典子という女
酸化してすっかり錆び付いた学校の門を出ると俺はイヤホンをつけ、周りの音を完全にシャットアウトした。
舌がうまく回っていないボーカルの叫び声が俺の脳を満たしていく。この一連の儀式を行う事により、俺の頭は学校モードから放課後モードに完全に移行されるのだ。
ああ、今日はなにをしようか。なにをしてやろうか。
読書、睡眠、ゲーセンにスロット。頭からやりたい事が次々と吹き出ていく。
でも一番の楽しみは……
周りをさりげなく確認しつつ、学ランの胸ポケットからラクダのロゴマークがついた箱を取り出す。
「やっぱキャメルが鉄板だろ」
箱の底を叩き、出てきた紙巻きを口に挟む。
コンビニのオイルライターに近づけ、それに火をつけた。
「ふいー」
廃ビルの裏路地。ここがいつもの喫煙スポットだ。同じ学校のやつはもちろん、人もそんなに通らない。絶好の場所なのだ。
先の赤くなった煙草を咥えつつ、ケータイをチェックする。
「あー、昨日途中でやめた台、やっぱキてたじゃねーかよ」
ケータイをチェック、と言っても学校に友達の少ない俺なのでもちろんメールはチェックしない。いつもはブックマークしているスロットの情報だけだ。
「にしても未成年喫煙でスロット通いって、本当に最悪だな……」
「自覚があって続けてるやつって一番やばいよねー」
俺の横合いから影が伸びる。黒く、腰まで伸びた髪をなびかせた女性。
「典子さん、びっくりさせないでくださいよ……」
「にしゃしゃしゃ」と煙草を咥える典子さん。「ま、あたしも小坊のころから吸ってるしねー」
「そっちの方がヤバいですよ。ってまだセッタなんか吸ってんですか?もう無理しちゃ駄目ですよ、年なんだから」
「あたしはまだ20だっつーの」ぽかっと頭を殴られる。
一本目を吸い終え、気がつけば空気は夏特有の匂いを醸し、空は茜色に染まろうとしていた。
「そういやバイト、どうだったんですか」
すると典子さんはその整った顔にしわをよせ、曇らせる。これはなにかあったんだろうな。
「君子危うきに近寄らず、ってとこかね」
「店長にクビにされたんですね」
するとますます眉間にしわをよせ、典子さんは微かにうなずいた。
「また、キレて殴っちゃったんですか?」二本目の煙草を咥える。
「違うの、今回は顔面じゃないのにクビにされたんだよ?おかしくね?」典子さんも煙草を手に取る。
二つの煙が茜色の空を白く包む。
「そりゃ顔でもキンタマでも店長殴ったらどこでもクビですよ!」
その後も典子さんとなんでもない会話をして、別れ際に典子さんが缶コーヒーを奢ってくれた。「貸しだからね」と言い残し彼女は廃ビルを後にした。
「そんな事言うけど、一回も迫ってきたことないんだよなあ」
大人の余裕というやつなのだろう。まだ彼女の手のひらで遊ばれている感じがする。
堂々と歩く彼女の背中はすらりとしていて、しかしどこか寂しげに見えた。
そんなとき、いつも思ってしまう。
自分が。彼女に空いた隙間を埋められないか、と。
自分が。彼女の隣にいられないか、と。
そのとき、思ってしまった。
今日も変わらず、俺はかなわない夢に胸を焦がしていた。