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五頁

翌朝、目が覚めても昨日の札が頭から離れなかった。桜の花弁が水に散り、渦に吸い込まれる中で、ただ一粒だけ金の光が残る。夢だったのか、それとも確かに見た映像なのか。目を閉じると花弁の軌跡や水面のゆらぎまで鮮明に思い出せてしまう。通勤電車の窓に映る自分の顔は眠そうなのに、瞳の奥だけが冴えているように見えた。会社に着き、午前中は単純な数字の入力や確認を繰り返した。カーソルを追う視線の先に、時折金の粒がちらりと現れる気がして手が止まる。同僚の声が遠くに聞こえ、上司の説明が耳をすり抜ける。心ここにあらずなのは自覚していたが、それを抑えることはできなかった。昼休み、窓際に立つと光が斜めに差し込み、宙に舞う塵が金の粒に見える。瞬きをすると消えるが、胸の奥にざわめきが残る。午後は長く、針が進むのを待つだけの時間になった。ようやく定時を迎えたとき、私はためらうことなく席を立ち、ビルを出ると足は自然にあの路地を目指していた。人通りの少ない石畳の道は雨上がりの匂いをまだ残し、夕闇に沈んでいる。暖簾は静かに揺れ、行灯の橙が宵の入口を照らす。格子戸を押すと、若草色の着物の楓が迎えてくれた。「おかえりなさい」その声に心の緊張がほどける。卓上に並んだのは百人一首の束。薄暗い灯りに紙の白さが浮かび上がり、筆文字の墨はわずかに艶を放っている。「歌は心を映すものです」と楓が言った。私は一枚を引く。「春の夜の夢の浮橋とだえして 峰に別るる横雲の空」。声に出すと、部屋の光が一瞬強まり、札の文字が水面に揺れるように見えた。春の夜、途切れる夢、横雲――その言葉が脳裏に川の映像を呼び戻す。花びらの橋が崩れ落ち、水に沈み、消える。しかしその奥から金の粒が浮かび上がり、淡く光を放った。楓は「夢は橋が切れても続くのです」と囁く。綾女がグラスを置いた。《月影》。淡い琥珀色の液体に金箔がひとつ浮かんでいる。行灯の灯を受けてゆらりと光るそれを見つめ、私は唾を飲み込んだ。口に含むと舌の上に苦みが広がり、やがて甘さへと変わって体を温める。飲み下した瞬間、胸の奥で金の粒が確かに光ったように感じた。「夢は切れても、光は残るものです」と綾女が言う。その声が川面に波紋を広げるように私の内側に染みていく。私は思わず「昼間、光を見ました」と打ち明けた。楓が微笑み「それは夢の残り香」と答える。鈴音が「夢の続きはここにあるんですね」と言った。その言葉に胸が震えた。ここに来れば、昼間の揺らぎが形になる。グラスの中の金箔がゆらめき、川面に浮かぶ光と重なって見えた。視界の隅では再び花びらが舞い、流れていく。言葉も酒も札も、すべて同じ流れに導かれていると、その瞬間確かに思った。

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