怯えていない顔
友達と飲みに行っても、隣の席の女の子に気軽に声を掛けられなくなってしまった。
どうしたことだ、俺が。頭の中にずっとあるのは、坂本の震える薄い肩と、野口さんの泣き声だ。その時だけ楽しく遊んで、後のことは後で考えればいいやって思えない。慣れていた考えを捨てるのは、しんどい。
坂本はガードしてもらっている面子に恐縮しながらも、話す相手が徐々に増えて出社する時の顔が明るい。アパートは、彼氏にまだ知られていないらしい。何度か会社の近所で彼氏を目撃したという情報があって、みんなそれなりに構えている。坂本は、野口さんの勧めでカウンセリングに通い始めたということだ。時々揺り戻しがあるらしく、辛そうな顔をしている。
朝の給湯室で、坂本がパーコレーターをセットしていた。
「おはよ。俺にもコーヒー入れてくれる?」
声をかけたのは、ちょっと勝負っぽかった。俺だって、俺の顔を見るたびに怯えた表情をされ続けるのは辛い。
「おはようございます。もう少しでコーヒー落ちますから、ちょっと待っててくださいね」
俺好みの伸びやかな声で返事があった。
「坂本さんって、何歳?」
「二十三ですよ、萩原さんと一緒」
俺の年齢を知っているのは驚きだった。そして、坂本が怯えない表情で俺の顔を直視したのもはじめてだ。何か言いたそうにしたところで、野口さんが来た。
「おはようございます。コーヒー、もう少しですから」
坂本が何を言おうとしたのかずいぶん気になってしまい、ちょっと尻の落ち着かない気分で、俺はコーヒーを受け取った。
野口さんが席に座り、普通の顔で仕事を始める。普段の生活の中で、他人は見えないことだらけだ。
俺がしんどいと思っていても、誰も気がつかない。津田さんみたいに「わかりやすーい人」にも、見えない部分はある。足がつくと思っているプールで楽々と泳いでいると、足元は奈落だったりして。・・・怖。
もしかして、俺ってプールの深さも考えないで泳いでるのかも知れない。
帰り際の坂本が腕を引っ張られる、という事件があったのは、もう別れたと聞いてから、二ヶ月も経った頃だ。季節は夏のさなかになっていた。その日は坂本は三枝さんと一緒で、そのずいぶん後ろに津田さんと俺が歩いていた。途中で立ち竦んだ三枝さんの前に、引き摺られるように歩く坂本の姿を見た瞬間、走り出したのは津田さんだ。
「うちの女の子をどうするんだよ!」
上背のある津田さんに大きい声を出され、男は怯んだように見えた。
三枝さんを庇いながら追いついた俺は、坂本とその男の後ろにいた。
「俺たち、つきあってるんですよ。ちょっとケンカしてて、仲直りしようと思って」
へらっと答えた男に津田さんが殴りかかるかと思ったが、そんなことにはならない。
「坂本さんは一緒に行きたいの?」
腰を屈めた津田さんは、坂本に直接話しかけた。
「行くよな、葉月」
坂本の言葉を先取りした男に津田さんはひどく冷たい声を出した。
「あんたには聞いてない」
普段まったく屈託のない津田さんから、そんな声が出ると思わなくて、俺も少し怖い。
腕を掴まれたまま顔色と表情が消えた坂本が、俺たちの方に顔をめぐらす。三枝さんまで辛そうな顔で坂本を見返している。
「行きたくない」
唇の動きだけみたいな小さな声で、坂本は津田さんに返事した。
「行きたくないの・・・ごめんなさい・・・ごめんなさい、ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」
頭を抱えるように座り込んだ坂本に三枝さんが駆け寄り、津田さんは唇を噛んだ。
「あんたのつきあうってのは、こうやって人間を壊すことか?三枝さん、悪いけどタクシーで送って行って。萩原、タクシー捕まえて回して来い」
男に掴みかかることもなく、冷静に坂本の状態を見た津田さんは、俺の知っている津田さんよりもずいぶん大人だ。タクシーを捕まえることしかできなかった俺は、津田さんよりも全然役立たずで、情けなかった。
梅の花みたいな坂本の笑顔は、またしばらくの間、誰も見ることができなくなる。男と対峙していた筈の津田さんの元に戻ると、男は去った後で、津田さんは「ああ、やだやだ」と吐き捨てるように呟いた。
営業途中のひどい夕立で、ぐしゃぐしゃになって会社に帰った。ひどい有様になってしまって、とりあえず作業着に着替えて現場用スリッパで社内をペタペタ歩いていると、新聞紙とペーパータオルを差し出す手があった。
「靴の中、気持ち悪くなってないですか?とりあえず水を吸わせたほうが良いかと思って」
そんな気の利いたことをしてもらったことはなくて、びっくりすると坂本だった。坂本から俺に声をかけてきたことと、そんな気遣いをしてもらったことにダブルで驚いて、やけにドギマギしてしまった。ああ、野口さんが「気配りのできる優しい子」だって言ってたことあるな。ありがとう、と受け取った。どういたしまして、と坂本が小さく微笑む。
坂本って綺麗じゃん。怯えたり警戒してたりしない坂本って、すごく綺麗じゃないか。なんで今まで気がつかなかったんだろう。
当然だ。俺の見てた坂本は、怯えたりパニック起こしたり、無表情に単語だけで喋ってたんだから。
――あいつにイメージが似てるってだけで。超、迷惑。
俺、女の子のこと殴ったりしないのになあ。だから、そうやって綺麗な顔してて欲しいなあ。
坂本は気がつくと長袖のシャツではなく、半袖のカットソーを着るようになっていた。
「痣がずいぶん良くなってきたわね。表情も明るくなったし」
仕事上の問題はなく、欠勤も問題にならなくなった坂本は、派遣期間が継続になると、野口さん情報だ。そうか、色の濃いシャツとパンツは、痣を隠していたのか。あの細い坂本が、そんなに長い期間痣になるほど殴られていた。殴ることで、何かしたかったんだろうか。
白い小さな花が枝でほころぶみたいな笑い方とか、アルトの綺麗な声とか、そんなものは大切じゃなかったのか。俺なら殴って言うことを聞かせるよりも、そっちの方がいい。 つまんない話でも、一生懸命に喋る女の子は可愛い。そして可愛いから何かしたいと思うんだし、一緒にいて楽しいんだ。
ああ、理解できねえ!
とりあえず、怯えていない坂本は綺麗だ。