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八頁

あの夜から、まだ三日も経っていなかった。けれど心のどこかで、ずっと呼ばれていた気がする。気づけば私は、またあの路地を歩いていた。雨上がりの石畳には夜気が残り、灯の反射が揺れている。格子戸の向こうに見える行灯の光は、前と同じなのに、なぜか少しだけ近く感じた。暖簾がふわりと開き、私はためらわずにその中へ足を踏み入れる。香の気配が胸を撫でた瞬間、外の湿度がすっと消える。桃色の着物の鈴音がカウンターの向こうで顔を上げ、「また来てくださったんですね」と微笑んだ。前髪の奥の瞳が嬉しそうに光る。私は思わず笑って答える。「呼ばれたような気がして」鈴音は軽く頷き、「宵待草は、考えすぎた人を呼ぶんです」と冗談めかして言った。その声の響きが、不思議と胸に沁みた。隣には若草色の楓が座っており、落ち着いた調子で「前に引いた札、覚えていらっしゃいますか?」と尋ねる。私は「桜と川面の札」と答えた。楓は目を細め、「春の札ですね。なら今夜は、続きが出るかもしれません」と言う。鈴音が引き出しを開け、あの艶やかな花札を広げた。灯の下で並ぶ札は、まるで息をしているように微かに揺らめいて見える。私は指先で一枚を選び、そっと引いた。紙の感触が鼓動と重なり、心の奥がわずかに熱を帯びる。めくると、柳の枝に燕が描かれていた。背景は、春と夏のあわいを思わせる淡い空。楓が静かに口を開く。「柳と燕は、揺らぎと帰還の札。流されても、また戻ってこられるという意味です」鈴音が手を止め、少しだけ真剣な表情を見せた。「あなた、前より穏やかですね。きっと何かを決めたから」その言葉に胸が鳴る。私は何を決めたのだろう。まだ答えはないのに、確かに何かが動き出していた。奥から店主の綾女が現れる。深紫の着物が灯の光を受けて揺れ、静かな声が響く。「おかえりなさい」その一言で、空気が少し柔らかくなる。綾女は香を焚き、ゆるやかな煙が天井へ昇る。氷が落ちる音、酒を注ぐ音、柚子の皮をひと撫でする音。やがて差し出されたのは淡い緑を帯びた透明なグラス。「《風返し》です」綾女は微笑む。「季節が巡っても、心が戻ってくる時があります。迷いもまた、ひとつの風なんです」私は一口含む。山椒と柚子の香が舌に広がり、胸の奥を風が通り抜ける。静かにグラスを置くと、柳の枝のように灯が揺れた。それはまるで、心が揺れている証のようだった。

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