筒を渡し、
「パンはどうしますか。あいにくとライ麦のパンはありませんよ」
「なんでも」
メイドはスカートをひるがえし、はしたなく見えるほどの素早さで、部屋を出て行った。
その後ろ姿を見送ったあと、ラペルトリは封筒に目を落とした。表側には宛名としてラペルトリの名が記されている。ひっくり返すと、封蝋が半分がた崩れているのを見つける。封蝋は封筒の封をするために溶けた蝋を垂らして印を押したもので、差出人を示すとともに未開封であるという証明になる。持ってくるまでになにかの拍子に崩れてしまった……と考えるよりは、意図的なものだと考える方が自然なように思われた。
中には、上質とは言えない羊皮紙。メイドが言っていた通り総司令部からのもので、ラペルトリを正式に少佐に任命する辞令が記されていた。ご丁寧に出身地まで綴られている。
ラペルトリは一通り目を通すと、書状を折りたたんで再び封筒に入れた。
鈍痛は常にラペルトリの身体に居座って、深い思考の邪魔をする。生来深慮する方ではないが、知りたくないものに気付いてしまうことがラペルトリにはある。あるいは、気づいてしまうから知りたくないのかと思うのか。ラペルトリは無知な辺地の青年であって学問に明るいところはないので、おのれの心理については正確に論ずることは出来ない。
目を閉じると、眼窩の底からずっしりとしただるさが這い上がってきた。そうしていると、二度と外界を眺める機会を失ってしまう、そう恐れる臆病な獣がラペルトリを急かし、否応なしに目蓋を開けさせる。その獣はラペルトリを熟睡から遠のかせた一因でもあった。
ほどなくしてメイドが戻ってきた。ベッドに小さなテーブルを寄せ、その上にスープとパンを並べた。身体を動かすことに慣れた手際の良さと、上流階級の子女の洗練された所作を彼女に見る。流石は、王城に勤めるメイドである。女性が女性として愛されるすべを熟知している。
ラペルトリにとっても十分魅力的に思える女性ではあったが、純白のドレスについた一点のしみがひどく目立つように、整えられた立ち居振る舞いのすこしの不自然さは際立ってしまう。そして、その一点のしみについ手を伸ばしてしまうことは、そのしみ以上に罪深いものではなかろう。
「…………手紙を勝手に開けましたか?」
ラペルトリは言うと、
「そんなことは」
メイドは即座に否定した。
「封が切られていました」
「バカな侍従がどこかにぶつけて壊したのでは?」
「ライ麦のパンは王都ではあまり食べられないでしょう。僕の故郷をどこで聞き及んだのです」
確信に至った理由を述べられると、メイドは言葉に詰まった。
ラペルトリの言葉はアクセントが抑えられ、平坦だった。声を荒らげることはない。責めたり叱ったりするような調子でない。そのせいで、その呆けた顔の裏でなにを考えているのか皆目見当もつかない。メイドはただ頭ごなしに怒鳴られるよりはるかに恐ろしい思いをした。
感情的に怒鳴りつけられたなら、泣き落としが通じると思えただろう。女性たる事の真髄をわきまえたメイドのことだ。そうやって危機を乗り越えてきた経験は両手の指では足りないほどある。それゆえに感情的に見える打算が通じるとは思えない相手に対しても、自分の立場を押し上げるための努力を惜しまないのだ。
「………だって」
メイドは言い訳がましく言う。
「なにも知らされなかったのですもの。何者かもわからない方のお世話をしろなんて…………、恐ろしくて」
ラペルトリはメイドの顔を見つめていた。彼女が言うことは一面としては真実には違いないが、すこしばかり大仰に言っていることを見抜いた。
「…………それにしても、あまり趣味がよいとは思えませんが」
「あなたになにが分かります!」
メイドは叫んだ。その目が潤み、あっと思う間に涙がこぼれた。メイドが顔を両手で覆って、肩を小さくし、すすり泣きを漏らした。
ラペルトリは彼女の姿を見つめるばかりで、何も言わなかった。一足先にゆるしを与えることも慰めることもなかった。薄茶色の目は無感情な表皮に覆われて、怒りも憐みも浮かばない。ゆるしを乞われるのを待っているのだろうか、あるいはあきれ果てたのだろうか。沈黙があまりに長く続くので、堪え性のないメイドが両手の間から相手の顔をちらりと覗くと、やはり呆けた表情を張り付けた仮面がメイドの方を見上げていた。
なぜ何も言わないのだ―――得たいの知らなさに起因する不快感がメイドの小さな胸に広がった。しかしそこで引くほどメイドは意気地なしではなかった。もうすこし反応を探りたいところだ。
果たして相手はこの駆け引き自体に乗ってるのだろうか。そんな懸念も抱きつつ、もうひと押しをラペルトリに投げつける。
「言いつけますか?」
ラペルトリは首を横に振った。なにも読みとれない彼からかろうじて否定の意思を読み取る。
メイドは指先で涙をぬぐった。ここまでだ。なにも積極的に敵に回す必要もない。仮にもこれから何日は衣食住の世話をしなくてはならない人なのだ。用が済んだら、すぐに城を出ていくだろう。それまで我慢して、適当に付き合えばいい。
そう思うことにしても、多少の悔しさはメイドの腹の底にいまだふつふつと噴き出ていて、潤んだ目で見つめていると、ラペルトリは何を思ったか、メイドから目をそらし、窓から差し込む光が床を照らすのを見ていたが、何度かまばたきするとベッドからメイドを見上げ、
「ジャン・ラペルトリ。階級は少佐。出身はフロンティエール。なんと呼んでくれても構いませんが」
と名乗りを上げた。
そう。ここでそう来るわけ。仲良くやりましょうってこと。メイドはラペルトリの提案に乗ることにした。
「ロザリーです。スープのお代わりはありませんからね、少佐!」
そう言い放つと、靴の先で床を蹴るようにして部屋を出た。涙をぬぐったロザリーは、持ち前の切り替えの良さを発揮して、廊下で一人笑顔を作った。それがこの場所で生きていく最善の手段なのだ。そう言い聞かせながら。