やっと笑った
坂本がどこかおかしいと思ったのは、俺だけじゃなかった。
「喜怒哀楽が激しいって言うか、視界が狭いって言うか。絡み難いのよね、あんな子だっけ?」
女の子たちからは、何回か聞いた。
「うるせえんだ、派遣のクセに。やたら細かいところで感情的になって」
男からも聞いた。坂本の評判は、著しく悪くなった。
「コピーを使った後は、リセットしてください。後の人間が気がつかないで、何枚もコピーしちゃいますから」
会議資料をコピーした後、入れ違いでコピー機の前に立った坂本に注意された。
「悪い、忘れた。でも、使う前に気がついてくれたんだからいいじゃん」
悪意のない普通の返事・・・だと思う。
「気がついたから良かっただけでしょ!気がつかなければ三十枚もコピーしてたところだわ!」
いきなりの剣幕に、口が開いた。
「ごめん。なおしといて」
そんなに声を荒げるようなことしたかよ、と思いながら、女の子相手に言い返す気はないので、とりあえず詫びてコピー室を出た。
なんだか腑に落ちない。他人の茶碗まで洗っちゃう坂本が、白い梅みたいな坂本が、あんな言い方はおかしい。取り返しのつかないミスをしたっていうんならともかく。
「坂本さん、最近変じゃないですか?」
野口さんに話しかけると、「まあね」と軽くあしらわれた。どう見ても、おかしいのに。
給湯室で、紙コップを指先で小さく引きちぎっている坂本を見る。指の先が白くて、大変な力が入っていることがわかる。なんかちょっと鬼気迫る感じで、いつもなら見て見ぬフリをするところ。
―基本的に他人のこと、どうでもいい人だもんね。
いや、気になることは気になってんだぞ。
「何か怒ってるの?」
言葉にすると、その後につきあわなくちゃならない気がして、声に出してなかっただけだ。声に出しちゃったけど。
「なんでもないんです、ちょっと」
「ちょっとにしては、ずいぶん細かくしたねえ」
お軽いのは俺の信条、どうでもいいような仕草で自分のコーヒーを入れる。
「腹に溜めこむと、身体に悪くない?王様の耳はロバの耳で、聞こうか?」
坂本は俯いてまだ紙コップをちぎっていた。
「ごめんなさい。この頃、感情の抑制がきかないんです。怒ってる内容なんて、ないんです」
手は休まらず、ゴミ箱から違う紙コップを拾ってちぎり始める。
「落ち着いたら席に戻ります。ありがとうございます」
頭は冷静なのに感情だけが昂っている、そんな印象で、なんか痛々しい。
「いいんじゃない?普段の坂本さんは気ばっかり遣ってるし。それくらいでバランスとれるって」
なるったけ深刻にならないように、それだけ言って給湯室を出た。良かったのか悪かったのかは知らない。
坂本がひとりで歩いているのを見て、つい後ろから声をかけた。
「どうしたの?誰かと一緒に帰らないの?」
「お断りしたんです。そろそろ自分だけで大丈夫だと思って」
「ヤツは?」
「この前萩原さんが、俺の彼女なんて言ってくれたから、私もそう言おうと思って」
坂本はふふっと笑った。
「新しい彼がいれば、彼も迂闊には引き摺ったりできないでしょう?」
「じゃあ信憑性高めるために、お茶にでもつきあって貰おうか」
「噂通りですね。私、話すのヘタですよ」
なんの噂だか、想像はつくんだけどさ。社内の女の子を持ち帰ったことはないぞ。
「大丈夫ダイジョーブ。俺が坂本さんの分まで喋るから」
チェーンのコーヒーショップに入り、オーダーを決めるためにメニューを眺めた。
「決まった?」
坂本は困った顔でメニューを眺めていた。
「萩原さんは何をオーダーするんですか?」
「俺?ストロング。何がいい?奢るよ」
しばらく迷った顔をした坂本は小さく、同じで、と呟いた。トレーを受け取って席まで運び、向い合せに座る。一口飲んでから、坂本は大量にミルクを入れた。
「もしかして、強いコーヒー苦手なんじゃないの?」
坂本は困った顔をして、しばらくしてからこくんと頷いた。
「ごめんなさい」
「いや、謝られるようなことじゃないけど。優柔不断な方?」
あ、俯いちゃった。なんだかまずいことを言ったらしい。
「判断してから、口に出すのにタイムラグがあるんです。ごめんなさい」
あ、まずい。落ち込ませちゃった。楽しく会話するつもりだったのに。
「ゆっくり考えるのは悪いことじゃないでしょ?俺は決まったモノ頼んだだけだもん」
「ありがとうございます。気を遣わせちゃってますね、私」
「女の子に気を遣うのは、下心だもん。今日、一緒に帰る?」
坂本はふっと目をあげた。
「本当に日常的に言うんですね」
それから、やっと笑った。
――笑った。俺を見て、笑った。
やっと、俺に笑顔を向けた。自分の動悸をもてあますほど、嬉しくなった俺がいた。
本当に初デートの中学生みたいだ。坂本の興味を引きそうな話題を、次々に繰り出しては空回りしてる。坂本は口数は多くなくて、俺の話を一生懸命聞いてくれるんだけど、楽しませているのかどうかわからない。
コーヒーショップに入って三十分程度だった。そろそろ、と坂本が言い、一緒に立ち上がった。
「萩原さん、丸の内線じゃないんですか?」
「銀座で乗り換えるよ」
駅まで一緒に歩いて、なんとなく別れがたい気になった。坂本の薄い肩はやっぱり頼りなくて、次に何かあったら壊れちゃうんじゃないかと心配になる。楽しく遊べる相手じゃないぞ、ものすごく厄介なトラブルを抱えてる相手だぞと、自分に警告する。
津田さんの口ぶりだと、まだ全然解決なんてしてない、らしい。
そして、俺は不機嫌だった。フォレストハウスの女顔の担当に設計折込の不備を突かれて、急遽塗装が必要になったから。坂本が運悪く野口さんの席にいなければ、何でもなかった。
「萩原君、工事支払いの概算、出てる?」
「業者請求が来てないところが何件かあるんですよ。とりあえず、今急ぎで行くところがあって」
「じゃあ、見積もりから額面だけ拾いたいんだけど」
「帰ってからやりますって。口頭で額面聞いてるところもあるんで」
「メモにも残してないの?」
野口さんは正しい。俺は、一分一秒を争って出かける必要はなかった。だから、ただ不機嫌だっただけだ。
「急いでるんですって!経理だけの都合で動けませんよ!」
あっと思ったときには、坂本の顔は真っ白になっていた。
「すみません、ごめんなさい」
小刻みに震え始めた坂本を椅子に座らせ、野口さんは「もういいわ」と手で俺を追払った。俺か?今、坂本を怯えさせたのは、俺?