藁くずくらい
坂本が仕事を休んだと聞いた時、なんだかヘンな胸騒ぎがした。ここしばらく急な欠勤はしていなかった筈だし、別に具合が悪そうだったわけでもない。
なんだか気持ち悪い。
翌日坂本は出勤しては来たが、いつかみたいに履きつぶしたスニーカーを履いて、いつかみたいに表情が消えていた。朝の給湯室でパーコレーターを見つめている坂本を見て、ぞくっとする。
「おっはよー」と陽気に歩いてきた野口さんを捕まえて坂本の異変を告げると、昨日の段階で既に動いていたようだ。
「妹さんの迎えを断った途端、すぐだよ。ストーカーだね、あれ。でも、今回はヤツの負け」
こっちに来いと野口さんに引っ張られてついて行く。
野口さんが鞄から取り出したのは、ICレコーダ。
「それ、こないだ会議用に買ったヤツじゃないですか?」
「しばらく会議に使う予定なかったもーん。ひとりで帰ってみるって聞いたから、持たせといた。データ、私のPCにばっちり。診断書もしっかり」
俺、野口さんは敵にまわしたくありません。
「訴えんの?」
「とりあえず警察に被害届けは出した。多分告訴はしないけど、警察からの連絡で震えあがるでしょ、ザマミロ。これでヤツは解決だわ」
そりゃ良かったけど、坂本がまた壊れちゃってるじゃん。
「問題は、坂本さんのメンタル面だね。カウンセリングだけじゃなくて、全肯定してあげられる人がいれば良いんだけど。ま、会社じゃ無理か」
野口さんが何気ない顔で言う。微妙に操作されてる気が、しないでもない。
全肯定っていうのは、「あんたが正しい」って認めてやることだろうな。相談を持ち掛けられてでもいれば、まだ話は早い。だけど内に籠もって表情まで消えちゃってる人間に、そんなことしてやれる人はいないと思う。
何をしてやれって言うんだ?
給湯室から出てきた坂本に、野口さんが声をかける。
「おはよ、坂本さん。コーヒー落としといてくれたの?お当番じゃないのに、ありがとう」
坂本がゆっくり顔を上げる。
「おはようございます」
無表情は顔に張り付いていて、足は少し引き摺っていたけど、返事が戻った。
「気にしてるんだよ」ってポーズだけでも、受け入れられる気になるっていうのは本当なのかも知れない。
助けて欲しいなら、藁にだって縋るじゃないか。俺だって藁くずの一本くらいは持ってる。たとえ相手が坂本じゃなくたって、顔を見て挨拶くらいはするし。
うん。声が好みだの、怯えてなければ綺麗だのって・・・別、問題。
「おはよう」「ありがとう」「お疲れ様」
坂本と普段交わす言葉は、せいぜいこんなもんだ。厄介なトラブルと不安定なイメージが先行しちゃった坂本は、社内でも敬遠されてる。
派遣社員だし、今回期間延長になっても次回はないだろうって感じ。中途解約にならないだけマシ。会社組織なら、挿げ替えの利く派遣社員に気を遣ってやる義理はないからな。
でも俺は、なんかそれが惜しいような気がしちゃってるんだ。逆を言えば、居心地はけして良くないだろう会社に出社してくる気丈さとか、細かい心配りとか、棄て鉢になっていない芯の強さがあるんじゃないかな、なんて思う。俺なら多分「めんどくせー。どうせ次は更新してもらえないんなら、テキトーでいいや」って思う筈。
坂本の腰の怪我は意外にひどかったらしく、履き潰したスニーカーでの通勤は一週間以上続いたし、何日かぼんやりしてもいた。いろいろなことに対する反応が鈍くて、「聞こえてる?」なんて大きい声で言われて、竦んでいるのを見た。
「文句言いたい人から、ヤツアタリの対象になりやすくなってるんだよね。仕事はちゃんとやってるのに」
そう言いながら、野口さんも表立っては庇いだてしたりはしていない。
「派手な立ち回りなら、話を引き取れるんだけど。ちょっと上段に構えたいだけのヤツって、本人もエラそうにしてる自覚なくて、厄介」
「だから、なんで俺の顔見て言うんです?」
「主語のない話で、誰のことかわかってるクセに」
いや、わかってんだけどね。止めてください、誘導すんの。
「気の毒だけど、あたしもこれ以上何にもできないもん。身内でもないし、精神科医でもないし」
まあ、そりゃそうだろうな。
「山口君にも怒られちゃった。あたしもちょっと引き摺られて落ち込んじゃってたから」
「野口さんでも落ち込むんですか?」
でもってなんだ!と膨れる野口さんだって、怖い思いしたり気を遣ったりで限界だったのかも。山口さんなら「優先順位を考えろ」くらい言うだろう。
表立って守って欲しいなんて、坂本も思ってはいないと思う。だけど、普通に接することはできる。だって俺は坂本が笑う顔を知っていて、それが良いものだとも知ってる。もしもこの会社からいなくなっちゃうんなら、もう一度あの顔を見ておきたいじゃないか。
「あれ?髪切ったんだ」
一度ショートにしてから、肩のあたりまで伸びていた坂本の髪型が軽やかに変わっていた。
「色も入れたの?いいね、似合う」
「お上手。ちょっと気分転換です。明るく見えるといいなと思って」
ちょっと安定してる感じ。視線がぶれてない。ってことは、ほら、花がゆっくり綻ぶ。
「やだ、なんで笑うんですか?ヘン?」
「え?俺、笑ってた?」
「あっらー。萩原とうっかり口利くと、気がついた時は持ち帰られてるよ、坂本さん」
せっかくの会話の最中に、山口さんがずかずかと給湯室に踏み込んでくる。
「ごめん、うちの女の子休みだからさ、打ち合わせスペースにコーヒー三つ頼める?紙コップでいいや」
はい、と坂本が頷き、俺もカップにコーヒーを入れて給湯室を出る。通路に出ると、山口さんはにやりと笑った。
「お邪魔した?恨むなよ?」
はい、邪魔でしたけど・・・なんか遊ばれてる気がするんだよな。
津田さんに注意されてから、施工中の現場に何度か顔を出した。はじめ迷惑そうだった工事業者は、顔を出してるうちに話してくれるようになった。先日は、遅れそうな工事の無理を聞いてくれた。
実際に顔を合わせていないときは「工期がずれた理由」を延々と聞かされていたのに、「やってみる」と融通してくれるようになって、ちょっと驚いた。そして現場の片付けと掃除を手伝うと、休憩時間にペットボトルのお茶なんか出してくれて、「元請けさんに雑用してもらっちゃって」なんて礼まで言われてしまった。
手伝った時間なんて三十分かそこらなのに、この態度の違い。
「トラブれば連絡が来るんだから、工事業者に全部お任せ」だと思っていると、実際は後手回しになるんだ。担当が現場を大切に思っていなければ、任された業者だって会社なりの対応しかしない。
「最終的には人間対人間」なのは本当だ。
営業の合間に現場にマメに顔を出す津田さんを、要領が悪いと思っていた俺は大馬鹿だ。同行営業の頃、散々それを見ていた筈なのに。根拠のない小手先のプライドが、根元からポキリと折れた気がした。
坂本は、知ってる。
ちゃんと自分と向き合う気があるかどうか、無意識に測ってる。ないがしろにされてきた自分の感情を、見せる相手が欲しいのかも知れない。友達との連絡も禁じられていたなら、全部自分の中に取り込むしかなかったろう。多分、親や兄弟には相談できない事柄だったろうから。