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Noch ungestimmt  作者: 梨/なし/ナシ
Overture — Vor dem ersten Ton
2/5

第2話 Schön, dich kennenzulernen

「アヤ、荷造り初めといてね。来週から鶺鴒(せきれい)さん家で住むことになったから。」


 それはある夏の日、突然告げられました。


 両親が忙しいこと。


 通う予定の高校が家から遠いこと。


 そして、私の親と鶺鴒夫妻が、異常なほど仲が良いこと。


 その全部が重なって、私は高校から徒歩五分圏内にある鶺鴒家に居候させてもらうことになったんです。




 もちろん嬉しかったし、私も喜んで受け入れたんですけど、あまりにも急で驚いてしまって。急いで荷造りしてしまったばかりに家にある服と靴をありったけ持ってきたんです。あとで後悔しないように。まあ、今、ゆっくりと後悔という波が近づいてきてるんですけどね。




 それで、先週引っ越してきたんです。お引越しと言っても、スーツケース一個と靴の入った段ボールですけど。


 それ以外は全部鶺鴒さんが用意してくれたんです!すごく優しい方々ですね。




 *




「は、はじめまして!北颪アヤと申します!えっと、あの、よろしくお願いします!!」


 玄関先でそう言って、私はぺこりと頭を下げました。


 声が震えなかったのは奇跡に近かったです。心臓はずっと早鐘みたいに鳴っていました。


「あっっっっらやだ可愛い子が来てくれたじゃない!!!まあああああ立派に育ったわねアヤちゃん!お姉さん嬉しいわ!ほらお父さん、見てらっしゃいこれ、北颪きたおろしのとこのアヤちゃん!えらい美人に育ったわよ!!」


 鶺鴒さんが大声で私を迎えてくれました。なんか、緊張が全部吹っ飛んで少しだけ不安に変わりました。


「まあまあ、由紀子、落ち着け。アヤさんが怖がってるじゃないか。ごめんな、アヤさん。とりあえず荷物は俺が預かっとくよ。ほら、由紀子、アヤさんをお部屋に案内してあげて。きっと長旅で疲れているだろうから。」


「あ、ありがとうございます。」


 鶺鴒さん…えっと、拓郎さんはすごく優しかったです。第一印象では一番良かったんですけど…まあ、また後で話します。




 とりあえず、鶺鴒…由紀子さんがお部屋まで案内してくれたんです。すごいですよね、三階建て。私こんな豪邸初めて行きました。


「はい、アヤちゃん、これが貴方のお部屋よ?好きに使っていいからね。お部屋のレイアウトとか変えたかったらいつでもイッテチョウダイ!」


「あ、ありがとうございます。」


 この時から少しだけ疑問がありました。本当に細かいんですけど、壁に防音シートみたいなの貼ってあって。少し怖くなりました。私、小さい頃から魔女とかお化けとかそういうの信じてて、もしかしたら鶺鴒家は魔女の一族で、私みたいな若い女の子の血を食べようとしてたんじゃないかって。




 ふふっ、冗談ですよ。




 それで、私は一通り荷造りを終えて、寝ることにしたんです。もう、夜の10時でしたし。良い子の寝る時間でしょう?


 やっと眠れそうなときに、突然下のリビングの方から声が聞こえ始めて。


 夜の11時、12時ごろでしょうか。ずっと声が聞こえたんです。


 怖くなって、少し覗きに行ったんです。


 すると、由紀子さんが電話越しで誰かと話してて。こんな夜遅くまで一体誰と話してるんだと思ったら、母親の名前が聞こえて。


「そうそう、もうほんっっっっっっとアヤちゃん可愛いわぁ。あんた、良い子に育てたわね!?ほんっと家の息子も見習ってほしいわぁ。そうそう、秋人あきとのことよ。今?えっと、今はバージニアを出て、マサチューセッツかな?マサチューセッツ州立大学の音楽部のなんかでいろいろやってるところよ。多分。まあ、全額無料にしてくれるくらい奨学金もらえたから、もうどこに行ってもいいのよあの子は。気にしない気にしない!それより、あの最近のドラマ見てる?あれねー」


 …


 そのまま通話は夜中の三時ごろまで続いていたと思います。私はここで、普段母親がいつも長電話している相手を知ったんです。




 そして、もう一つ新しいことを知りました。


 鶺鴒秋人せきれいあきとさんのことです。


 翌日聞いてみたんです。息子さんいるんですかーって。


「あら、いるわよ。秋人、アキちゃんって言うんだけどね?ほんっっっっっとに人見知りで、誰とも話さないから、家では基本無視とかでいいわよ。多分。それと、気づいてるかわからないんだけど、そこら中に散らばってる楽譜とか音楽理論の本とかあるじゃない?あれ全部アキちゃんのよ。なんか、変に動かすとあの子混乱しちゃうから、できればそのままにしておいてね。」


 楽譜、題名を見てみると、様々なのが落ちてました。


 Ysaye Sonata No. 5 in G major、Beethoven Violin Sonata No. 9 in A major "Kreutzer"、Brahms Violin Sonata No. 1 in G major、Prokofiev Violin Concerto No. 1 in D major.


 色々上げたらキリがないんです。


「楽譜…楽器は何を弾いてるんですか?」


「バイオリンよ。あの、木のおしゃれなやつよ。まー高かったわ。日本円で言うと、1000万くらいしたかしら?まあ、それはなんかの優勝賞金で買えたから良いんだけど、弓の100万ほどをマイマネーで買ったのがきつかったわね。」


 聞いたこのない金額をサラッと言ってました。そして、とんでもない賞金もサラッと言ってました。




 実は私、この日からずっと秋人さんに会うの、楽しみにしてたんです。


 由紀子さんが秋人さんの本棚、好きに見てていいよって言ってくれたので、それから私は秋人さんの部屋を出入りするようにもなりました。


 あのコレクション、すごいですよね。私、ショスタコーヴィッチさんやマーラーさんの人生があんなにつらいものだとは思いませんでした。


 それと、あの、薄い本…




 ま、まあとにかく。


 本棚にあるラノベ、ベッドの上のぬいぐるみ、ショーケースの中のフィギュアやレトロゲームを見て、私はこの人とは話が合いそうだな、って勝手に思い始めたんです。


 それで、今日、やっとお会いできて、私すごくうれしいんです。嬉しい反面、すごく、あの、恥ずかしくて。


 あ、あ、あの。ああいう本は実家の方で、見たことなくて。それで、つ、つい熱中して、読んでしまって。は、初対面がこんなことになって、も…申し訳ないです!すみません!




 *




 アヤさんはペコリとかわいらしく頭を下げて謝ってきた。


 いや、なんでこんなことで謝れてるんだ僕は。


 安いもんさ、本の一冊くらい。


 …


 やっぱり少し恥ずかしい。


 とりあえず僕は聞く。


「いや、謝らなくていいよ。あの、僕があんなの持ってること自体がダメだったし。そ、それで質問なんだけど…あの本、どうやって見つけたの?結構自身のある隠し方をしたんだけど…」


 アヤさんはきょとんとした表情で僕を見つめる。


 そして、言う。


「なんか、強烈な匂いがしたんです。アルコール?なにか強く掃除したようなもので。それで、私気になってにおいの元を探してたら引き出しの中で。二重底は結構すぐ開きましたよ!」


 アヤさんはにっこりとした笑顔で僕に言う。まるでワンちゃんがお気に入りの棒を拾って、僕に報告してきたみたいだった。


「そ、そう。匂い…か…」


 結構無味無臭のはずなんだけど。


 もしかしてアヤさんも結構すごい人なのかな。


 軽く恐怖を覚えていると、アヤさんは何かを思い出したかのようにハッとする。


「そうだ!私聞きたかったんです!」


「えっと、どうぞ?」


「秋人さんの生演奏、聞かせてもらえますか?」


「えっ。」


 アヤさんはきらきらとした目で僕を見てくる。


 そんな期待の持った目で僕を見ないでくれ。期待外れみたいな感想を持たせてしまったら、僕は何も言い返せないからな。


 でも、この家に住む以上、どちらにせよ僕の演奏を聴くことになるから、早めのほうがいいのか?


 そんなとき、ふと、先生の言葉を思い出す。




 *




「演奏のチャンスには、大きく分けて二種類あるんだ。


 一つは、自分から掴みに行くタイプ。自分で声をかけ、自分で舞台に立つ。努力も必要だし、経験も積める。でも、もう一つはもっと貴重なものだ。向こうから声がかかる、誘いを受けるタイプのチャンスだ。


 僕はね、後者の方が、何倍も大事にする価値があると思っている。なぜなら、誰もが声をかけられるわけじゃない。わざわざ一人の奏者に”君に弾いてほしい”と言うのは、その人が君の価値を理解している証拠だからだ。


 それは単なる依頼じゃない。選ばれたということは、他の誰でもなく君がその場にふさわしいと認められた、勝利の証だ。競争を経て、君の音楽が評価され、必要とされる…それこそが、本物の価値だ。


 覚えておきなさい。勝ちとは結果だけじゃなく、理解され、欲しがられることだ。だから、君が招かれた瞬間、その演奏の舞台はもう、君にとっての勝利の場なんだよ。勝ちの…価値…なんつって。


 なんだよおい。笑えよ。」




 *




「あ、あの、無理に演奏しなくてもいいんですよ?本当に、断っても…」


「弾くよ。」


「え?」


「喜んで。弾くよ。どういうのが聞きたい?」


「ほ、ほ、本当ですか!?」


 アヤさんは目をより一層輝かせる。眩しい。なんなら髪もぴょんぴょん跳ねてるみたいだ。かわいい。


「えと、えと、あ!廊下、廊下に落ちてた楽譜で、あの、あの、あの、いざいの五番?っていうのがありました!」


「Ysaye?」


「それです!」


「そう。10分くらいの曲だけど、大丈夫?」


「はい!よろこんで聴きます!」


 アヤさんは髪をぴょこぴょこ跳ねさせて楽しみそうにしていた。


 やっぱりかわいい。


 


 僕は一度深呼吸をし、バイオリンを取りに行った。




 *




 秋人さんが私を練習部屋に案内してくれました。壁には防音パネル、床は木、ピアノが一代、譜面台がたくさん、椅子もたくさん、楽譜たくさんの、なんだかすごくオシャレで綺麗な部屋でした。天井にもなんか色々ついてます。音を良くするための何かだそうです。


「そこ、座ってて。ここからだと一番音が良いんだよ。」


 秋人さんはどこか嬉しそうに私を椅子に招きました。


「は、はい。ありがとうございます!」


 私は小さく拍手すると、秋人さんが気づいて、一礼して、つま先を何回か床に蹴って、演奏準備に行きました。




 ウジェーヌ・イザイ無伴奏バイオリン・ソナタ。


 バイオリニスト一人が、ソロで弾く曲。


 この曲は合計で六番あり、どれもイザイさんの親しくしていたバイオリニストに捧げて作曲したものだそうです。




 今回秋人さんが弾くのは第五番。これは、イザイさん筆頭弟子、のマチュー・クリックボームに向けて作曲されたものです。




 秋人さんが演奏を始めました。




 一楽章。Allegro ben moderato (穏やかでほどよく速い)




 秋人さんが弓を弦に乗せた瞬間、部屋の空気が一変しました。私の心臓はその瞬間にぴたりと止まるような感覚を覚えました。音楽を聞いていると、霧がかった夜の街並みが思い浮かび始めました。静けさが支配している、夜明け前の、慣れ親しんだ街。




 夜が徐々に明けていく。最初は淡い光が差し込んで、少しずつ、その光が広がり、部屋を照らしていく。音楽もまた、次第にその温かさを帯びて、柔らかく、けれど力強い音を紡いでいくのです。秋人さんが弓を引くたび、まるで夜の闇に溶け込んでいた音楽が一筋の光を放っていくようで、私はその一音一音に心を奪われていました。




 音の高低が交互に変わることで、次第に私の心の中にも様々な感情が沸き上がってきます。特に、ゆっくりとした旋律の中で響く、柔らかい高温。まるで日の光が差し込んだ窓辺に照らされた花のように、華やかでありながらも静かで、心を穏やかにさせるような音でした。




 その音がさらに広がっていくにつれて、私は不安を忘れ、ただただ音楽に身を任せることができました。夜が明けて、次第に世界が色を帯びていくように、秋人さんの演奏は私の心に深く染み込んでいきました。




 そして、終わりに近づくと、秋人さんの弓がどんどん重く、しかし音はどんどん広がっていきました。楽譜にはF,FF,FFF。そして、最後の一音。華やかで、カラフルな音が部屋を包みました。その余韻の中で、私はまるで朝日が昇った後の、満ち足りた感覚を覚えていました。




 二楽章。Bien Rhythme (リズミカルに)




 秋人さんが弓を軽やかに動かし、音楽はまるで陽気な行進のように始まりました。Allegro のリズムは、明るく、軽やかで、私の心を一気に弾ませます。音のひとつひとつがまるでピクニックに出かけるような晴れやかさを持っていて、私は思わず心の中でリズムを取ってしまいました。まさに、楽しさと明るさが弾けるような演奏。




 これまでにないほど生き生きとした音で、秋人さんの弓は重音を奏でます。重い動作なのに、音はぴょんぴょんはねてます。そして、一フレーズを綺麗に奏でて終わらせます。




 音楽が突然、さっと静かになり、Moderato Amabileの穏やかなテンポが現れました。その瞬間、部屋の空気が急に冷たく、しんとした静けさに包まれるような気がしました。私はその音にすっかり引き込まれて、まるで霧の中に迷い込んだような気分になりました。音楽が遅く、優雅に進んでいき、まるで何か神秘的な出来事が起こる前触れのような、謎めいた感覚を呼び起こします。




 弓の動きは、まるでひとつひとつの音を大切に紡ぐように、丁寧で優しく、それでいてどこか気品が漂います。この部分で、イザイさんが多用するのは四度や五度の開かれた音。その響きは、まるで空間に漂う音のようで、私の耳の中にスーッと入り込んで、あたりを包み込むように広がりました。




 音が広がるたびに、まるで空気そのものが震えるような感じがしました。それは、物理的に何かを感じさせるというよりも、音の空間的な広がりが私の心に染み入ってくる感覚です。音色は柔らかく、しかしその中に少しだけ切なさも感じさせます。




 時々、音が開く瞬間が訪れます。音の高低差が大きくなることで、耳に残るその余韻はより強く、明確に響きます。四度や五度の開かれた音が、まるで夜空の星々のように、何もない広がりの中で光を放っているかのように感じられました。その響きは決して重たくなく、むしろ軽く、空気を振動させるような透明感があります。




 その音の広がりに心を奪われながら、私は何度もその余韻を感じ取ろうと耳を澄ましました。音が終わってからの数秒間、無音に近い静けさが広がると、まるで音楽が一瞬、私から姿を消したかのような感覚が残ります。その瞬間の心地よい静寂が、また次の音を待ち望む気持ちを呼び起こさせます。




 秋人さんの弓が再び動き、音楽が少しずつ進んでいくと、今度は次第に速さが増していきます。四度や五度の開かれた音が、やがて次の段階へと移行する準備を整えるような不思議な空気を感じました。その間にも、音楽は私の心の中に、まるで霧が解けていくように、少しずつ明瞭に響いていきます。




 そして、突然、それはまた変わりました。音楽が一気に速さを取り戻し、また元気よく、Allegro のようなリズムが戻ってきました。霧が晴れて、晴れ渡る空のように、再び力強い音楽が広がります。秋人さんの弓が一瞬で速くなり、音楽もそれに合わせて急加速していきました。その速さとエネルギーの変化に、私は一瞬驚き、そして再び心が弾むような感覚を覚えました。




 その加速感はまさに一気に駆け抜けるような勢いがあり、音楽が部屋の空気を切り裂いていくようでした。まるで嵐のように強く、そして勢いよく進んでいきます。音の高まりとともに、再び明るさが戻り、あのピクニックのような楽しさと、行進のような高揚感が再び現れました。弓が激しく動き、音楽が一層速く、力強く進んでいくのです。




 そして、その急速な加速が最高潮に達すると、フィナーレを迎えるように、音楽が一気に力強く、豪快に広がります。秋人さんの弓の動きがさらに激しく、強くなり、音が一つ一つしっかりと響き渡りました。まるで大きなイベントが終わりを告げるかのように、音楽はその力強さを爆発させて、最後のフィナーレへと駆け抜けていきます。




 その瞬間、私は心の中で歓喜と驚きが入り混じったような感覚を覚えました。音楽が本当にすべてを一気に放出するような、そんな力強さと解放感を感じ、身体全体でその勢いを受け止めていました。秋人さんが最後の音、G線の開音を奏でると、部屋全体にその余韻が残り、私はしばらくその感動に浸っていました。




 *




 秋人さんが弾き終えた瞬間、部屋の中は静まり返り、その余韻だけが残りました。私は深く息を呑んで、その空気をしっかりと感じ取っていました。




 私は、小さく拍手すると、秋人さんはそれに気づき、爽やかでスッキリな笑顔を向け、私に一礼してくれました。

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