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第一話「はじめての宵」 一頁

挿絵(By みてみん)雨上がりの石畳はまだ夜気を含み、踏みしめるたびに靴底が小さな囁きを漏らした。夏の名残を手放しきれぬ宵の風が、湿った木の匂いを街角に漂わせている。人通りの絶えた路地は、まるで時間そのものが溜まり水になったようで、足を止めた者だけを静かに沈めていく。ひときわ細い小径の奥、格子戸の向こうにだけ、ほのかな行灯の光が揺れていた。大正浪漫の挿絵から抜け落ちたような暖簾が、風に震えては、何度も誘うように開いては閉じている。理屈ではなく、偶然でもなく、ただその明かりに吸い寄せられる虫のように、私は歩を進めた。酒場というよりも、夢の入口と呼ぶ方がふさわしい気配だった。暖簾を押し分けた途端、外界の湿度が断ち切られ、木と香の柔らかな香りが肺を満たす。薄闇に沈む店内は十席ほどのカウンターと、小さな畳の間が奥に二つ。行灯の橙は灯火というより月の欠片で、壁の屏風には四季が流れていた。漆塗りのカウンターに落ちた氷の音が、静けさの水面に輪を広げる。そこに佇む女は、濃紫の着物に黒髪を夜会巻きにまとめ、切れ長の瞳をこちらに向けた。その眼差しは鋭さと優しさをひとつに孕み、見つめられた瞬間、こちらの心の奥に隠していた弱さまでも映されるような錯覚を覚える。彼女はただ、微笑み、静かに頭を下げただけであった。言葉はなかったが、その仕草は「ようこそ」と「おかえり」を同時に告げているように見えた。初めて訪れた場所なのに、なぜか懐かしい。長い旅の末に、ようやく辿り着いた帰路のような安堵が、胸の奥を満たしていく。私はまだ一歩も席に着いていないのに、すでにこの空間に受け入れられてしまった気がした。椅子に腰を下ろすと、着物姿の若い女が笑顔で水を差し出してくれる。彼女の声は鈴のように明るく、外の湿り気を一掃する風の響きがあった。店は静謐だが、どこか芝居の幕開けを告げる舞台のように、誰もが役を持ち、ただその時を待っている。カウンターに座した私は、知らず知らず深呼吸をしていた。冷たい水が喉を通る瞬間、ふと心の奥に沈んでいた迷いが浮かび上がる。何を選び、何を手放すべきか。答えはまだ見つからない。ただ、この場所がその問いを突きつけるために存在しているのだと、直感だけが囁いていた。

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