SHOKU
城木豊・36才は、今日も会社へ向かう電車の中。
季節は夏。海水浴にプールにドライブ。キラキラとした恋の季節とも言えよう。
しかし豊は生まれてこのかた恋人というものを持った事がない。
運よく今朝は座れた豊は比較的混んでいる車内で俯きがちにしている。
強く甘い香りがし、ふと目を上げた。人3人分ほど向こうに10代と思わしきカップルがイチャイチャしている。彼女の香水の匂いだろうか。
仲睦まじく……というか、公衆の面前でキスまでする余りにもホットなカップルをチラチラと見る豊。
(ハ~、オレにも恋人が出来たら良いのになー……)
やるせないため息をつく。
*
――――「おはようございます」
「おお、城木君、おはよう。この間の企画、良い感じだね。部長が痛く気に入ったようだ」
「そうですか。ありがとうございます」
「城木さん、おはようございます。これ、今日の書類です」
「ありがとう」
20代の女性社員が豊のデスクに今日の仕事の束を置いて行った。
(可愛いけどな~)
豊にとって、オフィスの多くの独身女性は輝いて見えない。フレンドリーに接し合う仲間がいたとしても妹感覚だ。
決して恋愛対象にはならない。
*
豊は言わずもがな成人男性、男盛りだ。
帰宅し、リラックスするとパソコンにて、たまには成人向けの動画なども見る。
ある夜もそういった時間を満喫していると、画面の広告にふと目が行った。
『マッチングアプリで素敵に出逢ってみませんか!』
「これだ! オレとした事が盲点だった」
豊はタバコをもみ消し、前のめり気味になりつつサイトに登録した。
なにやら男性だけ費用が掛かるという。しかし高給取りとまではいかずとも、取り立てて趣味もない豊は余裕のある生活が出来ている。月7000円で恋人を作られるかもれないのなら有効なお金の使い方だと判断する。
これまで彼女がいなかっただけでなく、インターネットで恋人を探すという経験も初めての豊。
一生懸命説明に従い、自分の出会いたいタイプの女性の特徴・条件にチェックを入れて行く。
(オレぐらいの年齢の女性がいるのだろうか。こういうものは20代までの若い人向けなのかな?)
わからない事だらけだ。
しかし、説明に従って行くと、なんと70代以上のパートナーも探せると知り、豊は驚いた。
自分が出逢いたいタイプの女性を探すため、スタイルや居住地など、項目ごとにチェックを入れて行く……。
「長い黒髪の女性が良いな~。近隣、関東住まいの人が良い。ンー、グラマーな人が好きだな」
そうして出て来た女性たちのプロフィール。顔写真やその人その人の好きな事柄などが明記されたものがたくさん出て来た。
「翠さん、綺麗だな~」
暫しパソコンの前でうっとりと固まる豊。
『翠です。まずはお友達から始めませんか。人見知りの性格ですが、慣れて来るとおしゃべりになります』
なんとも愛らしい自己紹介が記載されている。
なによりも豊は直感的にこの女性に目を奪われた。
アプリの説明通り『ハートのマーク』をポン! と押した。これは相手に対する自己アピールである。相手も気に入ってくれればハートマークが返って来、マッチングが成立となるらしい。
『翠さん』を見つけた後豊は、もう他の女性のプロフィールを見る気がしなくなった。
彼女の写真から醸される色香と瑞々しさ、優しい雰囲気にときめいた。
色白で切れ長の瞳、日本美人だ。艶やかな黒髪が麗しい。年齢は30才とあったがとても若く見える。
「翠さん、ハートをくれたら嬉しいな」
ちなみに豊のアプリ内のニックネームはサキタだ。そんなに考えずに決めた。
他のSNSなどをぼんやり見ては、またマッチングアプリのページに戻り、翠さんからの反応がない事を知ると、今度はショッピングサイトを眺めたりしつつ豊は翠さんから嬉しい返事が来るのを待っていた。
約1時間後、翠さんからハートが付いた!
チャット画面が出て来た。どうやらここで翠さんと文章のやり取りが出来るらしい。
『初めまして、翠さん。サキタと申します』
『こんばんは、サキタさん、翠です』
サキタこと豊は少し待ってみたが、それ以上翠がなにも言わないので会話をリードした。
『ありがとうございます、ハート。オレ、こういうのが初めてでシステムがよくわかっていないのですよ。失礼があったらすみません。先に謝っておきます』
少しの沈黙の後『お優しいのね、サキタさん』と誘うような甘やかな言葉の翠。
続けて翠が話し始めた。
『あたしも初めてなの。でも初めてでこんな素敵な方とお逢い出来て嬉しい……』
胸の高鳴りを抑え切れない豊だ。
『オレも嬉しいです。オレは、毎日オフィスワークに精を出しています。安定していますが変わり映えしない毎日です(笑)』
豊は翠となんとしてもお近づきになりたく、積極的に自分から打ち解けて行った。
すぐに翠から返信が来た。
『毎日のお勤め、お疲れ様です。あたしは今のところ実家暮らしでゆっくりと休職中の身です』
なにか、彼女からはたおやかでおっとりとしたムードが感じられる。豊にとってドストライクの素敵な女性との印象だ。
『そうですか。あの……翠さん、お写真を拝見しました。とてもお美しい、可愛いですね。まるで少女のようです』
『嬉しいです! そんな風に言って下さって、サキタさん……。あの、サキタさんは凛々しくてかっこいいわ』
「あ」
パソコンの前で思わず声を出す豊。魅力的な女性に褒められ大興奮である。
(翠さんの声が聴きたい。しゃべりたい。もっともっと知り合い、深く近づきたい)
豊はなにかに取り憑かれたようにカッカと燃えて来た。
『翠さん、オレのROUL(連絡アプリ)IDをお教えします。出来ればオレは翠さんのお声が聴きたいです。気が向けばいつでもご連絡を下さいね。もちろん、このサイトだけでコミュニケーションをするのでもオレは嬉しいです。翠さんと仲良くなりたい』
『ありがとう、サキタさん。あたしもお教えしたいです、ID』
なんと翠からはそう返って来た!
「やったぜ!」
一人の部屋でガッツポーズを決める豊。
その上翠は『この後、サキタさんさえよろしければROUL通話でおしゃべりしません?』と言って来たのだ。
『はい、喜んで!』
『では、この後5分後ぐらいにあたしからサキタさんに電話しても良いかしら』
『はい』
豊は緊張と歓びで生つばをゴクリと飲み込んだ。
豊は別に翠に直接逢う訳でもないのに、鏡に向かいヘアースタイルを整え、顔の運動をし電話を待った。滑らかにおしゃべり出来るようにと。
そうこうしていると、豊の携帯電話が鳴った。
見ると翠からのROUL通話呼び出し音だ。
「はい、翠さん!」
「サキタさん、初めまして」
「あ、初めまして、翠さん。可愛い声だなー」
「うふふ。ありがとう」
翠の声を聴くと、今すぐにでも逢いたい衝動にかられた豊。しかしがっついているという風に見られると嫌われるかもしれない。必死で紳士的な対応を試みる。
「ありがとうございます。お電話を、翠さん」
「嫌よ。蓮美と呼んで欲しいわ」
甘えた声で彼女が言う。
「は、蓮美さん。ご本名でいらっしゃいますか?」
「ええ。あたしは中田蓮美と申します、サキタさん」
「あ、ああ、オレの本名は城木豊です。どうか豊と呼んで下さい……蓮美さん」
照れくさいが蓮美の名を呼んでみる豊。
「嬉しいわ。豊さん。あのぉ……」
「はい、蓮美さん」
「あたし、いきなりはしたないかしら……。とても恥ずかしいけど、豊さんにお逢いしてみたいです」
蓮美からはお色気がムンムン伝わって来る。豊が時々楽しむ大人向け動画の女優など目じゃない。磁石のように惹きつけられる。
豊は即答した。
「ええ。オレも蓮美さんにとてもお逢いしたい気分です。是非お食事でも」
すると蓮美はなにやら困っているのか、少し黙ってしまった。
(自分から逢いたいと言ったのに、どうしたのだろう?)
不思議に感じる豊。
蓮美は束の間黙った後話した。
「お茶にしませんか?」
豊は自分の知っている料亭に招待したかった。
しかし、蓮美はいざ逢える、と考えた時に、少しずつ知り合って行きたいと感じたのかもしれない。
「ええ、良いですよ、蓮美さん。ではカフェでお茶しましょうか」
「はい」
蓮美は都心から少し離れた街に住んでいると言う。自分はZ市だと豊が打ち明けると、驚く事に、蓮美は同じ市内に住んでいると判明。
「じゃあ、喫茶オリエンタル・オルゴールはいかがですか。あそこは落ち着いたムードで良い」
「あ、あたし、知っています。オリエンタル・オルゴール。あそこのブレンドコーヒーが大好きなの」
「そうなんですね!」
初デートは早速、明後日土曜日の10時にお店で待ち合わせ、と決まった。 豊の休日は(土)(日)(祝)だ。
「嬉しいわ、豊さん。少し恥ずかしいけれど……」
豊は蓮美から漂うセクシーでいて儚げなムードにやられている。
――――蓮美の声を初めて聴き、うっとりとした夜、そしてその翌日は、素敵な蓮美の妄想から逃れられず熱に浮かされたようにしていたから、豊は(あ、もう明日がデートなのか)と前夜、時間の感覚が狂っているのかと不思議を感じたほどだ。
帰宅時、オフィスから駅へ向かう際に通った大きな公園で、日暮れ後も蝉しぐれが聞こえており、豊のおでこの汗を更に滲ませた。
――――やって来たデート当日。
豊は少しゆるっとした黒のカットソーにライトグレーのアンクルパンツを合わせ、こなれ感を演出した。
(蓮美さんにカッコイイ男だと思われたい!)
『喫茶オリエンタル・オルゴール』は豊の自宅から車でほんの数分だ。
はりきり過ぎた豊は、9時35分には喫茶のテーブルに腰掛けていた。
蓮美を待つ時間すら楽しい。
ソワソワと落ち着かず、扉の辺りをずっと見ていた。
9時55分。見目麗しいレディーが店内に入って来て、すぐにキョロキョロし始めた。
(蓮美さんだ!)
豊はスマホで何度も何度も蓮美の写真を見つめていたものだから、すっかり顔を憶えていた。しかし、写真をはるかに上回るいい女だ。
束の間、扉の所にて人を探す風で動かぬその女性。
豊は奥の4人掛けテーブルから立ち上がり手を上げた。
「あ!」と蓮美は微笑し、足早にテーブルへ急いだ。
「蓮美さんですね」
立ち上がったままの豊がにこやかに声を掛けた。
「はい、蓮美です。豊さん?」
「ええ、そうですよ。オレ、城木豊です」
力が抜けたように蓮美は「良かった、間に合って。バスで来たのですけど、途中ノロノロ運転だったの」
愛らしい妖精のような蓮美が話す内容よりも、目の前の美に圧倒されている豊。
「す、座りましょう。蓮美さん、外は暑かったでしょう」
「あ、はい。バスはエアコンが効いていたけど、バス停から走って来ました、ウフ」
ウエスト近くまである緑の黒髪。クリームイエローの爽やかなロングのワンピース。スカート部はシアー素材で豊をドギマギとさせる脚線美が目映い。足元は紺色のヒールが低めのパンプス。なるほど、走れる訳だ。
微笑むとなくなるみたいに細くなる目、普段は黒目がちで澄んでいる。蓮美はまるで上品な猫のようだ。
店内は、休日のレジャー客が多いのだろうか賑わっている。
「蓮美さん、飲み物を注文しましょう。おなかがすいたらなんでもごちそうしますからね」
豊は内心必死だが、表面スマートにリードする。
一瞬にして表情の曇る蓮美。
「お飲み物だけで良いわ……」
自分のリードの仕方が強引だったのだろうかと気にし、豊は少し口ごもる。そして言った。
「あの、オレ、蓮美さんを喜ばせたいんです。だから、甘えて下さいね」
「はい、ありがとう」
ニッコリと涼風のように笑む蓮美。
窓の外は動かぬ油絵のように分厚い熱気を帯びている。
喫茶店の窓硝子から、道行く人々のしかめっ面、サラリーマンのカッターシャツの背中の大きなシミ、ぎらつく陽射しから感じ得る事が出来る。
――――しばらくすると注文の品が二人のテーブルにやって来た。
豊はアイスコーヒーを、蓮美はアイスミルクティーを頼んだのだった。
*
「蓮美さんがまさか、オレと同じZ市民だなんて驚きです」
「ンフ、そうね」
「地元でいらっしゃるんですか? 蓮美さん」
「あ……」
あまり踏み込まれると嫌なのだろうか、会話の途中時々蓮美は返答に困る。
しかし、少しし答えた。
「いえ、引っ越しが多かったものですから」
「そうですか」
豊は蓮美のこれまでの住まいについて深堀りしないようにしようと感じた。
「現在の住所はここよ」
蓮美は手帳を取り出し、丁寧に1枚ちぎり、住所を書き豊に渡した。
「あ、ありがとう。蓮美さん」
少し沈黙があり、蓮美が「あの……」と言い、頬をサッと桜色に染めた。
「はい」
なんだかドキドキしつつ豊は言葉を待った。
「あ、豊さんはこれまで……交際相手はいらしたのですか? ごめんなさい、ぶしつけな質問でしたね!」
蓮美は申し訳なさそうな顔をした。
「いえいえ。大丈夫ですよ、蓮美さん。オレはこの年になるまで恋人というものを持った経験がありません」
正直に豊は答えた。
蓮美が安心したような顔をした。
「あたしと一緒だわ」
蓮美はどちらかといえば内気な性格なのだろう。会話が長くは続かない。それで、二人のアイスコーヒーとアイスミルクティーは、透明なグラスの中ですぐに小さな氷だけになった。
「ああ、お飲み物、注文しましょうか? 蓮美さん」
「あ、いえ。ありがとう。お外へ行きたいわ」
豊は窓の外を見やり、炎天下を「外へ行きたい」とは……? と、女性慣れしない豊なりに考えた。
(なにも彼女は、過ぎるほどに眩しい太陽の下へ行きたいと言っているのではないよな)という答えに辿り着き「あの、もしも蓮美さんさえよろしければドライブなどいかがでしょう。オレ、車の運転が好きなんです」と言ってみた。
すると蓮美ははにかみ嬉しそうだ。
「はい、ぜひ連れて行って下さい」
「わかりました、蓮美さん。水辺はお好きですか?」
「ええ、大好きです」
「じゃあ、大きな湖へ行きましょう……。蓮美さんの瞳のように綺麗な」
勇気を出して小粋なセリフを言ってみた豊。直後気恥ずかしくなった。
しかしテーブルを挟んだ蓮美は瞳を潤ませ幸せそうに微笑んで見せた。
*
もの静かな蓮美だが、車中、少しずつ豊に心を開き始めた。流れ行く風景が開放感を増すのかも知れない。
「あたしは風が好きよ。ドライブが大好き。窓を開けても良い? 豊さん。充分車の中は涼しいわ」
豊は、蓮美にドキドキし過ぎ、エアコンの設定温度の事など頭から飛んでいたのだった。
「ああ、気が付かずにごめんなさい! 寒かったんじゃないの。大丈夫ですか? 蓮美さん」
「はい」
小さくクスッと笑う蓮美があどけない。
やがて溢れんばかりの緑を抱く湖が見えて来た。
「ここはね、蓮美さん、鍾乳洞があるの。蓮美さんさえ良ければ行きましょう。でも無理して車を降りる事はない。ドライブだけでもオレは今凄く楽しいです」
蓮美は「行きたい」と言う。
「うん、じゃあ行きましょう」
*
――――鍾乳洞の中は冷蔵庫の中のように冷ややか、それでいて神秘的だ。
「蓮美さん、足元が滑りやすいから気を付けてね」
右手を……伸ばす蓮美。豊を見上げ、小柄だが肉感的な蓮美が(繋ぎたい)とアピールする。豊はドギマギだ。
しかし、なるべくさりげなく左手を伸ばし、ギュ! と蓮美の手を握った。柔らかくて、今にも壊れてしまいそうなしとやかさな感触だ。
見ると、蓮美の首筋を汗が流れた。さっきまで涼しい車にいたのに、彼女も緊張しているのだろう。
豊はその汗が欲しいと感じた。
女性にこんなに欲情した事はない。
その時だ。
グ――――……。
蓮美のおなかが鳴った。
「あ、あたしったら」
豊と手を繋いだまま顔を真っ赤にし、蓮美が泣きそうな顔をする。
「愛らしいですね。可愛いですよ、蓮美さん。先にどこかで食事しましょうか?」
「いえ。おなかは空いていません」
その……『拒絶』とも言えるほどのキッパリとした物言いは、先程までの彼女とまるで別人格のようだ。
「そ、そうですか。それは失礼しました。蓮美さん、行こう」
豊は気を取り直し、そっと蓮美の手に力を込めた。
「はい」
俯きがちな蓮美が返事をした。
――――鍾乳洞の中は薄暗く、ミステリアス。この地球の幻想的な創造物に感動しつつも豊は、己の欲望に手を焼いていた。繋がれた蓮美の体温を感じながら。
(いけない。なんでこんなに10代の少年のようにムラムラするんだ?!)
そんな豊の葛藤を知ってか知らずか蓮美は、好奇心旺盛に瞳を輝かせ自然物の織り成す造形美に気を取られている風だ。
「ひんやりしてて、気持ちイイ」
豊はちょっぴりギクリとし「え!」と声を上げてしまった。
なにも蓮美は性的な事柄を訴えた訳ではないだろう。洞窟内が涼しくて快適だと言ったまでのはず。
蓮美がキョロキョロと楽しげに洞窟内の壁面に魅入っているのを良い事に、豊は存分に蓮美を観察出来た。
透明感のある美しい肌。艶やかで長い黒髪。薄化粧に見えるが、苺のように赤い唇。くびれたウエスト。その割には豊満な胸。
(ああ、オレは……蓮美さんをもっと知りたい。近づきたい。素敵だ)
「どうしたの? 豊さん」
視線に気づき、蓮美がそう言った。
その途端、キュル――――……!
空腹の豊のおなかの音がした。
「あ」と言い、蓮美は表情を曇らせた。
「ごめんなさい! おなかが鳴っちゃったよ」
「謝る事はないわ、豊さん。帰りましょう。おなかを空かせているのでしょう」
豊は『喫茶オリエンタル・オルゴール』でのやり取りを瞬時に思い出した。
(蓮美さん、オレと食事をするのをなぜ嫌がるのだろうか……。恥ずかしいのかな?)
豊の友人の彼女は、交際の初め頃『食べているところを見られるのを非常に恥ずかしがっていた』と友人が話していた事があった。
訳はわからぬが、嫌われたくない一心で豊は蓮美の言う通りにした。
「わかりました。帰ろうね、蓮美さん」
「うん」
――――帰路の車中では、無口な蓮美。疲れたのかなと思い、蓮美に合わせ豊もあまり話し掛けないようにした。
すると途中から、キュ~ン、グルル――――。二人のおなかからハラペコ虫が鳴き出し、二人で大合唱。
豊はなんとも気恥ずかしい。しかし蓮美は豊との食事を拒む。
頬を染め、いたたまれない表情の蓮美がなんだか不憫に感じられ、大きめの音でカーラジオを流す豊。
しかし、蓮美は豊に後ろ頭を向ける感じで、助手席の窓側へとなるべく顔を向け時々モゾモゾする。おなかの音を出さないように気を付けているのかもしれない。
「蓮美さん、どうしましょう? お家の近くまでお送りしましょうか、もう夜になっちゃいましたし」
Z市に入った頃豊が優しく声を掛ける。
「いいえ、待ち合わせた喫茶店で良いです。あたしのお家、あそこから近いから」
(蓮美さん、確かバスで来たと言っていたよな……)と思い、心配になった豊だったが、ファーストデートで、しつこくそんな事を言うと、家の場所を知りたがっていると警戒されてはいけないと思い、仕方なしに蓮美に従う事にした。
ちなみに豊は、蓮美に教えてもらった住所の辺りの地理には疎かった。しかしカーナビがあるので送る事などたやすかったのだ。
*
喫茶オリエンタル・オルゴールの駐車場へ到着した。
豊はラジオの音量を絞った。
「蓮美さん……。今日はとても楽しかったです。またお逢い出来ますか」
その瞬間だ。
グ――――……!
凄く大きなおなかの音が蓮美からした。
「失礼します!」
蓮美は逃げるように慌てて車を降り、1つ目の角を曲がり姿を消した。
豊は不可思議な感覚を憶えながらも、やはり彼女の怖い程の誘引力に夢見心地となっている。
『おなかを空かせても食べない蓮美さん』に頭をひねりながらも、素晴らしい女性に出逢えた幸福感に満たされたままハンドルを握り、帰途を辿った。
――――豊は帰宅し、なんとなく携帯電話を取り出した。
見ると、蓮美から早速ROULメッセージが届いているではないか。
『豊さんへ 今日は、素敵な時間をありがとうございました。あたし、凄く嬉しかった。豊さんはどう感じられたかしら……。あたしは豊さんにまたお逢いしたいです』
空腹などそっちのけで思わずガッツポーズの豊。
リビングのソファーに腰掛け早速返信を送る。
『蓮美さん、嬉しいお言葉をありがとう。オレも……蓮美さんとのデートがとても楽しかったです。また早くお逢い出来たら嬉しいです』
本当はもっと情熱的な言葉を並べ立てたい。そこをグッと我慢だ。引かれてはいけないと豊は気を付けている。
蓮美からの返事は来ない。
豊はまず炊飯ジャーのごはんを丼に思いきりよそい、お茶漬けの素とポットのお湯を入れかき込んだ。おなかと背中がくっつきそうなほどペコペコだった。
そして風呂に入りスッキリとした。
バスルームから出て、パジャマに着替え、すぐに携帯を手に取った。
蓮美からの返事が待ち遠しい。
「あ!」
蓮美からのROULだ。メッセージを開く。
『うふ。嬉しいわ、豊さん。今度のお休みはいつ? あたし……豊さんのお部屋に遊びに行ってみたいわ。こんなことをいきなり言い出す女はお嫌いですか?』
(ウェルカム!)
心の中、大声で叫んだ豊。
彼女と仲良くなりたくてたまらない豊にしてみればこの上ない喜びだ。
『嫌いな訳ないじゃないですか! 素敵な蓮美さん……。オレは、あなたをもっと知りたいです』
次の返事はすぐにやって来た。
『とても嬉しい』
たったひと言だけ。そのしおらしさに豊は胸を高鳴らせている。
『蓮美さん、お声が聴きたいです。今、お電話しても良いでしょうか?』
すると蓮美は『良いですよ』と返して来た。
エアコンが効いている部屋なのに、身体が火照り、額がまた汗ばんで来た豊。急いで彼女の番号をタップする。
「はい、もしもし」
「あ、蓮美さん」
「豊さん、お電話をありがとう」
――――2回目のデートの日にちはすぐに決まった。なんと、明日だ。日曜日。
「喫茶オリエンタル・オルゴールまで迎えに来て下さる?」と蓮美。
(男の家に遊びに行くというのに、その男に自宅は知られたくないのか……)
豊は、蓮美は非常にデリケートなのだろうかとあれこれ考えた。その割にはウチに来てくれるのだな、と。
それにしても豊は舞い上がっている。
「ええ、お迎えに上がります。では店内に……何時にしましょう?」
「あたし、早く豊さんにお逢いしたいの。8時なんて早過ぎますか?」
「いえいえ、オレも同じ気持ちだから……。じゃあ8時にしましょう」
「はい」
*
その夜豊は、遠足前の子どものようにソワソワとなかなか寝つけなかった。
――――翌朝。
豊は午前5時に起き、ベッドカバーとシーツを変えた。
無論男としての欲望が疼くゆえだ。しかし、豊は蓮美が愛おしい。それだけだ。
(あ、そうだ)とシーツを変え終わった豊は思った。
(存分に腹いっぱいにしておこう)
それは、蓮美がなぜか豊との食事を嫌がるからだ。蓮美も、きのうのようにおなかがグーグー鳴らぬようたくさん食べて来る事だろう、豊はそう考えた。
豊はレトルトのカレーを2人前分、山盛りの白米に掛けて食した。
*
喫茶オリエンタル・オルゴールの扉近くの席に蓮美は座り、アイスコーヒーを飲んでいた。
「蓮美さん」
「豊さん、ありがとう」
桃色のミニスカート、ストッキングを履かない素足。赤いサンダル。レース使いの白い半そでブラウス。今日の蓮美もどこから見ても美しい。長い髪を今日は右斜め横の高い位置でポニーテールにしている。
しばらく彼女に見惚れつっ立っていると、蓮美が「行くわ」と言った。しかし、グラスにはアイスコーヒーが半分以上ある。
「良いよ、蓮美さん。ゆっくり飲んで下さい」
「嫌よ。早く豊さんのお家に行きたいです」
そう言い、蓮美はチューッと、ストローをすぼめた唇で包み込みアイスコーヒーを飲み干した。
「うん、わかりました。蓮美さん」
*
――――緊張の面持ちの愛らしい蓮美を家に招き入れた。
オレンジジュースをグラスに注ぎ、ソファーに隣同士で腰掛けた。
「美味しいわ。のどがまだ渇いてた」
蓮美がニコッと豊のほうを見た。
豊は……我慢出来ず、蓮美の華奢な左肩を抱いた。
見つめ合う二人。
そして豊と蓮美は狂ったように愛し合った。
豊は、恋人はいないが玄人さんのいるお店で経験があった。しかし、豊にはわかった。蓮美は初体験だったのだなと。
その後も二人はお昼までベッドの上で、撫で合ったり触れ合ったり愛を謳歌した。
朝、思いきり食べたせいで豊はランチタイムになっても空腹にならなかった。今日は蓮美のおなかの音もしない。
二人は見つめ合い黙っている時間が長い。互いの目に映る自分を確かめて、さだめという言葉を相手の瞳に探している。
なんとも幸せそうな顔をしている滑らかな肌の蓮美。色黒の豊と対照的だ。
二人はともにシャワーを浴び、リビングでひと息つく事とした。
「コーヒーのほうが良いかい? 蓮美」
思い切って呼び捨てをしてみる豊。
「はい、豊。アイスコーヒーを下さい」
至極自然に蓮美は同じく呼び捨てで返して来た。
一つに結ばれた事で二人がリラックスしている。
グラスを2つテーブルに置いた豊が蓮美の隣に座った。
「蓮美、好きだよ」
「あたしもよ、大好き。豊」
そしておもむろに蓮美が言った。
「豊? あたしの事が知りたいのね。きのうそう言ってくれた」
「うん、とても知りたいよ。そうして蓮美とこれからうんと幸せになりたい」
蓮美は一口アイスコーヒーを飲んだ後、少し俯きがちに話し始めた。
「あたしは、これまでずっと引っ越しが多かったんだ。子どもの頃からよ。するとね、上手に人とコミュニケーションが取れなくなって行ったの」
豊は今蓮美の頭を撫でている。黙って聴いている。
「でも、豊に逢えたから嬉しい。なんだか力が湧いて来るの。きっとあたし、人とも上手くやって行けるようになる」
「うん」
豊は穏やかに返事をした。
「豊のお話しを聴かせて」
「オレ? オレは平凡なサラリーマンだよ。あ、鞄の製造会社の本社で事務をやっています。企画とね」
「そう。素敵ね、鞄の会社なのね」
「うん。昔から鞄や財布が好きなんだ。作るほう、職人になりたかったぐらい」
「へ~」
目を丸くして頷く蓮美。
「あたしはこれから、どんなお仕事をしようかなー」
「そうだね、蓮美はとてもエレガントだからデパートの店員さんとか似合いそう」
「うふふ。ありがとう。でも、あたしには接客業は向かないかな。人が怖いわ」
その時、豊は蓮美のおしゃべりを丁寧に聴いてあげようと思った。
「うん。そうなんだね、蓮美」
「虐められっ子だったの、ずっと。だから人が怖いし、上手く付き合えないのよ」
豊は、この繊細な女性を離すものかと思うと同時に、悲しい思いをして来たのかと胸が痛んだ。
「パパとママは昔から優しいのよ。学校でずっと意地悪をされ続けていたの」
豊は決して更に彼女を傷つけたくはない。だから聴くだけだ。なにをも問うたりしない。
「あ、ああっ、うぅ……」
蓮美が泣き出してしまった。
(可哀想に!)
豊は包むように蓮美をそっと抱きしめた。
その刹那。
部屋中がセピア色に変わった。
(え!?)
しかしそれはほんの数秒の事だった。疲れ目だろか?
顔を上げキスをねだる蓮美に口づける豊。
これからもずっと蓮美を守り続けようと胸に誓った。
蓮美にはさっきの部屋の変化は見えなかったらしい。俯き泣いていたのだから。
しかし、口づけた後泣き止んだ蓮美に要らぬ事は言わずにおこうと思った豊。
「ねえ、豊……」
一生懸命笑おうとしている表情の蓮美。
「うん? 蓮美」
「今度は海へドライブに行きたいよ」
「良いよ! 行こうね、蓮美」
――――その後二人は、海ならどこが良いかな~、とか、テレビで放映されている連続ドラマについてとか、蓮美の左右の足のサイズがかなり違い靴選びに困るのだという話、はたまた豊は、ニューデザインの鞄のアイディアを蓮美から拝借したり……と話し込んでいるうち、知らぬ間に夕暮れがやって来た。
さすがにおなかが減ってきた豊。(腹減ったな)と思っていると、キュルゥ――――。
蓮美のおなかの音がした。
豊は、思い切って言った。
「蓮美、おなか空いているんじゃない? オレ、料理好きなの。オムライス食べない? 作るよ」
「あ……」
蓮美の表情は前ほど憂鬱そうではない。
「あ、じゃあ、お願いします。豊に甘えるね!」
「うん」
冷蔵庫には玉子・玉葱・人参・鶏モモ肉・マッシュルーム、そしてブロッコリーもあった。ブロッコリーはサッと茹で塩を振り、オムライスに添えよう。
豊が調理を始めると、蓮美はソワソワと落ち着かない素振りが目立った。
(よっぽどハラペコなのだな)と豊は思った。
ブロッコリーを丸ごと茹でた。豊流だ。少ないより多いほうが良い。残れば翌日も豊が食べれば良いだけの事。
大き目のオムライスにケチャップでハートを描くという茶目っ気を出す豊。
蓮美が笑ってくれるかと思った。
しかし蓮美は笑っていない。真剣な表情で、皿に載ったオムライスとゴロゴロ転がっているブロッコリーを凝視している。
異様なムードを彼女から感じ取った。しかし豊の蓮美への愛情はなんら変わらない。
――――「いただきま~す」
蓮美の変化に気づかぬ振りをして、豊が明るく声に出し手を合わせた。
次の瞬間、豊は自分の目を疑った。
結構な玉子の量、ごはん多めのオムライスを、手掴みで貪り始めた蓮美。
手と口の周りはケチャップだらけ。
クチャクチャと音を立て一心不乱にオムライスを食らう蓮美。蓮美が余りにも美女であるゆえにグロテスクさがかえって増す。
ガツガツと獣のように食べている。
あっけにとられる豊。
その豊に向かって「ブロッコリー、食べないの? 豊。要らないなら頂戴」
豊が返事をし終わらぬうちに蓮美は、豊の皿に手を伸ばし、3切れのブロッコリーを鷲掴みし口へと放り込んだ。
ムシャムシャと集中しているので、あっという間に蓮美の平皿は空になった。
ただただ、目を見張るだけの豊。
仕上げに皿を持ち上げベロベロと舐め上げる蓮美。
豊は衝撃を受け言葉を失っている。
「おかわり!」
「え」
「おかわりを下さい! と言っているの、豊」
「あ、蓮美、そんなに食べると思わなかったからもうないんだ」
ごはんは約2人前、具のしっかりと入ったオムライスだった。おまけに豊のブロッコリーも半ば強引に取って食べてしまった蓮美。
リラックスしてくれている事は嬉しいが、蓮美がこれまで醸していたイメージからは想像もつかぬ下品さ。
しかし今の豊にはそれすら可愛い。おなかの音を鳴らし、我慢してこわばっている彼女は気の毒だ。よっぽど今のほうが健康的じゃあないか。
「たったこれだけじゃ嫌よ! 足りないわ! 全然足りないわ! おなかがすいた。おなかが……!」
「わかったよ、蓮美。カップラーメンがあるはずだ。今すぐ作るね」
「ええ、早くして頂戴!」
――――カップ麺が出来上がると、物凄い勢いで汁を飛び散らしながらフーフーと麵を冷まし、ズズズズズズッと啜っては喉に流し込む蓮美。
鬼気迫る表情で無心に食べている。
カップ麺の汁までゴクリゴクリと飲み干すと「もっとよ! おなかがすいた。おなかが! 豊、助けてっ」
狂乱する蓮美。
「蓮美、大丈夫か。落ち着いて。食べ物はあるよ、大丈夫だよ。今支度する!」
遂には泣き叫んでいる蓮美を強く抱き締める豊。
(過食症かなにかの病なのだろうか)
ふと豊はそんな事を考え付いた。
その途端、キッチンが色褪せセピアカラーへと変わった。やかんも、ポットも鍋も冷蔵庫も皿も。
「え!」と抱き締めていた蓮美に目をやった。
蓮美だけ色を持っている。
(なぜだ?!)
蓮美だけ白い肌。赤い唇。ミニスカートは桃色だ。
豊は確かめたく自分の腕を見た。
セピアカラーだ。
けれど、今の泣き叫んでいる蓮美にこの不可思議な体験を訊く気がしない。
「焼きうどんを作ってあげるよ。玉子だけでも良いかい? 蓮美」
「うっ、ううう。良いから早くして下さい。早く食べ物を!」
「わかったよ、蓮美。蓮美。今すぐ作るね」
豊が調理をし始めると、包丁は銀色を、棚の上の観葉植物の葉は緑を取り戻した。
*
焼きうどんを食べたのちも蓮美の食欲はとどまる事を知らず、しまいには「豊、どいて!」と冷蔵庫を勝手に開け、キャベツを丸ごと抱きかかえたまま床に座り込み、1枚ずつ剥いではムシャムシャと夢中で食べ始めた。
デザートはトマト5個で締めくくられた。
床中トマトの汁でベチョベチョだ。
豊は、蓮美が満たされた事にただ、ただ安堵し、黙って床を雑巾で拭き雑巾を洗った。
蓮美はソファーに移動した。
豊の安堵は、やれやれといった感情ではなく、蓮美が辛さから逃れられた事を喜ぶ、いわば親心とも言えるような感情だ。
蓮美は赤ちゃんの涎掛けのようにおしゃれな服を汚してしまった。しかし、どこ吹く風だ。
「蓮美、服がシミになってはいけないから手洗いしてあげるよ。家まで車で送ってあげるから、今日はオレの手頃な服を着て帰れば良いさ」
「そんな訳には行かないわ!」
猛烈に拒絶する蓮美。
「蓮美、いったいどうしたんだい……。話せる事だけで良い。聴かせてくれないか」
豊は汚れた服を着ている蓮美を抱き寄せ、長い髪の毛をひたすら撫でた。
「あ、ああぅ……」
シクシクと再び泣き始める蓮美。
「豊……お願いよ、嫌いにならないで。お願いです。あたし、あたしは……病気なんです」
「――嫌いになんてなるものか! 病気なんだね。それ以上の事を話せるかい? 蓮美」
「はい。あたし……」
蓮美の小さな肩が雨に濡れそぼった小鳥のように弱り、震えている。
豊は温めるように抱く。
蓮美の横に座り耳を傾ける豊。
「あたしが受けていた虐めは酷いものでした。豊……聴いてくれますか?」
豊は黙ってただ頷いた。
「初めての転校先、小学校2年生から虐めは始まりました。給食の……半分以上を盗られたの」
「なんて事だ! 先生はなにもしなかったのか」
「ええ。田舎でね、どうやらあたし達家族は老若男女問わず皆から妬まれ忌み嫌われていたみたいでした。先生は見て見ぬ振りを……」
「妬み……?」
「はい、豊。あたしのお家はいわゆる富豪です」
「そうなんだね」
「うん。食パンで頭を叩かれた挙げ句『腹減ってるんなら食えよ!』とデザートのバナナを無理矢理口に押し込まれ吐いた事もありました。あの時の先生の含み笑いを忘れられない」
「なんて事だ。辛い思いを……。もっとそばにおいで、蓮美」
「はい、豊。母親がね、表情が日に日に曇って行くあたしを心配し引っ越しを繰り返したの。その度に意地悪をされた! 特に美味しいおかずは皆で笑いながら奪い合うのよ。あたしが学校で昼食を食べられた日は数えられる程度だった。それもすべてのメニューは食べられなかった」
「そうか」
豊は胸が痛い。苦しい。タイムマシーンがあれば、今すぐ蓮美を自分が助けに行くのに! そう思う。
「それでね、中学に上がっても同じメンツだったから、寄ってたかって彼らはあたしを虐めました。午後の授業はおなかが鳴り、クスクスみんなに笑われた。惨めで悲しかった。でも、パパとママを心配させたくないから誰にもなにも言えなかったの」
「ああ、蓮美」
豊は名を呼び、今一度蓮美を抱き締めた。蓮美の長いまつげが涙の重さに耐え切れないかもしれない。
「高校になるとね、もう給食はなかった。でも近所の公立高校へ通ったからお馴染みの虐めっ子だらけだったわ。今度は『カレーパンを買って来い』だの命令されるの。それと使いっ走りをさせられていただけじゃなく、万引きも強要され、アイスクリームや総菜パンやキャラメルを盗んだ。あたしは泥棒よ、豊!」
「違う! 違うよ、蓮美。蓮美は悪くない。泥棒なんかじゃないよ。確かにやった事は万引きだ。でも恐喝されたも同然じゃないか。自分を責めないで、蓮美」
「うっ、うぅ、ヒックヒック……あたし、引っ越しなんかしたくなかった。故郷にいたかった」
そう言い蓮美は押し黙ってしまい、ずっと泣いた。
――――蓮美の気が済むまで、泣き止むまで、豊は寄り添っていた。
「今日はもう帰るわ、豊」
「あ、ああ」
そこで豊は思ったのだ。先の蓮美の言動を。「家に送らないで」と激しく拒否した蓮美を。
「初めてデートしたお店まで、送って下さい。喫茶オリエンタル・オルゴールまで。良いかしら? 豊……」
「うん、もちろん良いよ」
トマトの汁、ラーメンの汁にケチャップ、蓮美はシミだらけの服を着てバスに乗る気だ。
(心の病ゆえ平気なのか、それとも強固なこだわりがあるのかな……)
自由を子どもの時から奪われ続けた蓮美を、たとえ滅茶苦茶な事であっても、今自由にさせてやりたいと豊は感じた。
人や蓮美自身を傷つける行為以外は。
*
喫茶オリエンタル・オルゴールの駐車場に着いた。お店はまだ営業中で温かな果物のような灯りが窓から漏れている。
「気を付けて帰るんだよ? 蓮美」
「はい。今日はありがとう。それと、甘え過ぎてごめんなさい、豊」
「なにも謝る事はないよ、蓮美。オレにはうんと甘えて欲しい」
「はい、わかりました。豊、明日お仕事でしょう? 見送らず行って下さい」
豊は蓮美を、せめて駐車場から見送ってやりたかったが、蓮美の言う通りにしようと決めた。
「わかったよ、蓮美。愛してる」
「あたしもよ。豊をとても愛してるの」
「うん、おやすみなさい、蓮美」
「はい、豊。おやすみなさい」
*
帰宅し、豊は蓮美の凄惨たる過去を気の毒に思い辛い。
それと、今日起きたおかしな現象だ。辺りがセピアカラーに変化したという。
豊は目の病気を疑い、明日の仕事帰り眼科へ通院する事とした。
*
「おはようございます、課長」
「ああ、おはよう、城木君。相変わらず冴えてるねー。君の企画のお陰でクライアントから感謝の一報があったよ」
「はい、恐れ入ります」
いつものように若い女性社員が今日の案件をデスクに持って来た。
「ありがとう」
「いいえ、城木さん。今日も猛暑日ですって!」
チラリと彼女を見やると、シャツのボタンを3つも外し盛り上げた胸の谷間を覗かせている。
(色気のない事だなー)と、豊はゆうべ逢ったばかりの蓮美が恋しくなった。
――――今日もそつなく仕事をこなした豊が想うは麗しい蓮美の事ばかり。辛い過去を持つが笑顔の綺麗な蓮美の事ばかり。
だが帰りがけ、先ずは眼科へ寄らねば。
様々な目の検査をし、結果異常なしだった。
(精神的に疲れていたのだろうか……)
奇妙な気分のまま豊は帰宅した。
玄関を開け、しばらくすると携帯電話が鳴った。蓮美だ。
「もしもし、蓮美! どうしているかい。きのうはありがとうね」
「はい、豊。あたしも楽しかったわ。困らせてしまったけど……」
「ああ、それはもう言わない事。オレに遠慮なんかしないで、蓮美」
「はい」
「ああ、なにかあったの?」
「ううん。なんにもない。豊に逢いたくなっちゃって」
「もちろん良いよ!」
時刻は19時前だった。
「ごめんね、お仕事帰りで疲れているのに……豊」
豊の疲労は吹っ飛んだ。大好きな蓮美の顔が見られる、それが嬉しくてしょうがない。
「良いんだよ。逢いたくてたまらなかったんだ、蓮美」
「うふ、あたしも同じ気持ちです。ああ、豊のお家、憶えちゃったからお迎えなしで伺っても良いかしら?」
「え、大丈夫かい? バスだろう。喫茶店まで迎えに行くよ?」
「ううん。大丈夫です、豊。1時間後ぐらいに行っても良いですか?」
「うん。楽しみに待っているよ、蓮美」
――――20時前に蓮美はやって来た。
早速熱いキッスを交わす二人。
豊は蓮美をあまりにも好きで、蓮美が望むなら自分の体を食べて欲しいとすら思う。
ベッドには蓮美のスウィートな肌の香りが充満した。
二人は存分に愛を確認した。
今日に関しては豊、あらかじめ蓮美のために料理をしておいた。野菜炒め、と言っても牛肉の量が大量なので、肉炒めと言えよう。前回の蓮美の食べっぷりがあるので、白米は10合炊いておいた。
「蓮美、夜ごはんを一緒に食べないか。作ってあるよ」
蓮美の瞳がギラリと輝いた。豊は一瞬ゾクッとただならぬ恐怖を感じた。だが、蓮美に触れるとそんなものは瞬時に溶けてしまう。
「食べる!」
その返答は生きるか死ぬかという切羽詰まった雰囲気さえ持つ。
(病なのだ。可哀相な蓮美、早く元気になったら良いな)
豊は祈るような心地だ。
使わないだろうとは思ったが、箸を蓮美のそばへ置いてやった。
案の定、手掴みで肉と野菜を貪り出す蓮美。
蓮美の白米のひと口ひと口は、おむすび1個分ぐらいの量。
のどに詰まらせやしないかと心配で、豊はそばに麦茶をたっぷり入れたグラスを置いた。
「ゲホッ! ゲホゴボ!」
放り込むごはんの量が多過ぎ、お茶とともに白米を口から吐き出す蓮美。それでも何事もなかったかのように、再びおかずを手で掴んでは口へと運ぶ。
(なぜ不快じゃないのだろうか)
豊は、この下劣極まりない食事の仕方を前に、どこまでも蓮美が愛おしい自分の心は歪んでいるのかと少し怖くなった。
するとまただ! また、辺りが色を失った。セピアカラー。天然色に見えるのは蓮美の姿だけ。
そんな豊の戸惑いを知る由もない風で、蓮美は真剣そのものの表情で野菜炒めならぬ肉炒めにがっついている。
豊も一緒にごはんを食べたが、炊飯ジャーのほとんどの白米は蓮美が平らげた。
そんな事は豊にとって蓮美を嫌う理由にならない。むしろ可愛いとすら感じる。
今夜はきのうほど食べ物を欲さない蓮美。と言っても米10合近くをいっぺんに食べてしまったのだから大差はないか。
「フー」
蓮美は満足したらしく。ソファーにだらしなく座った。
食器を片付け洗う豊。
「蓮美、美味しかった?」
「うん。ありがとう、豊。あたし、おなかが空いていないわ」
泣きそうな声で蓮美が言う。切なげだ。感極まっている様子に見える。
「それなら良かったよ、蓮美」
空っぽになったフライパンも丁寧に洗って行く豊。
「豊、後でまたあたしの話を聴いて下さいますか?」
洗い物が終わらぬ豊はニコリと顔だけ振り向き「もちろん、良いよ」と蓮美に返事をした。
――――皿を洗うとスッキリとする。いつもそうだ、豊は。気分が一新される心地がする。
「お待たせ、蓮美。ルイボスティーの冷たいの、飲むかい?」
「うん、戴きます」
豊は気に入っている切子硝子のグラスに冷えたルイボスティーを注ぎ、蓮美のいるテーブルへ運んだ。そして隣に腰掛けた。
さりげなく蓮美の細い腰を抱く豊。これから蓮美はなにか真面目な話をしようとしているのにムラムラして来てしまう。でも豊は、そのまま腕を蓮美の腰に回している。
「豊……これから話す事、ヤキモチを妬かないで下さいね。あたしは今、豊の事しか見えない」
「うん。わかった」
「あたし、なんとなく話したくなったの、豊に。初恋の事よ。幾つだったと思う?」
ほんのちょっぴり楽しそうに蓮美が笑った。
「う~ん。小学4年生ぐらい、かな?」
「ブー、はずれ! おませだったの、あたし。1年生よ、7歳の頃男の子にときめいたの」
「そっか~。早熟だね」
豊は、少しだけ蓮美の腰を自分のほうへ引き寄せた。
「アハ、うん。でもね、パパの仕事の都合で引っ越したからすぐお別れになっちゃったんだ」
「そうだったの」
「ネー、豊の初恋は?」
「え~、そんなの聴きたいの? 蓮美、嫉妬しない?」と言った瞬間、またも世界が色をなくした。
古い写真が経年を物語るような薄い茶だ。
隣で相変わらず微笑んでいる蓮美だけが色を有している。
「どうしたの?! 豊? 豊」
豊は冷や汗をかいていた。遠くから聴こえる蓮美の呼び掛けに意識と色を取り戻した。
気づくと蓮美が心配そうな顔をして手を握りしめ豊を見つめている。
豊は正直に言った。
「なぜだかわからない。この頃、突然辺りがセピアカラーに変わる瞬間があるんだ」
「え!」
蓮美は声を上げ「どういう事?」と訊く。
「うん。セピアカラー、古い写真みたいな色に見えるの。それで、実は眼科へ行ったんだ。目の調子が悪いのかと……。眼科では異常なしだった」
「なにかしら……」
蓮美は豊を気遣い、髪の毛を優しく撫でている。
「あ、ああ。ごめんね、心配かけて、蓮美。オレの初恋バナシだったな」
「うん、うん」
豊が普段通りになったのに安心したのか蓮美は思い出したように相槌を打った。
しかし、初恋の話をしようとするとまた同じ事が起きた。
「大丈夫?! 豊」
「うん。疲労かなー。少し横になるね」
「あたしも添い寝するわ」
「うん、蓮美」
――――豊は20分ほどベッドに横たわっていた。隣では蓮美が静かにしていた。
起き上がった豊に蓮美が言う。
「初恋のお話はもうやめましょう。どうしてかわからないけど豊の具合が悪くなるもの」
「うん」
豊は蓮美の頬に手をやりキスをした。と、その時だ。
グゥ――――……。
蓮美のおなかが鳴った。蓮美は米を約10合と3人前分の肉だらけの野菜炒めを食したのだったが……。
「蓮美、おなかが空いたのかい」
優しく豊がそう言うと「うん」
蓮美の頬を伝う涙。
(苦しんでいるのだな、蓮美。クリニックへは通っているのだろうか……)
そんな事を考えつつ豊は「待ってね、蓮美。すぐ焼きそばでも作るから。具がもやしと豚肉だけなら早い」と伝える。
蓮美は声を押し殺し泣きながら頷いただけ。
――――豊は手早く焼きそばを作った。ソースの少し焦げるような良い香りがキッチンで漂う。
出来上がった。さすがに焼きそばの出来立ては暑いからお箸を使うかなと、豊は添えて出した。
すると蓮美が「豊、使い捨て手袋ない?」と言う。
「ああ、あるよ」
「それを嵌めて戴くわ!」
蓮美はどうしても手掴みで食べたいらしい。
豊はニトリル手袋を取り出しアルコール消毒した。
「少し待つんだよ。アルコールを乾かす必要がある」
その間、皿の上の焼きそばにくぎ付けになっている蓮美の目は爛々と輝き、口からは大量の涎が垂れていた。
「もう乾いただろう。どうぞ、蓮美」
食べ物にありついて良しとの号令と共に蓮美は、怒涛の勢いで早食い競争でもするかのような勢いの食べっぷりだ。
鼻の頭までソースで黒く染めている。
豊は悲しくなり俯いた。
(好き好んでこうなっている訳ではないはずだ。だから蓮美はオレとの食事を猛烈に拒絶していたではないか)
モグモグと口にそばを入れたまま、蓮美が叫び始めた。
「それはあたしのミカンよ! 返して! 返せっ、この野郎!」
「いい加減にしろよ、てめぇら! 今度おまえらのメシに、あたしの×ソを入れてやる」
「返してよ! 返してよ! あたしの物よ! おなかが好き過ぎて死んじゃうッ」
耳を塞ぎたいような乱暴でいて悲痛な蓮美の叫びだ。
豊は涙を零した。
なぜ、普段素晴らしく愛らしく優しい蓮美が、ここまで追い詰められなくちゃならないんだ、と。いっそのこと代わってやりたいとすら感じた。
そして、黙らせたりせず存分に叫ばせてやろうと考えた。豊は蓮美の孤独を垣間見ている。自分は味方であり続けると心に決めた。
叫び疲れたのか、食べ疲れたのか、蓮美は焼きそばを6人前は優に食べた後ぐったりとした。
「蓮美、大丈夫? ベッドで休もう」
虚ろな目のまま頷きもしない蓮美を抱きかかえ豊は横にならせてやった。
「愛してるよぉ、豊」
力が尽きた人形のような蓮美が豊に囁く。
「オレも好きだ、蓮美」
豊は蓮美にプロポーズをしたいと思った。
*
しかし、その日を境に蓮美からの連絡は途絶えた。
豊が電話をしてもROULを送っても応答しない。
いったいどうしたというのか。あんなに熱烈に愛し合っていたのに。
豊はプロポーズがまだ出来ていない。
(このまま蓮美と離れてしまうなんて嫌だ!)
*
虚しいが、応答しない電話やROULを繰り返し、豊は蓮美を1カ月間待った。
そして思い立った。
蓮美は嫌がっていたが、話をするには蓮美の家を訪ねるより手立てがない。
――――会社が休みの土曜日、緊張の面持ちで蓮美が教えてくれた住所を車のナビにセットする。蓮美は両親と住んでいると言っていた。尚更緊張する豊。
*
ナビに従い運転して行くと、とても立派な門構えの洋風の建物に辿り着いた。
『中田』と表札にある。蓮美の苗字だ。
車を門から少し離した場所へ停め、降りた。門の前へ行き豊は1度深呼吸をした。 そして呼び鈴を押した。
その『ピンポーン』と言う音色は深みがあり、普段豊が耳にする軽い音とは異なった。
「はい」
初老の女性だろうか、返事をして来た。蓮美の母親かもしれない。
豊は一礼し、呼吸を整え「私、城木と申します。蓮美さんの知人であります」
「少々お待ち下さいませ」
しばらくすると、灰桜で単衣の御召を纏った60代と思わしき女性が鉄の門までやって来て、門を開けた。
「突然お訪ねし申し訳ございません」
「いいえ、よろしくってよ。お上がりになられて下さいな」
手入れの行き届いた庭園の長い小径、品のある女性の後ろをついて行く豊。
やっと豪奢な玄関に辿り着くと、重たそうな木製のドアが開けられた。
「どうぞ」
「はい。失礼いたします」
奥からは和服ではなく洋服を着た白髪の男性が現れた。
「あなた、こちら城木さんと仰られるそうです。蓮美のお知り合いだそうです」
「こんにちは、城木さん。私は蓮美の父親です。彼女は私の妻、蓮美の母親です」
再度一礼する女性。
――――(蓮美はどこにいるのだろう? 出て来てくれないのか?)
蓮美の父親がしゃべり始めた。
「あの、本日はどういったご用件で」と豊に尋ねて来た。
「私は、蓮美さんの恋人です。しばらく連絡が取れないので、たまらずこうしてお訪ねしてしまいました。私達の仲は大変旨く行っていたものですから、どうしたものかと気が気じゃなくなっております」
顔を見合わせる蓮美の父母。そのあと二人は神妙な面持ちで「うん」という具合に頷き合った。
「こちらへ」
蓮美の母親が先に立ち長い廊下を案内する。
どんどん辺りがセピアカラーに染まって行く。めまいを覚える豊。
突き当りの部屋の引き戸が開けられた。その瞬間色は戻った。
その部屋は和室だ。
煌びやかな仏壇がある。
(なぜ、ここに? まさか!?)
しかし鴨井に飾られている写真の女の子に、豊は見覚えがない。中学生? 高校生か? 否、そんな事はない。見覚えがないなど、そんな事は! これは。
蓮美の父親が、彼女の遺影を見上げつつ口を開いた。
「今日9月9日は、蓮美の誕生日。そして……月命日です」
「え?!」
唖然とする豊に向かって蓮美の母親が言う。
「繊細な子でした。良い子でした」
ここで言葉を詰まらせた母親。しかししっかりと話を続けた。
「虐めを苦にし、17才の時に校舎の屋上から飛び降り自殺したのです!」
その直後はわっと泣き崩れ、父親に支えられる母親。
父親が懸命に母親を慰めつつ言った。
「城木さん、もしかしてあなたは『豊君』じゃないですか?」
「え!」
「『鉛筆を拾ってくれた豊君が好き』いつも蓮美はそう言っていました。『ずっと豊君と一緒にいたかった』『引っ越しなんかしたくなかった』と」
セピアカラーの記憶が脳裏に浮かび、頭がガンガンする。
「はっちゃんだ!」と豊は叫んだ。
想い出したのだ。蓮美の事をはっちゃんと呼んでいた。
はっちゃんは大人しい性格で、授業中に落としてしまった鉛筆を拾う事すら出来ない内気な女の子だった。
「蓮美ッ――――!」
オイオイと男泣きする豊。
衝撃の現実が、夢のようだった蓮美との幸せなひと時が、全部を受け止めきれずに壊れてしまいそうだ、豊は。
「ああ――――ツ! ああ――――! 蓮美、帰って来てくれよ、お願いだよっ」
蓮美の父母も泣き崩れている。
父親がそっと、蓮美の位牌を豊に差し出した。
「抱いてやって下さい、豊君」
豊は狂ったように小さな文字だけになった蓮美の魂を抱いては撫でた。
「蓮美、お誕生日おめでとう。辛かったね……。オレをもう一度探し当ててくれてありがとう。オレは今でも蓮美を愛してる! 守ってあげたかったよ、蓮美……! 蓮美」
*
――――豊にこれまで恋人が出来なかったのは、蓮美と深く幸福な愛情を与え合うためだったのかもしれない。
豊はこれからも生きて行く。
たとえば、高層ビルから鳥になったとて、蓮美には逢えそうにない気がする。
生き延びた後に、やっと蓮美に逢える気がするから。




