第8話・家族の肖像
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正方形のタイルに染みていく鮮血。蛇口から零れる水が静かに水面を打つ中、彼女はぼんやりと目を開いた。
はち切れそうなほどの大きさに膨らんでいた腹が張りを失い、なだらかなカーブを描いている。彼女は目を瞬いて、徐々に大きく聞こえ始める頼りない赤ん坊の声を聞いた。生まれたばかりの赤ん坊は、まだ開かない目で懸命に世界を見ようとしているのか、しきりに頭を振っていた。大人の小指ほどの大きさもない小さな手も、何かを掴もうとするように震えながらバタついている。
彼女は生まれたての弱々しい生命が上げる力強い泣き声を聞きながら、ふと傍らに向けた視線を思わずフリーズさせた。
「うそ……」
呟いた驚愕の音は、弱い水流の音に紛れてかき消えていく。彼女は信じられない思いで零れそうなほど目を見開き、カーネリアンの瞳に信じがたい光景を映した。
確か、先に産まれた女の子。傍らで泣いている双子の弟をよそに、その子はしきりに小さな舌を出して流れる血液を舐めとっている。
彼女はゴクッと強く唾を呑んで、その子の行動の一部始終を目撃した。床を満たすほどの量だった赤は徐々に消え、覗き始める白いタイルの色彩。弱い水流にぴちゃぴちゃと、血を選んで舐めとる音が響く。その子はついに彼女の体に至って、下腹部からの出血を舐めとり始めた。ぴちゃぴちゃという微かな音から、じゅうじゅうと低く吸う音に変化する。彼女は息を詰めたままでその音を聞きながら、恐怖に背筋を震わせた。
けれども、この子が血を飲んでくれなければ、失血死していたかもしれない。彼女はその子が血を飲む音を聞きながら、複雑な思いを抱えて瞼を閉じた。
やがて、満足したように彼女の腹に寝そべるその子。ケフッと小さな息を吐く様が思いの外愛らしくて、彼女は恐怖を忘れて思わずフフッと噴き出した。
彼女は腹の上のその子を抱き上げ、未だに泣き続けている弟も同じ腕の中に柔らかく抱える。
「ありがとう――ツバキちゃん」
ツバキ、と呼ばれたその子は小さな口をクアッと開き、,満足そうに欠伸を吐いた。
「弟くんは、ヒイラギね」
お腹の子供が双子だと分かってから考えていた名前。もし男女で生まれたら、自身の名前と関連付けて対になる名前にしようと決めていた――椿と、柊。
「初めまして。わたしは――カエデ」
2人のお母さんだよ、と優しい声が言いながら、彼女――カエデは生まれたてのわが子をギュウと抱きしめる。
――この時が、ツバキが母の温もりを感じた最後の瞬間だった。
物心がついて、自身を取り巻く環境が分かり始める頃。ツバキの“居場所”は薄暗い押し入れの中だった。わずかな隙間から覗く世界。そこにはいつも弟がひとりでいて、頭まで布団を被って眠る母親の様子を時折伺いながら、おぼつかない足取りで押し入れまでやってくる。
「ねーちゃ」
口の横に掌を添え、小さな小さな声で。ヒイラギはチラッと母親を振り返り生えそろったばかりの乳歯を見せて得意げに笑うのだった。2人の母親は夜の仕事をしていた。日が落ちたころに起きてきて、綺麗に眠そうな顔に化粧を施していく。化粧が終わると美しく変身している母は、子供たちに「食事」と称した野菜や芋の切れ端、薄いみそ汁を残して質素な小屋を出ていく。
「ねえちゃん、ごはんだよ。出てきて」
「はあい」
ツバキは四つん這いの姿勢で押し入れから這い出て、ヒイラギと共に食卓を囲む。ツバキは芋や野菜など形のあるものを弟に勧めて、自身は専ら薄いみそ汁を飲んだ。
「ねえちゃん、いつもそれだけで足りんの……?」
自身の方に取り分けられた食材を前に、ヒイラギは眉尻を下げ心配そうな色をツバキへ向ける。
ツバキはお椀を両手で包んで持って、ズッと音を立てて中身を吸いながら、大きなカーネリアンをパチンと瞬かせた。
「あのねえヒイラギ。お姉ちゃんはそもそもヒイラギとおんなじご飯は食べらんないのよ」
「えぇ……」
ヒイラギはいまいち納得のいっていない様子で首を傾げる。ツバキはヒイラギが座る位置へと体を寄せて、蒸した芋の皮を剥き、彼の口元に近づけた。
「大丈夫だから。ほら、あーん」
あ、と素直に口を開けたヒイラギが芋を齧るのを見て、ツバキは機嫌よく微笑む。
「おいし?」
「うん……」
ツバキは難しい顔で芋を咀嚼するヒイラギの頭を撫でて、自身の席に戻った。
「まあ、もうちょっと塩辛い方がいいかなーとは思うけどね」
「……! ねえちゃん、それなら!」
「ん?」
食卓のものを急いで口の中に詰め込んだヒイラギは、パンパンに膨らました頬の内側で何事かをムグムグ懸命に主張しながらツバキを急かす。ツバキも椀の中のみそ汁をすべて飲み干してから、ヒイラギに連れられるまま外に出る。
靴などは与えられていないから、裸足のまま。地面の小石を慎重に避けて、夜へと繰り出す。
ヒイラギは勝手知ったる道を軽快に駆けていくけれども、ツバキにとっては初めて目にするものばかりで、過ぎていく景色のすべてがもったいなくて、あらゆるものに視線を向けるのが止まらない。
上下左右、斜めも全部、余すところなく見回して。初めての刺激に喜色を浮かべながら、ツバキは両手を広げて駆ける。
今にも笑い出しそうだけれども、夜の静寂を破るのが惜しくてギュウと努めて唇を結んだ。
先を走っていたヒイラギの隣に並ぶと、そのまま競争のように2人で肩をぶつけあいながら走る。ザァと吹き抜ける風の質が変わる。ぺたりと肌に張り付くような質感と、空気に混ざる地球の鼓動。
民家がひしめく狭い通りを抜けた先、急に開けた視界に広がった景色を目にしたツバキは、声にならない歓声をあげた。
「……っ、ぅわぁ……」
努めて押し殺していたせいで、つっかえるように零れる声。ドッドッと激しく脈打つ鼓動。ツバキはカーネリアンの瞳を目いっぱい見開き、目の前の景色のすべてを焼き付ける。
「海だよ、ねえちゃん」
「う、み……?」
ザァ、ザザァと押し寄せる音を言うのだろうか、それとも、鼓動を打つように波打つ水面のことか、もしくは、足元に広がる細かな粒子の大地を指すのか。ツバキが裸の足にまとわりつく砂を掬って問うと、ヒイラギは得意げに「全部だよ」と教えてくれた。
「あとな、海の水ってしょっぱいんだ」
群青の闇にぽっかりと浮かぶ銀色の月明り。水面に落ちる黄金の影と同じ光が、ヒイラギの顔を照らし出す。ツバキはヒイラギの言葉にこくりと小さく喉を鳴らして、また小さな手に引かれるまま、柔らかな砂の大地を踏んだ。
押し入れの板間とも、痩せた畳とも、走ってきた地面とも違う。そこだけ異質な大地を踏んで、ツバキは遂に波打ち際に至った。暗い水面が繰り返す満ち引き。まるで生きているように動く水面に戸惑っていると、ヒイラギは白い縁のような部分を指して「波だよ」と言った。ヒイラギはためらうことなく黒い水面に両手を差し入れる。
「あ……っ」
思わず零れる声。ヒイラギの掌に触れた水面は、透明な色に変わった。
「すごいね、ヒイラギ! どうやったの? お水真っ黒だったのに」
「んああ、太陽がねえからな。昼間、太陽があるときはびっくりするくらい綺麗な青なんだぜ」
「あお?」
「今度教えてあげる。その時も、掬ったらと透明になっちゃうんだけど」
ヒイラギは合わせた掌を何度か解いて、砂が入らないようにしているようだった。何度目かで成功したらしく、ヒイラギは掌で作った器をツバキの方へと差し出した。
足首を呑み込む水面が、サァと優しく肌を撫でて引いていく。誰かに優しく撫でられてるような感触に、ツバキはフッと微笑んだ。そして顔にかかる髪を耳に駆けながら、体を屈めてヒイラギの指先に唇を寄せる。
少しずつ傾けられる掌の器、透明な水面が滑ってツバキの唇に届いた。舌に触れた水を口内へと迎え入れて、コクンと喉を鳴らして飲み干していく。
「……おいし」
カーネリアンをこぼれそうに見開いて、ツバキがぽつり零した言葉。ヒイラギは表情にジワァと歓喜を滲ませていき、やがて拳を突き上げて叫んだ。
「ぃやったああああ!」
バシャン、と。勢いよく水面に触れた足が飛沫を上げて、透明な雫を散らす。ツバキもヒイラギにつられるように声を上げて笑って、舌に染みた味を改めて噛み締めた。
グルッ、と。音を立てて鳴く腹の奥。ツバキは今一瞬満たされたのは吸血衝動であることを知る。
(海の水が血の代わりになるなら、それでいい)
(私はまだ、この子と生きていけるんだ)
ツバキはじわっと瞳に滲む涙をごまかすように笑って、ヒイラギに倣って自身でも海水を掬って飲んでみた。確かに、満たされた音を立てる内臓。今度は入れ物を持ってこよう、と話し合って、その夜はツバキが満腹になるまでそこにいた。
そんな穏やかな日常も、2人の成長と共に徐々に壊れてく。ツバキの食事用にと、ヒイラギが見つけていたのは青いガラス瓶。そこに海水を入れると本物の海のようなんだ、と笑って言ったヒイラギの顔を思い出して、ツバキは薄暗い押し入れの中で微笑む。
起きている間はマシだった。変化は、眠っている間に決まって訪れる。
「きゃあああああ!」
その日の夕方、ツバキは母親の甲高い悲鳴を聞いて目を覚ました。目覚めたはずなのに、頭はボーっとして上手く回らない。冷えた額を押さえて膝を抱くと、突然、押し入れの襖が勢いよく開いた。
「え……?」
ツバキはぼんやりする視界を瞬きで懸命に慣らしながら、状況を把握しようと首を巡らせた。ドッ、と目の前を過ぎる黒い影。ツバキは覚醒しきらない頭で、その黒い影の正体を知る。
ツバキの足元に落ちたそれは、血を抜かれたネズミの死骸だった。
「あんたがやったんでしょ」
静かに抑え込みながら、ヒステリックに歪んだ声。ツバキはぼんやりと霞んでよく見えない視界で、母親らしき影をとらえて見上げる。
母親はツバキの胸倉をつかんで押し入れから引っ張り出し、ネズミの死骸を指さして金切り声を上げた。
「これだけじゃないわよ。この間は蛇の死骸、その前はカラスの死骸も見たわ。全部あなたがやったんでしょう?」
「まって、お母さん。なんのこと……?」
「とぼけるんじゃないわよ!」
母親のいらだった声が聴覚をつんざく。ツバキが反射で目を瞑り顔を逸らすと、母親はツバキの口元に尖った爪の指先をグイッと押し付けた。
「ほら、血がついてる。なにが海水を飲んでれば大丈夫、よ……ついに本性を現したわね、この化け物が」
「……」
ツバキは強く擦られた痛みの残る口元に自身でも触れてみる。擦った指先には血がついていて、ついでに、ねずみの体毛のようなものもついてきた。ツバキは内心、絶望する。――ああ、きちゃった。
年々増していた乾き。ヒイラギの持ってくる海水だけでは到底足りなくて、ずっとお腹が減っていた。空腹を紛らわせるために貪っていた眠りの中で、まさか自身が無意識に血を求めて小動物を襲っていたとは思わなかった。
ツバキは瞳から光を消して、ガクンと深く項垂れる。母親の白い足がふらふらと後ずさり、かすれ声が聴覚を震わせる。
「やっぱり……やっぱりそうなのね……生かしておくべきじゃなかったんだわ……ああ」
母親はそう独り言のように繰り返し呟いて、肩に垂らした三つ編みの頭を激しく搔き毟り始めた。
ヒイラギから聞いた話では、歳を重ねた母親は若さという武器を失って、思うように収入を得られないようになっているらしい。夜に化粧をすることもなくなって、日がな内職に勤しむ姿をツバキも度々目にしていた。
突然変異で生まれた吸血鬼は、多くの場合生まれた瞬間に医師や助産師、もしくは両親の手で葬られるらしい。稀に生き残った者もでも吸血衝動を抑えきれなくなり、多くの犠牲者を出した後に捕まって殺されるのがほとんどだと聞く。
(私もできれば、こうなっちゃう前に消えていたかったな)
ツバキは胸中に浮かんだ願いを呟いて、フッと重く瞼を伏せる。これまで自分の“居場所”を押し入れの中と定めてきたように、ツバキの処遇を決めるのは母親だった。生かされるのも、命を絶たれるのも。
「生かしておくのはダメ……ダメ……」
母親は繰り返しそう呟きながら、フラフラと勝手場に向かう。水に浸した包丁を手に、痩せた畳を踏む音。
ツバキは頭を垂れたまま、母親が戻るのを待っていた。抵抗する気はないし、今まで生かしておいてくれたこと、ヒイラギがくれた思い出の全部が走馬灯のように駆け抜けて、ツバキは薄く微笑んだ。胸に抱いた青い瓶の中身がトプンと揺れる。最後まで飲んでおけばよかったなあ、なんて。
「なに笑ってるのよ……?」
震える声が降る。彼女も、ツバキが生まれたばかりの頃は優しかった。本能で血を舐めつくしたツバキに「ありがとう」と言ってくれた。その後も、自ら手を下すのを怖がってツバキを生かし、薄いみそ汁を与えてくれた。質素でもヒイラギの食事を用意しておくことを欠かさなかったし、彼女なりにいい母親でいてくれたとも思う。
(わたしが、生まれてくる場所を間違えただけ)
(でも、ヒイラギのお姉ちゃんでいられて、幸せだったなあ……)
ギュウと、瓶の温もりと質感を強く抱きしめて、ツバキはその時を静かに待った。
「姉ちゃん!!」
玄関戸が勢いよく開き、ヒイラギの声が飛び込んでくる。ツバキはゆっくりと頭を上げて、彼の方を見た。
ヒイラギは靴も脱がずに室内に上がり込み、そのままの勢いで母親に掴みかかる。
「なにしてんだよ……っ、母ちゃん……!!」
「離してヒイラギ! あの子を、あの化け物を殺さないと……!!」
「化け物ってなんだよ! 俺の姉ちゃんだ! それにあんたの子供だろ!?」
「だってあの子、ねずみの血を飲んで殺したのよ!? 蛇やカラスまで……放っておいたらそのうち人間を襲うわ! あなただって、人間の間に紛れていた吸血鬼が起こした事件を知っているでしょう!?」
「だからなんだよ! 姉ちゃんはそんなことしねえよ! ずっと俺らの傍で暮らしてたって、絶対そんなことしなかっただろ!? 姉ちゃんは明るくて、すげー美人で、俺らのことめちゃくちゃ愛してくれる、いい女なんだ!」
ヒイラギの言葉選びにツバキは思わずフッと噴き出した。母親は取り乱していた動きをフッと止めて、信じられないものを見る目でヒイラギを見る。
「いい女って、なによ……ヒイラギ、あんたまさか、あの化け物に誑かされて……?」
「はあ? 何言ってんだよ。姉ちゃんがそんなことするわけねえだろ!」
「そう、あんたも……あんたももう、あの化け物に取り込まれて……そう」
「んだよ……落ち着けよ、母ちゃん」
ヒイラギが母親を捕らえる手を一瞬緩めた。母親はその隙に憎悪のこもった瞳をヒイラギに向ける。2人の体の間でギラリと鈍く光る銀の切っ先。ツバキはハッと目を見開いて、咄嗟に叫んだ。
「ダメ! ヒイラギ、逃げて……!」
「え?」
ドッ……、と。鈍い音が刹那の静寂の間に重く響く。包丁の先を翻した母親は、ヒイラギの脇腹に深々と包丁を突き刺していた。
ヒイラギは一度目を見開いて硬直し、刺された傷口を見下ろした。白いシャツを染め、ジワァと広がっていく赤い染み。滲んだ血液は母親の手を伝い、痩せた畳にぽたぽたと赤い雫散らしていく。
共鳴するように、ツバキが抱く瓶の中の海水がカタカタと揺れる。
「あ……ぁあ……」
そのまま、展開されていく凄惨な光景を、ツバキは震えながら見つめていた。ヒイラギの腹に刺した包丁を抜いた母親は、血濡れた刃を何度もヒイラギの体に突き刺していく。肉を抉る音、噴き出す血飛沫、鈍いうめき声。徐々に倒れ伏す、ヒイラギの体。母親は既に血まみれの彼に何度も刃を突き立て、荒い息を繰り返した。血飛沫が上がる度、ツバキの脳裡には初めて海を見た日の光景が閃く。透明な飛沫が、赤く染まって。目の前の現実を突きつけながら、思い出を染めていく。
体中に降りかかるヒイラギの血液。ドクン、ドクン、と、激しく鳴る心臓の音。ツバキは荒い呼吸を何度も喉奥へ押し込みながら、震える舌を伸ばし、ヒイラギの血を舐めとった。
ドクン、と。大きく鼓動が跳ね上がる。指先がブルブルと震えて、抱いていた瓶がズルッと滑り落ちた。食いしばる歯列の隙間から、獣のような息遣いが漏れ出す。湧き上がる衝動は、抗えない本能か、それとも底知れぬ怒りか。ツバキは血溜まりの中に一歩を踏み出し、音もなく2人に近づく。全身に返り血を浴びて、血だるまのようになった母親を一瞥し、ツバキは彼女の手首を掴んで刃を止める。
「ひっ……」
突然我に返ったように短い悲鳴を上げる母親を見下ろして、ツバキはヒイラギの体を抱き寄せた。母親は震えながら部屋の隅へと後退し、そこでガタガタと震えだす。
ヒュー、ヒューと空気の抜けるような呼吸音。内臓まで刺し貫いた刃の深さを思い、ツバキは静かに涙を流した。
「っ、……ラギ……ヒイラギ……」
ほとんど光を失ったヒイラギのカーネリアンが微かに動いて、ツバキを見上げる。ツバキは彼の視線に微笑みを返して、血濡れた髪をソッと撫でた。
「お姉ちゃんね、今生まれて初めて、吸血鬼でよかったって思ってる」
ヒイラギはゆっくりと瞬いて、唇を微かに震わせる。声は聞こえないけれども、ツバキはヒイラギが肯定してくれたように思った――思い込みかもしれない。これは紛れもないエゴだと知っている。
「ヒイラギ、死んじゃダメだよ。ねえ、私が、幸せにするから。ヒイラギが私にくれた分の幸せを、あなたに返させて」
重ねた掌がピクリと震える。ツバキは涙を拭って柔らかな笑みを浮かべた。
「大好きだよ、ヒイラギ」
ツバキは力の抜けていくヒイラギの体を抱き上げる。頭を後ろに倒し、晒した首筋をツゥと撫で、失われていく律動を感じた。
「私と生きて」
スッと息を吸い込んで、首筋に顔を寄せながら、発達した牙を剥く。皮膚に触れ、少しずつ沈み込んでいく尖った先端。痺れる舌を押し当てて、じゅうと音を立てて吸い上げる。
神経に染みていく、甘い、甘い味。舌に染み、喉に届いて、濃く蕩けていく。
ビクンッ、と大きく震えるヒイラギの体。喉を通過していく彼の体温が熱く、ツバキの体内を満たしていく。
母親は精魂尽き果てた様子で、壁に凭れて聞き取れない言葉を呟いていた。
体内を巡る熱い感覚。流れる熱は左手に集中し、ビリビリと裂くような痛みと震えが走る。手首の血管を裂き、生まれたツタが巻き付いて、左手に紋様を刻んでいく。
結びついた血が、ドクンと新たに脈打つ音を聞いて。
ツバキはゆっくりと頭を起こしたヒイラギと微笑みを交わし、手を取り合って家を出た。
あの日、ヒイラギに連れられて海を見に行った時と、同じように。
◇
「いじめられたの? ツバキちゃん。悲しそうな顔してる」
「……別に」
大仰な表情を演出するカエデを、ツバキは冷めた目で見つめる。姿は確かに母親に似ているかも知れない。けれども、それだけ。目の前にいる彼女は、ずっと昔の《《今日》》に何が起きたかを知らない。――だから平気で踏みにじれる。ツバキはスゥと吸い込んだ空気で体の内側を冷やして、努めてカエデから目を逸らさないよう耐えた。
カエデは言葉少ないツバキを見返し、フフッと薄く笑みを浮かべる。
「居場を所なくすのなんて簡単。あなた、欲が深すぎるのよ。なんでもかんでも大事にして、それで全部守れると思っているところがとても傲慢。ものすごく醜いわ」
「何言ってるの?」
ツバキは冷めた目のままで、フゥと短く息を吐いた。
「私は最初からなんにも持ってないよ」
ヒクッと眉を揺らすカエデ。ツバキは真っ直ぐにカエデを見つめて言葉を継ぐ。
「ヒイラギだって、本心で私を思ってるかなんてわかんないんだから。私たちは番でしょ? 惹かれるのは血とか本能のせいだって知ってる」
フゥと息を吐いたツバキは滲んでくる涙を目尻から零れるままにして、震える息を呑み込んだ。
「番じゃなきゃよかったなんて言わない。だってそうじゃなきゃ、人間のままヒイラギを生かしてあげることは出来なかったから」
涙が溢れて、止まらない。目の前の相手にぶつける虚しさは頭の中にあるのに、記憶を想起させるトリガーのような姿が、言葉を溢れさせる。――まるで、懺悔のように。
「でも、わかんない。ヒイラギを生かしたのも私のエゴで、私だって、番の力が引き合わせた本能かもしれない。想うってなに? 番だから、分からないの……もう全然、分かんないよお……」
項垂れた頭上に、近づく足音。足元で重なる影。カエデは開いた掌をツバキの頭に翳した。その掌中に、黒い球体が集まっていく。
「可哀想なツバキちゃん。わたし、あなたのこと誤解していたわ。あなたは独りぼっちだったのね。誰からの愛情も信じられないで、それこそ自分自身の愛情さえも」
生まれた時から決まっていたならば。与えられた愛情も、思い遣りも、守ってくれようとしたことさえ、本能に引き寄せられただけかもしれなくて。それこそ、自分なんかが傍にいなければ、ヒイラギの人生は全く変わっていた。
「私が奪ったの……全部……私が吸血鬼に産まれたのが、いけないの……」
「可哀想なツバキちゃん。でも、あなたのその愛情も本物なのかしらね。もうなにもかも、分からないわね」
フフッと歌うように笑いながら、カエデは非情な言葉を浴びせかける。カエデの掌の中で膨れ上がっていく球体。ツバキは啜り泣く声を上げながら、深く項垂れた頭を起こすことをしなかった。
「所詮、家族といっても絆は弱いものね。番の絆も血でしか繋がれないのなら、壊すのも容易いわ」
「……え?」
カエデの言葉に感じた違和感。ツバキはふと頭を上げかける。その頭上を、人型の影が弾丸のように駆け抜けた。
「あることないこと……言ってんじゃねえ!!」
叫びながらカエデに飛び蹴りを放ったヒイラギは、コンクリートの地面に着地しきれずにゴロゴロと転がる。
「ヒイラギ……!?」
ヒイラギはすぐさま起き上がり、倒れて起き上がらないカエデの前でファイティングポーズをとった。カエデはゆっくりと身体を起こし、ヒイラギに蹴り飛ばされて有り得ない方向にねじ曲がった頭に両手を添える。
「あらあら。長いこと見ない間にずいぶん乱暴者になったのねえ、ヒイラギ」
ヒイラギはカエデの言葉を聞いて怪訝そうに顔を顰め、傍でへたりこんでいるツバキに視線を向ける。
「なあ姉ちゃん、こいつ全然母ちゃんじゃねえじゃん。俺昔から割とけんかっ早いほうだと思うんだけど」
「……ごめん、私もそれはよく分かんない。ヒイラギ私の前では大体いい子だし」
「おいマジかよ」
ヒイラギはガクッと体勢を崩した乾いた笑いを吐いた。
「母ちゃんだが誰だかしらねーけど、お前の目的はなんだよ。どうして姉ちゃんに近づいた」
ヒイラギは一度崩れた拳を構え直し、真っ直ぐにカエデを睨みつける。カエデはねじ曲がった首をゴキリと音を立てて戻し、ニィといやらしい笑いを浮かべた。
「目的なんてないわ。わたしはただ、わたしたち家族の絆を壊したその女からあなたを取り戻そうとしただけ」
「だからマジお前なんてしらねーんだわ。取り戻すとか言ってるけど、そもそも家族ぶっ壊したのお前だろ」
カエデは表情から笑みを消して、真顔でヒイラギを見つめ返す。虚ろな色をしたカーネリアンは、なにか別のことを考えているように見えた。――まるで、聞いた情報を処理して、インプットしているかのよう。
「ああ、そもそもあんたはあの日のことらなんもしらねーんだったな」
カエデはヒイラギの挑発に答えない。ジッと黙り込んだカエデを警戒しつつ、ヒイラギはスゥと息を吸い込んだ。
「つーか別に、番とか番じゃないとか、本気でどうでもいい。番だからってなんだよ。俺らの絆に勝手に名前つけて定義したおっさんに、いつか文句言ってやろうってずっと思ってたんだよ」
「ヒイラギ……」
ヒイラギはハァと大きく溜息を吐き、構えを解いて耳の後ろをカリカリと引っ掻く。ツバキはヒイラギの言葉を聞きながら、ジッと左手の甲に刻まれた紋様を見つめていた。
「そもそも、番の始まりは俺らなんだぜ。なにもなくたって双子っていう結びつきがあるのに、その血さえ超えた濃い絆で繋がってんだ。それを壊そうとするなんて不可能なんだよ」
魂を失ったように虚空を見つめていたカエデの瞳が大きく見開く。そして色を失ったその唇が、小さな声で囁いた。
「血よりも濃い、絆……」
「ああ、そうだ。その絆の名前を番って呼ぶなら賛同してやる。他のやつら見てても、俺の主張のが正しいってのは明らかだけどなあ!」
勝ち誇ったように、高らかに宣言するヒイラギ。ふと視線を上げて見上げたツバキの位置からは、薄汚れたオレンジのつなぎ姿の背中がとても大きく見える。
ヒイラギは一度フゥと長く息を吐いて、背筋を伸ばした。地面に対して真っ直ぐに立ち、強い瞳でカエデを睨む。
「番とか、本能とか。そんなもんごちゃごちゃ考えなくてもいいように――オレはこの血で証明する」
スゥと持ち上げたヒイラギの左手に握られたハンドガン。ヒイラギは素早く撃鉄を起こしてカエデの腹に銃弾を撃ち込む。
――パンッと静かな音で弾ける銃声。銃弾が貫いたカエデの腹は大きく裂けて、開いた穴からバラバラと砂が零れた。カエデはコンクリートの上に膝をついたものの、四つ這いのようになった姿勢で、背中に空いた穴は砂が集まり塞がってく。
「ヒイラギ」
ツバキは地面を蹴って立ち上がり、ヒイラギの傍らに寄った。ヒイラギは薬莢を落として新たな弾丸を込めながら、ジッとカエデに視線を据えたままでいる。
「《《食った》》な」
「え?」
ヒイラギはポツリと呟いて、視線でカエデの方を示した。ツバキが視線を向けると、ボコッボコッと音を立ててカエデの身体の中で何かが暴れている。
「ヒイラギ、何を撃ったの?」
「試作品だけど、いい感じじゃねえの。ちなみにこれは、初回限定盤のスペシャルなオマケつきだぜ」
ニィと唇の端を持ち上げ笑うヒイラギ。ツバキは不安に鼓動がうるさく脈打つのを感じながら、固唾を呑んでカエデの様子を見つめた。
「ガッ……グ……ガ、ガァ……グゥゥ……」
擦り切れるような不気味な呻き声。カエデは暴れる体内を抑え込むように両腕で身体を抱き、歯列を剥き出しにした口内から苦しげな呼吸を吐く。つり上がった目と裂けた口角にもう母の面影はなく、人格のない化け物と化している。
カエデは変わり果てた形相を跳ね上げ、グンッと首を伸ばす勢いのまま物凄いスピードで飛び上がった。その影はツバキの横をすり抜け、ダンッと激しい音を立てて着地する。ヒイラギが最初の弾丸に付加した作用――吸血衝動を煽るもの。
「……っ、ヒイラギ!」
「姉ちゃん、いいから」
ヒイラギの体が引きずられた後に残る血の跡。ヒイラギの体に圧しかからったカエデは、ガァと大きく裂けた口を開いて剥き出しの牙をヒイラギの肩に突き立てていた。
ジュ……と鈍く立つ血液を啜る音。ビクッと身を震わせ硬直したツバキは、音を立てて唾を飲み下す。
カエデの背中でボコボコと蠢く異質な形。カエデは最早自我を失っている様子で、無心でヒイラギの血を貪っていた。
「……っ、食らえよ。お前が見くびったこの血で潰してやる」
ヒイラギは血の気を失っていく顔で不敵に笑い、顔を背けて首筋を晒す。更に深く食い込む牙に、ヒイラギの表情が苦痛に歪んだ。
「……――」
誰の耳にも届かないほど、小さな呟き。ツバキは震える拳をギュウと強く握り締め、自身の呟きに低い声を重ねる。
「なにしてんのよ……」
ゾクッと背筋の震える感覚を覚えたヒイラギは、顔面を更に蒼白にさせて表情を凍りつかせる。
「……もう二度としないって言ったじゃん!!」
ツバキは怒りに任せて叫びながら、ヒイラギに噛み付いているカエデを力任せに引き剥がした。
「ッ痛でぇ!」
無理やり牙を引き抜かれたヒイラギは堪らず悲鳴を上げる。ツバキの怪力を持って吹っ飛ばされたカエデは、まるで人形のように手足をめちゃくちゃな方向に曲げながら屋上の柵まで転がり、ガンッと鈍い音を立てて崩れ落ちた。
ヒイラギは血を吸われたせいで力の入らない手足をなんとか動かして半身を起こし、後退って鬼の形相を浮かべるツバキから距離をとる。
「それは姉ちゃんが無理やり約束」
「もう許さない! ヒイラギのバカぁ!」
「ば、か、って……」
全身に漲らせていた力を解いて、ツバキは力なくその場にへたりこんだ。そのまま静かにしゃっくりを上げ、涙を流すツバキ。ヒイラギはバツが悪そうに視線を彷徨わせて、やがて観念したように小さく息をついた。
「ごめんって……だって、腹立つじゃん。俺らのこと血の繋がりだけとか言われて、だったらその血でやっつけてやるって……」
ヒッと引き攣る音で喉を鳴らして。ツバキは真っ赤に腫れた目元てヒイラギを睨む。
「姉ちゃん怖えよ……全然、かわんねーの」
「笑ってんじゃないわよ」
ニッと歯列を覗かせ笑うヒイラギにつられるように、ツバキもフッと噴き出す。まやかしの揺さぶりでは知りえない、2人だけが知る2人のリズム。泣きながら怒るツバキの顔は、ヒイラギの記憶に焼き付いている見慣れた表情。お互い以外に、過去の自分たちを語ることは出来ない。確信を持って顔を見合わせる2人を未練がましく見ていたカエデは、徐々に崩れていく体に瞼を閉じて、白い砂に姿を変えた。
風に吹き上げられる細かい粒子は、太陽を反射してキラキラと煌めく。
「姉ちゃん、これ」
ヒイラギはつなぎのポケットを漁り、掌に包んだものをツバキに示した。
握られていたのは柔らかな毛の質感を持つ小さな動物のマスコット。「家族」の名を持つキャラクターで、最近流行っているのだとツバキが話していたのを覚えている。
ツバキはいつも2人の記念日であるこの日に、時流に合わせたプレゼントをヒイラギに贈るのを習慣にしていた。
「誕生日おめでとう、ヒイラギ」
「うん。俺らが産まれた日じゃなくて、番を結んだ日な」
長い吸血鬼の歴史の中で、初めて吸血鬼と人間の番が生まれた日。それは歴史に刻まれることない、2人だけが知る記念日。
「生まれた日なんて、もう忘れちゃったよ」
「だよなー。だいぶ昔だし、誕生日祝ってもらったこともねえしな」
「ねえ、ヒイラギ」
ツバキは目尻に滲んでいた涙を指先で拭って、ヒイラギの体を抱き上げた。Tシャツの胸に頬を寄せ、トクトク脈打つ鼓動を聞く。ヒイラギの体に流れる血は、番以外には不可侵の――ツバキだけのもの。
ツバキはその自負を思い、鼓動に頬を擦り寄せながら甘く微笑んだ。
「久しぶりに、吸わせてくれる?」
ヒクッと微かに揺れるヒイラギの体。ヒイラギはフゥと長く息を吐き、胸に寄せられたツバキの頭を柔らかく撫でる。
「いいよ、番。もう一度結ぼうぜ」
ゆったりと体を起こすツバキ。伏し目にした瞼が開いて、美しいカーネリアンが妖艶な光を湛えてヒイラギを射た。
ヒイラギはふっくらしたツバキの唇に視線を注ぎ、鼓動が早鐘を打つのを感じる。上ずるような呼吸に、ツバキが小さく噴き出すので、ヒイラギは照れて苦笑した。軽く首を傾け、差し出す首筋。ツバキは柔らかい吐息でヒイラギの肌を撫で、剝き出しにした牙をツゥと静かに突き立てた。薄い皮膚の弾力を押し分けた瞬間、熱が牙の先から舌の奥へと染みこみ、体温に溺れる。
鉄と蜜が混ざった匂いが鼻腔に満ちて、喉を伝う度に腹の奥が甘く疼いた。切なさと、焦がれるような渇きが胸を締め付け、吐息が震える。
「ん、ぅ……ふ……っ」
もう一度、音を立てて吸い上げると、底の方から沸き立つ鼓動が耳の奥で弾ける――ああ、これは歓喜だ。
「んぅ……っぁ、あン……ぅ……」
ツバキの舌が肌を這い、唾液を混ぜながら吸い上げられる箇所が熱くなる。なんて官能的な舌遣い。ヒイラギは恥ずかしいような、くすぐったいような感覚を覚えて思わず身を捩りそうになった。けれども、それこそ本能が留める――動いてはダメ。欠片も逃さないで。全部を感じろ。ヒクンッと跳ねる指の腹に張りつめそうな熱が宿っていた。淡く痺れるような感覚に溺れて、ヒイラギは震える指で腹の辺りに作ったつなぎの結び目を掻いた。
生物の本能というか、命の危機と快楽は隣り合わせ。血を吸われている間に分泌される脳内物質が、ヒイラギの体内を甘く湧かせて、とろかせていく。
「は、ぁ、……ァ……ッ、ン……」
「……ん、ぅ……は、ぁ……」
ツバキが深く沈ませていた牙を引き抜くと、唇のわずかな温もりと湿り気が残った。そこから立ち上る鉄と甘さの混じった匂いが、まだ喉の奥でくすぶっている。
恍惚に瞳を潤ませて、ツバキはゆっくりと瞬きをした。瞼の裏にまで彼の体温が染み込んで抜けない。
まるで恋に溺れた少女のように胸が忙しく脈打ち、その音が耳の奥を満たす。拍動に合わせて、吐息が熱く漏れた。
――幸せ。血よりも深く結びついて、彼とひとつに溶けあっている。
ツバキは蕩けるように微笑み、血で濡れた唇から淡い声を零した。
「おいし……」
ヒイラギは目を細めて、ツバキの頬に指先で触れて彼女の濡れて美しいカーネリアンを見つめる。
あれだけ官能的な一瞬を交わしながら、不釣り合いにも聞こえるツバキのリアクション。そこに重なる、同じ言葉を初めて口にした日の、幼い頃の彼女の笑顔。
見交わす視線にお互いだけが映っている。そのたまらく愛しい一瞬を噛みしめてから、ヒイラギはフハッと吐息するように噴き出した。
「姉ちゃんさ、俺が作る飯も食ってよ」
「やだよ、味濃いもん。油っこいし」
「それが美味いんだろうが」
じゃれあう2人を見下ろすように、ザァと渦を巻いて吹き上げられていく白い砂――その行方に、ポツンと立つ長身の影。その人物は開いた掌で砂を受け止め、黒い皮の手袋をしならせ握り締めると、陽炎のようにユラと揺れて消えた。
◇
未だに立ち入り禁止のロープが張り巡らされた現場。折れた高架は無残に傾いたままで、撤去すら済んでいなかった。
「オルビスの方の修理はソッコーだっていうのに……まあ、それだけ重宝してくれんのはありがてえけど」
ハスミは規制線を跨いで現場の駅に足を踏み入れ、瓦礫の散る道路を歩いた。不規則に散らばっているように見える地面も、よく見れば戦闘の痕跡をくっきりと残している。影から湧いた中級吸血鬼たちが一斉に生まれた場所は極端に瓦礫の数が少ない。ハスミは裂けた道路の中心に立って、人通りが完全に絶えた通りを見通した。
静かに呼吸を繰り返し、ハスミはその場に膝を着き、地面をさらりと撫でる。指の腹をヒタリと押し付け瞼を閉じた。自身の呼吸音から意識を逸らして、指先に全神経を集中させる。末端を流れる毛細血管がドクドク脈打つ感覚。呼吸を詰めて僅かな異音さえ逃さないように集中しても、探している感覚には行きつかない。
ハスミはゆっくりと瞼を押し上げ、地面から剥がした掌を見つめる。
「……どういうことだ?」
自身の血と共鳴するはずの――始祖の血の反応がない。名残すら感じられない違和感に、ハスミは眉間に濃く皺を刻んで掌をジッと見つめ続けた。
「……ユア」
「それは、始祖の名か?」
ふと背後から聞こえた嗄れ声に、ハスミは反射で振り返って身構えた。足音もなければ気配もない。けれどもそこには確かに、黒いローブのような衣服に身を纏った長身の男性が立っていた。目深に被ったフードの裾から覗く顔の下半分は真っ白な髭で覆われ、袖からはみ出た皺だらけ骨ばった手からみても、かなりの年齢を重ねた老人であるようだった。
ハスミは素早く目を走らせて老人の全身を隈なく観察した。気配や足音がしない理由は、老人の足が地面に着いていないからのように見える。まるで幽霊のような動きに覚える既視感は、大規模襲撃の前日に現れたハスミそっくりの――
「――グレン・ヴァンプ……」
フードの影で、老人の赤眼がヌラッと揺れて動く気配。ハスミは老人の反応を肯定と捉えて、構えを緩めつつ、緊張は解かないままで真っすぐ彼と対峙する。
「何しに来た」
老人は一度唇を引き結んだ後で、豊かな口髭の覆う乾いた唇を微かに開いた。
「我は観測者。名は――アマネ」
「アマネ……」
風を揺らす声は、しわ嗄れていながらも確実に聴覚を揺らす。
「我らの目的を完遂するため」
「目的……、ね。長年待ち焦がれたグレン・ヴァンプがぞろぞろと出てきやがって、いよいよ人類滅亡でも企んでんのかよ」
ハスミが口にした言葉に、アマネは唇を結んで首を傾げた。そして彼は、重力に従うように垂れ下がらせていた腕を水平に持ち上げ、濃い皺の刻まれた指でハスミを指さす。
「始祖の願いを最も知るのは、お前ではないのか?」
影になった唇が、ある音の形に動くのを目にしたハスミは、零れそうなほど瞳を見開き息を呑んだ。脳裡にフラッシュバックする赤く染まる大地と、少女の白い腕を伝い落ちる鮮血の軌跡。大地に落ちる雫が次々と生んだ――数多の吸血鬼。
アマネは黙ってハスミの様子を観察した後、腕を下して首をもとの位置に戻す。
「願いの元はお前だとして、願いそのものは、お前の中にはないようだ」
「何……――っ!?」
突然強く吹き付ける風が、瓦礫の細かい砂利を吹き上げ視界を覆った。ハスミは咄嗟に腕で顔面を覆い、風圧に耐える。風が止んだ瞬間、腕を取り払い視界を開くも、そこにもうアマネの姿はなかった。
「始祖の、願い……」
ハスミがポツリ呟いた言葉は、無風の空気にも留まることなく、誰の耳にも届かず立ち消えた。
――それとほぼ同時刻。街頭ビジョンが「緊急」の見出しをつけてある男の会見を映し出す。
人々は足を止めて、彼の主張に聞き入っていた。
オルビスタワーの中でもシドウがひとり、PC画面に映した緊急報道画面を黙って見つめていた。画面に映る全く見知らぬ男の横に侍る、誰より見知った顔。シドウの口の中で強くかみ合わされた奥歯が、ギリッと鈍い音を立てて擦れる。
藍色の長い髪と、色白の肌に整った顔立ち。伏せられた瞼の奥の瞳は、美しいサファイアブルー――シドウの息子、リクだ。
シドウの中でフツフツと沸き立つ感情が、静かに警告音を鳴らす。これ以上男の声を聞いていたら、爆発しそうだと思うほど。シドウはフーッと強く息を吐き出しながら、細いフレームの眼鏡を抜き取り眉間を揉んだ。
その間も、見知らぬ男は堂々たる口調で主張を続ける。
『これは私の息子です。赤ん坊の頃にV-Unitよって拉致され、人体実験の被害に遭っていたのです』
いやらしいほど画面に大写しになる見知らぬ男が拳を握りしめて声高に主張する。その言葉をどこか意識の外で聞きながら、シドウは別画面で展開させた監視カメラの映像を次々切り替え目的の人物を探した。
部屋にも、稽古場にも、研究室にも。リクの姿は、どこにも見つけることができなかった。
《8/END》