十頁
香の煙が天井にゆるやかに昇っていく。薄く漂うその白さは、まるで夢と現実の境目を描いているようだった。私はぼんやりとそれを見つめながら、グラスの水面に映る灯を追った。鈴音が氷を落とす音が小さく響く。やがて楓が私の前に新しい札を一枚、裏返して置いた。「今夜は、少し深いところまで行けるかもしれません」その声には、不思議な静けさと期待が混ざっていた。私は息を整え、そっと札に触れる。指先がわずかに熱を帯びるような感覚。めくると、そこには金の粉を散らしたような夜空と、小さな蝶の姿が描かれていた。月に向かって舞い上がるその羽は、薄く透けている。「蝶……?」と私が呟くと、楓が微笑んだ。「魂の札です。記憶や想いが形を変えて現れるときに出ます」その言葉と同時に、綾女が香炉の灰を軽くかき混ぜた。ふわりと甘い香りが広がり、視界の奥が淡く揺らぐ。店の灯が少し霞み、音が遠のく。私は目を瞬かせる。カウンターの木目が波のように動き、次の瞬間、自分がまるで水の中にいるような錯覚を覚えた。耳の奥で、風鈴のような音が鳴る。遠くから誰かの笑い声、そして自分の声――幼いころの私が、夏の川辺で呼んでいる。〈ほら、見て、ちょうちょ〉 懐かしい声が心の奥から浮かび上がる。私は息をのむ。あれは、もう会えない祖母と過ごした日の記憶だ。手のひらに感じた温かい掌、夏草の匂い、蝉の声。すべてが一瞬で戻ってくる。涙が零れそうになったその時、ふっと風が吹いたように景色がほどけ、私はまた宵待草のカウンターに戻っていた。鈴音が心配そうにのぞきこむ。「大丈夫ですか?」私は小さく頷くと、綾女が穏やかに言った。「〈香の儀〉が始まったのです。心が記憶に触れるとき、店はその形を映します。無理に思い出そうとせず、流れに任せてください」楓が続けた。「蝶は、戻るために舞うのではなく、変わるために舞うのです」その言葉に、胸の奥がゆっくりと熱を帯びる。私は深呼吸をし、残っていた香の匂いを吸い込んだ。涙の味とともに、確かな静けさが広がっていく。灯の中で蝶の絵が淡く光り、やがて静かに溶けていった。




