パニック
駅のベンチに野口さんと坂本が並んで座っていたのは、二時間の残業を終えた俺が帰る時間だった。
「どうしたんすか?」
「ん、坂本さんが彼氏と待ち合わせだって言うから、山口君も遅そうだし、時間潰し」
あ?坂本って毎日定時帰りじゃなかったか?口を開こうとしたところで、野口さんの目配せに気がつく。一緒に電車を見送って、十分も待っていたところで男が来た。
「あ、どうも、いつも葉月がお世話になっております。こいつ、とろいから迷惑かけてますでしょう?」
さくさくと挨拶する男は、チャラくても気の良さそうな男に見える。ふたりが去って行ったあと、野口さんは大きく溜息をついた。
「あれ、ちょっと大変かもね。見たでしょ?」
シアワセソーなカップルなら見ましたけど、何か?
「定時から今まで待たせて、ごめんの一言もなし。普通なら待ってないでしょ。あたしが一緒に座ってたのは一時間かそこらだけど、その間連絡もなかったよ。何回か、帰らないの?って聞いたわけ。勝手に帰ると怒られるからって言ってたけど」
「そこまでラブラブなんじゃないっすか?」
「ラブラブな男が、彼女にそんなことさせるか」
閉店間際のパチンコ屋の前に立つ坂本を思い出した。彼氏が遊んでいる間中、そこに立っていたのか?
「待ってないで、帰りゃいいのに」
「帰ったら怖ろしいことが起こるって、刷り込まれてたら?」
「怖ろしいことって?」
「殴られるとか、別れると言われるとかね。それとの大きなギャップになるけど、それ以外はベタベタに甘い」
野口さんはもう一度、溜息をついた。
「まあ、結構ある話なわけよ。深刻になる前に気がつく人が大半だけどね、そういう友達も見たし。さて、確認できたところで帰るわ」
次の電車に、一緒に乗る。
「やっぱり似てたね」
「へ?ああ、坂本さんの彼氏ですか?似てないでしょう」
「背格好と雰囲気が似てるのよ。萩原君にだけ過剰反応するの、理解できる」
うわー、迷惑。女殴る(疑いがある)ヤツと似てるなんて言われたって。大体、野口さんってそこまで他人事に首突っ込む性質だっけ?
「姉が昔、男に煙草押し付けられたことがあるのよ。黙ってる人じゃなくて良かったけど」
ああ、納得。
「野口さんのお姉さんじゃ、黙ってなんかいないでしょうね」
「そうね、あたしなら三倍返ししてやるけど、姉は別れただけだったわ」
野口さんなら、三倍どころか社会的に抹殺されそうな気がする。この人を制御する山口さんって、一体何者・・・と思っているうちに、乗り換え駅に着いた。
どうやって手懐けたんだか、坂本が給湯室で野口さんといることが増えた。野口さんさえ一緒なら、坂本の俺に対する態度は普通だ。ある朝、給湯室にコーヒーをもらいに行くと、坂本と隣の部署の営業事務が入っていた。
「おはよう、萩原君。コーヒーでいいの?」
営業事務の女の子に差し出された紙コップを受け取り、野口さんと一緒じゃなくても大丈夫かなーと坂本にも声を掛けてみた。
「坂本さんも、おはよ」
振り向いた坂本は少し驚いた顔をした後、俺が始めて見る顔をした。まるで梅の花がゆっくりとほころんだような、やわらかい顔。
「おはようございます」
これが坂本の笑顔か、と気がつくのに時間がかかった。つまり、それまで正面からその表情を、見たことがなかったってことだけど。不覚にも坂本に対してときめいてしまったというのは、記憶すべきことだろうか?その気分は午前中いっぱい、自分の中に持ち越していた。
駅のベンチに座る坂本をまた見掛けたのは、そのすぐ後だった。
「今日も彼氏待ち?毎日、仲いいね」
坂本は曖昧な笑みを顔に張り付かせて、小さな声で「お疲れ様でした」と言った。電車が入ってきて人が吐き出されると、坂本は途端にそわそわして俺に目も向けなくなった。
ああ、そうですか。彼氏がそんなに待ち遠しいですか。
彼氏が電車から降りてこなかったのを確認してから、急に居心地の悪そうな顔になった坂本は、また小さな声で「お疲れ様でした」と呟いた。
「葉月」
俺の後ろから聞こえた声に、坂本はびくんと飛び上った。振り向くと、坂本の彼氏がおそろしく機嫌の良い顔で立っており、俺にぺこりと頭を下げた。
「モト君、えっと、会社の人。今、そこで会って」
坂本は彼氏の顔を見ながら、必死の言い訳口調になった。浮気現場を押さえられたわけじゃあるまいし。なんだか白けた気分で「また明日」とその場を離れた。
振り向くと、不機嫌な顔になった坂本の彼氏と、蒼白な顔で彼氏に話しかける坂本がいた。
なんだ、あれ。
ざくざくと不揃いに切られた髪。首の横一直線についた傷。美容院で切られたものではなく、自分の意思で切ったものでもないことは、一目瞭然だった。女の子たちまで遠巻きにしている。普段より遅くなって出社した野口さんが、息を飲み込んで口を塞いだ。
どう考えても、間違いない。あいつが切った。多分束ねた髪を引っ張って、裁ち鋏か何かで。その光景を考えようとするだけで、身震いがした。
気丈なのか感覚が麻痺していたのか、坂本はデスクでPCを打っていた。俺は経理の島に用事のあることは少ないので、どんな表情で仕事していたのかは知らない。経理の横にある流通管理部のブースに行こうとしていただけだ。
パーテーションの出入口から、坂本の薄い肩が見えた。そして書類を横の席に回そうとして、身体を傾けた坂本がふと目を上げた。
瞬間、凍りついた表情。小さく唇が動いた。
「・・・やだ」
俺に対して何か言ったんだという認識で、俺は聞き返した。
「・・・やだ。ごめんなさい・・・ごめんなさい!」
声が少しずつはっきりしてくる。周りにいる人間すべての視線が、俺と坂本を往復する。
「何言ってるの?」
一歩踏み出すと、坂本は更に怯えた表情になった。
「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!やだ――!」
頭を抱えて椅子の横にしゃがみこんだ坂本に、経理の女の子が走り寄る。
経理から応援を頼まれた野口さんが、すぐに走ってきた。
「萩原君、とりあえず顔見せないで!誰か、車出してください。混乱してるから、帰らせます」
しゃがんだまま音のしそうな震え方をしている坂本は、野口さんと経理の女の子に挟まれて頭を抱えたままだ。顔見せないで、と言われた俺は、仕方なく席に戻る。
あんな怯え方があるか。
何かに激昂して、大きい鋏を取り出した男と、侘びの言葉を叫びながら怯える女。具合悪くなりそう。何をしたら、そんなに腹を立てるんだ。しかも、俺の顔を見てそれを思い出すなんて、あんまりだ。
俺は何もしてない。何もしてないってば!
騒ぎを見ていた人の視線が、やけに痛かった。