パラサイト
パ ラ サ イ ト
第一章
青 年
今日も、あの青年はやって来た。
今朝もまた、BGMにはあのグリーグの「朝」が流れている。
私は、いつものように「いらっしゃいませー。おはようございまーす!」と明るく言ってぺこりとおじぎをした。
私はむりやりつくろっているわけではないけれど、生まれつきなのか傍から見ると、そもそも顔の造作が明るくできているらしい。まわりのみんなが、おまえの顔を見ていると何だか、ほんわかしてくるという。
それと、BGMの「朝」がマッチして、今日もやるぞ!という気持ちになるんだって、お客様も言ってくださる。
私はローカルなコンビニでバイトをしている。
私の勤めているコンビニのオーナーは、サービス業に対してかたくななほどのポリシーを持っているガンコ者だ。単に、商品を売るだけではダメなんだって。お客様に「ああ、この店に来て、本当に良かった、また行こう。」と思ってもらえることが、商人としての最高の誇りなんだという。
うちの店では毎日、朝六時からNHKラジオの第一を店内外に流している。ちょっと変わっているけど、これで直近の天気予報とニュースと、時事問題の大まかなところはクリアできる。それは、お客様にさりげなく聞いていただくことももちろんそうなんだけれど、私たち従業員に対しての教育でもあるようだ。
そしてその時間帯の六時半には、ご存知のとおり十分間のラジオ体操が入る。うちのお店の駐車場は広いので、実際に作業服を着た労働者の方で、毎日体操をやっている人もいる。この十分間で、きっと身体と気持ちを眠気モードから労働モードに切替えているのだろう。
たぶんあれで本当に事故だって減っているのかも知れない。そんな人たちは本当にさわやかな顔をして出かけてくれる。私たちも心うきうきしてくる。
ある時、オーナーが言った。
「ラジオ体操は昭和三年に始まったってことだけど、体操の前に流されるラジオ体操のあの歌、アレ、誰が作ったのか知ってるか?」
そんなことって、普通だれも考えやしないことじゃないの?と私は思った。
うちのオーナーはちょっと変わっていて、時々とんでもない話題を持ち出すので、面食らうこともしばしばだけど、それが時におもしろい。
「そんなこと、考えたこともないですよ。社長、そんなことって普通、誰も考えてないんじゃないですか?君が代の二番とか、蛍の光の三番とかも考えことないし…。」
私は、正直に言った。
「そりゃそうだ。君はおもしろい表現するね。そうだな普通、そんなことはきっと誰も考えやしないな。だから一度、聞くと絶対忘れないよ。あの歌は、昭和の国民的歌手、国民栄誉賞のあの藤山一郎が作曲したんだよ。」
へー、あの歌は、藤山一郎が作ったのか。なんかすごいミスマッチな気がする。でもなるほど、これなら私でもきっと忘れることはないと思う…。ただ、私はそもそも藤山一郎という人がとてもエライ歌手だったということは薄々知っているけれど、どういう歌をうたった人なのかは皆目知らない。
それにしても、うちのオーナーは相変わらずおもしろいことを考える人だ。 そして、ついでに付け加えた。
「さっきの続きだけど、君が代の二番も、蛍の光の三番四番も本当はあるんだよ。ただ何かの事情でお上が教科書とかには載せてないだけなんだ。」
「あのー、その、おかみってなんですか?」
「そうさな…。文部省…、国家、そう国のことだな…。」
「そんなら、どうして国は、君が代の二番や、蛍の光の三番四番があるのに教えないんです?なんていうか、禁止用語なんてのでも入ってるんですか?」
そんな話、初めて聞いたことなので、私は思わず目が丸くなった。
「そんなわけでもないけど、まあ、どっちかといえば、いろいろまずいんだろうなー、きっと。カベのようなモノがあって、まあ内憂外患てな、とこかな。」
「ナイユウガイカン?」
「そうよな…。その歌詞で歌われている内容は、本当は大事なことなのに、日本という国は悪い国なんだと信仰のように思い込んでいるエライ人たちが、わざわざそれを火種にして、その火の粉を国内外に撒き散らして、世界中を大騒ぎさせてしまうことさ。」
「何で、おごそかなはずの歌がそんなことになっちゃうんですか?社長は、その歌詞、知ってます?」
世の中には変な話があるものだなと思って、私はまた聞いた。
「ああ、知っているよ。」
「どんな内容なんです?そのー…、きわどいんですか?」
「いや、なに本来の、日本のいしずえをうたったあたりまえの内容さ。普通に考えれば、ごく普通の話さ。ただ、そのごく普通の話がふつうでなくなっちまってるから、今の日本はおかしいんだよな。だから本当はその歌詞の意味を子供たちに教え続けなきゃいけないとオレは思っているんだけどね。」
「ふーん…」
「そもそも日本は国旗や国歌のとらえかたが変だと思うんだ。戦争のトラウマから日ごろ粗末にしていながら、日の丸がオリンピックで揚がると、日本人て国中で大騒ぎするだろ?」
「でも、やっぱり日の丸が揚がるとうれしいですよ。自分とはまったく関係のない人だけど、なんかウキウキしちゃって。それが、銀や銅だと、それは本当はすごいことなのに妙にくやしくってさ…。そんでもって、それ以上にみじめなのが四位の選手。世界で四番目って、本当はすごいことなのに、メダルに届かない分、なんか、後ろ指さされているみたいで、とてもかわいそうな感じ…。」
「そうだろ?そしてその一番すごい金メダルの時、バックには君が代が流されているんだけど、その金メダルを取った当の日本の選手はその国歌をうたってないんだな。日の丸を見つめてただ聞いてるだけ。あれって、変だと思わないか。」
「…?」
「表彰式を見てみな。どんな小さな国だって、またどんなに紛争のある国だって、金メダルをとった選手ってのは、自分と祖国に誇りがあるから、国旗を仰いで、国歌を歌ってるんだ。画面では声は聞こえないけど、目と口を見ればわかる。絶対歌ってる。偉業をなしとげた自分とその名誉を与えてくれた祖国に、あの選手たちは、オレたちには思いもよばぬほどの誇りを持っているんだ。その点、外国から見たら日本てのは何とも不思議な国に見えるだろうな…。」
「そうですね。日本の選手って、そういえば歌ってないかも…。」
「金メダルって、とてつもない偉業なんだよ。日本の選手もそんな偉業を果たした自分自身と、日の丸と君が代にもっと誇りを持っていいんじゃないかな。日の丸と君が代は、日本の国そのものだからね。決まり文句のように、単に優等生的に、応援して戴いた国民の皆さんのおかげさまで、っていうだけじゃなくってさ。それには、日頃から日本中の人たちが、日の丸と君が代に愛着を持ってもっと大事にしなくちゃーな…。」
またオーナーの日本国家論が始まったので、私はそうっとその場を抜け出すことにした。
「社長、私、さっき言われたアレ、取りに行って来まーす…」
ところで、お店では体操が終わるとラジオは切られ、こんどは決まってあの有名なグリーグの「朝」が流されることになっている。
あの曲を聞くと、本当にこっちも何か、気象上の天候とは別に、気持ちが晴れ晴れしてくるので不思議だ。お客さんたちだけでなく、従業員も同じなのである。本当にうちのオーナーの心理操作には舌を巻く。「朝」がひと通り流れ終わると、朝の「教育番組」は一応それで終了する。
次は、正午からの一時間だ。やはりNHKの第一が流される。今度はニュースと「昼のいこい」と、歌謡曲の組合せだ。この時間帯は、ある程度以上の年齢の人向けのようでもある。
ことに「昼のいこい」というのは、お化け番組で昭和二七年から約半世紀に渡って、全国津々浦々のローカル情報を、全国ネットで、あの古関裕而という音楽の神様のような人が作ったテーマ曲とともに流しているのだという。
全国各地の「農林水産通信員」という人たちからのレポートと聴取者からの「おたよりコーナー」のバックに流される間奏曲も同じく古関裕而作曲なんだって、オーナーが言っていた。人によっては、この数分間に流されるこれらの曲を聞いただけで、一瞬にして数十年前の自分にタイムスリップできるというから、かなり不思議な力を持っているらしい。
もっとも、私にはとてもその感覚が理解できない。ああ、またあのセピア色の曲が流れているな、という程度のものである。しかし、これもお客様には極めて評判がいい。
昼の放送は一時までと決まっている。
そして夜のパターンはとなると、ガラリ様相が変わる。
今度は、十一時から翌朝の六時までの間、音量をかすかにヒトの耳にかすめる程度にまで抑えて、軽クラシックを店内に流し続けるのである。
ドボルザークの「家路」、シューマンの「トロイメライ」、バッハの「G線上のアリア」、ベートーベンの「月光の曲」、ドビュッシーの「月の光」、シューベルトの「アベマリア」、マスネの「タイスの瞑想曲」、バダシェフスカの「乙女の祈り」、「ブラームスの子守歌」、ショパンの「別れの曲」、そして例の朝でおなじみのグリーグの「ソルヴェーグの歌」などなどである。
もっとも私にはこんなむつかしい曲の判別はとてもできない。わかるのは、子供の頃にオルゴールで聞いた「乙女の祈り」とか、「ブラームスの子守歌」くらいかな。でも、オーナーの思い入れはすごい。これらの曲名を作者とともに次から次へとあげて、解説を加えるのである。きっとこの人は、どこかで進む道をまちがえてしまったのだろう。
オーナーは言う、こむつかしいことは考えなくていい。要はこれらの名曲は、人々の気持ちをやわらげる「いやし」の泉なのだから、ただ何気なくでいいから、ひたすら聞き流していなさい、との結論に落ち着く。
仕事で疲れての帰り道、お客様がうちのお店に寄って下さったときに、ホッと一息ついてくれたり、夜勤で出勤する方が少しでもなごやかな気分でお出かけできるような雰囲気をかもしだすお手伝いができれば、それでいいのだという。極端な話、トイレを利用されるだけのお客様に対しても、そのおすそ分けができればそれでいいんだという。
これらの名曲は、おなかの赤ちゃんに対しての、なんていうか「胎教」ってのにも良いはずだ、というのがうちのオーナーの持論である。
私は博学なオーナーのことを尊敬しているけれど、おなかの赤ちゃんにそんなことがわかるもんかと、その説だけは懐疑的に聞いている。でも、従業員である私たちの気持ちも、夜勤で疲れているときでも確かになごむような気がするので、そんな音楽を聞けばギスギスした気持ちが少しでもほぐれて、本当に犯罪だって減るのかも知れない。
ただ、押しつけでは逆効果になるといって、音量はごくごくしぼってあるんだけれど。
今朝もグリーグの「朝」が流れ出したとき、その青年がレジに持ってきたカゴには、いつものように種類の違う六つのおにぎりと、サラダのパック一つと、五百ミリリットルのペットボトルのお茶が二本入っていた。
この青年の朝のこのパターンは毎日同じである。
最初はずいぶんと食べる人だなあと思った。身体はがっしりしていて、腕や指も太く、プロレスラーを小型にしたような体型をしている。きっと身体がそれだけのエネルギーを要求しているのだろう。
なのに、その体型の上にちょこなんと丸い童顔がアンバランスに乗っかっているのが、こっけいというか、何となく可愛い。
普通の人は、コンビニで買い物をするとき、挨拶などめったにしないものだけれど、この青年だけは、私たちの「営業用挨拶」に対しても、聞こえるか聞こえないか程度にボソッと「おはようございます」と挨拶を返してくれる。
お客さんに挨拶をしてもらうというのは、いくら商売とはいえ、こっちだって気持ちがいいもんだ。
そんな毎日がくり返されるうち、あるとき私はその青年本人を前にして、思わずクスリと笑ってしまった。
当人は「ン?」と、子供がしてはいけないことを思わずしてしまって、母親にとがめられるときのようなきょとんとした顔を私の方に向けた。私は、
「ええ、ごめんなさい…。お客さまがいつも同じ時間に、決まって同じ品物をお買いになるので、つい何だかおかしくなって笑ってしまいました。ごめんなさい…。」
と、右手の甲を口元にちょっと当てながら謝ると、
「ああ、そうですか…。」
とだけ言って、青年は無表情に代金を払って店のドアの方に向かった。そのとき私は思わず「行ってらっしゃーい!」と声をかけた。
すると青年はちょっと立ち止まって、はすに振り返ると、はにかむように微笑んだ。
改めて歩き出して、ドアを出るときの彼の背中は、かすかながらはずんでいるように見えた。
再 会
私は、半年ほどして突然その店をやめた。
その青年には何も言わなかった。もっとも、その青年も、単に不特定多数のお店のお客さまの一人に過ぎないので、私情を伝えるべきいわれはないと思った。私は、ある建材会社に正式に勤めることになった。業務内容はといえば、経理と電話当番と窓口担当である。
このようにいえば体裁は良いけれど、会社とは言っても個人営業にちょっと色が付いた程度のお店だから、早い話が、私の仕事は力仕事以外のすべての雑用係といったところである。採用されたばかりなのに経理を任されたのは意外だったけれど、一応商業高校を出ているので、そこを買ってくれたのだろう。
数ヶ月がたち、夕方窓口を閉めようとしたとき、意外な人と出会った。
「ごめんくださーい!」
「はーい!」
「アレー?」
「アラー?」
「こんなとこにいたの?あのコンビニで見かけなくなったからどうしたのかと思ってた…。」
お客さんとして閉店まぎわにやって来たのは、例のコンビニの青年だった。
「コンビニはバイトだったしね。この会社で正規に採用してくれるというので、雇ってもらったの。」
「そう、良かったね。」
「ところで、何のご用かしら?お客さんでしょ?」
「うん。親方…、ああ社長に頼まれて、帰りのついでに注文の伝票を届けに来たんだ。オレ、大工の親方のところで働いている。半人前の大工さ。」
「どうもありがとうございます。書類の方は、こちらに頂戴いたします。毎度ありがとうございます。
どうりで、すごい体格をしていると思った。ごはんいっぱい食べるようだしさ…。大工さんなの。毎日力仕事でたいへんなんでしょうね。」
「そんなことないよ。汗かけば給料もらえるんだし。どうせ、オレ、頭悪いから身体使うことぐらいしかできないから…。」
「そんなことないわよ。お家を作るなんて素晴らしいことじゃない。ずーっと、残るもんだしね。素晴らしいわよ。」
「…店閉める時にお邪魔しちゃってごめん。オレ、用事済んだからこれで帰るよ…。でも、今度会社に電話してもいい?同じ業界同士だしさ。」
「ウン、ぜひ頂戴!」
海
半月ほどして、その青年から会社に電話があった。
今度の日曜日に会う約束をした。
約束どおり会社の駐車場の前で待っていると、彼は定刻よりも十五分も早く迎えに来てくれた。もっとも私は、それよりも更に十五分も前から待っていたのだった。
彼は、いつもの作業服姿とは違い、ジーンズの上下で決めたごく普通の若者だった。しかし何よりも衝撃的だったのは、迎えに来てくれたその車のことだった。
朴訥そうな彼のことだから、外車とか、スポーツカーとかは期待していなかったけれど、年式は古くてもせめて国産の2000CCクラスの乗用車で来てくれるものとばかり思っていた。
ところが、彼の乗って来たのは、いつも仕事で使っているであろうと思われる大分くたびれた軽トラックだった。私は唖然とするよりも思わず吹き出してしまった。
「ゴメーン。待った?」
彼は、その点にはまったく悪びれるふうでもなく、私を待たせてしまったのではないかということのみに気兼ねして、その車から降りてきた。
「ウウン。私もちょうど今来たところ…。」
「そう、良かった。」
と言って彼は晴れ晴れとした顔になった。
私は、胸のうちで、これはデートのつもりなのだろうが、いったいこの青年はこれから私をどこに連れて行こうとしているのだろうかと思った。期待と冷淡さとが半ば交錯しながらも、気持の上ではかすかに期待の方がまさっていた。
車に同乗すると、いつもの彼らしく無口だった。言葉はほとんど発せず、感度の悪いカーラジオからは、ニッポン放送が流れていた。しかし、さりげなく彼の横顔をうかがうと、今にも口笛を吹き出しそうなくらいに心が弾んでいるような様子が垣間見えた。
着いたところは海岸だった。真っ青な空に、ところどころ白い雲が浮かび、海は駘蕩と拡がっていた。
風は頬をなでる程度の微風だった。太陽がやわらかく輝いていた。水面は休むことなく、キラキラと小刻みに輝き、その光に私は目を細めた。微風とはいえ、それでも海は独特の心地良い波音を定期的に繰り返していた。
以前勤めていたコンビニのオーナーにすれば、きっとこの音も「胎教」にいいと言うに違いないと思ったりもした。海面には時折、名も知らぬ小さな魚が飛び跳ねるのが見えた。私はそんな光景を見たのは初めてだったけれど、魚が飛び跳ねるのは、求愛の表現だとかいうのを、誰かが言っていたことを思い出した。小魚たちでさえ、そのように気持ちが弾んでしまいそうな陽気ともいえた。
それにしても彼は相変わらず無口だった。砂浜を二人して何をどうするでもなく、ただ靴を砂にめりこませながらしばらく歩いた。砂のきしみが聞こえるような気がした。
どちらからともなく立ち止まり、靴を脱いで逆さにすると乾いた砂が、サーッとこぼれ落ちた。そして額には、汗がじわーっとにじみ始めてきた。
ちょうどそのとき、彼が言った。
「少し、休もうか?」
太陽はすでに南中近かった。のどもかわいたし、おなかも減っていた。
「うん…。」
水際から離れ、松林が見える方角に足を向けると、海岸から砂浜を過ぎた辺りに草叢が見えた。
二人してそこに腰を降ろした。
中途半端な季節で私たち二人以外、他には誰もいなかった。彼は、背負っていたリュックを降ろして、中から何やらゴソゴソと取り出した。
「腹減っただろう。食べよう。」
と、出したのは何と、彼と私にはおなじみのコンビニのレジ袋だった。その中には、おにぎりが十個、サラダが二パック、お茶のペットボトルが二本入っていた。
私はその場面で、また吹き出してしまった。魔法?のリュックから取り出されたモノは以前、私が勤めていた店で彼が毎朝買い求めていた品物と全く同じだった。ただ今日は私がいる分だけその数が多かった。
それにしてもおにぎり十個とは、法外に多いと思った。しかし、それは彼なりのサービスに違いない。
初デートに海辺でコンビニのおにぎりもないものだと思ったけれど、それらを口にしてみて、そのときののどの渇きと空腹感から、私はこれほど美味しい食べ物には、いまだかつて出くわしたことがないような気がした。私には三つのおにぎりが精一杯だったけれど、彼は食い過ぎかなーといって、残りの七個のおにぎり全部を平らげながらも涼しい顔をしていた。
二人は空腹を満たして落ち着いた。彼は、両手を頭の後ろに組み、ところどころ砂が見えている草叢の上に、仰向けに寝た。
私は、腰を降ろしたまま両膝を抱えるようにして、海を見つめながら、時に彼のしぐさを観察するように、盗み見した。彼は鷹揚に、しばらくずっと遠くの空をまばたきもしないのではないかと思うくらいに放心したように見つめていた。
何か、安堵感があるような横顔だった。
そして、そんな彼が急に話を始めた。顔は依然として空に向けたままで、私の方を見ることはしなかった。
「オレたち今こうしていて何だけど、前から知っているつもりになっちゃっているからそんな気がすんだけど、お互い名前はまだ知らなかったよね。オレ、名前は尾野晃。」
話し方が幼稚っぽく思えた。
「遅くなってゴメーン。私は小嶋明子。」
「アキラの字は『因幡晃』のアキラ。因幡晃って歌手知ってる?」
「ウウン。知らない…。」
「『わかってください』って歌知らないかな?『あなたの愛した人の名前は、あの日と共に忘れたでしょう…これから寒い秋です。時折手紙を書きます。涙で文字がにじんでいたなら、わかってください』って歌?あれって、女の側からうたった歌詞なんだよな。」
「その歌なら聞いたことある…」
「オレ、パチンコもタバコもやらないし、あまり酒も自分から進んで飲む方じゃない。だから、カラオケもたまにしか行かないけど、数少ないレパートリーがこの歌。なんか、この歌手の名前に親しみがあってさ…。」
「じゃー、歌うまいんじゃない。あの歌って結構むずかしいでしょ?」
「いや…。たいてい音と歌詞がずれていると言われる。だからって別に、オレの名前と因幡晃は何も関係ないんだけどね、オレの親父ってのが、芸能界の話など全く無縁な無粋な男なんだけど、唯一ファンだったのが、宝塚出身の上月晃っていう女優だったんだって。趣味でその名前をかってにもらって付けたらしいけど、読み方が難しいし、男だからアキラにしたんだって言っていた。オレにとっては別段ありがたくも何ともないんだけれど、そんなふうに名前がつけられたらしい…。」
「へー…。それなりにアカデミックじゃない。私なんかただ、明るい子に育ってほしいっていうだけで名前がつけられたらしいよ。一度、高校のとき、社会の日本史の先生だったか、おまえの名前は、『平塚雷鳥』っていうエライ女の人の本名と同じだから、誇りと自信を持って、名前を粗末にするんじゃないぞ、と言われたことがある。ただその人の場合は『明子』って読むらしいんだけどね…。」
でも不思議だね、二人ともアキだねって言って、私はクスリと笑った。
「そうか。なんか、そっちの方がありがたみがありそうな気がするな…。オレ、中学時代はサッカーだけやっていた。ただ不器用なのと、人を蹴落としてまで選手になってやろうってのが苦手で、とうとうレギュラーにはなれなかった。三年になっても後輩にレギュラーはとられちまった。そんでも好きだからずっとやっていた。その代わり勉強は全然ダメ。
先生には行く高校がないと完全に見放されちまった。そんでも、いいあんばいに地域では最低だけど、とりあえず公立学校に引っかかったから、そこへ行った。でも行ってみるとみんな落ちこぼれの同類ばっかしだった。勉強はチンプンカンプンだし、早速、一年生の夏休みには、悪仲間と暴走族のまね事を始めた。当然免許は持っていなかったし、大きなバイクもなかったから、その辺でゼロ半のミニバイクを見つけて来て、夜になると繰り出していた。車は小さいし、かわいいもんだったよ。
ブルーンブンブン、ブルーンブンブン、パラララ、パラララ、パフパフってやつ…。そんでもエンジンが小さいからスピードは出ないし、走るときの音は、精一杯でウィーン、ウィーンだもんね。別にそれが特に楽しかったってわけでもないけど、夏休みの過ごし方がわからないし、やることもないから、そんなワルと付き合って過ごしていた。」
私は、この子…、失礼、この青年がこんなことを話し出すとは思いもしなかった。彼は続けた。
「当然、まわりからは色メガネで見られるし、警察のお世話にもなった。暴走行為よりも何よりも、そもそも免許証を持ってないんだから、はじめからケンカになんねーよな。親は、警察に呼び出されるやら、学校から呼び出されるやらで、ずいぶん困ったらしい。オレの親は警察とか、先生とかは、端っからエライ人でコワイ人だと思っているから、ただペコペコするだけだった…。」
無口だと思っていた青年は、時々どもりながらもそのときはかなり饒舌だった。腹の中にたまっていたものを、私に対してすべて吐き出してしまいたいとでも思っているかのような様子が見えた。
たぶんこの人は、これまでの人生でそのような対象の人間に出会ったことがなかったのだろうと、私は自分なりに解釈した。
しばらくして私も彼の隣に、両手を頭の後ろに組んで仰向けになった。眼をつぶると閉じたまぶたに流れる血潮の赤さが感じられ、改めて生きていることを実感した。そして彼の話は更に続いた。
「結局、オレは二学期は一日も登校することなく、退学しちまった。親は嘆いたけどどうにもしょうがなかった。学校をやめて、しばらく何もしないでブラブラしていたら、能天気な親もさすがに覚悟を決めたらしかった。オレの意志など無関係に、親父の知り合いの大工の棟梁のところへ預けられることになっちまった。
預けられたと言っても自宅からの通いだけど。親父はたたき上げの建具職人だから、いくらかでもその血を引いているのなら、いくらバカ息子でも他の仕事よりかそっちの方が少しでもいいと思って、そうしたんだろう。それが今勤めている建築屋で、社長がその親方さ。親方は、大工に学歴はいらない。英語は、ONとOFFがわかればいいと笑って言ってくれた。要するに機械のスイッチの入れ方がわかればいいってことさ。あとは、やる気と体力だって。でも、オレにはこれが一番難しそうに思えるんだけどな…。」
彼はそう言って、ちょっとはにかんだような微笑みを私に向けた。
「うちの親方の腕はいいよ。きっとこの辺じゃ一番だろうな。代々の宮大工だから、普通の家はもちろん、神社やお寺も造るし、神輿や山車だってできる。この辺界隈には、親方のご先祖様が造ったといわれる神輿や山車がいっぱい残されているよ。ああいうのには、必ず「銘」が刻まれているから、解体すれば誰の作かすぐにわかるんだ。親方は、時々百年以上も前に造られたものの修理を頼まれることがあるんだけど、分解したらご先祖様の名前がいくつも出てきたらしいよ。」
彼は、自分のことでもないのに、しかも成り行きで預けられてしまったに過ぎない親方のことを自慢げに話した。
「私だって、これでも一応この業界の一員だから、お宅の社長のすごいってことは、噂で知っているわよ。」
彼の話は、やむことなく続いた。
「うちの親方は遺す作品もすごいけど、その仕事量が半端じゃない。まず他人の二倍は働くし、いつも考えて勉強もしている。その分、オレたち弟子なんか、格好良くいえば従業員だけどさ、オレたちの仕事もハードだよ。オレのほかにも若いのが、親方の息子さんや甥っこや、親方の噂を聞いて遠くから飛び込んで来たのやら、いろいろいるんだけど、たたき上げの建築屋でこんなに活気のあるとこなんて今時ないよ。世間では、あの親方のところで勤まればどこへ行っても勤まるって、時には皮肉のまじりのほめ言葉をもらったりもする。
実際オレなんか、仕事でケガをしたことを幸いにして、やめちまおうかと思ったことが、二度三度あったけどさ。そのたんびに、親父と親方に丸め込まれて戻されちまった。おかげで、仕事ではよそではできない技術をいっぱい覚えさせてもらったりもしたけどね。でもねこれも、専務をやっているおかみさんの裏方の力が大きいよ。経理はもとより、保険関係から何から何までやって、オレたちに対する気配りも細かいしね。オレがケガで休んだときだって、すぐ労災の手続をとってくれて、ただ自分が痛い思いをしただけで、なんにも困らなかったもんな。夫婦そろってすごい人たちだよ、まったく…。」
今の自分の仕事の状況をひと通り話し切ってしまうと、彼はむっくり起き上がった。私もあわせて起き上がった。
陽はいくらか傾き、影が少し長くなり始めていたが、相変わらず穏やかな日で、波音は相変わらず同じリズムの無限運動を繰り返していた。
海面は、やや傾きかけた太陽の光を受けながら、来たときとは趣を異にした柔らかな、きらめきを放っているように見えた。
「晃君て、素晴らしいところで、とってもやりがいのある仕事をしてるのね。」
私は、彼のことを初めて晃君と親しみを込めて呼んだ。
「いつだか、自分のことを半人前の大工なんて言ってたけど、それだけ修行してるんだもの、もう普通のところだったら一人前以上の腕なんでしょ。さっき、高校中退なんてちょっと愚痴っぽく聞こえたけど、建築屋さんは実力勝負よ。きっと腕のいい大工さんになると思うな、私…」
「ありがとう。オレ、不器用で頭も悪いし、今までずっとけなされることには慣れているけど、ほめられたことがないからくすぐったいな…。迷惑じゃなかったら、また会ってくれる?」
「ええ、いいわよ。休みの日は買い物に行くくらいで、たいてい大した用はないから…。」
「船、大丈夫?」
「え?何のこと?」
「酔わないか?ってこと。」
「フェリーなんかだったら平気だけど…。」
「つりやったことある?今度つりに連れて行ってあげる。船釣りに行こう。」
「…船でつりは、ちょっと。ずっとまえ、一度小舟でイイダコつりに連れて行ってもらったことがあるんだけど、それだけで酔っちゃって、懲りちゃった。」
「そうか。それじゃ困るな。でもつりはいい?」
「私、つりって、そのイイダコつりしかやったことないけど、船の上じゃなかったらおもしろそうだから連れて行ってくれる?」
「じゃ、決めた。次はつりだ。それを楽しみにして、今日はこれで帰る。いい?」
「うん。」
晃は、次のデートを一人で提案して一人で決めて、ご機嫌な様子で、私を会社の前まで送ってくれた。私は彼に自宅までは教えなかった。
「また、電話ちょうだいね。」
「うん、またする。今日はありがとう。」
晃は手を振りながら、あいさつ代わりにクラクションを鳴らして去って行った。
つ り
すぐにでも電話をよこしそうな口ぶりで別れたにもかかわらず、晃からそのまま連絡はなかった。私は、今までどおりの単調な日々を過ごした。別段期待していたわけではないけれど、こっちがペースを合わせてあげてやったのに、何やらからかわれたような気がして、少し腹が立って来た。
日に日に不快感が増して来た頃に、何のくったくもない明るい声で、晃から電話があった。今度の日曜は空いているかという。私は、都合がつかないからと理由をつけて、あまのじゃくをしてやろうかと構えてみたけど、彼は今度の日曜は時期がいい上に、週間天気予報もまずまずだからその日がねらい目だというのだ。
この設定は彼が彼なりに考えた末の計画なのだろう。実際のところ、何の予定があるでもなし、またひまつぶしにつき合ってやることにした。
少しじらした上でOKの返事を出すと、晃の喜ぶ様子が私には手にとるように分かった。
晃は私に、当日は何の仕度もいらないが、よごれても濡れてもいい格好で、フタつきの発泡スチロールの入れ物に、ペットボトルに水を入れて凍らせ、その中に入れて持って来いという。
今度は朝が早い。会社の前で六時に待ち合わせた。
彼は例の軽トラックで私を迎えに来た。その日は前回のような、はにかんだ様子は全くなく、自信に満ちた輝いた目をしていた。
私がこの前「船釣り」を敬遠したので、彼は、漁業組合の船で、近くのほんの小さな離島に連れて行ってくれることを企画してくれたらしかった。船客は当然、不特定多数の相乗りである。幼い親子連れを除けば、成人女性は私だけだった。
おかげで目立ってしまい、周囲からはものめずらしげな奇異と好意の目をもって迎えられた。
しかも、やさしい彼は、船に乗る前から、飛行機に乗るときに客室乗務員が説明してくれる救命胴衣に似た鮮やかなオレンジ色のスポンジの入ったベストのようなものを着せてくれ、しかも日除けにと大きな麦わら帽子をかぶせてくれたから、いやがおうでも目だってしまった。
麦わら帽は、少し汗臭かったけれど、彼の思いやりに免じて感謝した。船頭さんからは、「お姉ちゃん、彼氏とつりかい?いいねー。大物をつりなよ。」と激励の言葉をもらった。そのときの大物という言葉が何やら意味深長に聞こえた。
船は、ほんの近くの小島だから酔うまもなく着いた。同乗していた大勢の釣り人たちは、三々五々別れた。数時間後に漁組(漁業組合のこと)の船頭さんが迎えに来てくれるまでは、皆自由行動である。それぞれが思い思いの場所に散った。
彼は、この辺でいいだろうとデコボコの岩場に陣取った。現場に着いて、初めて発泡スチロールの入れ物とペットボトルの氷の意味がわかった。それは、獲物を入れておくためのクーラーボックスだったのである。
私には道具の良し悪しはわからないけれど、晃はリール式の見るからに立派な釣竿を持っていた。
そして私には、1メートルほどの細長い筒状の竿の中に、ラジオのなどのアンテナのように段々に伸びる仕掛けが入っている素人向けの竿をあてがってくれた。延ばすと四、五メートルにはなっただろう。
何もわからないので、私は彼のいうがままに従ったけれど、その日の獲物はアイナメという魚だった。と、言っても実は私は何もわからない。聞いたところでは、その魚は岩場の海岸の底の方にいて、動くモノに敏感に反応するらしく、エサはイソメというものがいいそうだ。
これも晃が用意してくれた。エサが生きていたのには、ちょっとびっくりした。グニョグニョ動く柔らかなムカデのような代物である。私はミミズとかこのような生き物は苦手だ。そもそも魚そのものでさえ苦手である。お刺身とか、スーパーで売られているパックに入っている切り身なら食べられるけど、丸のままの魚はいまだかつてさばいたことがない。
アイナメをつるにはただイソメをエサにするだけではなく、ブラクリというつり針に赤いおもりのついたような仕掛けを使うのだそうだ。
もちろんこれも晃が用意してくれた。早い話がアイナメという魚は、動く生きた赤いものを好むらしい。
エサも最初は彼がつけてくれた。かわいそうにイソメは、四、五センチにちぎられて、つり針につけられ、半分はブラブラしていた。不思議なことにちぎられてもイソメはまだ動いていた。
人間にも上等なものと下等なものとがいるけれど、イソメという下等動物の生命力には、妙に感心してしまった。
何はともあれ、私にとって生まれてはじめての魚つりが始まった。周囲を見渡すと、海に真剣勝負をいどんでいる求道者のような人や、現地に到着するや否や、まずおやつを広げ、ひと息入れる親子連れやらさまざまだった。先方にすれば、こっちの方がもっと奇妙なペアに見えたかも知れない。
さすが、つりが唯一の趣味という晃はさっそく一匹目を釣り上げた。二十センチほどのものだった。黒くて奇妙な魚だった。
私は魚といえば、子供が絵にかくようないかにもサカナというものを想像していたから、かってが違った。ただ、食べればかなり美味しいという。
そのうち、私の釣竿も重くなった。これか、いよいよ来たなと思ったがいかにも重い。竿を右へ振っても左へ振っても動かない。
どうやら、私は地球をつったらしかった。晃が笑いながら、引っ掛かりをはずしてくれ、エサも付け替えてくれた。
それからまもなくだった。また竿が重くなり、今度も地球かと思ったら、竿はしないながら空に向けて大きく舞い上がった。そしてその先には、さっきの晃の獲物に負けないくらい大きなアイナメがぶら下がっていた。
その重みと竿のしない具合は、どう表現したらいいかわからないほどの快感だった。きっとこの快感が、「つり師」を魅了するのだろうと勝手な解釈をしたりした。
ところで、ここでまた私は困ったことに出くわした。せっかくつり上げたのはいいけれど、どうやってつり針からこの獲物をはずしていいのか分からない。魚だって必死だ。つり上げられてもピチピチ跳ねている。こっちがビクビクして触ろうとすると、なお跳ねる。そのはねた水が、私のほっぺたにひっついた。
私は思わず手の甲でぬぐったけれど、いつまでもその生臭さが残っているような感じで、しばらく閉口した。
獲物はなかなかつり針からはずれなかった。晃が笑いながら、金属製の耳かきのような道具を使って、魚の口の中をクルリと回してはずしてくれた。
私のようなど素人に引っかかってしまった不運な魚は、針を奥まで飲み込んでしまっていたらしかった。
晃が今度は自分でエサをつけてみろと言った。
もう私は身体全体が生臭くなっているような気がして、半ばヤケクソで覚悟を決め、自分でエサを付けてみることにした。
「ア、痛!」
私が、大きな声を上げると、晃がのぞきこんだ。
「どうした?」
つり針を刺したとでも思ったらしかった。私は言った。
「だって、このエサ、咬むよ。」
「あたりまえだよ。イソメだって生きてんだ。近くに動くものがくれば咬んだりもするさ。」
そう言って、晃は笑った。
何はともあれ、私は自力でエサを付けることに成功した。生きているイソメをちぎるのにはいささかの抵抗があったけれど、そもそも私の性格は残酷に出来ているらしい。すぐに慣れた。
そうこうしている内に昼時になった。到着する早々、おやつを始めた親子連れは、お母さんが作ってくれたであろう、見るからに楽しそうでおいしそうなお弁当を広げていた。
こちらは例によって、晃持参のバラエティに富んだコンビニのおにぎりである。
私は、自分の手の生臭いのが気になったけど、次第に嗅覚が麻痺して来て、太陽の下の海の香が調味料として加わり、それがとても美味しく感じられた。満面に笑みを浮かべながら、おにぎりをいかにもおいしそうに、そして楽しそうにほおばる晃に私は尋ねた。
「アキちゃん、いくつ?」
晃は、突然の問いにびっくりしたように、どもりながら答えた。
「え?オ、オレ?オレ、五つ…。」
今度は私が一瞬、判断に迷った。その直後、問いかけの行き違いを解した。
晃はすでに使い古されたジョークのような応答を大まじめな顔でしたのだけれど、これは決して受けを狙ったのではなく、天性の大らかさなのだと気付くと、私はごはんつぶを吹き出しそうなほどに、大笑いしてしまった。
思わず顔の前で手を振った。
「ち、が、う。おにぎりの数じゃない。年齢のこと。」
「なんだ…。いきなり聞くから、勘違いした。オレが生まれる前の年に、東京オリンピックがあったんだってさ…。そんな話、伝説的にしか知らないけど…。」
「そう。じゃー、アキちゃんは、私より一歳お兄ちゃんなんだ。」
私は、晃を自分より実は年下だと思っていた。
「へー、アッコはオレと一つしか違わねーんだ。オレはもっと年下かと思っていた。」
いつしか、私は晃のことを「アキちゃん」、晃は私のことを「アッコ」と呼ぶようになっていた。
「それは、こっちのいうせりふよ。私は、自分の方が二つ、三つ年上だと思ってたんだ。でもいいね、お互いに若く見られるなんて…。」
正直、これは私の本音だった。しかし、私は晃の天衣無縫ともいえる、楽しそうな笑顔を見るにつけ、一つの疑問点にぶつかった。
普通こんなデートというのは…、これでもデートなのだろう。通常「彼女」の方が、仮に出来合いのものであれ、お弁当を作って来て「これ、私が作って来たの。食べてみて…」と披露するのが相場だと思うのに、晃にはそういう世間の常識というものがまったくインプットされていないようなのである。
もっとも、私は料理が苦手で、というよりもはっきり言って嫌いだから、そのようなお愛想をするつもりは、はなっからなかった。きっと、晃がお決まりのバラエティおにぎりを持って来るに違いないと踏んでいた。
だから、晃はこんなシチュエーションにも、何の疑問を抱くこともなく、このデートを心から楽しんだのである。しかし私の方にしてみれば、その天真爛漫さが奇異に感じられた。
船頭さんは風が出てきたとかで、午後は少し早めに迎えに来てくれた。
その日の釣果は、さすがに晃は三十匹近く、初心者の私でさえ、十匹もあった。私の十匹の中には、タナゴという予定外の魚が二匹入っていた。
予定外の魚というのは、つり師の業界用語で外道というのだそうだけれど、私なんか素人にすればつれるものならどっちでも良かった。ただ、全くの素人に外道としてつられてしまったのだから、この二匹は、よっぽど運の悪い魚なのだろう。外見的には、タイを小さくしたような形で、いかにもサカナと子供が絵に描いたような代物だった。私にはこの方がサカナらしくて良いと思った。
晃は私を会社の駐車場まで送ってくれて別れる際、(つった魚を)少し分けようかと、言ってくれたけれど、私はこれで十分だからと丁重に断った。
私にすれば十分も何もない。実のところを言えば、この自分自身の獲物の処分にさえ悩んでいたのである。そもそも魚は特に好きという食材でもないし、ましてや丸のものをさばく気力も技量も私は持ち合わせていない。
母に頼めばうまくやってくれると思うけど、魚の入手経路をいちいち説明するのが面倒に思えた。
そして最終的に決めた結論は、明日、何でも屋のうちの社長に処分を委託してしまおうということだった。
不運にも、私につられてしまったかわいそうな魚たちは、かくしてこのような数奇な運命をたどることになった。
つりそのものは想像していたよりもはるかに楽しいものだった。だからこそ、つり師は、はまってしまうのだろう。あの種の人間は釣り糸を垂れているだけでも楽しいらしい。
晃はニコニコしながら、今日もクラクションを挨拶代わりに鳴らして帰って行った。
成 行
それからは連絡を取り合いながら仕事の帰りに、時々ファミレスでいっしょに夕飯を過ごすこともあった。
時には、カラオケボックスに行って、例の晃の「わかってください」も聞いた。年齢が近いせいか、それぞれがうたう「歌」に違和感はまったくなかった。お互いがお互いの歌に没頭できたような気がする。
歌というものは不思議だ。人の心をタイムマシンで遥かかなたのそれぞれの過去にいざなってくれる。
しかし、私には、世間一般の人たちが抱くノスタルジーというものがそこには存在しない。
はっきりとはわからないけれど、私には晃にもその過去に、何か陰りがあるように感じられた。きっと、高校中退というのもその要因の一つなのかも知れない。しかし彼には、私のそれは悟られなかっただろう。
私は常に、自分の過去を心の奥に秘めて、おもてには出さないように努めて生きて来た。
だからこそ、生まれつきの明朗系の相貌と、演じた声とが、いつも周囲からは癒し系だとかなんとか言われ、プラス方面に評価されて来たのである。見る人によっては、コケティッシュな印象も与えるらしかった。
ただ、自分で思うに、周りの人々がそのように評してくれている裏には、その人たちが知り得ない私の過去が、あるいは神秘的な隠し味になっているのかも知れないと思ったりもした。それを自身で意識しているからこそ、私はこれまでの人生において、一つの場所に長居をすることは決してなかった。
なるべく早めに居場所を移した。だから、私には親身になってくれる親戚とか、腹蔵なく心の中を打ち明けることの出来るような本当の友人とかは、まったくといっていいほどいない。
休日には時には二人で映画にも行くこともあった。映画でデートとは、一世代前の発想のようだが、晃は本当に映画が好きだった。彼は唯一の趣味が「つり」と言っていたけれど、「映画」も趣味の部類に入れて良いだろう。
晃は私と出会う以前から一人でも気が向けば行っていたらしい。いわば経費のかからない健全な趣味である。
かといって、彼の場合必ずしも高尚なものとはいえない。邦画なら「ゴジラ」、洋画なら「スターウォーズ」系である。どちらかといえばやんちゃ坊主のSF専門といってもいい。
晃はゴジラの話を始めると止まらない。
太平洋戦争末期、ラゴス島で孤立した日本軍はアメリカ軍の上陸を前に、玉砕を覚悟した。ところが、その時その島に住んでいた古代恐竜の生き残りのゴジラザウルスが、島に攻め込んで来たアメリカ軍から身をもって、その島、ひいては、日本兵を救ってくれたのだという。
ただ、このゴジラザウルスにすれば、アメリカ軍も日本軍もない、自らの楽園を害する侵略者を撃退しただけなのだろうが、結果的にはそれが瀕死の日本軍を救うことになった。
そして、その後、アメリカの核実験で被爆したゴジラザウルスが放射能に汚染され、あのゴジラに生まれ変わったのだという。
もっとも、ラゴス島なんて島が実際にあるのかどうか、自分でも知らないというから、この話もたいして当てにはならない。
更に話がはずんで来ると、元祖ゴジラ物語では、戦後間もない頃アメリカがたびたび行なった水爆実験によって、太平洋ビキニ島付近に静かに眠っていたジュラ紀の恐竜が目覚めさせられ、核の化身として人間に復讐するのだということを得意気に話したりする。
私は、別にそんな話はどうでもいいのだけれど、平生無口の晃が、そんなことになると熱弁を振るうことが意外だった。
晃はことごとに自分は頭が悪いからと、自らを肯定的にとらえることはしないけれども、つりとかゴジラなど得意な分野になると人が変わったように熱弁を振るう。中学時代にはサッカーに熱中したというし、現在では大工の腕も人並以上のような感じがする。
私は、晃には学歴がないだけで、根はまじめな並以上の人間であるように思えて来た。その後二人で映画に行くときには、事前学習の上、話題作を重点的に見るようにした。
闇の空間で大画面に見入るというのは、これまでに味わったことのない世界だった。同じ作品を見てもあの空間で身体全体をもって感じた衝撃は、テレビ・ビデオでは絶対に体得しえない感動であろう。
私はこれまで、自分が生まれるはるか以前から斜陽化していた映画を軽んじて来て、ずいぶん損をしたと思った。
転 機
しばらくおつきあいを続けて私は、根は生真面目で、稚気の抜けない晃の幼児性に、不思議と心を惹かれるようになった。
近くにある遊園地にも何回か行った。
その遊園地は、子供たちや親子連れや、若いペアが楽しむ遊具も然ることながら、四季を通じて織り成す自然の豊かさが売りである。
だから熟年夫婦や老夫婦でも何の違和感もなく楽しむことができる。入園料と食事代だけあれば、他に何の出費もせずに、一日を満喫することが出来た。
更に食事代まで浮かせるなら、自宅からおにぎりでも持って行けばいい。大自然の中のおにぎりといったら最高のぜいたくだろう。
ここのしぼりたての牛乳で作られるソフトクリームは、よそでは絶対に味わうことのできない絶品である。
ここの遊園地に行った何回目かのある日、観覧車に乗ったら、晃の様子が何か変だった。いつもどおり向かい合わせの椅子に座ったのだけれど、直角に腰掛けて、妙にそわそわしながら、首を右にひねったり、左にひねったりして、落ち着きがない。
この遊園地は、高台の上にあるので、晴天の日のそこの観覧車の展望といったら、高原と海と空の大パノラマである。かといって、ことさら景色を見ているような様子でもなかった。
そして、観覧車の私たちの箱が頂点に達しようとしたとき、ついに彼から、切り札的なことばが発せられた。直角になって固まったまま、私を正面に見据えて彼は言った。
「あのー、結婚してくれないか?」
一瞬、間をおいて、私は聞き返した。
「え?今何て言ったの?」
実は、私はかねてから彼から、いずれそのような言葉が発せられるであろうことを、半ば確信していた。
問題は、それをいつ、どのような場面で、どのように切り出すか、それへの期待と興味がふくらみつつあった。だから、密室でプロポーズされても、正直なところ私に驚きはなかった。 しかし、世間の常識から言って、女の私にとってはここは一瞬ひるみ、驚かざるを得ない場面と思った。
驚いたような私の問いに、晃は再び言った。
「あのー、オ、オレと結婚してくれないか?」
緊張したときの常で、彼は少しどもりながら繰り返した。
私は、それまでのリラックスしていた姿勢を一変させて、硬直したようにジーンズの閉じた膝の上に両手を乗せ、肘をまっすぐに伸ばしたような格好で答えた。
「ちょっと待って。あんまり急なんで、何と言っていいのか…」
「つきあっている人でもいるの?」
彼は、幾分右肩を落とし気味に、私の顔をやや斜め上目づかいに覗くようにして言った。
「ウウン…。でも即答は無理よ。ちょっと考えさせて…」
観覧車の箱が頂点から、真下の乗降位置に戻るまでは、ほんの数分間のはずだったにもかかわらず、ずいぶんと長く感じられた。その間二人は固くなって、だまりこくったままだった。
私は、降りる寸前になって思い切って言った。
「少し考えさせて。今度の休みにまたつりにつれてってくれる?そのとき、返事をする…。」
晃はそれで納得した。要するに、つりに誘ってくれて、ついていくようならOKということなのだ。
観覧車を降りてからは、重たい荷物を降ろしたように力を抜いて、ほぼ無言のまま二人して、例のソフトクリームを舐めながら、自然の雄大さに包まれながら歩いた。
私はしばらくして、突如極めて現実的なことを恐る恐る、晃の顔をそっと覗きこむようにして小声で尋ねた。
「ねー、アキちゃん、私、貯金がまったくといっていいほどないんだけど、アキちゃん、いくらある?」
私は、高校卒業した直後のわずかな期間と、最近勤めた今の会社以外は、ほとんどパートかバイトで過ごしていたから、収入といえばわずかなものだった。それでも殊勝なことに、たまには母に仕送りをし、親孝行のまねごともしていた。そして更に、私は見栄を気にする方で身に着けるものへの投資は惜しまなかったから、本当のところ、貯えは皆無に等しかった。
突然の私の問いに、晃は一瞬予期せぬことに出くわしたかのようだったけれど、あわてて唇についたソフトクリームを舐めてから、肩をすくめながら、左手でVサインのようなポーズをした。
私は、一瞬その意味するところがわからなかった。
きょとんとしていると、今度は左手で人差し指を1本立て、続けて中指を立てるようにして、ちょうどジャンケンのチョキを出すようなしぐさをした。その意味するところは、数字の二ということだった。
しかし私は、その指二本の理解に窮した。その次に続く、ゼロが6個なのか、5個なのか、或いは7個なのか…。
そして、ゼロの数はまもなく7個であることがわかった。私はそのケタ違いに驚いた。
しかし、晃はパチンコや飲み屋に行くでもなし、ゴルフもマージャンもやらない。唯一の本格的趣味はつりだが、これにはいくら投資したところでたかが知れている。映画に至っては、ほんの小遣い銭で足りる。友人とのつきあいもない方だから、仕事柄衣類にも特に気を配る必要もない。
ましてや、自宅からの通勤でしかも車は例の軽トラックであるから、衣・食・住についてすべてが、早い話只のようなものである。
このような人種には、自然とお金が残るのだろう。私は改めて人それぞれの生き方の機微に妙に納得するとともに、感心した。
アパート
約束どおり次の休みには、晃からつりの誘いがあった。私はOKした。
にもかかわらず、彼はしばらくの間、不安そうにしてつり糸を垂れていた。そして、更に間を置いてから、思い切ったように私に尋ねてきた。
「こないだの返事は…?」
私は改めて彼の顔を覗き込み、彼の左側のほっぺを右手の人差し指でつっつくようにしながら、
「OKよ。よろしく、お願いしまーす!第一ダメなら、こんなとこにいるわけないじゃん!でも私、正直に言っとくけど、炊事、洗濯、家事一般は一切不得意よ…。それでもいい?」
と、くったくのない笑顔と明るい声で答えて、念を押した。
すると晃はコクリと満足そうに微笑んで、一旦つり糸を力強く巻き戻したかと思うと、釣竿を振りかぶるや否やカラカラカラとリールを急速度で回転させながら、目いっぱい遠くまで放り投げた。
私は帰宅してから、その日のことをまず母に報告した。
「そう、良かったね。」と、母は言葉少なに言って喜んでくれた。
晃も当日両親に話したらしい。
父親は、不出来で気がかりな息子に奇特にも来てくれる嫁さんがいたことを、素直に喜んでくれたらしいけれど、偏屈な母親は、ネコ可愛がりしていた息子を、どこの馬とも知れぬ他人にとられてしまうとでも思ったのか、不機嫌気味だったという。
次の週、その時になって私は初めて晃を、母と二人で暮らしているアパートに呼んだ。
我家は、今風にかっこう良くいえば3DKだけれども、早い話が三間に台所が付いているだけの旧式の安普請の古いアパートである。
晃は、初めて会う私の母への挨拶が、結婚の申し込みだった。例によって極度の緊張感からくる、どもり調ではあったけれど、
「初めまして…。おの…尾野、晃と、申します。こ、このたびは、アキコさんと、結婚したく、お、お願いに上がりました。」
と、はっきり言った。
母にも素朴な好青年と映ったのだろう。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
と言葉を返した。
思えばこれは、通常の世間一般の常識からは考えられない出来事だったかも知れない。結婚というものは、一世代前なら、それなりの人を間に立て、その人が仲人として話をまとめるのが普通であったろう。
そもそも私たちの結婚は、スタートからして普通ではなかった。
その日は、お昼にお寿司をとって、三人で食べた。我家では、自宅で他人様と会食することなど、ほとんどまったくと言っていいほどなかったから、不思議な新鮮味が感じられた。
ことさら、故意に隠していたわけでもないけれども、ここに至って、私は初めて彼に家族のことを話した。
私には肉親がもう一人いる。年の離れた父違いの弟との三人家族である。ただ、弟は今東京で一人暮らしをしている。
本当の父は、私が物心がつくかつかないうちに交通事故で亡くなったという。
写真で見たことはあるけれど、実像の記憶となると、おぼつかない。まぼろしのように甦る、かすかな記憶もたぶん写真と母の思い出話とによって、あとから植え付けられたものなのだろう。その証拠に父の生の声、言葉といったものは一切浮かんで来ない。
母は、私が小学校へ上がる前、再婚した。継父とは、母が食堂関係の仕事を手伝っていた頃に知り合ったらしい。
生来癇症気味の私は、当時からそれなりの自我が目覚め始めていたから、新しい父にはなじめなかった。母は「おとうさん」と呼ぶようにと諭したけれど、それがいやでなるべく顔を合わせず、口もきかないようにした。
そのうち、後にも先にもたった一人の弟が生まれた。私は、継父はともかくこの弟のことは、母以外では唯一の肉親という思いから、心底可愛がった。
継父は長距離トラックの運転手をしていたけれど、収入はその日暮らしの歩合制だったため、かなり波があったようだ。
しかもパチンコ狂いときていたから、母に渡されるお金はごくわずかで、生活は苦しく、母は町の給食センターのパートに出かけ、家計を補っていた。貧困家庭の典型といえるだろう。
おいたち
そんな家庭環境を背負った私は、成績も身体も並で、何の特技もなかったから、学校では物静かで何の特徴もなくめだたない、まったくのその他大勢の一人として過ごすことになった。
しかもその頃の住まいは、一応戸建てとはいうものの、今よりも更にランクの下の小さな町営住宅だった。
町営でもあり家賃は確かに安かったらしいが、屋根はセメント瓦葺きで、安かろう悪かろうの例えのとおり、世間からは俗に「平民ボロ屋住宅」と呼ばれていた。したがってそこの居住者はいわば貧乏人の標本のようなものだった。
私は、そのころ同級生の間で流行っていた「お誕生日会」というのにあこがれて、私自身友達から先に誘われることは決してなかったけれど、たった一回だけ、仲の良かった友達数人を呼んでパーティーのまねごとをやったことがある。
継父の不在をねらってやった。めったにないことなので比較的料理の得意な母は、腕によりをかけて歓待してくれたから、友人たちも喜んでくれた。
私もこれでみんなの仲間に入れたと思って楽しかった。しかしその時、ある友だちの一人がもらしたひとことが、私の人生を変えた。と、言っていいかも知れない。彼女が何気なく言ったたったひとことが、まだ幼かった私の胸にグサッと突き刺さったことを今でも忘れはしない。
彼女にまったく悪気はなかったのだろう。だから、自然と口に出てしまったに違いない。
彼女は、同席したみんなに確認するかのように「ねー、何だか、におわない?」と問いかけた。他の友だちも「そういえば少しそんな気がするね。」と言った。
それはたったそれだけの会話で、その場はそのまま何ごともなく済んだ。
そのあともキャーキャーしながら、またゲームをしたりおやつを食べたりして遊んでいたから、たぶん、その会話はまったくの一過性のものであり、悪気のあるはずはなく、子供ゆえにごく自然に出たことばに過ぎなかったはずだ。
だから、今となっては彼女たちは誰一人としてその時のことを覚えていないに違いない。しかし、私はその日のことを一生忘れることが出来ない。私には、子供ながらその臭いの原因が分かっていた。
当時は現代とは違い、都会ならともかく田舎のトイレはまずポットンがあたりまえだったから、それ自体は恥ずかしいことでも何でもなかったけれど、私のうちは家が狭かったので、どうしてもそこからの異臭が家中にかすかに漂ってきてしまうのだった。
広い家なら絶対にあり得ない現象である。
母には決して言えなかったけれど、私は自分の家の貧しさに小さな胸を痛めた。もし本当のお父さんが生きてさえいてくれたら、こんなんでない、人並みの生活ができていたのかも知れないな、などと時に叶わぬ空想にふけったりもした。
そしていつか、こんな生活から絶対抜け出してやると心に決めた。
それからは、こんな家を見られるのが嫌で、私は自宅に友だちを連れてくることはなかった。それと通常ではまずあり得ないことだったけれど、例外的に仲良しをしてくれている友達のお誕生会に誘われても、何かしら理由をつけて断ることにした。
こうして私は、学校ではあらゆる面で目立たない上に、まったく存在感のない立場に置かれることになった。
経済的問題からか、継父の生活のルーズさからか、それとも女性問題でもあったのか、いずれにしても年を追うごとに両親の間はうまくいかなくなり、私が小学校六年生の時にとうとう離婚した。
子供は継父には任せられないと言って、母は私と幼い弟を引き取った。養育費のことなどもきっと問題になったはずだけれど、どうせあの男に支払い能力などなかっただろうし、その意思も端からなかったことだろう。
中学入学を機に、ちょうど区切りが良いからと私たち母子は転居した。転居といっても先立つものがないのだから、行く先は似たり寄ったりのものである。母は料理は確かにうまいけれど、ただそれだけに過ぎず、学歴も何の資格もないから、相変わらず給食センターのパートや食堂の手伝いで生計を立てていた。
そして資産は無、そんなか細い経済基盤の中で二人の子供を高校まで出してくれたというのは、驚異的でさえあり、福祉関係とかのその方面の人が見出してくれればきっと美談として取り上げられることになったかも知れない。
しかし、世の中は皮肉なもので、美談から更に美談が派生するとは限らない。
私は子供時代の貧乏生活がトラウマとなって高校卒業後も、職を転々としたし、弟は弟で高校卒業後、専門学校に進学し、その学費と生活費はバイトで何とかやりくりして卒業はしたものの、これもいまだ居所が定まらず、フリーターのようなことをしている。
母に心配のタネはつきない。
私は、高校進学後も相変わらず存在感のない目立たない生徒だったが、商業高校だったから、在学中に珠算の三級と、日商簿記の三級と、英検の三級を一応取った。
この各種三級というのは微妙な意味合いを持つ数字である。実社会ではほとんどといっていいほど役には立たないものの、履歴書に書くには十分通用する「資格」であって、商品価値は少なからずあるのである。
だから私は卒業直後にもある程度の会社に採用されたのであり、現在の会社に勤めることができるようになったのも、そのペーパー資格によると言っていい。ましてや、高校を一年の一学期で中退してしまった晃親子などにとっては、その価値がわからない分だけ、私は高嶺の花のように映ったことだろう。
今住んでいるアパートは、それから更に数度の転居を重ねたものである。
その家に初めて晃を呼んで、初めて家族のことを話題にしたのだけれど、もちろんこんな裏話を延々と話したしたわけでは決してない。
家族は母のほかに、たった一人の弟がいるんだけれども、東京で一人暮らしをしている。晃との結婚のことを電話で話したら、「おめでとう。オレも兄貴ができてうれしいよ。」と言ってくれたとだけ告げた。
最低限のことを話しただけである。
(第二章へ続く)