玉座の上
王都アプロバシオンは、楕円状に広がる王国の海岸近くに位置し、フロンティエールから馬を飛ばして三日の距離である。
フロンティエールの帰還兵ジャン・ラペルトリのもとを訪れた男爵レティシアは、彼の上洛に同行しなかったので、ラペルトリはアゼマ子爵の手配した馬車でひとり、二週間をかけてアプロバシオンに上った。
男爵の署名が入った書状で王城へ上ると、豪奢な部屋に通され、従僕からぴかぴかの軍服を渡された。
詰襟で黒を基調とし、銀色のボタンが品がよい。戦時に着ていた軍服とは装飾も仕立ての良さも異なっていた。将校のものだろう。
従軍していたときの軍服は泥と血にまみれて、とてもではないが着れたものでなく、新しい軍服を与えられたのは幸いだった。一兵卒のものではなく、将校のものであるのはすこしだけ引っかかったが、国王に拝謁するのにあの飾り気のない実用性ばかりに重きを置かれた軍服を着るのは失礼にあたるのだろう。
ラペルトリを呼びに従僕がやってきたのは、登城から数時間が経ってからで、城の前の橋を渡ったとき東の空にあった太陽はすでに中天を過ぎて傾きかけていた。
謁見が行われる玉座の間は、絢爛にして高貴と誉れ高い広間である。ラペルトリは噂を耳にしていただけで、実際に目にするのは勿論はじめてであった。
王城に足を踏み入れたときからそうであったが、まず驚かされるのは色彩の多さ、そしてその芸術性の高さだった。
玉座の間につづく回廊の柱や天井は乳白色か金だった。壁には壁画が描かれ、赤や青、黄、緑で彩色された天使や婦人は細部まで描き込まれており、ラペルトリは芸術を解さないが、その細やかさに、ときおり足を止めて見入ってしまいそうになる。
そして、重たげな扉の向こう。
玉座の間は黄金の輝きに満ち、回廊の趣向が控えめであったことを思い知らされる。広間は円形で、高いドーム型の天井を持つ。壁には回廊に負けず劣らず精緻かつ壮麗な壁画がところ狭しと描かれていた。
それを鑑賞する余裕もなく、ラペルトリは軍靴で毛の長い絨毯を踏んで、王のもとに歩みを進めた。
広間の奥に大理石の階段があり、その上に黄金の玉座が置かれている。玉座には人がいた。アリアンヌ王である。背中に王家の紋章たる剣と鷲が描かれたタペストリーを背負い、ラペルトリには触れることすらためらわれる黄金の玉座にゆったりと腰かけている。
階段の手前で立ち止まり、軍隊式の敬礼をしてから、ひざまずく。作法はアゼマ子爵から習ったが、子爵は軍人ではないので、軍隊式の挨拶などは知らない。かといって平民であるラペルトリが貴族の挨拶をしても不敬に当たると思われたので、余計なことはせずに、片膝をついて王の言葉を待った。
「遠路はるばるよく参った」
労をねぎらう王の声は、ふかく澄んで心地よく、落ち着き払っていた。その声のか細さは、御前にあっては誤魔化しようはない。
それは、年若い女のものだった。
アリアンヌ王、弱冠二十歳。剣と鷲を背負うこの国の王は、輝くような黄金の髪と冬空のようなくすんだ青い目を持つ、若い女であった。
ひざまずいたままのラペルトリにはアリアンヌ王の容貌を確認することは叶わなかったが、その声音は、玉座に座る王が若い女であるということをラペルトリに悟らせた。
しかし、王が女だという事実が彼になにをもたらしただろう? 目の前の人物は女である前に王であった。ならばラペルトリは彼女の前に膝をつく。彼が軍人としてこの場に呼ばれ、彼女が王として玉座に就くならば、王が女であるということは双方にとって些細な問題であった。
「男爵は来なかったのか」
王が訊ねるというのでもなく呟いた。
王国に男爵の爵位を持つ者は両の手で数えきれないほどいるだろうが、ラペルトリの知る男爵は、デムラン男爵レティシアただ一人だった。ゆえに、男爵と言われて、ラペルトリは真っ先に彼女の玲瓏なるかんばせを思い浮かべた。
「男爵になにか言づけられなかったか」
「………陛下のお召しだと」
「その通りだ」
ラペルトリの言葉を肯定するアリアンヌ王の声音は尊大だった。肯定されたというのに、そのあとにその口で打ち首を命じる言葉が続いてもおかしくないように思えた。
「今回の件、発端は男爵の進言だ。男爵がおらぬとなるとどうにも先に進めない。……それとも」
そこで流麗な言葉を切り、足を組み直し上等なローブがこすれる衣擦れとともに小さく吐き出された息には、倦んだような気配があった。
「余ひとりで事を進めてしまおうか」
是とも非とも答えぬラペルトリに、アリアンヌ王は何を思ったのだろうか。ラペルトリが知ることが出来たのは、王が小さな靴の踵を打ち鳴らし、ローブをひらめかせて立ち上がったことだった。
靴音は数回打ち鳴らされた後で、階段の絨毯を踏んだことで止んだ。衣擦れが近づき、ラペルトリの目の前に至る。ひざまずいたラペルトリの視界に、濃いブルーのローブの金糸で刺繍された裾がひらめいた。
「服を脱ぎたまえ」
ラペルトリはしばらくの間、動くことも声を上げることもできなかった。
「聞こえなかったか? 服を脱ぎたまえ。今、ここで」
なにかの聞き間違いではないかとラペルトリは思ったのだった。しかし、そうではないらしい。
となれば、たとえ拒否する権利などなくとも、困惑する時間ぐらい与えてほしいと思うのは当然のことである。突然服を脱げとは…………。さらに相手は、王ではあるが、同時に女である。互いに思い思われる娘であるならいざ知らず、初めて会った、身分も違う女に、ムードもへったくれもなく服を脱げと言われ、気持ちをすっぱり切り替えて、潔く脱衣できる男は少数派だろう。そういうわけで、ラペルトリはひたすら困惑して、無意味に忙しなく視線をさまよわせた。あるいは、こうして戸惑って見せることでアリアンヌ王が寛容さを示してくれるのではないかという期待をして。
アリアンヌ王はついに寛容さを示すことはなかった。無言のままラペルトリに御前に醜態をさらすことを強いた。そして、ラペルトリに拒否する権利などなかった。
ラペルトリは言うことを聞かない膝を叱りつけて、立ち上がった。立ち上がると、ラペルトリは無礼を承知でアリアンヌ王を正面から見据えた。意趣返しのつもりだった。アリアンヌ王は不敬を咎めなかった。
アリアンヌ王はラペルトリより頭一つ分背が低い。輝くような黄金色の髪は、長い上に縮れているせいで嵩が増して見える。顔はこぢんまりとして、いやに大きな目が少女特有の無邪気さを主張していが、全体としては王者としての覇気を有した勇ましい顔つきだった。ブルーのローブはシンプルなデザインで装飾は少なく、年若い王に威厳と落ち着きを与えている。さらに身体のラインを隠すから、遠くから見れば女性だということも分からないだろう。
ひとしきり王の品評を終えると、ラペルトリは覚悟を決めて自らの軍服の銀色のボタンに手をかけた。
上着の袖から腕を抜いたあと、シャツのボタンに指を這わせると、覚悟は決めたはずだったが、次の段階に行くには少しばかり勇気が必要だった。
王は、互いのつま先同士が交わるような近さで、なにも言わずに、ラペルトリが服を脱いでいくのを見ていた。
ラペルトリは、王の胸から上に目をやることも、頬が紅潮するのを止めることも出来なかった。やっとのことでおのれの熱が移ったシャツを脱ぎ捨て、上半身を外気にさらすと、ラペルトリはぶるりと身体を震わせた。
ラペルトリには王の反応を見る余裕はなかったのであずかり知らぬことだが、王はラペルトリのあらわになった上半身を見て、とても驚いていた。
なにも異性の裸を見るのが初めてで、そのために驚き、言葉もなかったのではない。
ラペルトリがあまりにも病的な身体つきをしていたからだ。
王は言葉もなく彼を見つめた。
男爵のおかげか否か、ラペルトリの顔色は、フロンティエールで床に伏していたときより格段に良くなっていたが、痩せた身体は一週間やそこらで元に戻るわけではない。彼の身体は、肌はぱさぱさに乾き、どこもかしこも骨が浮き出ていた。一つ一つなぞっていけば、医学の教科書通りの数を数えることが出来るだろう。鎖骨、肋骨は薄い身体から皮膚をまとってあらわれ、腕に至ってはむしろ骨が皮膚をまとわりつかせているようなありさまだった。まるで死人のようだ。
その死人のような腕が動き、ズボンのベルトを外そうとしたとき、
「もういい」
制止されたラペルトリは、素直に両腕を下ろし、安堵を込めた吐息を吐いた。
王は手を伸ばした。つややかな薄紅色の指先が中央のかすかにくぼんだ胸骨に触れ、思いがけず汚いものに触ってしまったかのように、わずかに手を引いた。
こわばった顔の、口紅を刷いているせいで色の変化を見せぬ唇は、きっと青くなっていることだろう。それでもなお唇を引き締めるさまは、少女の片鱗を見せてけなげに思えた。
しかし可愛げをあらわにしたのはつかの間のことだった。いたいけな幼君と言えどいともたやすく暴君に変貌するものだということをラペルトリは知らないのだ。
王は先ほどと同じ位置に今度は手のひら全体をつけ、しばらくの間、脈を探る医者のようにじっとしていたが、手を離すと、
「膝をつきたまえ」
と命じた。
ラペルトリは両膝を着いた。すぐに王が覆いかぶさってきたので、ラペルトリは背中を丸めて頭を低くすることを強いられた。
柔らかな指の腹はひんやりと冷たく、胸のときとは違い、そうされることを予見できなかったので、無遠慮な触り方にラペルトリは身を固くした。
目を閉じ、息を詰める。低くした頭がブルーのローブに擦れるほど近くで、王の緊張を帯びた息遣いを間近に感じた。
王の指はラペルトリの浮き出た背骨を確かめながら、腰まで下りて行った。そこでいったん手を引き抜き、ラペルトリに上体を起こさせると、今度は細くなった首に手を当て、頸動脈をたどって心臓に達する。王の手はすっかり熱くなっていた。ラペルトリの熱が移ったのか、あるいは彼女自身の緊張のためか。湿りけを持った手のひらがさらにつよく押しつけられた。
「堪えよ」
とアリアンヌ王は一言命じた。
意味を確かめる暇もなく、胸に触れた手の異様な熱さを感じラペルトリは瞠目した。
覚えのある熱さだった。アゼマ子爵の屋敷で、レティシア・デムラン男爵が訪ねてきた日、浅い眠りの中で感じた熱さ。払いのけたくとも眠りから覚めることすら許されなかったあの熱の何倍も暴力的な熱が王のひらから放たれていた。
思わず身体を引いたのを、王はもう一方の手でラペルトリの肩を押え、逃げられないようにする。
ふいに訪れた奇妙な感覚に見下ろすと、王の手は、まるでそこが湖面であるかのように、ラペルトリの胸に沈みこんでいた。
「………っ……」
濁った声がラペルトリの口から洩れた。
王はさらに手を押し込んだ。手首まで埋まった。
王の手が確かにおのれの体内にあった。中でうごめく生々しい感覚がそれを認識させ、強烈な異物感がラペルトリを苛んだ。反射的に嘔吐しようと急く臓器をなだめすかしながら、気管を引き絞って喘ぐ。
失神してしまえればいい。まばたきを繰り返し、固い唾を飲み込んで耐える時間は、永久にも等しいように思えた。もうすこしで倒れてしまいそうだと意識が暗むたびに、御前にこれ以上の醜態をさらすわけにはいかないという男としてのプライドがないまぜになった意地が頭をもたげ、さらにはそれを察したのか否か、王が肩をつよく掴み揺さぶってきて無理やり意識を浮上させた。しかしそれも長くはもつまいということは、双方にとってわかり切ったことだった。
やがて定められたとおりの限界は訪れた。しかし我を失う寸前で、ラペルトリは身体の隅々までを冒していた不快感から解き放たれ、支えをなくした身体を支えるために床に手を着いた。
引き抜いた手は拳が作られていた。白い甲に筋が立っている。力いっぱい握られている、とラペルトリは荒い息を吐き出しながら不思議に思った。ラペルトリが視線を上げて、王の顔を見る前に、アリアンヌ王はさっと立ち上がって階段を上がり、再び玉座に着いた。
「貴君を少佐に任じる」
衣擦れに紛れてしまうほど小さな声でアリアンヌ王は言った。
「は」
ラペルトリが汗に濡れた顔で無様な様子で見上げると、こちらを見下ろす冷たい青の目とかち合った。
「何をしている。服を着て出ていきたまえ」
王の声が重たく、恐ろしげに聞こえた。
ラペルトリは言われたとおりに、軍服をまとい、あいまいに退出の礼を取って、玉座の間を後にした。
回廊に人はなく、しんとしていた。耐えきれずに柱に寄りかかって目を閉じる。思い出したように眩暈がやってきて、心臓の鼓動が間近に感じられた。ずるずると崩れ落ちる。緊張の糸が切れたのだ。そのままラペルトリは意識を手放した。