ヨクデキマシタ
「経費精算お願いしまーす」
経理に伝票を提出した時、坂本が「預かります」と受け取った。
「あ、仮払いはありました?そしたら、それを確認してからですけど」
「今月は仮払いしてないと思うんだけど。ちょっと見てくれる?」
やりとりの間、津田さんが言ったことを思い出していた。
顔を見て話せ。
坂本がモニタを確認し「マイナスなしですね」と顔を上げると、視線がモロにぶつかった。
「経費が出たら、持って行きますから」
相手の顔を見て話すってことは、自分の表情もさらすってことだ。ぶつかった視線の坂本の瞳に、俺の顔。これって、あんまりに無防備じゃないか?
「じゃ、よろしく」と経理のブースから出て、ドギマギする。
営業先から夕方帰社すると、伝票とリサイクル封筒を持って坂本がデスクまで来た。
「早かったね。これで今日はちょっとリッチ」
「自分のお金が戻っただけでしょう?」
ふわっと笑う坂本の顔を、正面から見た。
「サンキュー。今度何か奢る」
「期待しないで待ってます」
あ、なんか自然な会話だ。坂本が警戒してない。坂本が俺のデスクから離れた後、津田さんがぼそっと言った言葉は気に喰わなかったけど。
「ヨクデキマシタ」
「視線を合わせる」イコール「あんたと意思疎通する気があるんだよ」なんだな。
そういえば、疚しい時は視線が斜め上を向く。(自分の脳の中を無意識に覗く仕草なんだそうだ)他人と話す時に何回か、意識的に視線を合わせたり避けたりしてみた。相手の反応が驚くほど違う。流してしまうような話でも、相手の表情と言葉が同時にインプットされて、記憶に残りやすい。
知らなかった。気にしたこと、なかったから。
「目は口ほどにものを言うって言うだろ?あれ、赤ん坊相手だと本当なの。だから、意識したのは最近」
「おお。父としての成長」
津田さんはでっかい手で俺の頭を叩いてから、続けた。
「ワルサした時、ダメッ!て闇雲に怒ると、ぎゃーって泣くんだけどさ、屈んで同じ目線で叱ると赤ん坊なりに納得すんの。大人も同じだと思うよ」
納得できるような、できないような。確かに津田さんは一見から「話しやすそうな人」で、それは「なんでもかんでも顔に出る」せいかと思ってたんだけど。
「で、推測。坂本さんは、殴られないか殴られないかって、彼氏の顔色窺いながら動いてたと思う。だから『私に対して腹を立てていないか』ってのが気になるだろ。敵意のない表情見せれば、それで解決」
「あ・・・」
剥き出しの敵意ってのは、面と向かっては表しにくい。だから「顔を見て」なのか。
「・・・津田さんって、オトナだったんですね」
「俺、おまえにまで子供だと思われてたわけ?」
思ってました。作為の持てない津田さんは、子供っぽい。そうか。「子供みたい」っていう言葉は、子供には使わないね。俺って、心底何にもわかってないのかも知れない。
帰りに「メシ食ってく?」と何人かで話していた時、坂本が横を通り抜けて行った。
「坂本さんも一緒に行かない?女の子、ひとりだけになっちゃうから」
隣の部署の営業事務の女の子が、ひとりポツンと混ざっていた。
「ご一緒していいんですか?」
「いや、ご一緒してもらいたいから、誘ってんだけど」
嫌がってはいない。顔を見てるとわかるもんだな。
「待ってるから、上着持っといでよ。『桂林』で焼きそば食おう」
はい、とロッカールームに入った坂本は、一分もしないうちに戻ってきた。
女の子なら、靴履き替えたり化粧直したり、それなりに時間がかかるもんだろ。みんなそのつもりで、喫煙室で煙草に火をつけちゃったヤツまでいる。
「仕度、早いねえ」
「お待たせしたらいけないと思って」
軽く切らした息に、何か思い当たりそうになって、そのまま頭の隅に流した。
「急に声かけたんだから、坂本さんのペースでも誰も怒んないって」
「すみません」
坂本の侘びの言葉が本音だと思うのは、表情を見ているからだ。
「謝る必要なんかないっての。さ、行こ行こ」
集団で連れ立って、会社近所の中華料理の店に向かった。
何を食べるか、なんてメニューを広げて、ついでに何本かビールも頼む。
「坂本さんも選んで」
メニューを差し出された坂本が、表情を曇らせるのが見えた。選ぶのが苦手だったなと思い出して、坂本に聞こえるように他に声をかけた。
「大皿でいくつか頼んで、割り勘しようぜ。その方がいろんなもの食べられるし」
賛成した何人かが料理と小皿を次々頼んで、ビールを注ぎ始める。
「坂本さん、まだメニュー見てるの?何か食べたいもの、あった?」
女の子が声をかける。
「えっと、この、蟹豆腐を、頼んでも、良い、かな」
一言ずつ区切りながら、不安そうな声の注文。
「あ、私もそれ好き!頼も頼も」
女の子の陽気な返事に安心したように、坂本はメニューを閉じた。なんだか大仕事を片付けてほっとしたような顔で。ここまで自己主張が弱いのって、やっぱり変な感じだな。仕事の上での「できる・できない」は、結構はっきりしてるんだけど。
ああ、そうか。経理ではあいまいな処理は考えられないもんな。自分で決めるのでなければ、良いのか。
一時間半かそこらだったと思う。
「紹興酒に変える人!」「はーい!」
そんな声の中で、坂本は時計を見ていた。何か言いたそうだが、どう声にしていいのかわからない感じ。俺も別に、どうしてもそこにいたいってわけでもなかったので、上着を羽織った。
「俺、明日現場だから、先に帰るわ」
千円札を何枚か出す。
「あ、じゃあ私も、お暇します」
坂本が立ち上がった。やっぱり帰りたかったのか。
「坂本さん、萩原に食われないように気をつけてねー」
「どアホ!俺に食われる女は光栄じゃ!泣いて喜ぶわ!」
「そりゃ、失望の涙だ」
まだ残っている人間に手を振って、店を出る。坂本は店の前で待っていた。
「帰りたかったんだよね?言い出せなかったんでしょ?」
意識して顔見て話せって言われても、こんなことは顔を見たら言えない。
「え?萩原さん、明日現場だからって。私のせいで途中で抜けたんですか?」
私のせい、っておかしいだろ。加害妄想チックというか。
「いや、現場なのは本当。坂本さんのためじゃないよ」
坂本は足を止めて、真剣な顔で俺を見た。
「ありがとう」
表情に吸い寄せられて、視線が外せなくなった。
「萩原さんのこと、怖がったり避けたりしてたのに、萩原さんには一番嫌われても仕方ないのに、何度も助けてもらった。こんな風に気も遣ってもらっちゃって、本当に感謝しなくちゃ」
止してくれ、居たたまれないから!
「だーかーらー。女の子に気を遣うのは下心。一緒に帰ろ?」
「それは、謹んでお断りしときます」
これは、迷いもなく即答だった。