第7話・ふたりの記念日
7.
深い、深い闇の底。冷える空気と乾ききった感覚。呼吸の度に、喉が擦り切れるように痛む。
アスカは上下で貼りついてしまったように感じる重い瞼をなんとか開いた。闇の正体は自分が目を閉じていたせいだと知れてホッとする。そして、確保できた視界で周囲を見渡してはっきりと分かった。肌に触れていた乾いた気配はやはり、懐かしいと感じるもの――故郷の空気。
赤い空と、乾いた大地。枯れ切った樹はしわがれた枝を地面につくほど垂らして萎れながらも、屍のような幹から伸ばした根で倒れることなく大地に生えている。一歩、足を踏み込むたびに細かい砂埃が舞って、靴底でパキィと何かが割れる音が幾度も響いた。
アスカはオーバーサイズの服の首元をグイッと引っ張り上げて口元を隠す。取り囲む空気は、あまり積極的に体内に入れたいものではない。
ザラつく舌を洗うように唾液で注ぎながら、アスカは行く当てもなく歩き続けた。
(そもそもオレ、なんで故郷にいるんだろう)
(今まで、何をしていたんだっけ)
重要な何かが抜け落ちていると感じるのに、その《《何か》》が何なのかを思い出すことができない。アスカは引き上げた衣服の下でギッと奥歯を噛んで、正体不明の苛立ちにただ途方に暮れて溜息を吐く。
どれくらい歩いただろうか。無限に続くのではないかと思えるほどずっと変わらない景色に頭がボーっとしてきた。ただ、不思議と体は疲れを訴えることはなく、果ての見えない大地を進む気力が折れることもなかった。変わらない風景だけが、どんどん思考を麻痺させていく。赤の中に溺れていくようで、乾燥のせいで痛むのも含めて、呼吸がしづらい。
ケホッと小さく咳をして、反射で瞑った間歌を開いた――そこに、ある変化を見つける。
(人、だ)
もっと言えば、同族の人。乾いた風が吹き上げる豊かな銀髪が、彼女の正体を告げていた。脹脛までの丈の白いワンピース。裾から覗く細い足の、透けるような白さ。頬に掛かる髪を耳の後ろに掛けて押さえながら、彼女は真紅の瞳を憂いるように細めている。真紅を縁どる長い睫毛は濡れた銀色。長く豊かで、人形のように整った顔立ちを強調している。彼女は朽ちた像のようなものの上に座り、揃えた脚を空中で遊ばせていた。小さな爪先が宙を蹴る度、彼女の細い体が揺れる。
そのリズムはまるで歌うようで、実際に彼女との間の距離を詰めると、微かな歌声が聴こえた。
アスカは彼女の手前で足を止める。風が一層強く吹き、彼女との間に出来た空間を埋めるようだった。まるで、これ以上は近づかせないと、彼女を守るように。
彼女はアスカの存在に気づくと、歌声を止めた。銀色の長い睫毛に縁どられた瞳を微かに上げて、アスカを見る。濃く深い赤なのに、どこか透けるような質感を持った視線。アスカは射すくめられたように硬直し。ジッと彼女を見つめ返す。
彼女は薄く唇を開いて、淡い色の舌を覗かせた。ヌラッと揺れた舌は何か言葉を発するかと思わせつつ、スゥと息を吸い込むだけでパタリと閉じた。代わりに、彼女は細い顎を上げて滑らかな喉元をアスカに晒す。艶めく仕草に心臓がザワつく感覚を覚えつつ、アスカは息を詰めて、彼女の行動をつぶさに観察した。
像の上についた両手をキュッと握り、揃えた爪先を手前に引いてわずかの乗り出す体。彼女は喉を晒したままで、空中に向けた鼻をスンッと鳴らす。
何かの匂いを嗅ぎ取ったのか、ゆっくりと顎の角度を戻した彼女は、下唇の下に指先を当ててジッと考え込んだ。アスカはパタッと瞼きをして、スンッと自身の周囲を嗅いでみる。特になんの匂いもしないはずで、アスカは首を傾げて彼女を見つめづつけた。
「あなた、どうしてここにいるの?」
ふとデジャブを覚えたのは、彼女から向けられた問いを、数時間前に自身に向けたからだ。アスカはその時にも答えを見つけられなかったことを思い出し、フルッと頭を振った。
「わたしはあなたを《《しらない》》わ」
彼女の唇から漏れていた柔らかな旋律とはかけ離れた冷たい声音。アスカからフイッと目を逸らした彼女は、自身の腹を覗き込むように体を前傾させ爪先をギュウと縮める。アスカは何も言うことができないまま、風が撫でる彼女の長い髪を見つめて立ち尽くしているしかできなかった。聞きたいことは様々に浮かぶのに、彼女は答えてくれないだろうという予感が言葉を躊躇わせる。
沈黙の時間がすぎて、彼女がハッと予告なしに顔を上げた。アスカに横顔を晒しながら、再び身を乗り出してスンッと小さく鼻を鳴らす。
瞬間、彼女の表情が花の咲くように綻んだ。白陶磁の肌にはジワッ血色の色が差して、濃い真紅は潤んで光を揺らす。彼女は後ろ手に像を掴んでいた手を押して、爪先で側面を蹴り地面に降り立つ。フワリと膨らんだワンピースの裾から空気が逃げて、サラリ流れる生地が光沢を放った。
地面に降りた彼女は、心なしか体系も顔立ちも、アスカが見ていたものよりも幼く見える。アスカは目を瞬いてからジィと目を凝らし、喜色を浮かべる彼女の横顔を一心に見つめた。彼女は華やいだ表情のままで白い腕を伸ばし、目いっぱい左右に揺らす。彼女が視線を向ける先には近づいてくる影があって、幼くなったような彼女とちょうど同じ年ごろくらいの少年であることが知れた。
彼女に気づいて小走りに駆け出す少年。アスカは少年の顔を目にした瞬間、キンッと鋭く刺すような頭痛を感じて、痛む場所を押さえて蹲る。ノイズがかかったようなビジョンが何度も脳裡に閃いて、ズキンズキンと脈打つ音に合わせて激しくなっていく痛み。全身から汗が噴き出し、吐き出すもののないはずの胃から嘔吐感がせり上がった。
「なに、これ……」
激しい拒絶反応のような。例えそうだとしても《《何が》》アスカを拒絶しているのか分からない。
「ふぅ……ぐ……ぁあっ……」
鈍く呻きながら、アスカはその場にドサッと倒れ込む。水平線になった視界に、距離を縮めて向かい合う二組の足が映った。
意識を失うほどの痛みの中で、彼女の柔らかな声がその名を呼ぶのを聞く。
「――
◇
――ハスミ」
呼びかける声と、物理的に肩を揺すられハスミはぼんやり瞼を上げた。椅子に座ったまま眠っていたらしく、肩や腰がギシギシと痛む。
「そんな体勢で寝れるなんて。番と結んでよかったんじゃない? 若くないと無理だよね」
「若くても無理だって身を以て今知った。体中痛ぇ……」
「鍛え方が足りないんじゃない?」
大規模な吸血鬼掃討作戦の夜以来、切れ味が格段に増したシドウの嫌味を耳を塞いで聞き流しつつ、ハスミは痛む体を伸ばすようにグゥと筋を意識ながら肩を回した。
「いずれにせよ、お疲れ様」
シドウは言いながら、サイドボードの上にスチールマグを置いた。ふうわり優しい湯気を立てる表面に、ハスミは信じられないものを見る目を向ける。
自身も薄青のタンブラーに口をつけつつ、シドウは呆れた目でハスミに視線を返す。
「何。僕の唯一の得意料理なんだけど」
「粉お湯で解いただけのもん料理って言わねえだろ」
ハスミはハァと巨大な溜息を吐きながら、置かれたマグを手に取った。得意料理という割に、インスタントコーヒーの粉に本当にお湯を注いだだけらしく、溶け乗った粉の欠片が浮いている。ハスミはムッと唇を歪めつつも、好意だけは受け取ってマグの中身を啜った。
「今朝もちゃんと検査して状態みたけど、どこも正常値。……正常値っていうか、正常な状態のアスカと同じって言った方が正しいかな。所見としてはやっぱり、ただ眠ってるだけとしか言えない」
「……そうか」
あの夜から3日。アスカはイニシアチブを発動し終えた後に意識を失って、そこから一度も目覚めていない。
そして同様の症状に陥っている人物が、もうひとり。
「まあアスカは、あれだけ強大な力を使った後だからってことで説明はつくけど、その子のことはよく分からないね」
「……」
アスカとベッドを並べる形で目を閉じている患者――ミナミだ。深夜のうちにオルビスタワーに戻ったハスミたちは、意識の戻らないアスカとリクを寝かせてから、それぞれに休息をとった。翌朝、日課となっている検査のためにミナミの病室を訪れたシドウが、呼びかけても体に触れてもまったく反応を示さないミナミの異常に気付いた。
症状は、アスカと全く同じ。ピタリと閉じた瞼は開く気配がなく、色を失くした唇からわずかに測れる呼吸も弱々しい。けれど懸命に呼吸音を拾えばそれはとても穏やかな寝息のようなリズムで、心配してやきもきする気持ちを何度折られたか分からなかった。
「原因がまったく分からないってのは、正直かなり痛い」
ハスミはタンブラーを手にしたまま、スタンバイ状態に入っていたモニター画面を適当なキーボードを叩いて再表示させる。
「予測としては合致率の高いアスカの血と共鳴したってのが有力だけど、さすがにもともと普通の人間だった彼女が始祖の血守りに触れたから、ってことだけで始祖の血を継ぐ吸血鬼と同等の力を振るえるなんて思えないし。意識が戻らないほど消耗するってこと自体、なんかおかしいよね」
「外部からの侵入の形跡とかはねえの?」
「まあ、その可能性もないことはないけど。誰かさんが監視カメラで見るなとか言うから……」
「んでだよ。当然の倫理だろうが! つか誰か入ってきたら動作するようになってんじゃねーのかよ」
「自分で言っといて自分で可能性潰してんのウケるー」
「んぐっ」
「観察対象なんだから、大目に見てくれたっていいのに」
ブゥと子供のように唇を尖らせるシドウは、譲歩も隙もなく本気でそう思っているので話にならない。ハスミは喉元までこみ上げる不満を飲み込んで、あからさまに閉口して見せるに留めた。
「……ってわけで、今のところなにも分からなし、気を揉んでも仕方ないよ」
「他人事だと思って」
「そんなこと言ってないでしょ。あの夜も言ったけど、明確に僕らを敵視している何かが動き出してることは確実なんだから、今最大の戦力にダウンされてる場合じゃないんだよ」
シドウはあの夜の大規模襲撃を、その前日に現れた《影》が仕組んだものと断定していた。映像を詳細に分析した結果、前日に《影》が吸血鬼たちを引き出していた場所と、今回の襲撃箇所が完全に一致したらしい。
「敵、ねえ……」
「そういえばお前、最近贖罪がどうとか言わなくなったね」
ズッとわざとらしく音を立ててタンブラーの中身を吸い込みながら、シドウは独り言のようなトーンで呟く。ヒクッと目元を引きつらせたハスミは、ふわふわと視界に立ち上る柔らかな湯気をフゥと吹いて霧散させた。
「忘れてるわけでも、終わったわけでもねえよ」
「ふぅん。お前の秘密主義はまあまあ許容してきたつもりだけど、それはお前が自分で解決してきてた場合だけだからね。これまでだって理由はどうあれ、吸血鬼の殲滅っていう目的が一致してるから詳しい動機までは明かさなくても目を瞑ってきたわけだし。お前の番が今こんな状態で、それでも重要なこと隠し通すっていうなら、相応の成果は上げてもらわないと」
「……」
「とにかく、2人――少なくともその子の血の謎を解く必要があると僕は思う。始祖の血についてはお前が一番詳しいだろ?」
「……まあな」
フゥと深く息を吐き、ハスミは背伸びをしながら立ち上がる。空にしたスチールマグ持って病室を出ようとしたところで、通路を歩くツバキに鉢合わせた。
ツバキは見慣れない私服姿で、ショート丈の黒のキャミソールにハイウエストの黒いミニスカートを合わせ、前を大きく開いた白い長袖のシアーシャツを羽織っている。足元は黒のレザーブーツで、眩しい生足とトップスとスカートのウェストにチラリと覗く肌に、ハスミはムゥと眉を顰めた。
「……お前さん、その格好でよくヒイラギのNG食らわなかったな?」
「ヒイラギ寝てたよ。全然家に帰ってこないし、工房にこもりきりでしょ? 様子見に来たんだけど、全然起きなくてさー」
ルージュで飾った唇を尖らせ、生クリームの体積がやたらと多いドリンクを啜りながら不満を漏らすツバキ。ハスミは「ああ」と気の抜けた相槌を打って、ここ数日の間に見たヒイラギの様子を思い出す。
「なんか、だいぶ根詰めてんな」
「軍部からの連絡何件か取り次いだけど、いろいろ依頼も受けてるみたいだね。本人的にはツバキの装備の方に集中したいみたいだけど」
「うん……それもさあ、そんなに焦んなくていいよって言ってるんだけど……」
ツバキはストローの端を噛んで言葉を濁した。意識して逸らした視線の先には、昏々と眠り続けるアスカがいる。ハスミはシドウの意味深な視線も背中に感じて、ガクリと深く首を垂れた。
「……負担かけて悪い」
「全然、そういうんじゃないよ。アスカっちが《《あの力》》使ったお陰でここ最近種の反応感知されてないんでしょ? お陰で別のことに専念できるし、助かってるってヒイラギも言ってた」
「……そうか」
「まあ、悠長なことは言ってられないけどね。あのハスミそっくりの吸血鬼が種を操作できるらしいことも分かったし、またいつ現れるかも分からないから。ツバキも、ヒイラギにあんまり消耗しないように言っといて」
シドウの冷静な物言いに、一度緩みかけた空気がピシリと引き締まった。ツバキはハァと大きくため息を吐いて、ストローの端を弾きながら天井を見上げる。
「分かってるって。んでも多分、今日で一旦区切ると思う。……さすがに限界だと思うし」
ツバキはストローの先をギュッと押し込んで、柔らかく微笑みながら正面に顔を戻した。
「だからね、私ヒイラギの好きなもの買いに行くんだ。サプライズで喜ばせたいから、内緒にしといてね」
ツバキは愛らしくウィンクをして、唇の前に添えた指先で弾ませ、ハスミを指さして去っていく。
ハスミは今にもスキップをしそうなツバキの後ろ姿を見送り、深い溜息を吐いた。
「いずれにせよ、俺がすることはひとつだな」
「少なくとも、状態の変わらない番の傍でひたすら祈るのだけは違うね」
畳みかけるような毒にグッと低く唸りつつ、ハスミは肩越しに背後を振り返りながら言う。
「出かけてくる。アスカのこと頼むな」
「任せて」
ヒラッと手を振るシドウに頷き返したハスミは、長い白衣の裾を揺らして病室を出た。単調な音で鳴る自身の靴音を聞きながら、ハスミは伏せた瞼の裏に目覚めないアスカの顔を思い浮かべていた。
◇
オルビスタワーの前からバスに乗り、約10分ほどの距離にある大型商業施設。敷地内がひとつの街のようなデザインになっていて、コの字型に配置された店舗の中央に、露天などが並ぶ広場がある。親子連れの賑やかな声や、デート中らしき男女。同年代同士のグループが笑顔で行き交う空間を、ツバキは機嫌よく眺めた。
一階の店舗に入って目的の商品を購入し終えたツバキは、ラッピングしてもらったそれをハンドバックにしまってワゴン販売のクレープ屋に並ぶ。
並んでいる間にスマートフォンを取り出して、何気なくSNSの画面を開いた。検索ワードを打ち込んで結果をスクロールしながら、自分たちの闘いに対して批判的な意見を捲し立てるものや、違法な動画を通報して回る。
機械的な動作を繰り返す内に順番が来て、ツバキはパッと表情に明かりを灯して顔を上げた。
「イチゴのください」
鮮やかな写真の並ぶメニューを吟味して選んだ味を告げる。告げられた金額を払おうとする横から突然、スゥと伸びてくる手。
「へ?」
ツバキは反射的に身を引きながらいつの間に隣に並んでいた人物を見た。人物は頭からすっぽり被ったマントのような衣服の下から伸ばしていた白い手を引き、ツバキと目を合わせるとにっこりと柔らかく微笑んで見せる。
「イチゴ、いいわねえ。真っ赤で、あなたによく似合う」
微笑みと同じく柔らかな女性の声。彼女がひっこめた手の先を見ると、会計入れに小銭が置かれていた。ツバキは顎を引いて唾を呑み、警戒を込めた視線を彼女に向ける。
「……なんですか、あなた」
「なんですか、なんて。久しぶりに会うのに冷たいんじゃない?」
「は……?」
彼女はフードの縁に手をかけて、スゥと引き上げて見せた。その下から覗いた色彩に、ツバキはヒュッと音を立てて息を呑む。素早く周囲に視線を走らせたツバキは、クレープ屋の店主に「やっぱりいいです!」と大声で告げて彼女の手首を掴んで走り出す。
彼女は軽い体を翻してしばらくツバキがするのに従っていたが、広場の中央にある噴水の前で不意に立ち止まった。ツバキがなんとかその場から剥がそうとするのに、ビクともしない。ツバキは口の中でチィと小さく舌打ちを吐き、渾身の力を込めて彼女の腕を引く。
「ふふっ、力が強いのねえ。昔はあんなに小さくて、泣き虫だったのに」
彼女はコロコロと軽やかに笑い、力を込めるツバキをあざ笑うように掴まれた手の力を抜いた。
「……だれ、あなた」
ツバキは彼女をこの場から剥がすことを諦めて、フゥと低く吐息しながら彼女に強い目を向け睨みつける。彼女は目深に被ったフードの端を持ち上げて、ツバキにだけ顔を見せながらツバキの問いに答えた。
「誰って、分からないの? あなたのお母さんよ。名前はそう――カエデ」
カエデ、と名乗った女性は、クスクスと笑いながら目を細める。フードの影の中に覗く顔立ちに見覚えはないし、まじまじと観察したところで懐かしさを覚えることもなかった。
――そもそも、ありえない。
ツバキは胸中でそう唱え、密かに深呼吸を繰り返してザワつく胸中を落ち着ける。カエデの顔は、長い前髪が片方の目を隠していて、覗いている方の瞳の色は「赤」だった。銀色の長い髪と、赤眼――それは彼女が吸血鬼であることの証明。
「あいにく、私の母親は人間だから。下手な嘘つかないで」
「そうね、ツバキちゃんのその瞳は、お母さん譲りだものね」
カエデは口元の黒子を揺らしながら、浮かべた笑みを絶やさない。そして、スゥと持ち上げた白い指先で顔にかかる前髪を避け、その下の瞳を覗かせた。
「――……うそ」
ツバキは微かにそう呟いて、言葉を失くす。彼女の隠されていた瞳は、ツバキやヒイラギと同じ、鮮やかなカーネリアン。
「あなたが家を出ていったあの日、あなたに血を吸われて、わたし、吸血鬼として目覚めたの。無意識にでも、わたしに生きてほしいって思ってくれたんだよね、ツバキちゃん」
ドクンッと、嫌な音を立てて暴れる心臓。ツバキは噛みしめた歯列の隙間からフーッ、フーッと獣のような息を吐いた。
「私、そんなことしてない」
全身から沸き立つ動揺と、それと同じくらいの不快感。カエデはツバキの態度など露とも気にしていない様子で、舞台俳優のように身振り手振りを交えて朗々と語り続ける。
「ツバキちゃんは家族思いの優しい子。突然変異で生まれた吸血鬼は、危険だからって生まれた瞬間に殺される運命なのに。だからツバキちゃんは大人しくわたしの言うことをぜんぶ聞いて、押し入れで暮らしてた。血を吸いたいのに我慢して、海の水飲んだりして。健気で、いーっつも、可哀想だった」
「……なんで、そんなこと知ってるの」
ツバキが苦々しく吐いた呟きに、カエデは唇に2本指を添えて、ニィと横に広げながらいやらしく笑う。
「言ったじゃない、あなたの母親だから」
ツバキは思い切り眉を顰めて、表情に不快感を露にした。カエデはツバキの反応とは裏腹に、より笑みを深めて続ける。
「ヒイラギは元気?」
カエデの口が発した彼の名前に、ツバキの背筋がブワッと粟立った。
「ヒイラギもあなたが噛んだわよね。あなたが彼を生かしたのか、それとも、別の化け物に変えてしまったのかって、ずっと心配してたのよ」
極端に大きく眉尻を下げ、胸の前で両手を組んで体をくねらせてみせるカエデ。ツバキはやたらと乾く喉に何度も唾を流し込み、今にも爆発しそうな衝動を内側に抑え込んで必死に息を吐いた。体の芯が熱く燃え滾っている。胃が焼かれるほどの不快感。ツバキはキャミソールの生地をグッと握りしめ、瞳に力を込めてカエデを睨みつける。
「ねえツバキちゃん、ヒイラギを返して?」
カエデの唇がヒイラギの名前を口にする度、神経のスイッチが押されていくよう。パチン、パチン、と弾ける音。ツバキは見開いた目を伏せて、懸命に吸い込む息で体内を冷やすよう努める。――全部のスイッチが押されたら。見え透いたビジョンが脳裡に湧いて、ツバキは泣き出しそうな衝動に駆られる。それでも目の前の彼女は、容赦なくツバキを壊しにくるだろう。
異様な空気感で対峙する2人の様子に気づき始めた買い物客たちは、足を止めて各々に囁きあった。カエデが目深に被ったフードの下から時折覗く銀髪に「吸血鬼?」という囁きが聞こえる。囁き声はどんどん伝播して広がり、漣のようなざわめきに変わる。足早に逃げていく者もいれば、好奇心に駆られた目を向け撮影を始める者もいた。
ツバキは普段は気にすることなく晒している左手の甲を、体に押し付け周囲から見えないように隠した。違法に出回っている動画から、ツバキの顔を知る者もいるだろう。ここで戦闘になるわけにはいかない。全員で築き上げてきたものを、ここで自身が壊してしまうわけにはいかない。吸血鬼が吸血鬼を殺すという歪んだ構図。「同族殺し」の汚名を甘んじて被って来たのも、自身の中に使命感と譲れない願いがあるから――ヒイラギと、2人で幸せに生きる。
ドクドクと攻め上がるような音で鳴る心音。パチン、パチンと止められない音。ツバキは喉を塞ぐ息の塊を吐いて、目尻に涙が滲む感覚を覚えた。
「家族を壊したあなたは、罪を償うべきよ」
ギッと歯が削れるほどの強さで奥歯を噛んで、ツバキはぐちゃぐちゃに搔きまわされた胸を押さえ、崩れ落ちるようにその場に座り込む。カエデのいやらしい口調と、告げられた言葉がグルグル回る。脳裡に甦り思考を占め始める、必死に閉じ込めていた記憶。ツバキは右手で頭を抱え、その場に蹲って耳を塞いだ。
ツバキの体の上に掛かる、人型をした影。その影はすっぽりとツバキをの姿を吞み込んで、覆いかぶさるように近づいてくる。
鼻先を掠めた濃い花の香。カエデの腕がスルッとツバキの背中に巻き付き、緩い力で抱きしめられた。
「ツバキちゃん、大丈夫?」
「……っ、触らないで!」
ヒタァと体を寄せてくる感覚に耐えられず、ツバキは加減する余裕もなく左手を振っていた。
勢いをつけて払った腕が、空を切る虚しい感覚。
「……え?」
ツバキはゆっくりと顔を上げ、右手の影から目の前の光景を目にする。覆いかぶさっていたはずのカエデの体はそこにはなく、ただ腕に絡みついたローブに下からザァと大量の砂が零れ落ちた。
「うそ、なんで……?」
まるで血のように、崩れて広がっていく砂の山。ツバキはカエデの手首を掴んだ感触と、背中に触れられた手つきを思い出す――確かに実態があったのに。上手く回らない頭で思考していた時間は何秒くらいあったのだろう。真っ白に染まっていくような思考は、甲高い悲鳴によって打ち破られた。遠ざかっていく足音。浴びせられる罵声。子供の泣き声。周囲を取り囲んでいた群衆の輪がバラバラと解けていった。
少数だけ残った悪意の目の中心で、ツバキはただ茫然と足元の砂を見つめていた。
◇
睡眠をとらないと使い物にならなくなる体が心底憎い。ヒイラギはまた作業台に突っ伏して寝ていた体を起こして、グゥと大きく伸びをした。作業のために着ていたつなぎの前を大きく開いて袖から腕を引き抜き、腰で縛ってからぐるりと大きく肩を回す。
「ヒイラギ」
鼻腔にフワッと漂うコーヒーの香り。ヒイラギは肩を回す動作を一度止めて、背後に立つ訪問者を振り返った。
訪問者――シドウはスチールマグとタンブラーとを片手ずつに持ってヒイラギの攻防に足を踏み入れる。
「ココアでよかった?」
「おぅ、さんきゅ」
ヒイラギはシドウの手からスチールマグを受け取り、溶け残った粉で覆われた表面を見下ろして苦笑する――シドウにはマドラーで混ぜるという概念がないらしい。ヒイラギは唇にココアの粉がつかないようフゥと強めに水面を拭いてから、甘いココアを啜った。
「なんか用か、シドウ」
「まあね、うん。軍部からまた連絡きてから取り次ぐついでに」
「マジか、悪い。俺のとこ直接連絡くれりゃいいのに」
「頻繁に連絡きてるって言ったら内線のコード引っこ抜いていったんだよね、ツバキが」
「オゥ……」
シドウが首を傾けて示した先。入口のドア付近に設置された内線用の受話器の本体から、先のちぎれたコードがプランと虚しく垂れていた。
シドウは軍部から伝えられた内容をメモした紙をヒイラギの作業デスクに置いて、ついでに自身もそこに腰を引っ掻けるようにして乗せる。
「リクの調子はどうだ?」
「ん? ああ、元気だよ。鍛え方が足りなかったって言ってずっと訓練場にこもってるけどね」
「元気だな、さすが。アスカっちはまだ寝てんだろ? 一番の功労者がまだ復活しねえってので罪悪感はあるけど、吸血鬼の襲撃がないってのはありがてえよな」
「……そうでもないみたいだけど」
「え?」
ヒイラギはシドウが発した不穏な一言に背筋に緊張を走らせマグを作業机の上に置いた。シドウは静かな視線をヒイラギに据えて、瞳のカーネリアンをジッと見つめる。
「……なんだよ」
「お前、こもりきりで作ってる兵器は危ないものじゃないよね?」
シドウは瞳から普段の飄々とした空気を消して、突き刺すような眼差しを据えた。ヒイラギは一度丸く目を見開いて、フッと息を吐きながら顎を引いて薄く笑う。
「危ないっつーのは、扱いに関することか? それとも別の意味?」
「お前の腕は信頼してるからね。扱いに関して危険なんてことはないだろうよ。察していることをわざわざ指摘してやるほど暇じゃないけど、確信が持てた。――体は平気なの?」
冷たい目のままで問うシドウに、ヒイラギは包帯を巻いた手首を引っ込めながら目を逸らした。
「……別に、問題ねえって」
「お前さ、日曜の朝から今まで一度も目覚めず寝てたってこと、気づいてる?」
「――え?」
ヒイラギは一瞬で顔色を変え、つなぎのポケットからスマートフォンを取り出す。辛うじて残っていた充電が赤い表示を光らせるディスプレイに並ぶ数字を見て、ヒイラギはハッとして息を呑んだ。
「……うそだろ」
「昨日ツバキもここに来たらしいよ。休日だからオシャレして。可愛かった」
「はぁ!? ちょおい、なんで棒読みなんだコラァ!」
「成人してる男がJKの私服に実感込めて『可愛い』とか言う方がヤバいでしょうよ。ってか論点そこじゃないから落ち着いて」
「明らかにあんたのフリだったよな?」
ヒイラギの冷静なツッコミはサラリとスルーして、シドウは腰をひっかけた作業台に置かれているヒイラギのPCを弾く。
シドウはヒイラギの手首を掴んで指紋でロックを解除させると、表示された画面をまじまじと眺めて溜息を吐いた。
「……そんなこったろうと思ったけどね」
「てか、わざわざ確かめにこなくたって軍部からの連絡取り次いでる時点で知ってたはずだろ、あんたは」
ケッ、と。吐き捨てるように言うヒイラギ。
シドウが開いた画面に表示されていたのは弾丸の設計図で、弾頭部分には、微細な注入口と閉鎖機構が施されていて、液体の充填と放出が自在に可能という構造――中にはヒイラギの血液が込められるようになっていた。ヒイラギは最近の戦闘の中で自身の血液の有用性と兵器として実用化できる目途をつけて、根を詰めて実用化に励んでいたのだった。
「人間の血は無尽蔵だけど、軍部の標準配備にするほどの量たったひとりで賄えると思うわけ? ばかじゃない?」
「ばかじゃねーよ。やってみねーと分かんないだろうが」
「やってみてダメだったってこと証明されてるでしょうが。何度貧血でぶっ倒れてたわけ? バカすぎて目も当てられない」
ヒイラギは唇を噛んでグゥと低い音で喉を鳴らしながら黙り込む。シドウはハァと大きく溜息を吐き、ヒイラギのPCを弄って設計データを自身のPCへと転送した。
「たぶんまだ多少時間あるし、天才生物学者のシドウさんが手伝ってやるから。お前はお前にしかできないことをやんなさいよ」
シドウは自身のスマホを開いて転送したデータが届いていることを確認してから、フムと小さく頷いた。
「僕のリクを貸してあげてもいいけど、あいにく僕はここ離れられない。アスカたちのことを任されてる義務もあるしね。そんな片手間みたいな状態で相手にできる敵じゃないと思うし、悪いけど、お前らの絆に賭けさせてもらう」
「あ?」
「ツバキがグレン・ヴァンプと接触した」
シドウの言葉に、ヒイラギは零れそうなほど目を見開いて立ち上がる。
「まさかまたあの時のあいつが……!?」
「残念ながら違うよ。まだ情報をほとんど把握できてないけど、今までの吸血鬼とは全くタイプが違う」
手にしたスマートフォンをそのまま操作して、シドウは画面に動画を表示させてヒイラギに示した。音声を上げながら、食い入るように画面を見つめるヒイラギに向けて、シドウは合間合間で解説を挟む。
「たぶん、精神攻撃を得意とするタイプだ。画像じゃほとんど姿を確認できないけど、本人がツバキとお前の『母親』だと名乗っていて、ツバキもそれにほとんど反論をしていない。ツバキの目には、この吸血鬼が母親の姿に見えている可能性がある」
「……ありえない」
ヒイラギはギリィと鈍い音が立つほど強く奥歯を噛みしめた。食い入るように見つめていたお陰で、フードに隠れたぼんやりとした輪郭から砂が零れ落ちるのを捉える。
「そもそも“この日”に襲ってくること自体、嫌味でしかねえだろ――この、俺たちにとって何より大事な日に」
「”この日”?」
シドウはヒイラギの言葉をなぞって聞き返す。ヒイラギは答えないまま、広げていた工具や兵器を手に取り床に放り出していたバッグの中へと次々と詰め込み始めた。シドウはヒイラギの背中を黙って見つめ、ジャケットのポケットから取り出したものを作業机の上に置く。
ヒイラギはガチャガチャとうるさく鳴くバッグを肩にさげて立ち上がった。
「とにかく出るわ。姉ちゃん見つけたら連絡くれ」
「制服着て出て行ったし、たぶん学校だと思うよ。――あとこれ、ツバキから」
シドウは作業机に置いたものをヒイラギに示す――緑のリボンでラッピングされたプレゼント。
ヒイラギは唇を引き結んで息を詰めた後、ソッと包みを持ち上げて、つなぎのポケットに丁寧に収めた。
「いずれにせよ連絡する」
「やっぱいい。そもそも充電切れてんだわ。カメラで見てて、ヤバそうだったらリク寄越して」
「わかった」
シドウと視線を交わして頷きあい、ヒイラギは駆け足で工房を出て行った。シドウはスマートフォンを操作して、高校周辺のマップをリアルタイムで表示してみる。校舎の屋上に見つけた2つの影に、画像の解像度を徐々に上げて鮮明になっていく像を確認する。
風に揺れるツバキのオレンジ色の長い髪と、大胆にフードを取り去って近づいていく長い銀髪の影。
「急いで、ヒイラギ」
シドウは唇に添えた親指の爪をガチッと噛んで、手出しのできない対決の行方を歯噛みしながら見守った。
◇
――数時間前。変わらず訪れた朝に、ツバキはひとり制服を着て高校へ向かった。《塔》で鉢合わせたシドウには無理に笑顔を作って見せて、昨夜も遅くまで作業していたらしいヒイラギに「渡して」と、緑のリボンでラッピングされたプレゼントを託してきた。
校門をくぐってから、教室の自分の席まで。突き刺さるような視線がついて回るので、さすがにいつものように明るく愛想を振りまく気にはなれない。
(なんていうんだっけ、こういうの――針の筵、だったけ)
むしろ、という言葉に意味がいまいち分からなくて、スマートフォンの検索機能で調べてみた。目線でなぞる文字列から想像したビジョンはあまりに痛そうで、ツバキはげんなりとため息を吐く。
透明な窓からは燦燦と眩しい日差しが注ぐ。もう100年以上過ごしている日常の中であまりに見慣れた光景。ツバキは手にしたスマートフォンを操作して、アプリゲームを開いてプレイし始めた。ログイン画面に現れるプレゼントボックスにフッと微笑んで、タップしてアイテムを受け取る。繰り返し、繰り返し。《《あの日》》から歳をとることのなくなった肉体と、永遠のように長い時間。吸血鬼の自分にとって永い年月を生きることに苦痛を覚えることはなかったけれども、人間のヒイラギはどうだろう、とふと考えてしまう。
退屈や、絶望を感じる暇なんてないくらい、楽しくしてあげたらいい。ツバキはそう思って、生きる時代ごとに様々な流行りに興味を向けてそれそすべてヒイラギと共有して、共に笑いあってきた。ヒイラギは有り余る時間の中でエンジニアの腕を極め、新しい素材の情報などを嬉々として集めたりしていて、ツバキはその様を眩しく眺めていた。
命を繋いで、共に生きて。不幸だと思ったことはない。むしろ、《《あの日》》に誓ったのだ――幸せな人生を一緒に生きよう、と。
ふと思考に没頭していた頭に、沸き立つ声が飛び込んでくる。ツバキはスマートフォンから顔上げ、声のした方へと視線を向けた。窓際にあるツバキの席から最も離れた教室の隅で、固まった男女がスマートフォンを囲んで囁きあっている。その内の数人が、時折チラチラとツバキの方へ視線を向けてはサッと逸らすのを繰り返した。ツバキはスゥと目を細め、気配を殺して彼らの背後に近づく。
「見せて」
急に背後に現れたツバキに、スマートフォンの持ち主である女子生徒は「ひっ」とあからさまに悲鳴を上げた。ツバキが鋭く睨みつけると、女子生徒は怯えたように目を見開いて、傍らにいた友人の腕に顔を埋める。
ツバキはあえて彼女の姿を視界にいれることはせずに、再生途中だった動画を進めていった。――案の定、というか。予想通りの映像が、小さな画面の中で展開している。ツバキの正面側から映した映像で、ツバキの腕が鋭く空を切った瞬間に、裂かれるように真っ二つに分かれるカエデの背中が映っていた。そのタイミングで弾幕のように大量に流れてくるコメントの波に、映像は搔き消されてしまう。
――同族殺し
――同族の《《族》》って家族の族かよ
――素手でヤるとか化け物すぎる
――最悪危険吸血鬼
いやでも目に飛び込んでくる目まぐるしいほどの悪意に頭痛がした。ツバキはスゥとゆっくり息を吸い込んでから、時間をかけて吐き出す。一度伏せた目をソッと開いて、ツバキは画面を落としたスマートフォンを持ち主に返した。
「ありがとう」
思いがけず添えられたお礼の言葉に、女子生徒は目を丸くして反射のように頷いた。ツバキはフッと口元だけで笑って、教室を出る。
信頼が壊れるのなんて、ほんの一瞬。もともとゼロどころかマイナスから築いてきた関係なら尚更、崩れるときは掌を返すように一はっきりと覆るもの。
(今更、普通の居場所がほしいとか全然思ってないけど。それでもまあまあ楽しかった時もあるし)
ツバキは人の気配が満ちる廊下を抜け、埃の積もった階段を上り始める。締め切られた窓から注ぐ光の柱の中を、細かい埃の粒子が舞うように踊っていた。ツバキは背中で両手を結び合わせて、ドクン、ドクンと鳴る心音を聞く。相手はおそらく、大規模襲撃の前に現れた《影》や、強大な力を秘めたアスカと同じ、グレン・ヴァンプ。
「番抜きでやれるかなあ、私」
わざと声に題出して呟く不安。ツバキは無理に唇の端を吊り上げて、トンッとリズムをつけて埃を被ったステップを踏んだ。
錆びたドアが視界に映る。ツバキは生徒の立ち入りが禁じられている屋上へと続く階段を上り切り、鉄扉の前で大きく深呼吸をした。番の力抜きで敵と対峙することに震える体。ツバキは制服のネクタイを強く握って、手にしたスマートフォンをポケットにしまう。
手を離す一瞬に震えたスマートフォン。ツバキがハッとして画面を見ると、ヒイラギからの着信通知が届いていた。
ツバキは数秒逡巡した後で、画面上部に表示されたきょうの日付を目にして、覚悟を固める。
脳裡に閃く数字は、忘れられない日の日付。血に濡れたカレンダーが示していた日は、網膜にはっきりと焼き付いていた。
「《《今日》》って日のこと、お姉ちゃんが守るからね」
脅かさせない。あの母親の姿をした影になら、尚更。柔らかな笑みを浮かべながらそう呟いて、ツバキは震え続ける端末から手を離し、鉄扉に手をかけ押し開く。
吹き込む風に目を閉じて、再び瞼を開いた先。昨日みた姿とは異なる様相で、その人は立っていた。柔らかな素材のブラウスに、裾をふわりと広げるロングスカート。長い髪を結って片方の肩に垂らした髪型――ぼんやりとした記憶に残る、母親の姿。
「お母、さん……」
思わず零した単語に、カエデ――母は大きく唇の端を吊り上げニィと微笑む。白に近い銀髪と、片方だけの赤眼が「違う」と警鐘を鳴らし続けていた。沸き立つ恐怖心と、激しい怒り。ツバキは強く唾を呑んで、揺れかけた眼差しを立て直す。
母の面影を装いながらも、獲物を抱く腕だと悟らせる雰囲気を纏いながら。カエデはツバキに向けてゆったりと両腕を広げた。
《7/END》