依存させない
坂本が腕の中でしゃくりあげていたのは、ずいぶん長い時間に思えたけれども、ほんの五分程度だ。
「萩原さんが優しくしてくれるから、調子に乗っちゃって。考えてみれば、嫌われてうんざりされるようなことばっかりしてるくせに。だからもう、相手にしてくれないのかと」
「好きだから」
自分でも驚くような感情に押し流されて、口を衝いて出た。
「坂本さんの話を聞いたり、遊びに誘ったりしてるのは、好きだからだよ」
自分でも、これが正しい言葉なのかどうかはわからない。だけど、それ以外坂本が知りたいっていう感情に、説明はつかない。俯いた顔を両手で挟んで上向かせ、涙の残る目蓋にキスした。
「優しかったんじゃない、俺がいい気になってたんだ」
今度は間違えないで「優しく」しよう。頼られてるのが嬉しくて、何か勘違いしてた。野口さんは坂本に手を貸さなくなったんじゃない。必要以上に手出ししなかっただけだ。坂本が自分で動けるようになるために、それが必要なことだったから。もう一度、坂本を胸に抱えなおした。
「私なんかに、そんなこと言ってくれなくても」
「なんか、じゃないんだ。説明できないけど」
細い坂本が、ますます小さくなったような気がする。そのまま消えてしまわないように、坂本が自分の存在を自分で肯定できるように。
「私、まだ自分がどうなってるのか、わからない。でも、萩原さんには感謝してるの」
感謝されるようなことは、してないんだ。余計なことをしただけ。
「坂本さんはゆっくり、自信をつけていけばいい。その後にどうなるのか、俺もわかんない」
結局一駅どころか二駅分歩いて、坂本は泣いて浮腫んだ目のまま電車に乗った。
「待っててもらう価値はないのかも知れない。でも、私も私自身で考える。ありがとう」
無理に笑った顔は痛々しかったけれども、久しぶりの決意を持った喋り方だった。
相手の状態にどこまで気を遣うか、と見極めるのは、意外に苦行だと知った。泣きながら電話をかけてきた時に、中途半端な慰めを言いながらだらだらと話を聞いたほうが楽だ。惰性で泣き言を言っている時は、電話をさっさと切る。辛そうな顔をしていても、助けを求めた時しか相手にしない。
気になって気になって仕方ないけど、坂本が自分でどうにかできると思っている間は、こちらから手助けしちゃいけない。
我慢しすぎた坂本が何かに反応して、またパニックを起こす。その時俺は外出だったので後から聞いたのだが、咄嗟に気がついた同じ経理の子が、その場から引き剥がしたらしい。日中で社内には内勤しかいなくて、大した騒ぎにはならなかったと野口さんに聞いた。その晩に俺から送信したメールへの返信で、坂本自体ものすごいい努力をしているのだと感じた。
>今日は何も整理ができそうもありません。明日落ち着いたら、手助けしてもらっていいですか。
他人行儀になったようでちょっと寂しく感じる反面、これが普通なんだとも思う。他人に聞かせて良いことと良くないことは、誰にでもある筈だ。そんなことは、俺にだってある。
二週目の土曜日に、一緒に美術館に出掛けた。俺は絵なんて全然わからないし、はっきり言うけど、ルネッサンスだかロココだかの違いはどうでもいい。
「好きか嫌いかだけで良いのよ。色が好き、なんていうので」
そんな風にさばさばと言う坂本は、ずいぶん調子が良さそうだ。ちょっと遅めにランチして、まだ頼りなげな表情でも、美術館の展示物について解説してくれたりする。
もっと、好きなことを教えて欲しい。
「今日ね、本当はバイクで来ようかと思ったんだけど、萩原さんを驚かせちゃいけないと思って」
「そんな長距離、自転車で走るわけ?」
「ロードバイクって、そんなに疲れないのよ」
得意げな顔が珍しくて、嬉しい。
「俺も乗ってみようかな。今度見せてくれる?」
頷く坂本の仕草が子供っぽくて、微笑ましい。こんな風に話したい。坂本だって、今までよりもずっと楽しそうじゃないか。改めて、ごめん。庇うことばっかり考えて、この顔を封じ込めていたのは俺だ。
坂本の状態は一進一退で、他人に委ねなくてはならない部分と自分の判断が必要な部分の区別が難しいらしい。最近はカウンセリングで遡ったことが、ようやっと効果を生み始めたみたいだ。
「傲慢だったのかも。精神科医にもできないことを、やろうとしちゃったんだね」
自分の力では彼氏を救えなかったのだと、そんな風に納得し始めた。俺も、同じになっていたんだ。坂本が俺に対して振り上げたのが拳でなかっただけで。「共依存」についても、少し勉強した。依存を促すことと過剰に支えようとすることは、紙一重だ。俺はただ、壊れていない坂本に会いたかっただけなのに、他の何かをしようとしていた。
メールの定期便は変わらないが、通話の方は、いきなり泣きながらの打ち明け話が減る。不安定な日に、電話してきても大丈夫だよと言うと、梅の花みたいな微笑みが返って来た。
「ありがとう。どうしても不安になったら、お願いする」
一人で立ち向かってるみたいで心配になって、こちらから連絡したくなるのを我慢する。俺は坂本の心も人生も、変わって引き受けてやる事はできない。そう割り切ってしまうことで、逆に自分の受け入れ態勢に余裕ができたのは驚きだった。
全部受け止めようと思うと、細かなことまで身を入れて聞いて、一緒に混乱してしまうのだが、一歩下がって聞くだけに徹すると、意外に繰り言が多い。そこは頭から抜いておけるから、こっちもイライラしなくなった。遠回りしちゃったからからといって、駆け足になるわけにも行かず、亀の歩みのように少しずつ手を離さなくてはならない。
もうじき、社内からいなくなってしまう。せめて次の派遣先で同僚と寄り道するときくらい、自分の好きな飲み物をオーダーできるようになって欲しい。
子供の自立を見守るお父さんって、こんな気分かも。尤も、お父さんは下世話な期待はしないだろうけど。
そうなのだ。問題は俺の「下世話な期待」なのだ。好きだと言ってしまってからこっち、抑えが利かなりつつある。今現在の坂本を押し倒しちゃうのは、多分簡単だ。ただし、それで自己嫌悪しないかと考えると、絶対するって結論に達する。弱みに付け込んだ気分になるのは間違いない。
ジレンマに苦しんでいるにもかかわらず、坂本は俺の目の前で無防備に信頼しちゃってるのだ。高校生の時に理解できなかった、光源氏の紫の上に対する気持ちが、わかるような気がする。