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番外編『産声』

――これはツバキとヒイラギが、つがいを結んで初めて2人で迎えた朝の話。



 結んだ手を何度も握り返しながら、冷たい夜を駆ける。群青色が囲む空気を裂いて、全身血に濡れたまま、靴も履かずに。心臓は張り裂けそうに内側を叩くのに、腹の奥から湧く感情が膨れて脈打って、痛みも苦しみも感じない。ハッ、ハッと絶えず酸素を送るために開いた喉奥を、群青の空気が染みて潤していく。

 息づくように白を瞬かせる星空の下。顔面に吹き付ける風の匂いが変わり、髪を撫でて、潮騒を運んだ。ヒイラギは爪先に力を入れて、グンッと引き上げる力を込めてジャンプする。繋がった左手が呼応するように波打って、明るい笑い声が背中で弾ける。

「もうっ、ヒイラギ」

「へへっ、悪い」

 肩越しに背後を振り返って、顔をくしゃくしゃにして笑う姉の表情にヒイラギは安堵を覚えた。高揚する胸の奥でチリチリと燃える熾火のような熱。その熱が時折煽られるように湧き上がり、喉を塞いでくるのをやり過ごして。ヒイラギは零れそうなほど見開いた目に、昏い海を映した。

 夜の色と一体になったような黒い水面は、底から突き上げるように水面を揺らして息づいていた。ドクン、ドクンと鳴る心音が、潮騒に引っ張られて呼応する。ヒイラギは白い砂浜に裸の足をつけて、砂の鳴く音を聞いた。

「静かだね」

 風に煽られる髪を押さえながら、ツバキはそうポツリと呟く。彼女の白い肌は群青に生えてぼんやりと光るように浮き立っていた。

「ああ、もうじき夜明けだ」

「夜明け……」

 ツバキは遠く、水平線を見つめる。今は曖昧な境目を裂いて、間もなく生まれる朝の光。ツバキは水平線に据えた目を細めて、ホゥと淡い息を吐いた。

「怖い?」

 横顔に向けて投げた問いに、ツバキは小さく俯いて首を横に振る。

「ううん。……わくわくしてる」

 一度伏せられ、再び上を向く彼女の長い睫毛。縁どる瞳に浮かぶ光は、ツバキの素直な感情を映して揺れていた。――溢れる期待と、ほんの少しの恐れ。

「少しでもおかしいって思ったら言えよ。俺も、見てて変だって思ったらソッコー連れ戻すから」

「うん、ありがとう」

 水平線から目を離さずに、ツバキは言う。ヒイラギも彼女に倣って、視線を正面へと向けた。

 ツゥと、昏い水面に走る1本の線。細い輪郭は徐々にぼやけて、形を失う代わりにゆっくりと水面を染め上げていく。生まれたての白い光が少しずつ夜を染め変えて、まばゆいほどの球体が音もなく顔を覗かせた。

 黒から、群青。紺色から、透けるブルーへ。少しずつ上っていく太陽の零す光は水面に光の帯を渡し、見る間に白で空を満たし、海に色彩を与えていく。

「ぅわ……」

 鮮やかに色づき、目覚めを迎える世界。ツバキは隙間を開けたままの唇から、小さく感嘆の声を零した。薄闇に沈んでいたツバキの表情が太陽に照らされて、眩いほどの光を浴びる。

 ツバキはフッと息を詰めて瞼を閉じると、スゥと生まれたての空気を胸いっぱいに吸い込んだ。ハッと唇を開いて一気に吐き出す息。光に愛された顔で笑うツバキは、ヒイラギの手をソッと解いて光の散る海に向かって走り出した。

「ちょ、おい……っ、姉ちゃん!」

 見る間に遠ざかっていくツバキは、そのままためらいなく白い砂浜と打ち寄せる透明な波との境を突破していく。血で濡れていた白い脚を洗う波。足首まで海に浸かる位置で歩みを止めたツバキは、太陽を全身で浴びるように大きく両手を開いた。

 指の先まで満ちる光。ツバキはヒイラギを振り返り、カーネリアンに光を揺らして笑う。

「ヒイラギ! 私、太陽浴びても大丈夫だよ!」

 パシャン、と。足元で弾けた飛沫が散って、淡い色のそばかすが散るツバキの鼻頭を濡らした。飛沫はいくつも彼女の周りで弾け、朝陽を受けて宝石のような光が飾る。


「――私、太陽好きだな」


 両手を下して胸の前へと運びながら、ツバキは掌で受け止めた光を愛しそうに握りしめながらポツリと零した。潮騒に消えそうな言葉を懸命に聞きとめたヒイラギは、涙の予兆で鼻の奥が痛くなる感じを味わう。けれどもそれは喉奥に引っかかったままで、ツバキの明るい笑い声に溶かされた。

「っていうか、命を繋いだんなら、私が消えたらヒイラギも死んじゃうね」

「物騒なこと軽く言うなよ、姉ちゃん……でもまあ、それは願ったり叶ったりでもあるから問題ねえけどな」

「えぇ……ヒイラギの方がよっぽど物騒なんだけど……」

 ツバキは冷静にツッコミを入れた後、足元で踊る飛沫に両手を差し入れ海水を掬った。合わせた掌底に唇を寄せて、そのまま口内へと流し込む。

「腹減ったのかよ。俺の血呑んだだろ?」

 細い顎をツゥと滴り落ちる透明な線。ツバキはそれも指先で掬って舐めとり、ふっくらとした唇に淡い色の舌を這わせた。

「おいし……けど、今まで食べたものの中でヒイラギの血が一番美味(おい)し」

「へへ、やったぜ」

「ん……っていうか多分ね、私、もう血が欲しくない体になったと思う」

 潮騒が、柔らかく耳を擽る。透明な波が彼女の足首を何度も撫でては、ヒイラギの爪先付近まで伸びてまた、引いてく。彼女の小さな告白を攫って、余韻を砂のノイズが掻き消した。

「たぶんだけどね。これから先、私が吸えるのはヒイラギの血だけなんだなあって……分かるの」

「俺の、だけ」

 甘美な響きに素直に神経は震えて、ヒイラギは顔の温度が上がっていくのを感じる。ツバキの言うことがもし、本当ならば。自身に流れる血を、これほどまでに誇らしく思えることはない。

「あとね、ヒイラギの血が吸えるのも私だけ」

 ザァと聴覚を占める潮騒の中でもはっきりと届く声。眩しい朝陽に逆行になった影の中、ツバキは軽く顎を引いて艶然と微笑んだ。ふっくらとした唇の上を、彼女自身の親指がゆっくりと這う。唇の端から端まで渡った親指の腹を口角に当てたまま、ツバキは長い睫毛をひとつ瞬いた。

 彼女の中の感覚が告げる、お互いの変化。欠けた部分がピタリと嵌まり、重なり合ってひとつになるように。命を繋ぐことの意味が体の末端まで染みて、指先がブルッと震える。

――呼び合っている、と感じる。相手と結び合うためにあるのだと、確かめ合うように血が湧いた。

 ヒイラギは校内にジワッと染みた唾液を飲み下して、首を傾け込み上げるままに笑う。

「姉ちゃんの勘は当たるもんな」

「ね」

 ツバキはヒイラギに向けてVサインを掲げ、爪先で寄せる波を蹴り上げた。パッと弾けた雫は、砕けて空気を飾り、美しい放物線を描いて水面へ還る。その様にはしゃぐツバキの横顔を眺めながら、ヒイラギは力の抜けた笑みを浮かべた。

「そういうことなら、この先だいぶ生きやすい」

「うん。ヒイラギがいてくれてよかった」

 水面を乱すのをやめて、ツバキはフゥとひとつ息をつき、ヒイラギに向き直った。昇りかけの太陽のまだ弱く優しい光。潮騒の音と、柔らかい海風。海の鼓動に引っ張られ、内側の鼓動が同化していく。ツバキは一度目を伏せて、スゥと息を吸い込んでから潮騒に言葉を乗せた。

「私ね、蛇とかねずみとか殺しちゃって、本能が暴走しかけた時にちょっと絶望しちゃったんだ。けどね、それでも、生まれてこなければよかったなんて思わなかったし、生まれてすぐに死んじゃえばよかった、とかも思わなかった」

 ツバキが瞬きする度に、内側で鼓動が大きく響く。息苦しいまでのその音に、ヒイラギは密かに何度も唾を飲み下した。

「それは全部、ヒイラギがいたからだよ」

「……そっか」

「うん。私、すごい幸せだよね。これからもずっとヒイラギと生きていけるんだ」

 形のいい眉の眉尻が下がって、言葉尻に少しだけ混じる、湿っぽい音。ツバキは表情を歪めて懸命に笑う。

「感謝しなきゃ、いっぱい。だって、すっごくうれしいの。太陽、ぽかぽかであったかいし、優しくて、明るくて。海も、こんなに綺麗だなんて知らなかった。ヒイラギがくれた瓶の色に似てるね。そっくり!」

 あはは、と笑い声を散らして言葉を重ねていくツバキ。背景に広がる青は、人工物の青よりもよっぽど澄んで美しかった。それでも彼女は、ヒイラギが見つけて手渡した青を、この上なく美しいもののように讃える。

「ヒイラギは、この色のことも私に教えようとしてくれてたんだね。優しいね……ヒイラギは。私、太陽も、海も、ヒイラギも、だいすき。……大好きだよ」

 張りつめていた糸が、限界まで伸びて、プツン、と切れるように。ヒッと喉奥から漏れる嗚咽の音と一緒に、ツバキの眦から透明な雫が零れた。ヒクッ、ヒクッ、と喉が引きつる音を上げたツバキは、やがて両手で顔を覆って、次々と溢れる涙が伝いきる前に受け止め拭っていく。

「ごめ……ごめん、ね……ヒイラギ……っ、ごめ……っ、ごめんなさい……っ、ごめんなさいぃ……」

 堪え切れず、あふれ出すように。ツバキは顔を覆った両手の内側に慟哭を吐き出した。

「うわあああぁ……あぁ……っ、ああぁ……ひ、ぅ……ああ……」

 胸を裂くような悲痛な音。包み込むように押し寄せる潮騒の音が、砕けた硝子片のように鋭利な音の角を削いで、淡く溶かしてく。ヒイラギは苦痛に目を細めながらも、泣きじゃくるツバキの姿を懸命に見つめ続けた。

 泣かないで、と駆け寄ることもできた。潮騒のように、その細い体を包むことも。ヒイラギは喉を塞ぐ息の塊をフゥと音を立てて吐き出して、砂浜との境を破り、水面に足を踏み入れる。

 顔を覆うツバキの目の前に立って、ヒイラギは顔面を覆うツバキの両手をソッと解いた。

 赤く腫らした目元。涙でぐちゃぐちゃに揺れるカーネリアンの瞳。ヒイラギは詰まる息を吐き出して、下した先の指に自身の指を絡めて緩く握り込む。

 繋いだ指先から伝わる鼓動。濡れた指を拭うように、ゆっくりと絡める指先。ヒイラギは上目遣いに向けられるツバキに視線を返して微笑みながら、彼女が知らないだろう秘密を口にした。

「なあ、姉ちゃん。姉ちゃんってさ、産まれた時泣いてないんだって。母ちゃんから聞いた」

「……え、そうなの?」

 ツバキはカーネリアンを瞬いて首を傾げる――ツバキの涙は、驚きのせいかピタリと止まっていた。

 ヒイラギはフハッと噴き出して、繋いだ両手を強く握る。

「だから今泣いたんじゃね? 生まれたぞーって!」

「えぇ……? じゃあわたし、今日が誕生日じゃん」

 ヒイラギの全開の笑顔につられるように、ツバキも顔をくしゃくしゃにして笑った。

「だったら俺の誕生日も今日だな。俺ら双子だし」

「なにそれ」

 明るい笑い声が弾けて。散る飛沫に彩られ、晴天の海に溶ける。足首を撫でる海の鼓動を感じながら、並んで手を繋ぎ、突き抜けた青空を見上げた。

「じゃあ、毎年お祝いしようね。2人だけの記念日」

「うん。約束な、姉ちゃん」

 一度解いた手を、小指だけで繋ぐ。ギュウと強く結び合わせて、額を重ねて笑い合う。

 色づく世界で初めて迎えた、2人きりの朝。

 ここから永遠に続く時間を生きることになろうとも、ひとつも怖いと思うことはなかった。


《END》

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