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もうだめだ。
何度目になるか分からない諦観。
灯りの無い室内には、弱々しく点滅するLEDが一つ。その気になれば、真昼のような明るさをもたらすスクリーンも照明もすべて沈黙。
それでも、大丈夫だと自分を奮い立たせてきた。
快適な環境をコントロールするはずの空調は完全に停止。気温は摂氏マイナス三〇度を記録。しかし、それは二時間前の数字。今はどこまで下がっているか分からない。
大丈夫だ。まだ助けは来る。
ちらりと見やるコンソール。LEDが示すのは、救難信号を発し続けている証拠。信号を捉えてくれれば、助けは来る。
電源は節約している。まだ十時間はもつはずだ。
船外活動服を着込み、しかし機能はギリギリまで抑え、体温維持のみに利用。凍てつく空気が顔中の皮膚を突き刺し、口から出される吐息が目の前で音を立てて凍り付いていく。
機内の酸素はまだある。EVA服の酸素供給機能は使うべきではない。そう考えていた。
だから、まだ大丈夫だ。
このままじっとして救助を待てばいい。
コンソールの正面、コクピットの正面に広がる漆黒の世界。はるかに続く無数の光点の群れ。
何も無い。
何も無い空間がそこに広がる。
無限ともいえる宇宙空間。人類の新たな舞台。
しかし、それは彼にとってはあまりにも大きい世界だった。それを今、この瞬間痛感する。
宇宙空間を利用した事業が世界中で興りはじめたのは、この十年ほどのこと。史上初の軌道エレベーター、ランジット・ブリッジが完成してからだ。JR東海を中心とする多国籍複合体が日本の繊維技術と鉄道技術の粋を集めて生み出した奇跡の産物と言われているそれは、宇宙開発の飛躍的な拡大を推し進めた。
それは世界中の企業の宇宙参画。国家に属する宇宙機関に限られた新天地の開発を、資本と決定力を持つ資本主義が担う新たな時代の幕開け。
たった十年で、静止衛星軌道上に四十ものプラットフォームが展開され、月の開発はもちろん、月軌道には夢物語と言われた宇宙コロニーの建造まで始まる。そのための膨大な資源を得るため、火星開発計画まで企業主導で進む。
彼は、そんな宇宙時代に突き進む人類の、そんなほんのお零れで生計を立てている運送業者だった。
月軌道に別荘を作ったという酔狂な富豪の持つステーションに地上の絵画を運搬する。そんな首を傾げたくなるどうでもいい依頼。だが、金にはなる。
地上の宅配事業とは違い、宇宙宅配は業者側の言い値が幅を利かせている。参入業者が少ないうえに、依頼主に充分な知識が無いからだ。
そんな金持ちの隙を突いて金を掠め取る。彼はそういった地上では絶滅危惧種に近い、良心的ではない業者の一人だった。
「やっぱり中国製の燃料電池なんて買うんじゃなかった……」
こぼれるのは後悔の独り言。
彼の宇宙輸送機の機体その物は三菱重工製の小型機だが、前回の宇宙機検査登録の時、燃料電池の交換を勧められ、予算をケチって中国製に切り替えた。それが悪かったのか、二時間前に過電圧の報告があり、その二十分後には異常加熱、そして酸素流出が発生した。
慌てて燃料電池を止め、予備電源に切り替えたが、漏れ出した酸素で電気系統にショートしたのか、機体の主電源がダウン。航法装置、レーダーを失い、機内環境維持が停止。
挙句の果てには、酸素流出による機体の横転が始まった。おそらく今頃予定軌道を大きく逸れているだろう。
外資系金融機関を脱サラして、嫁の反対を押し切り宇宙免許を取得。莫大ともいえる借金でアメリカ宇宙軍の払下げ輸送機を買ったせいで家族には苦労をかけたが、最初の依頼で多額の利益を出したことで一定の理解を得られた。
そんな驕りがこの結果に繋がったのだろうか。
「せめてハイアールにしておけばよかった……」
ふと目についたEVA服の表示。酸素残量が十五パーセント。
頭が真っ白になった。なぜ、そんなに減ってるのか。
すぐに気付く。このEVA服の売りは何だったか。軽さだ。大きなバッテリーを持たないので軽いのだと。
それはつまり、生命維持用の酸素で発電して機能を保つからだ。体温を保つ機能のために酸素が消費されている。
「はあ?」
慌ててマニュアルを呼び出す。電力=酸素を消費するわけにはいかなかったが、それでもそんな欠陥品をつかまされた身としてはその原因を調べずにはいられない。
《この商品は、短時間船外活動用です。長時間での使用。災害、遭難発生時には宇宙安全規格適合品を使用してください》
「ふっざけるなよっ!アメリカ製なのにどうしてだよ!」
思わず喚き声を上げた。どうしようもない酸素の浪費だと分かっていても、抑えられなかった。
だが、その声は誰もいない無人のコクピット内に虚しく響くだけだった。
その冷たい響きに、いよいよ彼の背筋を冷たいものが這い寄って来た。
急に寒気が襲ってくる。EVA服の機能を停止したのではない。恐怖だ。今までなんとなく楽観していたもの、そのすべてが一瞬で覆された。
このままでは誰もいない、何も無い空間で朽ち果てるだけだ。
しかも、今は地球の影にいるからいいものの、これが太陽が出てきたらどうなるのだろう。免許取得の時に勉強したはずだ。遮るもののない宇宙では、日向の温度は二百度以上に達する。
断熱処理がされている輸送機だが、それも電気的な設備が機能していたからだった。大気圏突入機能を持たない輸送機は、電源が落ちた今、温度を正常に保つ保障は無い。
つまりは、この狭いコクピットで蒸し焼きにされてしまうのだ。
蒸し焼きか窒息。彼に残されたのは、たったそれだけ。
「もうだめだ……」
今度こそ、彼は諦めた。口に出してしまったその言葉は、重く響き渡り、彼の心に黒く覆い被さった。
「せめて、デブリに吹っ飛ばされたいな……」
大質量のデブリの軌道と交錯すれば、もしかしたら死の瞬間を感じずに済むかもしれない。
そんなに都合よくいくわけないか。
デブリは、アメリカ軍やEU、それに海上自衛隊が日夜片づけているという話だ。
「そういえば……、なんで海上自衛隊なんだろ?」
不意に浮かんだ疑問は、しかし、次の瞬間突如襲ってきた衝撃によって吹き飛ばされた。