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 ワンルームロフト付き、なんてアパートで着替える場所は、狭いバスルームしかない。

「水垢だらけ」

「いいのっ!俺しか使わないんだから!」

 調子が良い時の坂本は、結構はっきりとモノを言う女だ。来た時と同じように、自転車に乗るとき邪魔にならないジャージになった坂本の足は意外に筋肉質で、思わずまじまじと見てしまった。

「女の足をじろじろ見ないでくださいな」


「来週はどうする?」

「そんなに律儀に誘ってくれなくても、萩原さんの都合だって」

 リュックを背負い、ヘルメットを抱えた坂本が言う。坂本のために会ってるんじゃないんだけどな。

「会えないと寂しいとかって言ってくれないの?」

 ヘルメットとリュックが邪魔だから、首に手をまわす。逃げないでくれよ、頼むから。


「言っていいの?私がそう言っても、いいの?」

 最後まで言わせないで、唇を塞いだ。深いキスになんか持ち込めない、だけど何かを伝えたい。

「ごめんなさい。もう少し」

 もう少し待ってて、なんだか、もう少しで結論が出るっていうんだか、とにかく「ごめんなさい」なのだ。拒まれてはいないのに、受け入れてもらっているのかどうかはわからない。充分にしんどい思いをした坂本を、これ以上追い詰める気はない。だから軽くて明るい言葉で、坂本が深刻にならないように待つのが俺の役目だ。


「ま、焦んないでいきましょ。はーちゃんの都合優先で」

 何か言いたげな坂本の表情に、笑顔を返してやるくらい、なんでもない。今まで心にもない表情を、女の子に見せ続けてきたじゃないか。

「はーちゃんて呼んでもらうと、ちょっと嬉しい」

 照れくさそうな笑顔を見せた坂本を、本当は抱きしめてしまいたかった。



 坂本から出てくる言葉に「今度」と「次は」が増えたと気がついたのは、古いメールを整理して削除していた時だ。はじめの頃は本当にぐちゃぐちゃで、わけのわからない泣き言と決意表明みたいな文章が並んでいる。それが少しずつ、お茶を飲みに行ったの誰だかがこんな話をしたのって他人の話題も混ざりはじめ、最近では「こんなことをしたい」なんて前向きなものが来る。

 出会いまで遡った段階でカウンセリングはひとまず終わり、どう思い出しても失敗は「出会ったこと」だったのだと坂本が納得しはじめた頃、やっとモトカレの話を坂本の口から聞いた。


「刑事告訴されたみたい。罰を受けて変わるとは思えないけど、彼にとっても良いことだと思う」

 DV加害者は、育った家庭環境がそうなのだと調べて知った後だ。ただ、その環境で育っても、そうならない人間だって確かに居て、暴力の正当化にはならない。何らかの治療や「育ち直し」が必要だとしても、爆発した感情を受け止める側が怯えて言う事を聞いてしまえば、ヤツの中で怒りと暴力は肯定される。抑えるのは自分しかいないのだと、他人が納得させることは難しい。


>今日は助けてもらっていい?

 残業中に受け取ったメールで、坂本を待たせていた桜坂に向かう。少し遅い時間で、帰り時間は大丈夫かと気にしながら、ホテルの内庭で坂本と会った。

「ごめんね、忙しいのに」

「何かあった?」

 坂本はずいぶんと疲れた表情で、俺の顔を見上げた。

「あのね、モト君から詫び状が来たの」

「詫び状?」


「どこが間違ってたんだろう、なんで駄目だったんだろうってずっと考えてて、彼はすごく苦しそうなのを知ってたから」

 石のベンチに導いて、並んで腰を下ろした。

「モト君て、本当に優しい人だったの。だから、いつか変わるだろうって思い続けてた。でも、今回の刑事告訴の話を聞いて、ほっとしたの。私だけが変えてあげられなかったんじゃないって。私の力が足りないんじゃなかったって自分なりに納得したのに」

 絞り出すような声で、坂本が話す。

「葉月に辛い思いをさせてごめんって。逃げてくれて良かったって。私が一緒に壊れてあげれば、彼は救われたのかな」


「俺は、はーちゃんが完全に壊れる前に逃げてくれて、嬉しい」

 ホテルの内庭は明るくて人が通るけど、いいや。肩を引き寄せ、坂本を懐に抱えた。

「はーちゃんははーちゃんの事を大事にしていいんだ。あいつだって、はーちゃんが好きだったら、完全に壊す前で良かったと思ってると思う」

「自分が救われるより?」

「そう思ったから詫び状が来たんだろ。自分のために傷ついて欲しくない」

 ああ、ガラじゃないこと言ってる。本当は告訴に関する裏があるのかも知れないけど、それを言っても仕方がない。


 女の子に「部屋に泊めて」なんて言われて断るのは、ものっすごく理性が必要だと改めて知った。

まして、どうにかしたいと思っている当の本人にだ。

「やだね」

 ああ勿体ない。勿体ないけど、絶対にこれは何か違う。

「どうして?期待していた見返りって、そうじゃなかったの?」

「それは、はーちゃんが俺とそうなりたいって思ったときでしょー?そんなヤケクソみたいなの、やだね。俺にだってプライドあるもん」

 なけなしの理性を振り絞るだけで、坂本の表情なんて見る余裕ないんだ、ごめん。でも後悔するために俺を使われるのだけは、承知できない。


 傷ついてる坂本に、恥をかかせたかったわけじゃない。桜坂のはずれの小さな階段で、坂本は下を向いたまま立ち止まった。

「卑怯なこと、言ったね。断られると思ってなかった。萩原さんなら、きっと言うこと聞いてくれると」

「見縊んな。そこまでがっついてねえ」

 意外に強い声が出てしまい、自分で慌てた。坂本の肩がびくりと怯えるのが見えたが、ここで撤回するわけには行かない。

「役に立てなくて申し訳ないけど、俺は協力できない。それ以上自分を追い込むのの手伝いなんて、御免蒙る」


「ごめんなさい」

 顔を覆った坂本の肩が細い。

「考えたくなかったの。一人じゃ頭から追い出すこともできなくて」

 なんて言ってやって良いのかわからなくて、ただ背中に腕を回した。細くて頼りなくて、やっと立っているような坂本が、声を殺して泣く。

「大丈夫だから。ここまで取り戻したじゃないか。だから、もう少し自分を大事にしてよ」

 もっと自分を大事にできるようになれば、俺の会いたい坂本に会えるのに。腕に力を籠めてみる。坂本とそうなるんなら、もっと幸せな気持ちで坂本に触れたい。

「俺は好きだから。だから、それ以上辛くなんてなって欲しくない」

 途方に暮れた気分で、坂本の髪を撫でた。


 どこが好きとか、どの部分が気に入っているとか、そういうわけじゃない。はっきり言うと、坂本に惹かれる要素なんてないんだ。それでも俺は坂本に笑って欲しいし、痩せぎすの身体に重い荷物なんて担いで欲しくない。

 つまり、これが好きだってことだろ。

 坂本が見ているものを一緒に見てやることはできないんだ。もどかしいけど、坂本自身が解決するのを待つしかない。


 ゴールデンウィーク何日か前なのに、坂本は泣きながらの電話が復活し、俺はそれを聞くしかなかった。そして連休後半になった途端、「憑き物が落ちたように」坂本は元気になった。

 腑に落ちない変化に戸惑ったけれど、坂本なりに整理がついたらしい。ぽつりぽつりと聞いた話は、ちょっとぎょっとするものだった。

「私みたいな人間は死んじゃってもって思ったときにね、エア・トラッドに居た時のことを思い出したの。パニック起こして迷惑かけて、ストーカー騒動になっても、何人もの人が私を守ってくれた。死んじゃっても良いんなら、あの時死んじゃうことも出来たのに、私はそんなことしなかった。今死んじゃったら、あの時のことが全部無駄になっちゃう」

 俺の慌てた顔を見て、坂本がいつもの微笑を作る。

「大丈夫、そう思ったら開き直れたの。底まで見ちゃったのに、浮上途中でリタイアなんてしてられない」


「慎ちゃん」

 名前で呼ばれるってのは、なんていうかちょっと照れくさいね。

「元気になった私を一番見て欲しいのは、慎ちゃんだから」

 本当にはっきりと話すようになったな。聞き取りやすいアルトの声が、まっすぐに俺の耳に届く。

「バイク、選ぶの手伝わせてくれる?それとも、もう興味ないかな。私にもバイクにも」

「試すようなこと言わないでくれる?まだ見返りを受け取ってないんだから」

 軽やかに笑った坂本の顔は、今度こそと思えるものだった。


 その勘を頼りに、先に進もうと思う。もう必要以上に気を遣うのをやめる。坂本が坂本である以上、記憶はどうしたってついてくるんだから、生活はその上に置くしかないのだ。

 薄暗くて、怯えた顔をしていた坂本が、俺の目の前で笑う。これからまだ、フラッシュバックしたり苦しんだりすることはあるのかも知れない。その時には、坂本が必要以上に自分を責めたりしないように、俺が思い出させてやる。

 坂本は何も悪くなかった。最初から最後まで全部聞いた俺は、ちゃんと知っているから。

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