貴方に捧げる果実
流れゆく真紅は指先を伝い。そのしたたかな温かさを感じながら、想いは杯に注がれていく。
微笑は贈られるべき相手の反応を思い浮かべた故のほころびだった。自らの零落がそのまま想い人の糧となるのならば。それを考える度、背筋を、そして心臓を騒がせるものは歓喜。いや、快楽だったのかもしれない。けれどもそれは秘匿にされるべき感情で。わずかな仕草にさえ示唆を与えようものならば、たちまち露見してしまいそうな危うさを秘めているのだ。しかしそれすらも、二人の関係を楽しむ隠し味にしようという思いに至る。傲慢なのは自覚していた。自分の心はとっくに可笑しくなってしまっているのかも知れなかった。
それでも、私は――――。
出会いは感傷や幻想とは程遠いものだった。
自宅の裏庭に造り上げた果樹園は一人で管理するにはそろそろ大業になってきたほどの広さを誇っている。彼はその片隅で一本の枯れ木に背を預けていた。こけた頬と死を匂わせる表情は、近付くのを躊躇うのに十分な理由だったかもしれない。しかし、彼の背に有る木は枯れてはいなかったはずなのだ。つい昨日までは。ならば彼がその原因を施したのだろうか? 今考えると、答えはその通りだったのだけれど。そんなふうに疑いながらも迂闊に近寄る私に、彼はやさしく微笑んで見せたのだ。
「すいません。木を枯らせてしまいました。ああ、貴女もあまり近寄らない方が良いです。僕は今少々空腹でして、直接触れた生物から精気を吸い取ってしまうのですよ。そういう生き物なのです。ごめんなさい。出来れば新鮮な野菜や果物から採った果汁を一杯いただけないでしょうか? それでここから離れるくらいは出来ると思いますので」
優しい声だと思った。だから私は彼を家に招きいれるのにそれほど躊躇いなどは無かったのだ。
客に飲み物を出すのに、外の吹きさらしの中では申し訳ないという私の言葉を、彼は渋々了解した。用意した席に彼は身体をふらつかせながら着座する。手を貸そうという意見は先の理由で却下されたのだ。話を聞くと、彼はヴァンパイアの血を受け継いでいるのだと言う。血筋だという彼の母親にはそれらしい特徴はなかったのだが、自分にはなぜか色濃く受け継がれたのだと。
彼の、一度も人を襲いその血を飲んだことはないのだという言葉を、私は信じる事にした。しかしそのせいで、まともに動く事も出来なくなっているのなら、それは褒められた行為なのかどうか。私が判断するにはあまりにも知識が足りていない。
用意した果物の絞りたてのジュースを彼は一気に飲み干す。するとどうだろう。震えていた指は伸び、肌は色身を増し、こけた頬も元通り。新鮮な果物は彼にとって至高の飲み物だったのだ。そんな物を自分で作ることが出来たのだと理解した時、私の胸は今まで感じた事のない感情に震える。そして、よみがえった美しい容姿に微笑を浮かべる彼を見た時、それは別の感情までもを連れてきた。
「本当に良いのかい? 僕は化け物だし、君はここに一人で暮らしているんだろう?」
「ええ、だから良いんじゃない。家族が居たら貴方の事を説明するのが大変だわ。部屋は余ってるし、食費はかからない。それに、私の造った果物が貴方には必要なんでしょう? あ、果樹園の手入れを手伝ってもらえたら助かるわ」
よほど気に入ったのか彼の体質に合っていたのか、あの後彼は三杯のジュースを飲み干すと、満足そうに一息ついてそのまま倒れこむように眠りに落ちてしまったのだ。その手にしっかりとカップを握り締めたまま。その日はそのまま夜を明かしてもらい、次の日の朝、私は彼にここにしばらく留まらないかという提案を持ちかけたのだ。
説得は少々熱心が過ぎているようにも感じたが、気が弱いくせに頑固なところがある彼にはそのくらいが丁度良かったのだろう。少し考えた後に彼が口にした『ありがとう』の言葉は、今でも私の記憶の奥に刻まれたままになっている。
あれから幾日経っただろうか。新鮮な果物の力か、落ち着いて生活できているせいなのか。後これは私の希望的推測なのだが、誰かと、一緒に居るという安心感のおかげとか。
ともかく彼は見違えるほど元気になったし、果樹園の手入れなら私に劣らないほど上達した。けれどもそれが、今度は私に不安を与えてくる。即ち、元気になった彼に私は必要ないのではないか。この家から――私から離れていってしまうのではないか、と。
だから私はこの不安の解消にあたり一計を投じる事にした。これが成功すれば彼にとっての私は、より離れ難い存在になるはずなのだと信じて。
「はい、今日の分。濃縮したからちょっと飲みにくいかも知れないけど、ゆっくり飲んでね」
「ああ、いつもありがとう。へぇ、濃縮か、美味しそうな匂いだね」
心臓が跳ね上がったのは、彼の笑顔のせいではない。その独特の匂いが自分には相容れないものだったからだ。動揺は彼の目に止まっただろうか? だけど彼はそんな私の様子に気付いた様子も無くその杯に口をつける。少しくらい私の反応も気にして欲しいのにと思う事はわがままだとわかっていた。
杯に満たされていた赤い液体を彼はまず一口だけ含んだ。彼の喉が上下する。それだけの事が私をひどく興奮させた。頬が紅潮するのを抑えられているだろうか、肩は震えていないだろうか。何でもないのを装う事にこれほどの注意を払ったのは、はじめての経験だった。側に居るだけでこんなにもたくさんの新しい感情が芽生えてしまう。その相手が彼のような人だった事を、私はこれ以上無い幸運に思うのだ。
「うん、とっても美味しいよ! 何だろうすごく力が湧いてくる気がする」
「本当? 良かった。そう言ってもらえると私も嬉しいわ。ありがとう」
微笑見つめ合う二人。ほのかに甘く切ない空気が流れる。互いに想い合っているからこその沈黙。そう信じたかった。傍から見ればそうとしか見えないだろう。だがその片方は自分の出自ゆえ、そしてもう片方は、相手を裏切っているかもしれない行為のため、沈黙は続く。
「うん。美味しいよ、とても……」
「そう……」
そして言葉は繰り返される。後に続く事はない。
特別に作った私のジュースを彼はまた口へと運ぶ。その液体を口にしても、彼に思った程の変化は無かった。それが良かった事なのか悪かった事なのか、今はまだわからない。
だから今は、この瞬間を楽しもう。
いつか訪れるはずの変化の日のために。
THE END