視線の行方
綺麗だと思ってしまうと、当然目が行く。目が行って綺麗だと確認すると、今度はどんな表情が一番綺麗なのか知りたくなる。気楽にお茶に誘えない相手なので、知りたくなっても観察することしかできない。
そして観察しているうちに、小さな癖(人に話しかける前に、一度俯いてから顔をあげる)や仕草(伝票類を持ち歩く時、必ず胸に抱えている)に気がつく。気がつくと、次もそうかなと確認するために、また目が行く。目が行くと、やっぱり綺麗だと思う。
何かのパターンみたいに、俺は坂本から目が離せなくなった。見たって何にもならない、と自分に言い聞かせると、俺の視線は余計に坂本に向く。ドツボじゃないか。
何かをするどころか、俺の顔を見ると思いだしたくないことを思い出しちゃうのだ。だから見ないことにしよう、と思っても、坂本は目の前を歩いている。堂々巡りだ。
「お、悩める萩原。なんかヘマした?」
「あ、別に悩んでるわけじゃないっす。野口さんなら、帰りましたよ」
「知ってる。坂本さんと帰った。意外と心配性なんだ、あれで」
山口さんは雑談する気満々で、空いていた津田さんの席に座った。
「なーんか、災難ですよねえ」
「ああ、坂本さんがね。女殴るヤツなんて、本当にいたんだなあ」
山口さんはふうっと溜息をついた。
「津田みたいなヤツもいるのにね」
「津田さん?」
「あー、まあ、いろいろあるわけよ。俺も詳しくは知らないけど。津田は絶対に言わないし」
意外な人の名前が、意外なところに出る。
「萩原から見るとただのバカだろうけどね、あいつはすっごく優しい」
坂本の庇い方を目の前で見ていたので、それはなんとなく理解できる。
「あんまり認めたくないけどね、俺はあいつには敵わないんだよ」
山口さんは、何故か嬉しそうに笑った。
坂本が実家に戻ったと聞いたのは、その後一月も先になる。坂本の彼氏の目撃情報は途絶えていたし、本人もきっぱりと意志が固まっていて、これ以上逃げ回っても負担が増えるだけだと覚悟したらしい。
「親が心配して、帰って来いって言うんだって。そろそろ大丈夫かなって。ちょっと危ない気もするんだけど」
山口さんの言うとおり、意外に心配性の野口さんが言う。いくらなんでも、三ヶ月も経てば大丈夫だろ。
カウンセリングの効果は少しずつあるらしく、坂本の表情が明るい日が増える。表情が明るいと、何故か俺まで嬉しくなる。だから、見るなって言ってるんだ。余計気になるじゃないか。
靴に入れる新聞紙でわかっていたけれど、お人好しの世話焼きだ。経費精算の日に経理まで金を受け取りに行くよりも、坂本が伝票と受領票を席まで持ってくる。給湯室で置きっぱなしになっている誰かの茶碗を、必ず洗う。
残業のコピー室から、メロディが聞こえた。アルトの小さな声。坂本が鼻歌なんて歌うんだ。
邪魔したら悪いかと思ったけれど、俺は翌日の仕事のためにコピーを何通か取らなくてはならない。
コピー室に入ると、坂本は困った顔をして俯いた。
「サイモン&ガーファンクル、好きなの?」
「すみません」
「謝ることないのに。俺、坂本さんの声好きだし」
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失礼しました、とコピー室から出て行く坂本を見送る。ちょっとだけ、笑ってくれたら良かったのに。
時々、給湯室や通路で坂本が他の人間と喋っている場面を見る。相手は大抵女の子だけれど、山口さんだったりすることもある。笑い声が混ざることがある。ずいぶん慣れたんだな、と思う。尤も、その綺麗な笑い声を、俺が途切れさせる場合も多い。
俺のせいじゃないのに。
俺には何の関係もない女なんだから、俺に笑顔を向けなかろうが俺を見て固まろうが、本当は知ったこっちゃない。俺が不愉快にならない程度の扱いならば、別に気にする必要なんかない。無駄な責任感はお役御免になった筈だし、もともと俺は巻き込まれただけなのだ。痩せぎすはタイプじゃない。脚が綺麗で、髪を女の子らしくゆるく纏めて、笑窪が――
なんだか、自分に言い訳してるみたいじゃないか。
例えば学校の先生に褒めて欲しくて、一生懸命漢字の書き取りをする小学生。俺はあいつらの気が知れなかった。逆に苦手教科は担当教師のせいだと、蛇蠍のように嫌う高校生。それも、俺の理解の範囲外だった。
他人に褒められなくても俺は漢字を覚えられたし、教師が嫌いでも成績とは別だったから。ああ、苦手教科だからと言って、理不尽に嫌われた教師の気持ちなら、今は理解できるぞ。問題は、漫然と苦手教科なんじゃなくて、理由ある苦手教科だってことだけど。
坂本の笑い声は本当に綺麗で、坂本の笑顔は小さな花がほころんだようで、ただそれが俺に向けられない。気に病むのは、他の人間が手に入れているものだからだ。何故、俺だけに向かないのか。知っているけれど、それは俺のせいじゃなくて悔しい。
俺にも、他の人に向ける顔を向けて欲しい。もしも俺が何かしただけで、変わるのであれば。