力なきものの末路
学校へと向かう足取りも軽かった。
頭を煩わせるものがなくなるというのは、これほどまでに素晴らしいことだったのか。正清は今更ながらにそれを認識した。ジリジリと肌を焼く夏の日差しも、この時ばかりは心地よく感じられた。
「おっす、ショウおはよう! あれ、今日はミーちゃん一緒じゃないんだ?」
「ああ、おはよう数多。今日は風邪ひいちゃってね。数多も気を付けて」
「大丈夫、大丈夫。あたしは多分、風邪ひかないからだだからさ」
バカは風邪をひかない、というコトワザが頭を掠めたが、あまりに失礼なのでこれ以上は止めておくことにした。実際、数多の成績は燦々たるものだった。自分は並み程度の人間だとは思ってはいるものの、数多の中間成績には戦慄したことを思い出す。
「ところで、さ。ショウ。須田さんから聞いたよ。あれ、止めるんだってね?」
「……そっか、向こうからもう連絡入っているんだね。うん、決めたよ。止めるさ」
自分から切り出すようなことにならなくてよかった、と正清は思う。
望んだこととはいえ、これまで一緒に戦ってきた彼女に別れを切り出すのは辛かった。
「いままで頑張ったよ、ショウは。あたしみたいに戦う力なんてないのにさ。
でも、もう大丈夫。これからは須田さんたちと、あたしがショウたちを守ってあげるから」
「え? もしかして、数多。これからも戦うつもりなのか?」
正清は驚いたが、それは数多にとってみれば当然のことだった。
「あたしにはマギウス・コアの力が必要だからね。
他に戦ってくれる人がいるって言ったって、マギウス・コアを譲ってくれるわけじゃない。
あたしは戦うしかないんだ」
悲壮感はない。だが、悲しい現実だ。彼女はこれからも戦うしかない。
ともに戦う仲間をなくしながら。心が少し痛んだが、しかし数多は笑って済ませる。
「だから、ショウが気にするようなことじゃないって言ってるじゃん。
これはあたしの決断なんだから。
ショウがどうなったって、そこだけは変わらないことだよ」
言葉を続けようとしたところで、予冷が鳴った。
数多は大急ぎで駆けて行く。
その背中をずっと追いかけていることしか、正清には出来なかった。
少し落ち込んだ気分になったが、授業を進めていくにつれてそういうものも薄らいで行った。彼女が戦いに身を投じるのならば、仕方がない。それは自分がどうこう言ったところでどうしようもないことなのであり、そして口を出すべきところでもないと思った。
(そうだよ、戦わなくたって何が悪いんだ?
誰も戦っちゃいない、ただ守られていることを当たり前だと思っている人が大勢いる。
そんな人のために戦う必要はない)
あの時の自分はどうかしていたのだ、と正清は思う。
桐沢老人に求められるままにベルトを受け継ぎ、薄っぺらい気持ちで戦いに身を投じた。
それがどんな意味を持っているのか分からずヒーロー気取りで戦っていた。
否、ヒーローとはそう言うものかもしれない。
誰からも感謝されず、誰からも認知されず、ただ戦うもの。
そんな在り方は、自分には向いていない。美里を守るために戦った。
そして戦わなくても守れる手段が手に入った。
それならばそれでいい、自分の戦いは大団円と言えるのではないだろうか。
ただ……何をするわけでもない時間は過ぎるのが早かった。
みんなとの交流が何もない時間はとても空虚に感じられた。
それは、彼が過ごして来た三か月があまりに濃厚であったが故の反動。
それは理解している。それでも、正清は少しだけ寂しかった。
たった一人の帰路では、それは尚更強いものとして正清には感じられた。
「よう、ショウ。どうしたんだ、そんなしょぼくれた顔して?」
「悟志……いや、何でもないよ。大丈夫、何ともないから……」
泣いていたのを、彼は見ていただろうか。
恐らくは見ていないだろう、その辺りの機微には聡い男だ。
正清は悟志に見られないようにして涙を拭った。
「少し興味深い話を聞いたんだ。一緒に調べてみないか、ショウ?」
え、と思わず正清は言った。
まるで、いまも戦いが続いているような口ぶりだったからだ。
小さな違和感、それに気付いた正清は、もしかしてとその可能性に思い至った。
「なあ、悟志。もしかして、キミは何も聞いていないのか?」
「何の話だよ、ショウ。俺抜きで話が進んでたってことか? それはキツいな」
正清はその一言で確信した。
須田からの通達は、悟志には行っていないのだ。
「悟志。僕はもう戦わない。止めたんだ。ベルトも、何もかも、返して来たんだ」
呆然自失、といった感じの表情で悟志は正清を見た。
そしてそれが、歪んだ。
「何言ってんだよ、ショウ! つまらねえ冗談言ってんじゃねえぞ、オイ!」
そして、それはすぐに怒りへと変わった。
ヒートアップしていく悟志とは対照的に、正清の心は疑問符で埋め尽くされて行った。
(悟志には、どうして今回の話が伝わっていないんだ?
それに、この態度……どうしてそんなに怒るんだよ、悟志。
戦わなくて済むんだぞ、それを……喜んでもいいだろ?)
悟志の態度は明らかにおかしかった。これは自分に話が伝わっていなかったことよりも、正清がシャルディアを手放したことについて起こっているように思えた。
「悟志、僕はもう戦いたくないんだ。あんなの、もうたくさんだ。分かるだろう?」
「分からねえよ! 俺はお前と一緒に戦いたくて、あんな……ショウ!」
『分からない』。正清も悟志の心が、考えが『分からなかった』。そこで正清は、彼を理解しようとするよりも拒絶することを選んだ。言いたいことは言った、そんな表情を作って踵を返し、地下道を通って逆のロータリーへと向かって行った。
「待てよ、ショウ! 詳しく説明しろ! どうして戦いを止めるなんて言い出す!?」
その肩を力強く悟志は掴んだ。
正清はそれを振り払おうとしたが、中々出来なかった。
スポーツマンである悟志と正清とでは体力も筋力もものが違う。
正清の体が、薄暗い地下道の壁に叩きつけられた。
いままで感じたのとは種類の違う痛みが走った。
「お前しか使えないんだろ、あれは! お前しか戦えないのに、なんで!」
「量産型が完成したんだよ、本命が! あれがあれば、僕たちは安心して過ごせる!」
「そういうことを言ってるんじゃねえよ、ショウ!
どうしてお前はそれを手放しちまえるんだ、簡単に!
戦える力があるんだろう!? どうしてそれを捨てられるんだ!」
簡単?
簡単に、ではない。何度も悩んで、何度も苦しんで、そして手放す選択肢を選んだ。
簡単だなんて、誰にも言わせない。正清は悟志の肩を掴んで、押した。
「キミに何が分かるんだ!
あの暗くて、苦しい戦いを続けていくのがどれだけ辛いことかなんて!
戦ったことのないキミになんて分かるはずがないだろう!
僕がどれだけ心細かったか、どれだけ苦労したか! キミにいったい何が分かるんだ!」
「分からねえよ、手に入れた力を手放しちまえる人間の考えなんか!」
二人の会話は平行線を辿った。
否、会話ですらない。
互いの感情をぶつけあっているだけだ。
そこにはもはや、他人の姿さえも必要ではなかった。
だがそんな二人にも、一抹の冷静さがあった。
少なくとも、周囲に誰もいないことくらいは分かった。
午後三時付近、人通りが絶えない場所にあっては異常なことだ。
正清たちが入って来た方の入り口に、黒い影が降り立った。それはふさふさとした短い体毛に覆われた人型であり、ただ背中から絹のような羽根が生えていた。両手の指は三本、足も三本。手には水かきのようなものがついており、足は短く鋭い爪が生えた節くれだったものだった。バットラステイター、とでも言うべきだろうか。
そして、直観的に理解した。自分たちが今回の『獲物』なのだと。
バットは白濁した目を二人に向け、汚れた牙の生えた口を広げた。
同時に、二人の耳に不快な高周波音が聞こえて来た。脳を直接掴まれたような痛みが走り、天井についていた蛍光灯が爆発するように割れた。バットの放った音波攻撃だ!
「ッ……! マズいぞ、ショウ! 逃げろ……!」
二人は一瞬早く耳を塞ぎ、直撃を避けた。
だがそれでも平衡感覚が揺らいでいた。
もつれる足で反転し、二人はロータリーへと走った。
どこに逃げればいい?
バンクスターがある方だ。
ロータリーには人っ子一人いないし、車も通っていない。
道路を通って逃げようとしたが、上空を走るモノレールの架線から何かが飛び降りて来た。ラットラステイターだ。逃げ道を塞がれ、二人は一瞬立ち止まる。
「ッ……! こっちだ、悟志! 川沿いを通って逃げようッ!」
正清の判断は早かった。悟志もそれに続き、坂を下って行った。バットの展開したマギウス・フィールドはかなり広大な範囲に及ぶようで、坂を下った後も人影を見つけることが出来なかった。どこかから脱出出来る、そう信じて二人は走り続けた。
だが、それを嘲笑うようにバットが彼らの前に降り立った。巨大な羽根は単なる飾りではなく、飛行能力まで備えているようだった。降り立ったバットは正清を叩き倒し、悟志に蹴り込んだ。両手を掲げて防御する悟志だが、一撃で道路の真ん中あたりまで吹き飛ばされてしまった。地面を擦り呻く悟志に、バットは止めを刺そうとする。
「危ない、悟志! 逃げるんだッ!」
考えるよりも先に、体が動いていた。
正清はバットの体に纏わりつく様なタックルを仕掛けた。
バットは驚き、身を固めるが、しかしビクともしない。
ラステイターの身体能力は人間のそれを遥かに凌駕する。
それが魔人級ラステイターなら尚更だ。
バットは三本の指で正清の体を掴み、前に押し出した。あまりの力に抵抗することさえも出来ない。無防備な体を晒した正清の首を、バットは掴んだ。首が締まり、首の骨が軋みを上げる。そのまま折られる、と思ったが正清の体は投げ捨てられた。
投げられ、橋の欄干に激突する。背中から叩き詰められ、息が詰まった。いたぶっている、直観的にそれが分かった。殺そうと思えばバットはいつでも自分のことを殺せる。これはバットにとって、残酷なゲームなのだ。逃げろ、霞む意識の中正清は悟志に合図を出した。だが、追いついて来たラットが彼を包囲した。万事休す、か。
(っそ……どうして、僕がこんな目に……誰か、誰か、助けてくれよ……!)
悔しさのあまり、正清は呻いた。ゆっくりとバットが、死が近付いて来る。
「オ前ハ危険ナ存在ダ。私ガココデ、終ワラセテクレル」
喋った?
バットは確かに、人語を介した。
その意味を、正清は考えた。
次の瞬間、ラットの頭が飛んでいるのを正清は見た。
幻覚かと思ったが、違った。
バットの狼狽するような声が聞こえて来た。
バットは跳び上がり、襲撃者の攻撃を避けた。
巨大な斬馬刀がアスファルトに突き刺さり、爆ぜるように地面が砕けた。
「悪いけど、殺させない。あんたは、ここで殺すから」
『鮮血の魔法少女』、ザクロ。
彼女が正清を守った。




