無駄な責任感
午前中いっぱい留守した野口さんは、しばらく経理部長と会議室に籠った後に席に戻った、らしい。俺は営業に出ていたので、隣の部署の女の子に聞いただけだ。
「萩原君、坂本さんに何かしたんじゃないの?」
「してませんって。マトモに口利いたこともありませんって」
「なんか朝から真っ青な顔してたし、視線飛んでたし。危ない感じはしてたんだよねえ。で、あの髪でしょう?」
さすがにそれ以上何かを聞きたくなかった。頭の中にまわるイメージ。
営業先から戻ると定時は過ぎていて、野口さんが机に突っ伏していた。
「だらしなくて、ごめん。山口君が仕事終わるまで、こうさせててぇ」
野口さんにしては珍しい口調だ。
「なんっか、すっごいディープな話で。仕事自体は問題あるわけじゃないから、派遣解除はしないらしいけど」
そのディープな話、俺は要りません、野口さん。
「男と喋ってたから怒ったんだって。それで長い髪は男の目に留まるからってキッチン鋏で」
「止めてください、俺は関係ないんですから」
「だって頭からこぼれそうなんだもん。なのに優しいって言うのよ。怒った後に泣きながら謝るって」
ちょっと待て。喋ってた相手って。
「俺だ」
野口さんに目だけで聞き返される。
「坂本さんの彼氏が見た、喋ってた相手の男、俺だ」
「何?どこで?」
「駅で、帰りに会って」
「それだけ?それだけなの?」
野口さんの頭の中にも、何かのイメージが駆け回っているのを感じる。
「―――怖い」
蒼白になった野口さんは、助けを求めるように営業推進室の方に目をやった。
「そんな人とつきあってたら、いつか殺されちゃう」
それについては、至極同感だ。狂気が凶器を持っているようなものだ。
髪を切られたのは、俺のせいか?坂本は俺から離れようとしていた。一緒にいるところを見られたくなかったのだと、今なら理解できる仕草だ。でも、そんな予測がどこでできる?俺の責任じゃない。
俺の責任じゃないのに、俺と一緒にいたことで坂本はあんな目にあった。ああ、駄目だ。イメージするな。俺には何の責任もない。
坂本は髪をショートに切り揃え、居心地の悪そうな顔で出社して来た。消え入りそうな声で「ご迷惑をお掛けしました」と頭を下げ、下を向いて歩く。傷害事件ならば被害者の坂本が、会社でパニックを起こしただけだ。それが恋愛絡みになると、途端に胡散臭い話が湧き出てくる。
――碌でもない男に入れあげてる頭の悪い女。
さらに尾鰭ひらひら、見たような噂が囁かれているのは、自分が聞かなくてもわかる。ああ、もうこの会社にはいられないだろうな。
二週間も経っただろうか。もともと痩せぎすの坂本がますます痩せ、目ばかりが大きく見えるようになって、男と別れたらしいと聞いた。なんだか、髪を切られるよりもひどいことがあったらしい。野口さんは知っているらしいが、口を開かない。
「今度こそ殺されると思ったって言ってたわ。ストーカーにならなければいいけど」
実家は危ないと言って、会社の帰りは駅まで誰かと一緒に帰り、月契約のアパートを借りたということだ。これで俺も、無意味な責任感から逃れられる。
坂本がどんな目にあったのか俺は本当に知らないし、想像もしたくない。
「萩原君、なるべく坂本さんと接触しないようにしてて。やっぱりイメージがダブるのよ」
野口さんの言葉は、具体的にイメージができてしまっている俺にとって、有難い。そして坂本の契約満了日まで経理にあまり顔を出さずに、俺はそのまま忘れちゃえば良いのだ。
良い、筈だった。会社を出て駅に向かう道、ひとつ目の角に立っている学生風の男を見るまでは。推定身長173センチ、推定体重65キロ、硬い髪をワックスで寝ぐせ風に・・・つまり、それは俺だ。別に珍しい体格で珍しい髪型じゃない。現に、こことあそこにいるじゃないか。
忘れ物をしたフリをして、ぐるっとまわって会社に向かって歩いた。これ以上、無駄な責任感を引きずるのはゴメンだ。
振り向いて3メートル先に坂本の顔を見つけて、心臓が止まりそうになった。今日は営業推進室の女の子が一緒だ。(こいつは色気がまったくない)痩せぎすでショートカットのパンツ姿が二人並んで歩いてくる。
目の前に立った時、俺はかなり慌てた顔をしていたんだろう。坂本がもう一人の背に隠れるようにしたのが見えた。
「こっち、来んな。他の道で帰った方がいい」
不思議そうに見返す顔に、逆方向を指差した。
「なんでもいいから、虎ノ門の駅、使うな。溜池山王でも国会議事堂前でもいいから、逆側に行って」
そう言っているそばから、坂本の顔が蒼ざめる。肩越しに振り返ると、俺とよく似た(認めたくないけど)髪型が見えた。俺の影になって、向こうからは見えないらしい。坂本が死角になるように気をつけながら、後ろを向かせる。
細かく震える坂本の背中をガードしながら、普段使わない溜池山王の駅まで歩いた。どんな怖い目にあったんだか知らないが、これじゃゆっくり眠れもしないだろう。三枝(新事業の女の子だ)に抱きかかえられるように、階段を降りて行くのを確認してほっと息を吐く。
俺、髪型変えよう。気に入ってたけど。後ろを向かせるために触れた時、それでなくても薄い坂本の肩は、可哀想なくらい震えていた。そんなに怖いものを俺の中に見るなら、髪型くらい変える。体つきは変わらないけど。
「昨日は、ありがとうございました」
坂本がぺこりと頭を下げた。表情は固くて、声も固くて、ずっと下を向いたまま。
梅の花みたいに笑うのに、のびやかな綺麗な声なのに、そんな風に縮こまる坂本は痛々しい。
その週の合コンで、俺は妙にノリが悪かった。ありえない話だけれど、もしも俺が女の子を暴力で支配してしまったら―――
本当に、ありえない話だけれど。