回復方向と下心
ホテルの中庭は、桜まつりを楽しむ人で混雑していた。オープンカフェ形式になった場所で軽いアルコールを楽しむ人や、野外で演奏される音楽に耳を傾ける人も居る桜並木はライトアップされ、普段静かな坂が、この時ばかりは賑やかになる。
待ち合わせた階段にひっそりと立った坂本が、俺の顔を認めてゆっくりと顔の緊張をほぐす。新しい派遣先で、気を張り詰めているのかも知れない。
「何か食べる?」
「そこに、キッシュとグラスシャンパンがあるの」
はっきりと主張してる。これで、今日の状態は理解できる。悪くない。
小さなテーブルを陣取って、フルートグラスを持ち上げようとした時、後ろから聞きたくない声を聞く。
「あっらー、萩原君。グラスは足を持たないと、お酒が温くなるわよー」
何かのイヤガラセですか、山口夫妻(入籍後)。
「萩原とここで会うとは思わなかったなあ。おまえって繁華街にしかいないもんだと」
「・・・常に浮かれてるみたいじゃないですか」
同じテーブルにつく気はないらしく、山口さんの目は、場所を探している。坂本が場所を詰めようとすると、野口さんが否定の手つきをした。
「ご一緒すると、萩原に視線で刺されそうな気がする。またね、坂本さん」
「あたしたちも一応、新婚なわけ。水入らずにしとくわ」
掻き混ぜといて去っていく山口夫妻を、坂本が振り返って見送る。
「お似合いですよね。ふたりとも賢くて、見た目もステキだし」
「いや、なんか、ヒットポイント倍増っていうか・・・」
坂本がふふっと笑う。
「本当に嫌な人なら、見ない振りして翌日に会社で話題にしますよ。尾鰭つけて」
ああ、尾鰭つけて話題にすることは、確かにしない人たちだな。津田さんの家のことだって、知らないらしいけど余計な聞き出し方はしてない。
キッシュとシャンパンだけで、男の腹が満足するわけはなく、坂を下りながら食事場所を考えようと立ち上がった。
「私、そんなに食べられませんよ」
「だから、もう少し太って。せめて胸だけでも」
「男のロマンのため?」
「そう。女の胸は、やわらかくあって欲しいね」
だって、触る予定は俺の中では決定事項なんだから。ライトアップされた桜に、上空から風が吹きつけたらしい。瞬間、花びらが舞う。声を上げて見上げた坂本の横顔に、つい見惚れた。
こんな風に感情を見せてくれる坂本に会うまで、ずいぶん時間は掛かったけれども。
>アットホームな会社で、派遣の私にも歓迎会を開いてくれるそうです。頑張ってきます。
おいおい、歓迎会で頑張ってどうする。メールを見ながら、苦笑する。
>頑張らなくていいから、楽しんでおいで。
今度の会社では、可愛がってもらえているらしい。そうだよな、前に野口さんが「他人に気の遣えるいい子」だって言ってたし、仕事が正確なのは俺も知ってる。ウチの会社にだって、あんなに不安定でなければ、長く居られた筈だ。
坂本の後に入った派遣のおねえちゃんは、結婚相手の下見にでも来てるみたいに、独身の男にだけ親しげな喋り方をする。去年の俺なら、可愛い子が入ってラッキー、なんて給湯室で軽口オンパレードだった筈だ。
給湯室で、野口さんと新人さんが楽しげに話している。
「あ。女の子の匂いのする所には、萩原君。可愛い子が入って嬉しいでしょ」
「そりゃ、女の子はいい匂いだもん。コーヒーください」
新人さんがサーバーを持ち上げた。
「私の前の人って、彼氏に殴られておかしくなっちゃったんですって?見る目がなかったんですね」
野口さんがあっという顔をしたのと、俺の顔色が変わったのは多分同時だと思う。彼女は無邪気に普通の話題として、出したに過ぎないだろう。一般的な知識ってのは、そんなもんだ。
黙って殴られてたんだから、自分にも悪いところがあったんだろうってね。
「下田さん」
俺は新人さんの名前を呼んだ。
「今晩ヒマ?飲みに行かない?」
野口さんがハラハラした顔をしていたけれど、続けてしまう。下田さんは気が付かなくて、愛想の良い顔で返事を保留してた。
「で、楽しくホテルにでも行ってさ、俺が突然殴りかかったら、やっぱり自分の見る目がなかったと思う?」
「萩原さんはそんなこと、しませんよね」
冗談にしようと下田さんが無理に笑う。もちろん俺も冗談にするつもりだけどね。
「萩原君、来月度の販売目標立てた?」
野口さんがその場から、べりっと俺を引っぺがした。野口さんの後ろについて、開発営業部の島に向かう途中、後姿のまま声をかけられた。
「いきなり怒鳴るんじゃないかってハラハラしたわ。オトナになったね、萩原君」
そのまま席について、向かい側の席でニヤリと笑う。
「来月から、売掛残の管理だけしたげようか?」
「工程管理もお願いします」
「小商いから抜けられたらね。コーヒーなんか飲んでないで、稼いでおいで」
はい、やっぱり頭は上がりません。
「やっぱり、ダメかも」
ベンチで隣に座った坂本が俯く。
「半月頑張ったじゃん。大丈夫、社内でパニック起したりしてないんだろ」
「うん。でも、絶対顔に出てる」
「不機嫌が顔に出るヤツなんて、フツーだろ。気にするほどのもんじゃない」
二週連続の土曜日、前の週安定していた坂本が、妙に落ち込んでいる。代々木公園の、葉っぱが出始めた木の下で。
肩、抱いちゃってもいいかな。宥めるために何度か肩に腕を回したことはあるんだけど。そっちに頭が行っているため、坂本の声が妙に遠い。
「私と一緒に居ても、こんな風じゃつまんないよね。私ばっかり萩原さんに頼って甘えて、絶対イヤになってる」
「大丈夫、見返り期待してるから」
いいや、腕回しちゃえ。
「・・・やっぱり細すぎ。肉つけようよ」
「困りません」
「俺が困るの。抱き心地が良くないと」
ほら、憂鬱なことばっかり考えてないで、ちょっとは俺のことも考えようよ。
心持ち上がった顔を引き寄せた。今日は感謝に付け込んだり泣いてる目蓋だったりじゃないぞ。
「目くらい瞑って協力してくれない?」
「え?ちょっと」
「慌ててごまかしたって、ダメ。下心があるから、頼られると嬉しいの。わかる?」
「わからなくもない・・・んだけど」
ごちゃごちゃ聞いてても仕方ないし、逃げる気配はないし、なんせこの態勢になっちゃったんだから、キスしちゃおっと。大丈夫、野外でそれ以上に及ぶ気はないからね。
「これだけの見返りで、ここまで付き合ってくれてるの?」
「いや、今にもっと大きい見返りの期待付き。気が向いたらでいいよ」
坂本はうーん、と考える顔をする。じっくり考えてくれて構わないんだけどね。
「胸が無くてもいいわけ?」
「それまでに育てといて」