疑念勃発
朝の満員電車の中で、新聞を読む迷惑なオヤジを肘で押しやりながら、オヤジの手元にある記事が目に入った。
―急増するデートDV・声を上げられない中高生―
DVって言葉は、知ってる。家庭内暴力のことだ。夫が妻を殴るとか、子が親を蹴るとか。そんな家見たことないけど。一時的に腹を立てて殴っちゃっうってのはあるだろうけど、一方的に殴られ続けてそれでも離れられないなんて、すでにそういうプレイだろ。いい大人が、自分で逃げられない訳がない。で、推測するに、デートDVってのはデート相手からの暴力ってことだ。
別れりゃいいじゃん!会わなきゃいいじゃん!
好きな相手のことなんて殴れるわけないし、殴られるのがわかってて会いに行くんなら、大したことないってことだ。
「坂本さん、彼氏と仲良いんだよね。毎日駅まで迎えに来てるみたい。残業しないでまっすぐ帰るし、この間なんて新しい指輪買ってもらったって言ってたよ。いいなあ」
坂本と同じ経理にいる女の子がそう言った時、何か引っかかるものがあった。毎日迎えに来るって相当ヒマなんじゃないかってのが一つと、派遣だから基本的に残業はないけど、残業の時も待ってるのかってのが一つ。そんなに入れこむような女にも見えないし、大体ちっとも華やかさがない。
「彼氏が、どことなく萩原君と似ててね。背格好と目のあたりかな、ちょっとチャラ系で」
「俺、硬派だって」
「閻魔様に舌抜かれるよ」
「二枚あるからいーもん」
だから萩原君は調子良いって言うのよーなんて言われながら、席に戻る。何か考えついた気になったけど、そのまま日常の中に忘れた。忘れたってことはつまり、俺にとってどうでも良いことだからだ。
どうでも良い筈のことが気にかかったのは、閉店間際のパチンコ屋の前に立っている坂本を見たからだった。堅そうなビジネスバッグの坂本は、きらびやかなネオンの前でとても浮いていた。学生時代の友人と会うためだけに行った街で、俺の普段のテリトリーとはまったく違う場所なので、まさかそんなところで知っている顔があるとも思わず、まじまじと見て目が合った。知らんぷりするのもおかしな話なので、大人らしくちゃんと挨拶をした。
「坂本さんがパチンコなんかするの?ちょっとイメージ違うね」
驚いたことに坂本は、薄く笑って返事を返した。
「ううん、彼氏がね、中にいて。終わるの、待ってるの」
ふうん、やっぱり仲が良いわけだ。パチンコ屋の外で待たせとくってのもナンだけど。
「葉月」
後ろから声がした。坂本がぱっと振り向く。じゃあな、と手を振ると、後ろで確認するやりとりが聞こえた。振り返ると確かにチャラ系学生風、あれが俺に似てるって言われると、とてつもなくへこむんだけど。彼女待たせてたのに、なんかすっげー不機嫌フェイスの俺様男、そんな感じ。趣味が悪い同士がくっついてるようには見えるんだけど、破れ鍋に綴じ蓋ってヤツかな。そんなことを思いながら、俺は帰途についた。
翌日、坂本は会社を休んだようだった。経理が内線に出るのが遅い、と野口さんがブツクサ言ったので知った程度だ。昨日彼氏と遅くまでウロウロしてたからなー、気楽でいいなーなんて聞いていたのだが、野口さんの顔はもっと不満げだ。
「坂本さん、仕事は丁寧だし良い子なんだけど、突発で休むんだよね。派遣さんだから、有休じゃなくて本人の給料が減るだけだけど。そこのとこ、惜しいんだよなあ」
事務の仕事っていうのは俺にはよくわからないから、ふうんと受け流した。月末月初に経理が休むと大変なことになるのを知っているだけだ。坂本が彼氏と居たことは言わなくても良いことだし、俺にはやっぱり関係はないのだ。
その翌日出社した坂本は、相変わらず長袖のシャツにパンツ姿で、ただ足元は履き潰したスニーカーだった。
「コケて捻挫したんだって。見かけによらないドジだよね」
他の部署の女の子からそれを聞いたとき、脳裏に浮かんだのは電車の中で見た新聞記事のタイトルだ。何故それが結びついたのか・・・ああ、そうか。俺に向かって顔を庇って見せたからだ。俺に似てるって言われる彼氏の不機嫌フェイス、坂本の仕草、そして怪我。
――おい、冗談じゃないぞ。
誰かに筋道を整理して欲しかった。言いふらして良いことと悪いことの区別くらいはつく。山口さんが仕事を終えるのを横目で待っていると、野口さんが帰り支度を始めている。披露パーティーの打ち合わせがある、なんて言ってる人に声は掛けられない。
裏表なし、全部顔に出る津田さんに若干不安はあるんだけれど、自分の混乱を解決するのが先だ。朝から頭の中に出てくるのは「殴られる女のイメージ」だけだった。珍しく俺から声をかけたからか、津田さんは奥さんに電話を入れていた。
「うん、暁くんのお迎えも頼む。ごめん」
あ、そうか。共稼ぎだと保育園の迎えもあるのか。気がつかなかった。
居酒屋のカウンターに並んで座って、感じていることをポツポツと話す。津田さんは途中から身を乗り出すように聞き、デートDVってやつだと思うと俺が結論付けるとしばらく黙りこんだ。
「―――誰にも、言ってないよな?」
「言えるわけないじゃないですか」
「言うなよ?」
ふう、と津田さんは溜息をついた。
「ああいうのってな、基本的には周りはどうこうできないんだ。本人がどうにかしたいと思った時に、助けるのがせいぜいで」
津田さんらしくないセリフに、思わず顔を見る。
「逃げたくなったら助けるよって意思表示をしとくのは必要だけどな。本人が隠したがってるんなら、気がつかないフリしてろよ」
「気がつかないフリで助けるよって・・・何ですか?」
「自分は悪意持ってないって見せるだけでいいんじゃない?知らないけど」
なんかいろいろ動揺して、更に落ち込む日だった。女を殴る男がいるってことだけでも驚きなのに、それにくっついてる女が身近にいるって憶測が憂鬱で、わけがわからない。顔も作れない単純で一本気な筈の津田さんは、重たい話を淡々と受け止めてアドバイスをくれる程度に大人だった。世間様は思っているよりも狭い範囲で、俺の知らない生活があるらしい。
深く考えないと解決できない事件は、深く考えることができる人にだけ起こるわけでもないのかも。
たまたま早上がりした日に、駅で彼氏と待ち合わせた坂本を見た。彼氏は機嫌の良さそうな顔で、坂本も嬉しそうにしていて、殴られてるんじゃないかっていうのは勘違いだったかと胸を撫で下ろした。「お疲れー」と手を振ると、坂本の彼氏は愛想の良い顔で、ぺこりと頭を下げた。表情ひとつで俺様から気の良い青年に変わるんだから、俺も見る目ないな、なんて少しばかり反省もした。
穿った見方をして俺が勘違いしてただけで、俺が坂本の好きじゃないタイプだってだけだろう。そう思うと気楽になった。そう言えば、指輪がどうとか言ってたもんな。
あーあ、どっとお疲れ。
却って、気にしていたのは津田さんだった。津田さんは視線のコントロールが全然効かないから、何を考えてるのかすぐにわかっちゃう。
「なーんか、ご執心じゃない?他の女に目が行ってるって、沢城に言いつけてやる」
野口さんにそう突っ込まれるのは当然の成り行きで、そこでしどろもどろになるのが、後輩として情けない。会議室に引っ張って行かれた津田さんからバトンを渡されたのは、三十分も経っていなかった。
「野口さん、すっげー怖いんだもん」
「知らんふりしとけって言ったの、誰でした?」
相談相手を心底間違えたと思ったが、先日の嬉しそうにしていた坂本を思い出し、間違いでしたと訂正すれば良いことだと、野口さんの待つ会議室に向かった。
「津田君の話じゃ、要領を得ないのよね。他人事だから放っておけばいいんだけど、寝覚めの悪そうな話だから」
「あ、俺の勘違いだったみたいです。ふたりで嬉しそうに歩いてるの見たし」
「バカね。それ以外は普通の人だから、発覚しないんじゃないの。ちょっと思い当たる節もあるし」
野口さんの顔は案外とマジで、笑い飛ばそうとした気分が止まった。
「ま、あんたたち子供に何かさせようと思ってないから、気にしなくていいわ。とりあえず気がつかないふりしてて」
お局って立場じゃなくても、頭が良くて仕事の早い野口さんは、女子社員の中では取りまとめ役的な存在だ。
「お節介したいわけじゃないけどね、何かありそうなとき対処してあげられればいいと思って」
ふうん、別れたほうがいいとかって言ってやるわけでもないのか。いくつかの質問を受けた後、他言無用の念押しをされて、解放された。持っていた疑念を、自分の手から他人の手に渡してしまった開放感で、幾分ほっとしたのも確かだ。
坂本の声は綺麗だ。気がつかなかったのは、のびやかな声を聞いたことがなかったからだ。給湯室で女の子同士の話の最中に入って行った時、ちょっとした衝撃でもあった。
「坂本さんの声、いいなあ。俺好み」
「さすが萩原君、褒めるところが違う」
一緒にいた女の子が笑う。
「いや、マジで」
坂本は驚いたように俺の顔を見て、小さな声で礼を言った。ああ、なんだ、普通じゃん。すっごく普通だ。