三頁
二口、三口と重ねるたびに、グラスの中の霞は月光を孕んで広がり、視界に微かな揺らぎが差し込んだ。桜の花びらが川面に舞い落ちる幻は次第に濃さを増し、その川のほとりに小さな自分の背中が見えた気がした。子供の頃、発表会の舞台でピアノの前に座り、鍵盤を震える指で押さえていた記憶。あの時も、誰かの顔色ばかりを伺い、自分の音を恐れていた。幻は淡く滲み、次には、会社のデスクで無表情にキーボードを叩く現在の自分へと重なる。変わらない。流されるままに、決められた場所に座り、与えられた音をなぞるだけ。それが、桜の川面に漂う花びらのように見えた。胸の奥にかすかな痛みが走る。だが同時に、その川面の下には、見えないほど深く根を張る幹が確かに存在しているような気配もあった。視界の端で、店主・綾女が静かに微笑んでいる。「流されているように見えても、桜はまた咲きます。あなたが選ぶなら、きっと根は応えてくれる」低く澄んだ声が、幻の中と現実の間を揺らしながら心に届いた。言葉は説得ではなく、ただ寄り添う灯火のようであった。私は無意識に頷き、グラスをそっと置いた。唇には柚子の余韻、胸にはわずかな熱。たったそれだけなのに、胸の奥で何かがわずかに動いた気がする。いつもなら「まあいいか」で済ませることも、今夜だけはそう思えなかった。小さなことだ。明日、職場で自分から声をかけてみる。ただそれだけのこと。それでも、今の自分にとっては川の流れを逆らうほどの勇気を要する行為だ。その決意が芽生えた瞬間、宵待草の空気が少し柔らかくほどけた気がした。席を立つと、鈴音がにこりと笑って「またお待ちしております」と声をかける。暖簾を押し分けた先には、雨上がりの夜風。先ほどと同じはずの路地が、どこか澄み切って見えた。石畳を踏む靴音が、まるで新しい旋律の始まりのように響く。幻覚の花びらはもう消えていたが、瞼の裏にはまだ淡い残光が残っている。月は雲に霞んでいたが、その光は確かに足元を照らしていた。──今夜の一杯は《朧月夜》。霞んだ光が、彼女の明日をやさしく導いていた。




