怖くて羨ましい
「普段はすごく優しいって言うのよー」
「また、坂本の話ですか?」
「お料理しててもヤケドしたりすると保冷材で冷やしてくれたり、好きなケーキ買いに電車でわざわざ出かけていったり。でも、他の男と一対一で話すのは絶対ダメ。仕事の話もダメ。女友達とでも、自分の知らない相手と連絡取っちゃダメ。他の人を褒めるのもダメ。自分の知らない音楽や本の話もダメ」
「話題ないじゃん。学生?」
「なんだか、フリーの工業デザイナーとかって言ってた」
野口さんは普段、会社の女の子たちの噂話をする人じゃない。こんな話を延々とするってだけで、ここ二・三週間の衝撃が理解できる。人伝てに聞いた話と、実際に様子を見た事っていうのは、まるで違う。
坂本をガードしてるのは、野口さんが「信頼できる」と踏んだ一部の人間だ。社内で大っぴらに話題になったら、満了を待たずに派遣社員を変更すると、上は判断するだろうと予測がつく。その後それが事件に発展したら、会社側には関係ないが、事情を知っているものたちにはひどく後味の悪いことになる。
そして野口さんが言うところによると、坂本は「人に気配りのできる優しい子」なのだそうだ。
「出逢った相手が悪いって見極めが遅かったからって、社会的に切り捨てられるのは許せない」
この辺、山口さんというよりも、津田さんっぽい意見だね。俺なら多分、見ないフリして派遣社員の交代に賛成する。
駅まで一緒に帰るのは、状態が悪い時は見ただけでフラバする俺は、当然のように対象外。津田さんと山口さんも、余程誰もいないときしか駅まで送ったりはしない。そして心外なことに「萩原君と似た男がいたら、避けて通れ」とお触れが出ている。
俺ですか!俺、サラリーマンの制服着てます、あいつみたいにカジュアルじゃないです。髪型も変えました。
そして梅雨に入る頃、坂本は笑顔を見せることが増えて、帰宅時のガードは少し甘くなった。坂本の笑顔はやっぱり梅の花みたいに控えめで、痩せた薄い肩はいかにも薄幸そうだけれど、欠勤も飛躍的に少なくなった。もう大丈夫かも知れない、多分誰もがそう思っていた。
残業中の野口さんの携帯が鳴った時、俺はPCの電源を落としたところだった。メールじゃなくて電話なんだ、珍しいな、なんて思いながら、文房具をしまい始める。
「だめっ!引きとめて!すぐ行くから!」
顔色の変わった野口さんは、まわりをキョロキョロと見回してから俺に目を留めた。
「一緒に来て」
断われるヤツなんていないド迫力。
階段を駆け下りる野口さんの後について走った。時間と方向で、坂本絡みだと理解はできる。向かう先はJTビルの緑地帯、暗いけれど人通りは少なくない。小降りの雨が降っていて、まだ会社用サンダル履きの野口さんと俺は、当然のように傘を持たずに走った。
見えてきたのは困惑した顔の経理部の女の子と、土下座した男と、その横に膝をつく女、つまり坂本。
人前で土下座するか!しかも雨の中!
土下座から顔をあげた男は、心底反省しているように見える。少しでも好きな要素があれば、期待半分で反省してる筈だと思っちゃうだろう顔。なるほど、そうやって人の気持ちにつけ込んで、期待を拳で裏切るわけだ。
「坂本さんっ!」
野口さんの声に、坂本がこちらに視線をめぐらせた。
「ゴルフクラブっ!」
坂本は野口さんと男を見比べたあとに、辛そうに頷いた。
「モト君、もう戻れないよ。私はモト君の言うこと、実行できないもの。その度にモト君に怯えてるんだもの」
そこまで言った坂本は、気丈だった。
「もう、殴らないから。葉月がいないと、生きてる気がしない。頼むから」
男は、坂本しか見ていなかった。坂本の後ろに俺を含めて三人もいるのに。そんなになりふり構わず謝るのなら、はじめからしなけりゃいいじゃん。なんか自分に酔ってるんじゃないか。俺がそんなことを考えている間に、野口さんは坂本の肩を抱えていた。
「モト君、私は一緒にはいられない」
「葉月がいなかったら、俺は死ぬ」
あーあ、臆面もなく言うなあ。
「じゃ、ひとりで死になさい」
耐え切れなくなった野口さんが、口を開いたらしい。
「なんだ、アンタ。他人の話に口出すなよ」
男がやっと気がついたように、野口さんに目を向けた。
「口を出したくなるようなこと、あなたがしてるのよ。気に食わなかったら、あたしもゴルフクラブで殴る?喜んで傷害罪で訴えて差し上げるわ」
強い、そして怖い。
野口さん、大丈夫ですか。
「坂本さんの痣と傷、全部写真に納めたから。二度と近寄らないで」
俺に合図した野口さんは、坂本の肩を抱いたまま、会社への道を戻り始めた。経理の女の子も、とりあえずそれに倣う。俺は背中をガードしながらそれに続いた。なるほど、このために呼ばれたのか、と納得しながら。
会社に戻ると、野口さんは一直線に営業推進室に進んだ。そして迷いもなく山口さんを「肇君」と呼び、事情を説明し始めた。残っていた三枝さんが、坂本と同じ方向だと営業車で帰宅することになり、経理部の女の子は駅まで他の男のガード付きで帰される。残された俺も、しまい終えなかった机の上を片付けた。
会議室に入っていった野口さんと山口さんに帰りの挨拶をしようと、前に立ったら中から声が聞こえてきた。
子供みたいな手放しの泣き声と、宥めるような低い声。
野口さん、すっごく怖かったんだ。そりゃ怖いよな、あそこで逆切れされたら、力じゃとても敵わないんだから。会社に入って一直線に営業推進室に行ったことだって、そうだ。坂本は経理部所属なのに経理の上司じゃなくて、山口さんに助けを求めた。
あの野口さんが、子供みたいにわんわん泣いてる。
俺は怖がっていたことにすら、気がつかなかった。
会議室をノックすることはやめて、そのまま帰宅することにする。会社のまわりをキョロキョロして、坂本の彼氏がいないことを確認しながら帰る。女の子と楽しく遊んでるだけじゃ、女の子は俺をああやって頼りにしたりしない。可愛い女の子と仲良くなるためだけの会話で、翌朝になればすっからかんの俺は、どの子がどんな性格だったのか、はっきり覚えていない。それは、相手も同じことだ。俺が何考えてるかなんて、多分興味はない。情けないかも知れないが、坂本の状態を心配するより、俺にはその考えの方が大きい。
それは気持ちは良くても、継続して楽しいわけじゃないってことですか。
坂本は、楽しかったのだろうか?暴力に支配されたような人間関係でも、相手を信頼していたんだろうか?野口さんが山口さんだけに助けを求めたように。はじめは多分、そういう関係が築けると思っていたんだろうな。殴るようなヤツからは、逃げりゃいい。
だけど「二度としません」なんて、涙を流しながら嘘を吐かれたら?そして「おまえが悪いから」と殴られながら言い聞かされていたら?冷静な判断力を失った状態で受け入れていたら、それが当り前だと自分に刷り込んでしまう。逃げるとか別れるとかよりも先に、壊れちゃう。
女の子は楽しくて気持ち良いだけの存在じゃない。心底、信頼関係ってのは怖い。それと同じだけ羨ましい。 俺に剥き出しの感情を見せる女の子はいない。俺がこんな風にへこんだ時、それを和らげてくれる存在なんて、どこにもないのだ。