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九頁

夜の深さが増すほどに、店の空気は静かに透明になっていく。カウンターの木目を伝って行灯の光が滲み、淡い影が壁の屏風に流れていた。私は《風返し》の余韻を舌の奥で転がしながら、不思議な安堵と緊張のあいだにいた。鈴音が空になったグラスを下げ、柔らかな声で「少し休んでいてくださいね」と言う。その声はまるで春の雨のように優しく、音もなく胸に降りた。ふと隣を見ると、先ほどから一人の男が座っていた。五十代ほどだろうか、細い眼鏡の奥で目尻に笑い皺が浮かび、手元には一冊の古びた文庫本。ページの隅が何度も折られていて、指先が紙の感触を確かめるように動いていた。彼は私に気づくと、軽く会釈して微笑む。「いい香りですね。季節の香……でしょうか」その穏やかな口調に、私は思わず頷いた。彼は本を閉じて、グラスを見つめながらぽつりと言う。「若いころ、告白できなかった恋がありましてね。香りというのは不思議で、その人の記憶をふっと蘇らせる」私は返す言葉を探せずにいると、楓が静かに歩み寄り、男の前に札を一枚置いた。「香の夜は、記憶が揺れやすいものです。お引きになってみますか?」男は微笑し、少し戸惑いながら札を引いた。描かれていたのは満月とすすき、秋の夜の札だった。楓がそれを見て、ゆっくりと口を開く。「満月は再会、すすきは影。……きっと、その想いはまだどこかで光っています」男は目を細め、懐かしむように微笑んだ。「そうですか。影でも、光でも、もう一度会えたら嬉しいですね」その言葉に、胸の奥が静かに波打った。隣で鈴音が私を見つめ、「あなたも引いてみます?」と囁く。私は迷いながらも、頷いた。指先に触れる紙の感触が、先ほどよりも温かく感じる。めくるとそこには、薄雲に包まれた月と川の絵があった。楓がその札を見て、少し目を伏せた。「雲は思考、川は流れ。考えすぎると、光を見失います。けれど流れに委ねれば、月はまた姿を現す」その言葉が、まるで自分に向けられた鏡のように響いた。男が小さく笑い、「いいですね。あなたの札の方が今の私には効きそうだ」と言う。私は照れくさく笑い返した。綾女が奥から現れ、静かに香を焚き直す。薄い煙がゆらめき、灯がわずかに揺れる。「記憶も迷いも、風と同じ。掴もうとすると消えるけれど、香ればまた戻ってくる」その声は祈りのように響いた。私は胸の奥で、何かが静かにほどけていくのを感じた。

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