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第6話・父と子

6.



 生まれて初めて目にした色彩は、緑に透ける美しいブルー。視界にかかる透明な水泡を掻き分けて、その色へと必死に手を伸ばした。ブルーは一度大きく見開き、細められて。歓喜に満ちた表情に染まる。

「お前に名前をつけなきゃね――リクはどうかな?」

 あなたに呼ばれる名前ならば、どんな響きだって構わない。初めて目にする世界の中で、リクにとって《彼》の言葉だけが信じるすべてだった。

 心地よい浮遊感と、苦しみのない世界から外に出た途端。それまで何も考えなくても取り込めていた空気が急に来なくなり、リクは手足をばたつかせて暴れた。

「リク、ここだよ。息はここから吸うんだ」

 リク、と優しく呼ぶ声。《彼》の指が優しく撫でた唇を開くと、一気に空気が押し寄せてくる。もういらない、と訴える代わりに、空気をビリビリ震わせる大音量の泣き声が響いた。《彼》は驚いたように体を跳ね上げて、大きく背中を反らして耳を塞いでいる。

 ダメ、離れないで。リクは本能的に短い両手を掻いて、《彼》に縋ろうとした。《彼》はすぐにリクの意図に気が付き、苦笑しながら両腕で抱きしめてくれる。トン、トン。トン、トン。背中で弾む心地いいリズム。《彼》はリクを両手に抱いたまま、背中を叩くリズムに合わせて踵を跳ね上げ体を揺らした。安心する揺れは眠気を誘い。リクはフワァと欠伸を吐く。

「かーわい。眠いなら寝ていいよ。この世界に慣れるのは時間がかかるからね。ゆっくり、知っていけばいいから」

 トン、トン。トン、トン。体温の低い、大きな掌。時折背中を離れて鼻先や唇に触れる。リクは《彼》の指が触れる度、温もりを追って手を伸ばした。

「ああ、ごめんごめん。いたずらが過ぎたね。邪魔しないから、ゆっくりお休み」

 最後にちょいちょいと鼻先に触れ、掌は再び背中を叩く。トン、トン。トン、トン。揺れながら歩く《彼》の腕の中で、リクはゆっくり目を閉じた。生まれて初めて惹かれたブルーは、《彼》の瞳の色だった。


 2番目に好きな色彩を見つけたのは、銀色に光る鏡の中。リクは背伸びをして自身の藍色の髪を引っ張り、パララと散らす。

「何をしているの?」

 背後から声を変えつつ、同じフレームの中に顔を並べる《彼》――シドウ。リクはパタタと瞬きして、しきりに鏡の中を指さした。

「ん、何? お前の髪? 目?」

 シドウはリクの脇に手を入れ抱き上げて、リクが指さししやすい高さまで持ち上げる。パァと顔を輝かせたリクは、大きく見開いた自身の眼を指さす。シドウの瞳より深く濃いサファイアブルー。シドウは目を細めて微笑み、リクの頭に自身の額を擦りつけた。

「お前の瞳が青いのは、僕の遺伝子から生まれたからだよ。本来お前の種族の眼は《赤》なんだけどね、人間から生まれた吸血鬼のツバキもそうだけど、人間の子の瞳に色は親から受け継ぐんだ。だからお前の色は、僕と同じってこと」

 リクはパッと表情を華やがせて、擦り寄せられるシドウの頭を小さな両手でワシッと掴む。シドウは緩いウェーブの髪を引っ張られ、痛てて、と小さく悲鳴を上げた。シドウはジッとリクの表情を覗き込み、その無垢な表情に悪意がないことを知る。フゥと息をついて、シドウはリクのストレートヘアをゆったりと撫でた。

「お前が気に入ってくれてよかった」

 呟いたその声は、少しだけ震えていた。――まるで、許しを乞うように。けれどもそんな機微までは、幼いリクには届かない。

 リクは感情が爆発するままに、大きく両腕を振ってバシバシとシドウの頭を叩いて笑う。

「んもう、元気いっぱいだね、リクは」


 背が伸びて、髪も伸びて、うなじの辺りでひとつに結ぶスタイルが定着してきた頃。研究室に通うシドウの後についてそこに入り浸っていたリクは、そこで自身の正体を知った。

Unit(ユニット) CY-Vampaia(サイ・ヴァンパイア)

 シドウの研究資料に突っ伏して、書かれた文字列を指先で辿りながら流暢に発音するリク。シドウはキィと微かに椅子のパイプを鳴らして振り返り、静かな視線をリクに据える。視線の気配に応じたリクは、突っ伏していた体を起こしてシドウに対峙した。

「父さん」

「ん、リク。そろそろ契約の話をしようか」

 呼びかけた声を遮って、シドウはレンズの奥の瞳に光を揺らして立ち上がる。

「契約?」

「お前はもう、僕の言うことが十分わかるね。僕がどうしてお前を作り、ここまで育ててきたのかも」

 リクはジッと、好ましいブルーを見つめ続けた。視界に端にシドウの動く唇を意識しながらも、ブルーだけを一心に。――父さんは、嘘が下手だから。

「僕はお前を、僕とつがいになるべく吸血鬼(ヴァンプ)として作った。ツバキたちつがいのデータから分かったことだけど、血縁であればつがいになれる血の合致率が高くなる。お前は僕の遺伝子から生成した吸血鬼(ヴァンプ)だから、当然合致率も高い」

 リクはシドウの説明に黙って頷く。その間もずっと、シドウの瞳を見つめたまま。

「リク、選んで」

「え?」

 思わず話の切り替えし、リクは思わず間の抜けた声を上げる。シドウはその場に膝をつき、リクを目線の高さを合わせた。

「僕のつがいになるか、それとも、別の道を進むか」

 リクはシドウの瞳を見つめたままで何度も瞬きをする。シドウの言葉が上手く呑み込めない。別の道とは、一体なにを指すのだろう。リクが戸惑う様子を見せたことで、シドウも痛そうに顔を顰めた。けれどもその色が覗いたのは一瞬で、彼はハァと小さく息をついて表情を立て直す。リクはシドウの瞳の中に、懸命に答えを探した。

 こちらが質問を繰り出せば、シドウはこれまでのように言葉を尽くして説明してくれるかもしれない。これまでもそうして、リクは多くの知識をシドウから学んできた。

 でも、たぶん。この答えは、シドウでさえ分からないだろう。

 《《そのためにリクを作った》》と明言しながら、最終的にはリク自身に選ばせようとしている。彼なりの哲学なのか、自由意志を尊重しようという優しさなのか。もしくは、選んだ責任を負うようにという、覚悟を問われているのか。

 たとえ聞いたところで、望んだ答えは返ってこない気がした。

「よく考えてリク。もし僕のつがいになることを選ぶなら、僕は二度とお前を離してやれない」

「……それは、つがい契約は一度したらもうずっと解消できないってこと?」

 リクの問いに、シドウは少し考え込む。

「それはどうだろうね。絶対というわけではないかもしれない。ハスミはその可能性も研究対象だと言っていたし、そこは気にしなくてもいい……二度と離してやれないっていうのは、僕の気持ちの問題」

 シドウは自身の胸の中心に軽く握った拳を押し当てて、フッと柔らかく微笑んだ。リクはシドウが見せた苦しそうな笑顔に、息の詰まる思いを味わう。――選んで、と言っている、その瞳が。切実な願いを持ちながら、それを裏切らせる選択肢を提示するこの人のことを、リクはとても残酷だと思った。

 リクは一度目を伏せ、再び瞼を持ち上げてまっすぐにシドウを見る。深い青眼に鮮やかなブルーを溶かして、リクは花の咲くように微笑んだ。

「僕が父さんの番になるよ、ちゃんとやれるよ僕。だから――」



「――捨てないで」


 呟いた瞬間、目尻から零れた涙がこめかみを伝ってシーツに染みた。リクは仰向けに寝転んだまま青眼を瞬いて、白い天井を見上げる。いつの間に眠っていたのだろう。アスカと話を終え、彼を部屋の外に送り出してからの記憶がなかった。

「懐かしい夢……」

 リクは涙の感触の残る目尻を指先で拭って体を起こす。

 瞬間、館内放送が街に警報を出したことを告げた。リクはベッドから飛び降りて、薄暗い部屋を後にした。



 暮れていく太陽を望む。燃え尽きる直前の篝火のようなオレンジに、降りかかるように溶ける夜の紫。2つが溶けあう隙間は薄い色彩。薄明の空をぼんやり眺めながら、ハスミは小さくため息を吐く。

「ハスミさん」

「うおぁっ」

 唐突に背後に降り立つ気配に、ハスミは間抜けな悲鳴を上げて転びそうになった。寸でのところで踏みとどまって、中途半端に前傾した姿勢のままで背後を振り返る。

「あ、アスカ……」

 呼ぶ声は、あからさますぎるほどに情けなく尻すぼみに消える。アスカは不機嫌とも無表情ともとれる表情を浮かべて、町はずれのビルの屋上に立つハスミの元へと近づいた。

「よくここが分かったな」

「吸血鬼は目がいいんです」

「ああ……んだな」

 アスカはハスミの隣で足を止め、彼と同じ方向を向いて並び立つ。

「ずいぶん広い防衛線ですね」

「んああ、軍部が上げてきた報告で、かなりの広範囲で《種》が確認された。今夜はでかい戦闘になる」

「……そうですか」

「それで、な。……アスカ」

「オレたちの今の状況はマズいですよね」

 言いよどむハスミの言葉を切って、アスカは冷静な口調で事実を口にする。ハスミは銀髪が混じる黒髪をガシガシと掻いて、ハァとため息を吐きつつ深く項垂れた。

「状況は分かってる。けど、状況の手を借りて乗り越えていい問題じゃねえよな」

「自覚があるならよかったです」

「なんかお前、お嬢ちゃんに似てきたな?」

 迂闊な発言にアスカの鋭い眼光が飛ぶ。ハスミはハンズアップの姿勢をとりつつ目を逸らした。

「ハスミさんがそうやってふざけるからですよ」

「んあ……ふざけてるわけじゃねえんだが、な。なんていうかその、俺、嘘が下手で」

「それもめちゃくちゃ地雷踏んでます」

「ごめんなさい……」

 嘘が下手、と言ってしまった時点で嘘を吐いていると認めているも同然。アスカのツッコミは最もで、ハスミは口を噤むしかない。

「なんでもかんでも本当のことを言ってほしいとまでは言わないです。自分のことをよく分かってないオレに比べたら、ハスミさんはいろんなことを考えていて、たくさんのものを抱えてるんだと思うし。オレもそれを全部聞かされたところで、理解して、一緒に持ってあげられるかも分からない」

「んぁ……うん」

 ハスミは明後日の方向に逸らしていた視線を少しずつアスカの横顔に注ぐ。アスカは眉尻を下げて大きな赤眼に光を揺らし、思いつめたような息を吐いていた。

「だからオレは、胸を張ってハスミさんにオレを選んでなんて言えません」

「アスカ、それは」

「でも」

 弁明を挟もうとしたハスミの声を、アスカの強い口調が遮る。風がアスカの白に近い銀髪を吹き上げて、全開に覗く額の下で、濃い深紅が終わりかけの太陽を反射して輝いた。


「オレはハスミさんのつがいでいたい。ハスミさんがオレを選ばないといっても、オレは何度でもハスミさんを選びます」


 強い赤に心を食い破られる。ハスミは喉の入り口を塞ぐように詰まる息の塊を無理やり飲み下して、アスカの瞳を見つめ返した。

「それは、何故だ?」

 アスカは微かに首を傾け、フッと一瞬視線を逸らす。逆向きに吹く風が髪を撫でてアスカの表情を隠すも、細い髪の隙間に見える赤は変わらず、心を食い破り続けていた。ドッドッ、と。脈打つ鼓動の音が思考を支配してく。左の甲がじんわりと熱を持ち始めて、皮膚がツゥと引きつるように痛んだ。ハスミは顔を顰めないよう懸命に、口の中で何度も前歯の裏を弾く。口内を滑る水の感触で、なんとか思考を正常に保てるように。

「本能が言ってるっていうのもあるんですけど、オレ、ハスミさんが嬉しそうにしてるとうれしいです。ハスミさんの役に立ちたいって思うし、ハスミさんの願いを叶えたいです」

 水音を塗り替えるように大きく響く鼓動の音。ハスミは風を避けるふりをして、自身の前髪を強く握った。


「……それでお前になんのメリットがある?」


 ハッ、と。アスカの息継ぎの音が聞こえる。アスカは自身の服の袖をギュウと握りしめ、自身の内側に問いかけるように言葉を継いだ。

「分かりません。でも、オレはハスミさんに呼ばれることで、オレの存在する意味というか、価値を知りました。ハスミさん、オレを見た時すごく嬉しそうでした」

 嘘が下手、という自覚を納得された上で、隠しきれなかった感情を言い当てられては目も当てられない。ハスミは苦しい息を吐いて、小さく唇を噛んだ。


「離れられるわけがないんです。ハスミさんは、オレの魂の証明だから」


 とどめの一発。ハスミはその場に崩れ落ちるようにしてしゃがみ込む。

「えっ、どうしました!? ハスミさん、大丈夫ですか!?」

「だいじょぶ。大丈夫だから、今顔見んな」

 蹲ったハスミの白衣のポケットで、スマートフォンが着信を告げてしつこく鳴いた。ハスミは苛立ち紛れに着信に応じ、スピーカーに切り替え地面に放置する。

『重い荷物背負っちゃったねえ、ハスミ。おめでとう』

 からかう風なのか、興味がないのか。シドウは声といっしょに手を打ち合わせる音を響かせた。

『大歓喜だろ。つがいにそこまで言われたら尽くしてこそだぜ、おっさん』

 ヒイラギに言われると説得力が違う、などと考えつつ、ハスミは背後あるペントハウスの上部に取り付けられた監視カメラのレンズを睨みつける。ジィ、とわざとらしく上下に動くカメラは、あからさまな「覗き」の意図を示していた。

「……お前らあとで覚えとけ」

『心配してやってんのに』

 通話の向こうで珍しく結託した様子のシドウとヒイラギが「なー?」とか言いながら同調しあっている。ハスミは苛立ちのままに通話を切り、スマートフォンをポケットにしまって立ち上がった。ふと視界を向けた先に、オレンジの余韻を残して沈んでいく太陽の輝きを見た。その視界が、少しだけ滲んで揺れる。

「ハスミさん」

 傍らでアスカの呼ぶ声を聞く。仲間にからかわれたことを気の毒に思ったのか困惑した様子でいるアスカの頭に、ハスミはポンッと掌を乗せた。


「ありがとう、アスカ。選ばれるって、なんかうれしいな」


 わしゃわしゃと撫でる白に近い銀髪。ふわふわの綿毛髪の感触から手を離すと、アスカはこれ以上ないほど明るい顔で笑う。

「はい!」

 ハスミはアスカのその笑顔に、薄茶色の毛並みと丸い体が特徴的な犬の姿を重ねて「ああ」とひとり納得した声を出した。

「ポメラニアンか」

「ぽめ?」



 防衛線の傍で全員が合流する。今宵の襲撃予想は広範囲に及ぶため拠点を《塔》には置かず、最も襲撃予想時刻の早いエリアに陣を構えていた。初手が肝心、と、シドウが下した判断。アスカは合流するやいなや、ツバキに頼んでポメラニアンの画像を見せてもらって、何とも言えない表情を浮かべる。

「確かに似てるかもねえ」

「えぇ……オレ、こんな頼りない……?」

「え、やだ。全然そういう意味じゃないでしょ」

「本当に?」

「ほんとほんと」

 ツバキに末弟のように可愛がられるアスカを横目に、ハスミはシドウが分析した戦況シミュレーターを見つめた。広範囲に及ぶ吸血鬼(ヴァンプ)の出現予測。種の育ち具合から、ある程度の時間差は見込めそうだった。

「住民の避難間に合ってんのか、これ」

「どうだろうね。条例により日中の社会生活に支障来さないようっていうのが上からの絶対命令だし、まあとりあえず、出現時間が早いって予測してるところのエリアは優先的に避難命令出してるよ」

「命と生活、どっちが大事なんだか」

「命あっての生活だっていうのは極限にならないと実感持てないものだろ。自然災害でもない、原因不明の『なにか』を相手にしてるせいか、人間側は被害者意識が強いからね。守られるのが当然で、そこにどんな文句を言ってもそれは権利であって、許されるって錯覚してる」

「……」

「傲慢だな、って言いたそうだね」

「思ってても言わねえよ」

「優しいねえ」

 シドウと軽口を交わしあう横で、ヒイラギは無心にキーボードを叩き綿密な調整を行っている。ゴーグルをつけた彼の視界にはいくつもの画面が展開されているはずで、彼は時折頭を上げては周辺の空間を弾いた。

「……ヒイラギ先生はなにやってんの?」

「新作兵器だってさ。コントロールが繊細らしくて、さっきからずっとあの調子」

「今朝までぶっ倒れてたやつとは思えねー……」

 ヒイラギの表情は鬼気迫るものがあり、周囲の面々は見守りつつも呆れと畏怖を込めて閉口するしかない。

「あいつ、次に出てきたらぜってーギッタギタにしてやる」

 呪詛のように呟くヒイラギの言葉に全員の背筋がゾクッと震え上がる。ブルッと強く頭を振って寒気を払拭シドウは、傍らに現れたリクに目線を向けた。

「遅くなって申し訳ありません、マスター」

「まだ全然問題ないよ。よく寝れた?」

「……っ、はい。申し訳ありません」

 アスカはツバキの影から身を乗り出して、リクの様子を窺う。リクは白い頬にジワッと赤を滲ませて、恥ずかしそうに視線を逸らしていた。

「アスカっち、リッくんとなんかあった?」

 脇腹の下からヒョコッと顔を出す形のアスカを見下ろしてツバキが問う。アスカは一瞬逡巡したのち、フルフルと首を横に振った。

「……でも、話聞いてもらえた」

「ふぅん、そうなんだ。なーんか困ったことあったら、うちらにも相談してねん」

「うん」

 ツバキとアスカは目線を合わせて、微笑みを交わしあう。

「そろそろ襲撃予想時間だけど、いける? みんな」

「……シャアッ! 一応調整終わり!」

 ヒイラギが掲げたガッツポーズに、一堂は「おおー」を声を上げ拍手で讃えた。

「じゃあ、スタンバイしよう」

 シドウの呼びかけで、それぞれのつがい同士は向かい合って立つ。ハスミが伸ばした左手にアスカが触れて、指先を握り合うと刻まれた紋様が赤く光った。アスカのTシャツにパンツというシンプルな服装を、赤い装甲が塗り替えていった。

 シドウはリクを抱き寄せて、耳元で「いってらっしゃい」と囁く。リクはシドウの肩に頬を寄せて「いってきます」と返しながら、背中をポンポンと叩くリズムにスゥと息を吸い込んだ。左手の紋様から静かに伸びる青いツタ。それは複雑にリクの体を覆っていき、パァンと弾けると同時にリクは忍び装束に変わっていた。

 ツバキは地面に座り込む姿勢のヒイラギの頬に両手を添えて、引き上げながら自身の額を重ねる。触れ合った場所にオレンジの光が灯り、ツバキの左手の

紋様へと光が吸い込まれていった。そこからまた新たに生まれた光がツバキの全身を撫で、彼女の体をクラシックなメイド服で包む。

「ここら辺一帯の避難は完了したって。被害はあくまで最小限に留めてほしいけど、それはまあ二の次ってことで」

「はい!」

「承知しました」

「オッケー」

 三者三様の返事を返しながら並び立つ3人の吸血鬼。赤い月が浮かぶ漆黒の夜の中に、地から湧き出た《影》が三角の翼を広げて咆哮を上げた。

「地上は僕がいきます」

 言うが早いか、素早く口布を引き上げたリクが走って屋上から身を躍らせた。続いてアスカも飛び出し、高い跳躍力で吸血鬼(ヴァンプ)との距離を詰める。ひとり屋上に残ったツバキは、両肩に兵器を担いで次々に数を増していく吸血鬼(ヴァンプ)の影に向き合った。

「うぇ……数えっぐい……」

『大丈夫、一発で100は落とせるぜ』

 耳に嵌めたイヤホンから聞こえる頼もしい声。隠しきれないはしゃぎ具合に小さく苦笑したツバキは、左手の甲にちゅっと音を立てて唇を寄せる。

「信じてるよ、ヒイラギ」

『……え、今姉ちゃん舌打ちした!?』

「してないから。集中して?」

 ハァと呆れた息を吐きつつ、ツバキは両肩にかかる荷重を背負いなおした。軽く「持ち歩ける戦車」と呼べるほどの火力は伊達ではない。ズシリと重く沈む重量にギリッと強く奥歯を噛みながら、ツバキはヒイラギの合図を待つ。

『行くぜ、姉ちゃん』

「オッケー……ッ、どーん!」

 体が吹き飛ばされそうな強い衝撃に耐えて、ツバキは懸命に脚を踏ん張った。わずかに後退したのみで兵器を支え切った手ごたえを感じて、放たれた銃弾の行方を目にする。ツバキの位置からは見えないが、ヒイラギの見つめる画面には無数のレティクルが浮かんでいるはずだった。銃弾は迷うことなくとらえた影の一体一体に炸裂し、最初の宣言通り100体近くが霧散する。

「……すんげ」

 思わずそう零したハスミに、ヒイラギは興奮気味の鼻息を噴き出しつつ次なる狙いをロックしていった。

「マルチロックシステム搭載してんだ。すっげーだろ」

「いや本当、お前の執念ってやべーな……そもそも100発近い銃弾の一斉掃射に生身で耐えてるツバキもやべーけど」

「見くびんなよ。自慢の姉ちゃんなんだから」

 無邪気なまでに真っすぐで、強い信頼。ハスミはホゥと小さく息を吐いて、自身の手の中にあるノートPCの画面が映す、アスカの姿に目を凝らす。

 ほとんど実戦経験がないにも関わらず、アスカの動きは的確で鮮やかだった。赤い装甲の出力を巧みに操り、地面に着いた状態で大きく飛び上がったり、壁を垂直に走ったり。対峙する吸血鬼(ヴァンプ)はどれも一発で仕留め、次々と持ち場を変えていく。

「アスカ、力増してるね。それだけじゃなく、ちゃんと制御して使いこなしてる」

「ああ……これは俺も予想外だ」

「そう思うなら、ちゃんと見ておきなよ」

 シドウは自身の手元のモニターに視線を注いだままでハスミに助言する。

「ヒイラギ、次はいつ打てる?」

「あと10秒!」

「オーケー。遠方にも撃てるか? 次のエリアに微かに吸血鬼(ヴァンプ)の反応が出てる」

「任せとけ。あと5秒くれたらそっちも対応してやんよ」

「頼んだよ」

 シドウは同時にいくつも展開させた画面に視線を走らせた。素早い跳躍重い打撃で次々敵を破壊していく。惚れ惚れするほどの強さに思わず息を呑みながら、映像を都度切り替えて戦況を把握していった。そして、ある違和感に気づく。

「リク……?」

 彼が応戦しているはずの地上に、姿が映らない。いくつ映像を切り替えても、どこにもリクの姿は見当たらなかった。

「リク、どこにいる?」

 イヤホンを叩いて応答を促す。微かに聞こえたのはザラついたノイズの音だけ。

「シドウ? どうした?」

 心なしか蒼白に見える横顔。ハスミは瞳を訝しんでシドウの方へ足を向け近づきかける。

「ハスミさん!」

 いつの間に戻ったのか、屋上に着地したアスカが大声でハスミを呼んだ。ハスミはシドウの方へ向かいかけた足を止めて、彼を振り返る。

 アスカはハスミに走り寄り、濃い深紅の瞳を真っすぐに向けた。背後では調整の済んだらしいツバキの第二砲が炸裂する。赤い月の晴れる空に、巨大なロケットランチャーを肩に乗せたツバキの影が舞い踊った。ハスミは鮮やかなその影を見上げながら、アスカの言葉を聞いた。


「ハスミさん、オレ……使ってみようと思います。《《あの力》》」


 ハスミはハッとしてアスカに視線を向けた。アスカの瞳の赤が、一層鮮やかに揺れる。

 アスカが示唆した力。《《それ》》を行使していたときのあの《影》も、似たような目の色をしていた記憶。

「あの力って、まさか」

「オレあの人が力を使うのをずっと見てました。夢の中でも、ずっと。……だから、オレたぶん、やれます」

 絞り出すように語るアスカの様子に、ハスミは唇を歪めて苦しい息を吐く。知識では知っている。そして昨日、実際にその力が振るわれる様を見た。協力で強大。上位から下位に向けて下される冷徹無慈悲な絶対命令――イニシアチブ。

 目の前の小柄な少年とは最もかけ離れたところにあるような力の性質に、ハスミは焦燥したように掌で額を押さえる。アスカは真摯な眼差しを向けたままで、ジッとハスミの返答を待っていた。

「俺も……お前は《《あの力》》を使えると思う」

「それじゃあ」

「けど、それがどれだけの範囲に有効で、どれだけの時間もつものなのか。それに使った後のリスクも含めて、俺はまだなにも知らない」

「それでも、このままじゃ街に被害が出ます。オレはたぶん、大丈夫です。オレには、ハスミさんがいる」

 アスカは胸の前で左手を握り、フワッと表情を綻ばせる。不謹慎だとは思いつつも、ドクンと心音が跳ねる思いを味わったハスミは、思わずアスカから目を逸らして溜息を吐いた。

「あのなあ……それ、何の根拠にもなってねえのよ」

「オレにはそれがあれば十分です」

「やめろって。俺はそんな高尚な存在じゃない」


「それでも、オレにとっては唯一無二のパートナーです」


 ツバキの放つロケットランチャーの砲弾が着弾して炸裂する音が響き続ける。ヒイラギはツバキが背負っていた小型戦車ほどの重量と威力のある重火器を地面に固定して角度を綿密に調整した後、PCに戻ってマルチロックした対象に銃弾を放った。

「オラ、行けえ!」

 ヒイラギの好戦的な声が闇夜を裂く。激しい攻防戦の最中、迷っている時間はないと突きつけられているのに、あまりに頼りない根拠に途方に暮れた。

 頼りない、と思っているのはおそらく自分だけ。自分たちが行使できる力の源を誰より理解しながら、いざ自分がその場に立たされるとこれほどまでに躊躇するものだと知る。

「情けねえな、俺は」

「……ハスミさん?」

「けど、この恐れとか躊躇とかっつーのが、お前の力の妨げにもなるんだよな」


「……はい。オレを信じてください、ハスミさん」


「敵わねえな、もう」

 ハスミは額に当てた手で、前髪をくしゃりと握りしめる。アスカの澄んだ強い瞳は、揺るがない。ハスミはハァと長く息を吐き出して、髪を掴んでいた手を解いた。持ち上げた腕を振り下ろす勢いで覚悟を決めたハスミは、左手をかざしてアスカ地視線を交わす。


「行け、アスカ。お前を信じる」


「はい!」

 アスカはパァと表情を華やがせて、ハスミの左手に自身の左手を合わせた。ジワッと光る赤が紋様をなぞって走り、濃い色で定着する。赤い光が空気さえ震わせて、下から噴き上げるよう吹き付ける風がアスカの髪をかきあげ、目を閉じた顔を照らした。

 解く指先。ゆっくりと開く瞼。光を放つほど濃い赤が覗き、線のように細い黒目が夜を射る。

 ハスミはアスカがイニシアチブを発動する準備が整ったのを見届けると、シドウの方へと視線を向けた。

「シドウ、指示をくれ」

「……わかった」

 ハッとした様子のシドウは周囲を肉眼で確認したあと、モニターに視線を落としてポイントをチェックしていく。出現予測が出ていたエリアのすべてに種が孵る反応が見られた。シドウは口の中で小さく舌打ちして、苦渋に顔を歪めながら叫ぶ。

「ごめん、全部」

「……全部、って……おいおい」

「やれます。信じて」

 強大な力の所在を感じさせながら、あくまで冷静な声。今まで度々目にしてきた暴走状態とも違う。小柄な体の中にすべての力を集約させ、完全に支配下に置くように。ハスミはゴクリと音を立てて唾を飲み下し、ドクドクと脈を打って熱い左手を強く握りしめた。共鳴する血の感覚。アスカは口の端を微かに持ち上げ微笑んで、フワッと持ち上げた手を赤い月に翳した。

――キィン、と。音にならない甲高い波長が広がり、息苦しいほどの緊張感が包む。細い空気の幕が体を通り抜ける感覚があって、張りつめていた緊張がフッと解ける。防衛線が一瞬濃く色を変えて、小さな稲妻が迸った。


「ぅえ、何なに?」

 地上に降りていたツバキは、うろたえた声を上げながら周囲を見回す。次々と生まれていた吸血鬼(ヴァンプ)の群れが勢いを潜め、まるで見えない糸に吊り上げられるようにゆっくりと姿を現した。けれどもその赤眼に光はなく、皆魂の抜けた幽霊のごとく三角の翼を垂れて、一か所に目掛けて引き上げられていく。

「なに、あれ……」

 赤い月の前に、操られた吸血鬼(ヴァンプ)たちの影が集まって、巨大な影を形作っていた。何者かに変化するわけでもなく、歪な形のまま。防衛線の内側にあるすべてのエリアから引き上げられた影が塊になって互いを押しつぶしあって、高い咆哮を上げる。

 ビリビリと突き刺すような空気に、ツバキは思わず耳を塞いだ。ゴトッと鈍い音を立てて落ちるロケットランチャー。体中に掛かる圧に耐えられなくなり、ツバキはその場に膝をつく。

「アスカっち……」

 力なく呟く声と、頭上を見上げるカーネリアン。屋上の先端に立つ小柄な影が放つ圧倒的な力に、ツバキは平伏す思いを覚えた。――まるで、吸血鬼を統べる王のような風格と、力。アスカはグッと唾を呑んで喉を鳴らし、たまらずアスカから視線を逸らす。両肩を下げて息をつき、ふと視線を上げた先。先ほどまで感じていた緊張感がすべて吹き飛ぶほどの衝撃がツバキを貫く。建物の隙間にある濃い影の中で、倒れている青い影――リクだ。

「……ちょっ、嘘……っ」

 ツバキは体に掛かる圧を無理やり振り払って、影の元へと走った。


「あれで全部か、シドウ」

「……うん、おそらくね。地上から吸血鬼(ヴァンプ)の反応が消えた」

 アスカの発動する力を呆然と見上げながら、ハスミは努めて冷静さを装い、詰まる息を少しずつ吐き出す。傍らにいるシドウも淡々とキーボードを弾いて表示させる画面を切り替えながら、確信を持って返してきた。

「ヒイラギ、いけるか?」

「おぅよ。もうちょっとマルチロックの精度試したくはあったけど、まあ、《《こいつ》》の最大威力確かめられるだけでもよしとするか」

「十分だろうよ」

 自作の重火器に寄り添いながらぼやくヒイラギに、ハスミは苦笑で応じる。ヒイラギは小さく肩を竦めて見せて、悲鳴を上げながら蠢く吸血鬼(ヴァンプ)の塊を見上げる。

人間たち(俺ら)でとどめ刺せるっつーのも、なんか気分いいしな」

「確かに。……まあ、美味しいとこどりしてるだけな気もするけどな」

「おっさんそれ言うなよ。台無しだろうが」

 ヒイラギはげんなりとため息をつき、ゴーグルに手を添えて照準を確認した。

「いつでもいけんぜ、シドウ」

「ああ、頼む」

「しゃっ、行くぜ。……発射!」

 ヒイラギがゴーグルの縁を弾くと、重火器の銃口から一点に目掛けて一斉に銃弾が放たれた。巨大な砲弾のごとく威力と質量を持って影に襲い掛かる銃弾は、影の中央を貫いて吸血鬼(ヴァンプ)たちを一掃する。銃弾が抜けた穴の向こうに見える赤い月が、戦闘の終わった夜を静かに見下ろした。

「終わった……」

 ハスミはポツリと呟いて防衛線を解除する。防衛線のフィルターを通して赤く染まっていた月は銀色に輝き、外で待機していた軍部が一斉になだれ込んでくる気配を察した。ドッと全身に圧し掛かるような疲労感。心臓がギュウと掴まれるように鈍い鼓動を打ち、ハスミはガクリと体を折って呼吸を整える。

「やっぱり、負担がやべえな、これは」

 ハスミは重く閉じようとする瞼を無理やり開いて、前方へと視線を向けた。屋上の先端の地面に倒れた小柄な影。ピクリとも動かないその体に駆け寄り、抱き起して背中を支える。

「アスカ! おい、アスカ!」

 ピタリと閉じた瞼は開く気配がない。色を失くした唇からわずかに測れる呼吸も弱々しく、ハスミは背筋の冷える思いを味わう。

「眠ってるだけじゃね? 顔色も普通だし、たぶん大丈夫だよ」

「ん、ああ……」

 背後から覗き込んでそう言うヒイラギに、ハスミはパニックになりかけていた思考を努めて落ち着けた。自身の呼吸をできるだけ殺し、アスカの息遣いに集中する。聞こえてくる呼吸のリズムはヒイラギの言うように穏やか寝息のようで、ハスミは密かに安堵の息を吐いた。

『ヒイラギ、シドりんいる?』

 ザッとノイズの音を立てて、イヤホンにツバキの声が届く。ヒイラギは背後で一心にモニターを見つめたままでいるシドウに視線を向け、耳に指を添えて応答した。

「お疲れ、姉ちゃん。いるけど、どうした?」

『すぐに来てって言って。リクは私のところにいるからって』

 通信はシドウの耳にも届いている。「リク」という名前に反応するように、シドウはハッと顔を上げ、フラフラと視線を巡らせた。

 ハスミは戦闘中にリクの所在をロストしてたことに歯噛みしつつ、顔を上げてシドウに呼びかける。

「シドウ、ここはいいから早く行け」

「……ごめん、お願い」

 シドウはその場にPCを置いてペントハウスに駆け込み階段を下って行った。

「シドウ、姉ちゃんの場所ナビいるか?」

『大丈夫、把握できてる』

 シドウの声は冷静に聞こえるけれども、明らかに震えている。ハスミとヒイラギは視線を交わして、同時に小さく息をついた。

 ハスミの腕の中で、アスカは身じろぎをすることもなく滾々と眠り続ける。ハスミは腕に感じる体温だけが希望と、何度もアスカの体を抱き直した。



 街灯もすべて消え、人の気配のしない死んだような街に立つ。シドウは静かな幹線道路を走り、目的の場所を目指した。暗闇にすっかり慣れた視界には、夜に沈む中でも物の輪郭がぼんやりと把握できた。緩やかに続く坂を駆けていると、徐々に呼吸が上がってくる。シドウは校内に滲む唾を何度も喉奥に押し込めながら、ひたすら脚を動かした。

 坂を上り切った先、開けた視界の中に座り込む人影を見つける。シドウはこめかみから滴る汗を拭って、上がる呼吸を深呼吸で落ち着けながら人影に走り寄った。

「ツバキ」

 呼びかけると、ツバキがゆっくりと顔を上げる。彼女はホッとした表情を浮かべ、腿に乗せたリクの頭をそっと撫でた。

「リッくん、シドりん来てくれたよ」

 ツバキの優しい声音が胸に刺さる。シドウは苦い息を呑みこんで、その場に膝をついた。リクの瞼が震え、長い睫毛が揺れて隙間に美し青が覗く。リクは数度瞬きを繰り返して、瞳にジワッと儚い光を揺らした。

「マスター……ごめんなさい」

 震える声がそう言って、リクの瞳に張っていた涙の膜が崩れる。ヒッと喉を引きつらせたリクは、唇を強く噛んで涙を堪えようとした。

 ツバキは声を殺して泣くリクを見下ろして短く息を吐き、彼の体をシドウに引き渡す。シドウが広げた両腕の中に迎え入れられたリクは、シドウのベストを掴んで握りしめ、柔らかな生地に鼻先を埋めた。

 ごめんなさい、と繰り返し聞こえる震え声の謝罪。ツバキはリクを抱きとめ背中を撫でるシドウを眺めて、制服のスカートについた汚れを払いながら立ち上がる。

「ねえ、シドりん」

 ツバキが静かに呼ぶ声に、シドウは目線の動きだけで応じた。

「絆って、不安定だよ。相手の言葉ひとつでグラグラに揺らいじゃう。大切だからこそ、いい加減じゃいられないから」

「……分かってる」

「2人がどんな距離感でいようとしてるかなんてことは知らないけど、たまにはなりふり構わなくたっていいんじゃない? うちらの場合はたまーに困るくらい盲目的だけど……それが嬉しいの。だから私はヒイラギが大好き」

 ツバキは満足げに笑ってそう言い切ってみせる。耳に嵌めたイヤホンに、うぐぅとヒイラギが息を詰まらせる音が聞こえた。

 シドウは瞼を伏せて頷き、その場を離れるツバキの背中を見送る。

 ツバキが去って、2人きりになった路上の上。遠くでは軍部が片付けに追われる声が聞こえる。シドウは微かな喧騒を意識の外へと追いやって、泣き止んだリクの頭をソッと撫でた。

「申し訳ありません、マスター」

 埋めていた鼻先ゆっくりと剥がしたリクは、言葉通り申し訳なさそうに肩を窄めている。

「……何が不安なの? ちゃんと話して、リク」

 リクは切れ長の瞳を左右にさ迷わせ、数秒躊躇う様子を見せてから唇の隙間を微かに開いた。

「グレン・ヴァンプが、ハスミの探していたものとは別に存在している可能性があると――昨日現れた吸血鬼(ヴァンプ)のことです」

「ん? ああ……」

 ハスミはリクの言う吸血鬼(ヴァンプ)についてリクにちゃんと説明してなかったことを思い出す。ハスミとの会話であの吸血鬼(ヴァンプ)がグレン・ヴァンプである可能性が高いと結論づけはしたものの、まだ確信には至れていなかった。そもそも、何を以てグレン・ヴァンプと呼ぶのか、シドウの中では未だに定義できていない。

 リクはシドウの曖昧な返事により戸惑いの色を濃く浮かべ、ハァと思いつめた息を吐いてから言葉を継いだ。


「もし、あなたの《《本物のつがい》》が現れたらどうしよう、……って」


「……何を言っているの、リク」

 思いもしない答えに、シドウは全身の力が抜けるのを感じる。信じられない思いで目の前のリクを見つめていると、リクはシュンとした様子でシドウから視線を逸らした。力なく垂れ下がった手がシドウのシャツの裾を掴んで、キュッと小さく握りしめられている。

「そんな可能性を、あなたは期待しなかったんですか?」

 重ねられた問いにを自身の中に返して、シドウは一度空を仰いだ。防衛線が解かれて突き抜けた夜空は、無数の星が小さく震えながら瞬いている。シドウはその無数の光に目を細めて、フゥと淡い息を吐いた。

「……確かに、僕は本物のつがいと出会える可能性の低さに絶望して、自分と結び合うためだけの存在としてお前を作ったよ。けれども、お前が生まれて、長い時間を一緒に過ごして……その時間が、僕らの絆だ」

「でも、本物のつがいは出会ったら引き合うもので」

「引き合ったから、なに。それが僕らの絆に勝るわけがないでしょうが」

「マスター……」


「僕を信じてよ、リク」


 目の前で見せつけられた強い絆を模したのは少しズルいかとも思う。けれども、ハスミに向けられたアスカの願いは何よりも尊く、揺るぎないものに見えたから――単純に憧れた。心から。

 リクは驚いたように青眼を見開いて、スゥと静かに息を吸い込む。吐き出しながら、綻ぶ唇。リクは緩やかに首を傾け、目尻を窄めて微笑んだ。


「はい。……ありがとう、父さん」


「……いい子だね」

 シドウは苦笑を浮かべて、腕を広げてリクの体を胸に抱いた。滑らかな青髪を撫でながら、遠い過去を思い出す。

 リクと過ごす中で、彼の中で育っていく無邪気で素直な人間性に惹かれ、つがいという絆で縛ってしまうことを躊躇った――そのために《《作った》》というのに。

 一方のリクは、つがいとして作られたという存在理由を知っていたからこそ、つがいになることを選ばないことで自身の存在理由を失う恐怖を感じていた。


――僕が父さんの番になるよ、ちゃんとやれるよ僕。だから――捨てないで。


 幼いリクが強い瞳を向けながら、震える声で言った言葉。それを聞いたシドウは、彼の小さな体を抱きしめて約束した――そんなことは決してしないと。こんな愛しい子を二度と泣かせないと、自身に誓った。

 そして、彼の一生縛ってしまう罪を負った。


「結局、また泣かせてるけどね」


 腕の中で聞こえた小さな寝息の音に、シドウはリクの顔を覗き込んで目尻に残る涙の跡をソッと撫でる。


 完全に寝落ちてしまったリクを背負ってビルの下に戻り、そこで待機していた4人と合流する。

「リッくん寝ちゃった?」

 シドウとの体の隙間を覗き込んでリクの様子を窺うツバキ。微かに微笑む寝顔を目にしたツバキは満足そうに笑って、鼻歌を奏でながらシドウの前でくるりと回った。シドウはハァと脱力するように息を吐いて、星空を見上げて瞬きする。

「……言い逃げされた」

「え?」

 シドウは背中を揺らしてリクの体勢を直しながら、ハハッと乾いた笑いを吐いた。

「僕が『父さん』って呼ばれるのに弱いこと知ってるんだよ、この子は」

「柄じゃないもんな」

「うるさいよ」

 即座に突っ込んだヒイラギに鋭い視線を向けて牽制するシドウ。ハスミはヒイラギに内心同意しつつ、自身の背に乗せたアスカの温もりを探りながらフッと小さく笑ってみせる。

「相手の弱いとこ見抜いて絶妙なタイミングで使ってくるとこ、お前そっくりじゃねえの」

「仲良し親子だねー」

 ツバキに畳みかけられ、シドウは真顔になって閉口した。やがて音を出して噴き出し、《塔》に帰りつくまでずっと、珍しく表情を緩めたままでいた。

 非常灯のみが灯るオルビスタワーのエントランスでエレベーターが到着するの待ちながら、シドウは静かな口調で呟く。


「いずれにせよ、揺れてる場合じゃないね。敵の姿が見えてきたんだから」


 カウントダウンしていく数字を眺めつつ、ハスミは小さく息を呑んだ。シドウの言うことは最もだと思いながらも、全身に溜まった疲労感のせいで肯定する気にはなれなかった。その罪滅ぼしというわけではないけれど、ハスミはふと脳裡に浮かんだアイディアを提案する。

「なあシドウ、リクが起きたら食堂に来いよ」

「……なんで?」

「お祝い、的な? なんか作って食わせてやる」

 訝しそうな視線を向けてくるシドウに向けて、薄く笑みを浮かべて返すハスミ。シドウはハァと息をついて目を伏せた後、視線を逸らしたままで答えた。

「……わかった。リクと食べに行く」

「あ、俺も」

「私もー」

 便乗して手を上げるヒイラギとツバキにも「へいへい」と気のない返事を返しながら、4人は到着したエレベーターに乗り込んだ。

 避難指示が完全に解かれて、息を吹き返すように少しずつ明かりを灯していく街。その光景を見下ろすオルビスタワーは上部に突き刺さるように在るドーナツ型の浮遊区にだけ暖かい光が灯り、傍目にはまるで夜闇に浮かぶ眼球のように見える。


 さらに俯瞰して見える位置。足場もなく浮遊する人影の位置から見るシンボルタワーとドーナツ型の浮遊区は、巨大な鍵穴の形をしていた。


「――つがいの鍵、か」


 嗄れた声が静かな夜の空気を微かにザラリと震わせる。オルビスタワーを見下ろす人影は、やがて音もなく姿を消した。



《6/END》

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