怯えの表情
「萩原君、経理から顧客マスタの不備が戻ってる」
野口さんからまわってきたファイルには、坂本の記名があった。不備部分を改めていたら、ちょうどパーテーションの隙間に坂本の細い影が通ったので、呼び留める。
「悪いけど資産状況とか公開してない会社だから、興信所に問い合わせてくれないかな」
それだけのことなのに、坂本は表情を強張らせた。何も言わずにファイルを受け取り、パーテーションの外に消える。
「なんか怒らせたわけ?坂本さん、変だったね」
「え?いつもああですよ」
「それ、おかしいね。堅いけど、腰が低くてちゃんとしたいい子だよ」
野口さんと津田さんが頷きあっているのを見て、俺だけに対する態度なのだと知った。
「なんかしたんじゃないの?帰りに待ち伏せして口説いたとか、入社する前に合コンで持ち帰ったとか」
「俺って、それだけのキャラクターですか?」
向かい側の席で、野口さんが大きく頷くのが見えた。はあ、左様でございますか。でも俺は、坂本と個人的に話したことはないです。年齢さえ知らないです。興味ないからね。
朝、給湯室の前で聞き慣れない笑い声を聞いた。綺麗な笑い声だな、新しい女の子かな、なんて思わず覗き込むと、野口さんと一緒にいる坂本だった。
「あ、女の子がいると顔出す人が来た」
野口さんが人聞きの悪いことを言う。
「坂本さん、近付くと妊娠するかも知れないよ、気をつけてね」
野口さんのベタなオヤジジョークは、坂本の前で滑って転んだ。急に顔に無表情を張り付けた坂本が、サーバーから自分のカップにコーヒーを注ぎ始めたから。
「失礼します」
そう言って足早に給湯室から出て行く後ろ姿の、ひとつに結んだ髪を呆然と見送る。野口さんも呆然としていたが、しばらくしてから俺に紙コップを差し出して、口を開いた。
「やっぱり記憶にもないところで、萩原君が何かしたとしか思えない。思い出せ」
「何もしてませんって!」
理由なんて、坂本に聞いてくれ。
坂本が不備のあった顧客マスタのデータを持って、パーテーションの内側に入って来た時、俺は最高潮に不機嫌だった。生産が遅れた商品が現場の工程と折り合わず、フォレストハウスの担当との意見のすりあわせが上手く行かずに、メーカー変更による赤字が発生したからだ。俺の客先だとわかっているにもかかわらず、坂本は野口さんに興信所のデータを渡そうとした。
「なんで直接俺に渡さないんだよっ。俺があんたに何かしたのか」
思わず荒い口調で文句を言った。
俺、とんでもなくひどいことなんて言ってないよな?別に殴りかかりそうでもなかったよな?思わず、自分に確認する。
デスク越しに血の気の引いた坂本の顔がある。そして浮かんでいるのは、理解しがたい表情だった。瞳が光を失って口角が下がり、頬の辺りが引き攣れた顔だ。そう、怯えの表情。目の早い野口さんがすぐに気がつき、俺に目配せを寄越した後、何気ない仕草で坂本の視線を遮った。
なんだ、あれ。あの表情は俺に向けられたものか。坂本がパーテーションの外側に去っていくのを、野口さんと一緒に目で追った。
「なんかあるね、あれ。萩原君、本当に身に覚えない?」
「あるわけないじゃないですか!マトモに声聞いたこともないのに」
そこへ、津田さんが帰還した。新しい物件で山口さんと連動しているらしく、山口さんも一緒。野口さんが要領良く山口さんに話しているのを、横で聞いていた津田さんが何か思い当たったらしい。
「それ、何かフラバってんじゃないか。たとえば、萩原の声とかで何か怖いもの思い出すとか」
一斉に津田さんの顔に視線をあてる。
「らしくない分析。何事?」
「知恵熱出るんじゃないか?」
うわ、山口夫妻(入籍前)口揃えてる。
「ああ、ちょっと勉強したから・・・って、俺ってその程度なんですか、まだ?」
申し訳ないけど、俺にも意外だった。津田さんは一本気で裏表なくて融通が利かない人ってだけで、そんなことを調べるタイプには見えなかったから。ただ山口さんと野口さんは頷いただけで、そういう一面のある人だと知らないのは、俺だけだったらしい。
髪を下ろした坂本を見るのは、はじめてだった。普段は後ろで無造作に束ねている髪を、顔の横に垂らしている。まあ、女の子だし髪型くらい不思議には思わない。その顔に大きくガーゼを貼り付けていなければ。
顔の左半分、目尻横から頬にかけて貼られたガーゼから、覗く肌の色が不自然だ。朝に顔をあわせた瞬間、通常挨拶もしないことを忘れて、つい声を出した。
「なんだ、その顔?」
驚いた分、声は大きかった。
ひぃ、喉が引き攣れる声が漏れた。そして、小さく顔を庇うような仕草。俺が今にも殴りかかる気配を持ってでもいるかのようだ。
そして、そのあと気がついたように表情を立て直し、下を向いたまま自分の肩を抱き、足早に去っていった。まるで、俺が坂本に悪意を持って怖がらせたみたいだ。
悪意や嫌悪感を持つほど、坂本を知らない。坂本だって、俺のことを知っている筈はない。萩原の声で何かを思い出すとか、と津田さんは言っていたけど、その予想は外れていないかも知れない。
「なーんか坂本さん、自転車で顔から転んだって言ってたけど。どんな運動神経なんだろうね、それ」
隣の部署の女の子が笑いながら言うけど、俺はそれに納得しない。坂本は俺に向かって、顔を庇う仕草をしたんだ。もしも津田さんの予想が当たっているのだとしたら、あれは誰かに危害を加えられた形だ。
殴られたか何か。ガーゼの下から覗いた肌の色は、黄色味がかっていた。多分、内出血してるんだ。
女の子が内出血するほど殴られる?誰に?
おお、怖い怖い。こんなこと考えたって仕方ない、俺には無関係のヤツなんだから。俺を見て怖がるんなら、顔を合わせなければ、お互い不愉快でなく万事解決。変に気にしちゃって、頭突っ込んだらトラブルの元。
関係のない女の子に気を取られるほど暇じゃないし、不自由もしてない。ただし身に覚えがないことで嫌われるのは、面白い筈がない。