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三日目の夜、私は迷いなく宵待草へ向かっていた。昨日までの二夜で、この場所がただの酒場ではないことを思い知らされた。外の世界では何も変わらない一日だったのに、ここに足を踏み入れると時の流れが変わる。格子戸を押すと、白い着物の真白が迎えた。両手には絹糸で編まれたお手玉が三つ、宙で軽やかに弾んでいる。跳ねるたびに淡い光が瞬き、金の粒のように見えた。真白の指が繊細に糸を操り、光は軌跡を描いて宙に残像を残す。ひとつが私の足元に転がり、拾い上げると指先に確かな温もりが残った。「不安が多いときは続かないんです」と真白は微笑みながら言う。その声は鈴を転がすように澄んでいて、耳に残る。私の胸の中にある揺らぎを見透かされたようで、息が止まった。そこへ綾女が音もなく現れ、グラスを置いた。《朧月夜》。銀色の酒が淡く揺れ、行灯の橙を映して波のようにきらめく。金の粉のような光が浮かんでは消え、また浮かぶ。口に含むと夜風が胸を吹き抜けるように冷たく、次の瞬間には花の蜜のように柔らかく甘い。喉を通ると心の奥に透明な波紋が広がり、頭の中が澄み渡る。視界に幻が広がった。川面に大きな月が浮かび、その周りを桜の花びらが舞う。花びらは流れにのって散っていくのに、金の粒は沈まず消えず、ゆっくり漂っていた。花霞、月影、朧月夜――三つの夜の名が重なり、私を包み込む。綾女の声が静かに響く。「あなたはすでに石を投げました」私は反射的に首を振り「何もしていません」と否定した。だが彼女は微笑んで言う。「思った時点で波紋は生まれているのです」その言葉は胸に重く沈み、消えない痕を残した。真白が再びお手玉を投げる。今度は三つとも宙を舞い続け、落ちない。光の輪が途切れず回り、私の心を包み込む。その輪の中で自分の迷いさえ形を失い、ただ静けさだけが残る。時は緩やかに流れ、気づけば杯は空になっていた。勘定を済ませ、格子戸を出ると夜風が頬を撫でる。路地の石畳に、金の粒がひとつ落ちていた。灯の光を受けて小さく揺れ、私の靴先で震えている。拾おうと手を伸ばした瞬間、それは消えた。だが胸の奥に温かさが残り、掌に確かな重みを感じた。私は胸に手を当て、鼓動を確かめる。夜空には薄い雲がかかり、月の縁が欠けていた。明日満ちるのか、欠けていくのか、それは誰にも分からない。だが確かに今ここで私は息をし、目の前に見えない石を置いた。投げる準備をする。まだ投げていないのに、すでに波紋が広がる気がする。歩き出す足取りは軽く、見えない流れが背を押していた。




