微妙な近さ
日常的に顔を見なくなった坂本を、社内の人たちはすぐに忘れた。派遣社員なんて珍しくもないし、比較的長期だったとは言え、付き合いのある人は少なかったし、積極的に絡みたい相手でなかったことは確かだ。坂本の代わりに来た経理の下田さんは、独身同士のネットワークにするりと入り込んで、飲み会の席には必ずいるけれども、俺には寄って来ない。
寄って来ないほうがいいけどね。
坂本は、新しい職場に馴染みつつあるらしい。仕事帰りにお茶を飲んだ、なんてメールが来る。
>同じものを頼んだら、巨大なアップルパイにアイスクリームまで乗っていて、つつきまわしている内に悲惨なものになりました。
自分の意見が言葉に出せないことを、そうやって笑えるようになっているのだ。
>ベイクドのチーズケーキにしときたかったな。今度はそう言おう。
甘いものの写真より、坂本本人の写真を添付してくれればいいのに。
大体、同僚でもない友達と、いつまでも「坂本さん・萩原さん」と呼び合うのは、どう考えてもおかしい。かと言って、「葉月」と呼びたいわけじゃない。
俺が坂本の名を認識したのは、あの男がそう呼んでいたからだと、不愉快なことを思い出す。改名しろなんてわけにもいかず、坂本の個体名称がそれなんだから、気にしても仕方ないんだけど。
名前呼びで、自分のものだと主張したい気がないでもないんだ。山口さんが部署を変わる前に野口さんを「亜佑美」と呼んだのは、それまでプライベートの顔を見せなかった二人が、実はすごく近いことを周りに認識させるのに充分だった。そして、全開丸わかりの筈の謎の人・津田さんは、ものっすごくナチュラルに自分の奥さんの名を連呼する。
いいなあ、とか思うわけさ。俺も公用じゃない呼び方をしたいなあって。
そして、坂本がこれから先に俺とどう向き合ってくれるのか、まだ見当はつかない。
キスはしたけど、そんなもんは高校生でもするだろ。頼ってくれてるのはわかるけど、ここから先は発展させる気があるわけ?正常な判断があやふやな状態で押し倒して、ますます壊しちゃったら、それは希望するところではない。
じゃあ、正常な判断を下してるって、誰が理解できる?「ここで治りました」って言える材料のあるもんじゃないんだぞ。
ああ、悶々。
休みの日の坂本は、ちょっとずつロードバイクで流しているらしい。
「たまにはロングで行きたいなあ。体力無いから、途中で低血糖とか起こすと怖いんだけど」
「俺も行く。自転車選ぶの、アドバイスしてよ」
坂本が小首を傾げて俺を見る。
「一揃えすると結構な散財になるから、ちゃんと乗らないと勿体ないよ」
坂本が一緒に出てくれるんなら、ちゃんと乗るつもりなんだけど、自主性ないかな?
「でも、ツーリングのパートナーは嬉しい。お財布、大丈夫?」
「・・・夏のボーナス一括か、ローンで」
ちょっと情けない。
坂本のモトカレが告訴されたって聞いたのは、野口さんからだった。最近あの男の話はめっきり減っていたし、坂本も笑顔の出ることが多くなっていたので、そんな情報が入っているとも思わなかった。
「萩原君に言うと、悪いとか思ったんじゃない?モトカレの話はしない程度に気を使えるくらい、回復してるんだよ」
俺のむっとした顔に、野口さんが笑う。
「坂本さんの次の被害者が、腕だかなんだか折られたらしいよ。坂本さんも被害届は出してたから、警察で事情聴取があったみたい。今度こそ、犯罪者」
「どんな風に連絡があったんですか」
なんか面白くないぞ。泣いてたら、俺が真っ先に知りたいのに。
「ん?泣いてたよ。モト君が可哀想だって」
あ、それ聞いたらもっと面白くないかも。早く忘れちゃえばいいのに。野口さんが人の顔を見ながら、ニヤニヤ笑う。
「なーんてね、意外にさばさばしてた。可哀想な人だって言ったのは本当だけど、犯罪は犯罪だって」
俺の表情で遊ぶの、やめていただけませんか野口さん。
っていうか坂本と会ってるなんて、俺は言ってないんですけど、どの程度知ってるんですか。
「優しくて甘えさせるのが上手、なんて誰の話なんでしょうねえ。合コンの鬼が」
「合コンなんて最近行ってないですって」
女同士の話って怖い。
坂本を部屋に入れたのは、ゴールデンウィーク間近だった。俺の住んでいる場所の隣の駅に、ちょっと話題性のあるビルがあって、そこに行ってみたいなんて話になったからだ。30キロ以内なら自転車で移動するという坂本が、ジャージから着替えたいと言ったのが発端だったのだが。
「うわ、せめて洗濯物は皺くらい伸ばして干そうよ」
「着ちゃえば伸びるから、いいの。シャツはクリーニングに出してるし」
「足の裏、汚れそう」
「一応、これでも昨夜掃除したんだけど」
「どこが!」
自転車に乗った後は、坂本は大概気分が安定している。そして安定している限り、喋りのテンポは速くて陽気だ。
行ってみたいと言った雑居ビルは、どこかの国のバザールみたいに色々な店がごちゃごちゃと入っていて、相手の趣味を知るにはもってこいの場所だった。坂本は東南アジア風の妙な店に居座って、肩掛けバッグやら変な柄のスカーフやらサンダルやらを買った後に「あっ」と声を上げた。
「私、今日バイクだったんだ。リュックに入りきらない」
慌てた顔がおかしくて、吹き出してしまった。
「次に会うときに持ってったげるよ。俺の家に置いてけば?」
「いいの?怒らない?」
ここで「怒る」って単語が出てくるのが、ちょっと引っかかりのある部分だな。
「なんで怒るの?巨大な重い荷物じゃなくて、紙袋一つでしょ」
「何にも考えないで買い物して、自分の楽しみだけで迷惑」
「迷惑になんかならない。ただ、俺の部屋で行方不明になる惧れはあるかも」
何かが欲しくなっちゃって後先考えないで買い物しちゃう、なんてよくある話なのに、そんなことでも文句言われてたのか。
「はーちゃんは、衝動買いが得意です。忘れてました」
「はーちゃん?」
「うん。葉月のはーちゃん。葉月って発音しにくいでしょ?家では、はーちゃん。学生時代は、はっきー」
そうか、はーちゃんか。
「衝動買いできるようになって良かったね、はーちゃん」
「うん。欲しいものが決められるって、楽しいことだったね」
本当に嬉しそうな坂本と手を繋いだ。
「俺の名前、知ってる?」
「知ってるよ、慎ちゃん」
何かを、やっと手に入れたような気がした。