壊れてる部分
絵本カフェとやらに行った日、坂本の様子はまた少し変だった。
「カウンセリングに行きたくないの。辛いの」
カウンセリングに行くと、揺り戻しがあるのは前から気がついていたんだけど、その後はすぐに楽になるものだと思っていた。投薬のない治療法で、とにかく自分の記憶を吐き出して、整理していると言う。そこで、自分は間違っていなかったのだと自分に認めさせるってのが趣旨らしいが、一つの記憶から連鎖で思い出すらしく、それが苦しいという。
「そんなことしたら、モト君だけが悪い人になりそうな気がする」
びっくりぎょーてん。女を殴って壊したヤツが、悪いヤツじゃないって言うわけ?ワケわかんねーし、悪いヤツだから別れたんじゃないの?
「坂本さんは、自分が悪いから殴られたって思ってるわけ?」
「そうじゃなくてね、モトくんも辛かったの。いつも泣きながら謝ってた。本当は優しいのよ」
口先で謝るのなんて、簡単じゃないか。そういえば、雨の中で土下座してたっけ。
「あんなに怪我させられても、優しいの?」
「報道番組で戦場の子供たちの映像を見て、涙を流すような人なのよ」
同じ人間か、それ?黙って聞いているしかないじゃないか。
「私は自分が怖いからって好きだった人を、犯罪者にしたの。あんなに寂しがって苦しんでたのに」
整理させてくれよ、ちょっと。俺が混乱してるのに、坂本は淡々と続けちゃうのだ。
「世界中に迷惑かけても、救ってあげられれば良かった。怖くて怖くて、逃げ出したのよ」
なんだか、殴られて言うこと聞かされて、自分の価値観を無駄にされたって怨みとは、ずいぶんイメージが違う。
「なんだか、殺されても良かったって言ってるみたい」
「それが怖くて、見捨てたんだわ。好きなら最後まで付き合ってやればいいのに」
すっごく異常な言葉を聞いた気がする。プレイじゃなくて、それが真剣な言葉なのだとしたら、この感覚はどこかおかしい。気持ち悪い。
「こんな話して、ごめんなさい。だけど、萩原さんなら聞いてくれるかと思って」
いや、俺も別に聞きたくはなかったんですけど。
「王様の耳はロバの耳。でも、カウンセリングは続けた方がいいよ。坂本さんの無用な罪悪感のために」
「無用なの?」
「百人中百人、そう言うと思う。俺も正直、わかんないし」
しばらく沈黙して、坂本は俯いたまま頭を振った。
「そうね、誰にもわからない」
誰にもわからない。わかりっこない。好きな人を犯罪者にしたって、自分がされたことが犯罪行為じゃないか。
逃げ出すのだって当然だ。何故それに罪悪感が伴わなくてはならないのか。殴られても最後まで付き合ってやるべきだ?そんなの、どう考えたって異常だ。
「虐待されてる子供が、何故親を憎むんだと思う?」
「ひどいことをされてるから」
「でも、自分からは虐待されてるって言わないよね」
「認めたくないのと、恥ずかしいのと・・・あ・・・」
「そういうこと。表裏一体なんだよ、愛されたいから憎むの」
津田さん、パパの視点丸出しです。でも、言ってる意味はなんとなく理解できる。坂本は、あの男とちゃんとした関係を築きたかったんだ。
「ありがちな感情だけどさ、坂本さんは自分の力で、彼氏を変えられるとか思ってたんじゃないか?それ以前に、そう思わないと自分の選択が間違ってたって認めなくちゃならないから、そこを正当化したいよね。そうしたら、すっごく好きだったことにしないと辻褄合わなくない?」
「まあ、そうですね」
「で、すっごく好きだったことにすると、逃げ出したことに対して辻褄が合わない。そこで、自分が悪いことにすれば、彼女なりに筋が通る」
津田さんの酒は、減ってない。
「カウンセリングでどこまで遡ってるかだよな。まわりには何もできないんだよ。自分で考えて、自分で立ち直るしかないの」
「でも」
「感情を代わってやることなんてできないんだから、できるのは悪くないって言ってやることだけだよ」
津田さんは言い切ってから、目の前の梅割りを一気に半分くらい飲み込んだ。
「庇いすぎると、庇われなきゃ何もできないって思い込ませるぞ」
津田さんが何をどう見てるのかは知らないけど、坂本は多分そんなに強くない。せめてちゃんと笑えるまで、あれ以上辛くないようにしてやりたいってのは、間違いだろうか。津田さんの物言いたげな視線に否定されるみたいで、口答えできなかった。
帰宅する頃、坂本からメールが入った。
>眠れないの。
スーツを吊るしながら返信して、シャワーを浴びている最中に、またメールがある。
>誰かの声が聞きたい。
電話でもいいよと返信しても、電話は来ない。
>夜中にごめんね。おやすみなさい。
こちらから電話した方がいいのかなと思っているうちに、日付が変わったので寝ることにする。気になって仕方が無い。
坂本はまだ、あの男に未練を残しているんだろうか? 俺に送ってくる頼りないメールは、少なくとも俺に何かを求めてるってことだろ?俺も何か見返りを期待していいんだろうか。
会社の通路や給湯室で坂本に会うたびに、スイッチは入っていないか揺り戻しはないかと表情を確認しているうちに、正月休みに入った。簡単な掃除をして、一日だけ友達と遊びに行った後、実家に帰る。学生の頃は帰らないでアルバイトしてたりしたけど、社会人になったら学生時代の友達は何故か、判で押したように、年末に実家に帰るようになった。その代り、普段の連休には帰らないけどね。電車で二時間程度のところだから、帰ろうと思えばいつでも帰れるんだけれど、一日か二日しかない休みには、行きたくない。生活ベースがすっかり実家じゃなくなってるってことだな。
大晦日に坂本からメールがあり、ロードバイクのメンテをしたという。ピカピカの写真が添付されている。
>来年は、これで走り出そうと思います。
年が明けたら、あけおめメールを出そう。どんな顔でロードバイクを磨いていたんだか、明るい顔だったらいいな。俺も、バイク買おうかな。そうすれば、ツーリングにも付き合えるし。
近所の神社のお焚き上げに家族揃って行き(知り合いに会うと、妙に気恥ずかしい)元旦はだらだらと寝坊して(親父に蹴られて起きた)去年早々に所帯を持った兄貴(地元に就職した)が奥さんと一緒に顔を見せた。平和な正月の午後だ。メールをチェックしたら、何件もあけおめメールが入っていた。どうでもいいヤツにはまとめて返信。
津田さんからは、子供と奥さんの写真添付・・・うーむ。他人の奥さん見たってなあ。
アパートに届くアナログな紙の年賀状は、ほぼダイレクトメールだから、気にしない。そして、坂本。
>あけましておめでとうございます。昨年中はありがとうございました。今年は元気な私です。
本当に今年は元気だといいな。
>あけましておめでとう。元気になる手伝い、したいな。
送ってから、あまりの恥ずかしさに身悶えしたが、後の祭りだ。坂本の細っこい手首が、あれ以上細くならないようにしてやりたいんだ。津田さんにまた「構い過ぎんな」って言われるかな。あんなに頼りないんだから、構いたくなるじゃないか。俺一人くらい、構ってやりたいと思ったっていいよな。