七頁
四日目の朝、出勤途中の街路樹の下で足を止めた。並木の桜はまだ蕾のままなのに、風が吹いた瞬間、花弁のような光がふわりと宙に舞った気がした。ほんの一瞬の揺らめきなのに、胸は強く脈打つ。昨日の夜に見た金の粒と同じ輝き。電車の中でも視界の端に残り、午前中は数字を追いながらも心は宵待草に引き寄せられていた。会議で上司に問いかけられ、思わず自分の意見を口にした。普段なら黙って頷くだけなのに、自然に言葉が出ていた。同僚たちがわずかに驚いた顔をする。自分でも不思議だったが、恐れよりも確かな安堵があった。夕暮れ、私は再び路地を歩く。日ごとに石畳の冷たさが馴染んでいく。格子戸を押すと鈴音が笑顔で迎え、「おかえりなさい」と囁く。その声に、今日一日の緊張がすべて溶けていく。席につくと楓が一冊の歌集を広げていた。薄紙に記された和歌が灯に照らされ、墨の匂いがほのかに漂う。「今日は風の歌を」楓が差し出した札を手に取る。「風吹けば 沖つ白波竜田山 夜半にや君がひとり越ゆらむ」声に出すと、風の音が耳を撫でた気がした。川面に白波が立ち、花弁と金の粒が風に運ばれて舞い上がる。幻の中で私は一歩、橋の上に立っていた。花びらの橋は脆く揺れるが、足元に光がひとつ留まっている。楓は「風は形を変えますが、道を示します」と告げる。鈴音が「流されることと、導かれることは同じなんですよ」と微笑んだ。綾女が静かに現れ、グラスを置く。《風待月》。淡い翠色の液体に細かな金箔が舞い、風に吹かれる草のように揺れている。口に含むと清涼な香りが広がり、体の奥を静かに通り抜けた。喉を過ぎた瞬間、背に柔らかな風が当たる。店の戸は閉じられているのに、確かに風が吹いていた。視界には川と桜と光があり、花弁が風に乗って遠くへ運ばれていく。私は思わず「これは導かれているのか」と口にした。楓は「あなたが歩もうとするから風が吹くのです」と答える。鈴音は「怖がらなくていい」と囁いた。グラスの中の金箔がくるりと回り、光の粒が宙で踊った。私はそれを見つめながら、昼間の自分の言葉を思い出す。恐れず声を出したあの瞬間。もしかするとあれも風が背を押したのかもしれない。勘定を済ませて外に出ると、夜風が頬を撫でた。石畳の先に小さな渦が生まれ、そこに金の粒がひとつ舞い込む。すぐに消えたが、胸の奥には確かな余韻が残る。私は立ち止まり、夜空を仰いだ。月は薄雲の向こうで霞んでいる。だが風が雲を流し、いつかまた姿を見せるだろう。その予感が、不思議な確信として心に灯った。




