第4話・影
4.
薄闇の中で目を覚ます。瞼を透かして刺すような朝陽が焼かないのは、どうやら天気がよくないせいだと察した。ハスミは広いベッドの上で体を起こし、習い性のように高い位置にある明り取りの窓を見上げる。寝起きの目を瞬いて、曇天の向こう側に滲む薄い光の気配に目を細めた。
振り仰いでいた視線を降ろし、視界に映す室内の光景。作業用のデスクとノートパソコン。筆記用具を挿したペン立てと、小さな多肉植物。極端に物の少ない部屋は凹凸が少なく、実際の面積の割に広く見えた。ブラインドに差す外光がデスクの上に落とすストライプの影を見つめ、ハスミはふと違和感に気づく。
「……ん?」
気づくと言うより、何かを忘れているという予感。違和感の正体は、部屋を見回す角度にあった。極端に奥側に寄っていた視界の原因は、ハスミ自身がいつもより端に寄って寝ていたせい。そうした理由を思い出したハスミは、ハッとして傍らに視線を落とす。
「アスカ……?」
昨日は、初めて口にしたハンバーグをえらく気に入ったアスカからその後の昼飯に続いて夕飯まで同じメニューを要求されて、せがまれるままにせめてソースの味を変えるなどして彼の「好物」を振舞った。生まれて初めて「満腹」という感覚を知ったらしいアスカは、久しぶりに感じたという「眠気」を訴え、ハスミとベッドをシェアする形で眠った。
これから同室で暮らすのにベッドひとつというのもどうなんだ? という疑問が湧きはしたものの、実際寝てみるとアスカの小柄な体は大した面積をとることなく、ハスミ自身も全く支障を感じなかった。
(シドウとリクの2人もあのデカい図体同士で同じベッドで寝てるらしいし、まあ)
(ってかそんなことよりも)
「……あいつ、どこ行った?」
胸の内で言い訳を並べた後の着地点。リアルタイムで起きている疑問に、ハスミは瞬きをして頭を捻る。IDはデスク横のフックに下がったままだから、恐らく外出したわけではない。いつの間にか親しくなったらしいツバキとヒイラギの2人はまだオルビスタワーに戻っていなし、他に彼がハスミが起きるのを待たずにわざわざひとりで出かけていく行き先に全く見当がつかなかった。
サラッと、アスカが寝ていた跡が残る平らなシーツを掌で撫でてみる。指の腹に触れる微かな体温に、彼がこの場を離れてからそう長い時間が経っていないことが知れた。
「……探すか」
脳裡にミナミの顔が過ぎって、ハスミはげんなりとため息を吐く。昨日交わしたやりとりのデジャブ。結果的には、アスカの後を追うようにと言ってくれた彼女の助言は正しかった。
「吸血鬼の本能――……か」
ハスミはポツリ呟きながら、ベッドサイドに脚を下ろして立ち上がる。寝間着を脱いで私服に着替え、その上にいつもの丈の長い白衣を羽織った。革靴に足を入れ、一応2人分のIDを掴んで部屋を出る。
アスカの後を追って外に出た昨日。届け先であるヒイラギ達が通う高校の傍で目にしたアスカは、ヒイラギの血を前に吸血本能を剥き出しにする寸前だった。人間の血を飲むことが怖いと言っていたこともあるし、最初にアスカを噛んだ時のように実際に吸血に及ぶことは無かったかも知れないが、何も知らない人間が見たら恐怖の対象であることは間違いない。
「もっと、俺《番》の血の味を覚え込ませないと」
ハスミはそう呟いて、自身の首筋に残るアスカの牙の跡を指先で引っ掻く。もしくは、ハスミの血の味を知ったせいでそれまで抑えられていた本能が目覚めてしまったのかもしれない。ハスミはぐるぐるとループする思考を一旦止めて、ハァと深いため息を吐いた。
「やっぱムズいな……番ってのは」
ドーナツ型をした建物の緩やかなカーブを曲がった先。ハスミは視界の先に意外な人物を見つけて、思わず立ち止まって瞬きする。薄灰色のシャツに紺色のベストを重ね、白いパンツを合わせた青髪ウエーブの人物。
「シドウ」
ハスミが呼ぶと、シドウは細いフレームの眼鏡の奥の青眼を瞬いて、視線でハスミに応じた。唇の前にスゥと添えられた人差し指が告げる「静かに」の合図。
「早起きだな、珍し」
ハスミは潜めた音量でも聞こえる位置まで、彼との距離を詰める。
「たまにはね。ハンバーグの夢見た」
「ハハッ、ウケんな。作り方教えてやろうか? お前ちゃんとリクに飯食わせろよ」
「余計なお世話。それより、あれ見て」
「あ?」
シドウは顎を上げて室内を示す。ハスミは体を僅かに前傾させてシドウが示す先を覗き込んだ。
壁もベッドも全てが白で統一された病室。ハスミたちの居住エリアに設えられた唯一のそこには、昨日の明け方から新人ガードマンのミナミが入院している。まだ朝の早い時間なこともあって眠っている彼女の傍らに、丸椅子に座って体を大きく前傾させる姿勢で顔を突っ伏している、小柄な影。
「アスカ、ここにいたのか……てかなんでミナミのとこにいんだ」
「血は呼び合うからじゃない?」
ふと、呟かれたシドウの確信めいた声がハスミの神経に障る。ハスミは静かにシドウを睨みつけ、低い声で忠告した。
「……アスカの番は俺だが?」
「へえ、人並みに独占欲あるんだ、ちょっと安心」
シドウは顎を上げて、ハスミを見下す視線を向ける。ハスミは口の中で舌打ちを吐き、ギッと鈍く奥歯を鳴らす。
「テメェ、ふざけてんな」
「素直な所感を述べたまでだよ。まあ、お前のイラつく気持ちも分かるから敢えて言うけど、お前との絆を脅かすものではないと思う……今のところはね」
シドウは言いながら、視線を室内へと戻した。対するハスミはジッとシドウの青眼に目を据えたままで、唇を歪める。
「勿体つけんな。お前、何を知っている?」
ハスミの追求にフッと短く息を吐いたシドウは、ポケットに入れていたスマートフォンを取り出して画面を操作する。
「これ、見て」
シドウは画面を表示させたままのスマートフォンをハスミに提示した。上下2分割の画面で表示させた血液検査のデータ。識別番号の横に記された名前を見たハスミは、グゥと音を立てて喉を鳴らした。
「お前はこれを知っていたの?」
シドウの言葉が思考を滑る。ハスミはフルフルと首を横に振り、震える声を出した。
「んだよ、これ……」
アスカの血液データはもともとシドウから受け取っていたので記憶にある。初めて目にしたミナミの血液データの数値はアスカの数値とほとんど同じ値が示され、その合致率は9割に近い。
「合致率が恐ろしく高い。ほとんど同じと言っていいんじゃないかな? もちろん、番関係を結んでるお前とのシンクロ率も高いけど――彼女とアスカの場合は、どちらかというとツバキとヒイラギに近いかな。いわば、双子のような」
「双子……!?」
「ような、って言ったの。本当にそうだとは言ってないからね? 根拠ってわけでもないけど、これも見て」
シドウは一度ハスミの手から自身のスマートフォンを返してもらい、再び操作してからハスミの手に戻す。
「こっちは彼女の入社時に行った健康診断での血液データ」
「……全然違うじゃねえか」
並ぶ数値は現在の値と全く異なる――というよりも、ミナミの元の数値はあらゆる意味での「正常値」だった。ハスミは改めてミナミの現在の数値と、その下に添えられたシドウの分析に目線を走らせる。そこには、急性経路による内部変質、という記述があった。
「彼女の血液数値は劇的に変化してる。過去に吸血鬼に噛まれた形跡はあるようだったけれど、その後に取られたデータは正常。なのに、今回は噛まれたわけでもないのに原因不明の内部変化が起きている……心当たりがあるだろ」
「始祖の血守り、か」
「そう。彼女は、始祖の血の影響を受けたと考えるべきだろうな」
一昨日の夜、ハスミが自身の番となる吸血鬼を呼び寄せるための囮として、ミナミに「お守り」だと偽って渡した赤いチャーム。始祖の血から作った物だと告げた瞬間、吸血鬼を憎んでいるミナミは明らかな憤りを示したが、離せば物理的な守りを失うというハスミの脅しのせいもあって、律儀に握りしめたままでいた。
「始祖の血の力は未だ未知だけど、彼女の傷口や血に触れることなく変化を起こせる力があるとしたら脅威だ。ちなみに、彼女は吸血鬼にどんな感情を抱いてた?」
「両親を吸血鬼に殺されたと言ってた。アスカへの怯え方を見ても、吸血鬼にかなり恐怖心を持っていて、そして憎んでる」
「なるほどね。感情の呼応ってところかな」
「感情の、呼応」
ハスミはシドウの言葉を反芻して呟く。シドウは考え込むハスミの横顔を見つめ、静かな声音で問いかけた。
「アスカは始祖の血を引いた純血の吸血鬼……グレン・ヴァンプなんだろ?」
「ああ、そうだ」
「それをどう証明するのかは知らないけど、自称、お前の血と引き合う吸血鬼らしいからね。それを信じた上で仮説を立てるなら、アスカはあの子の血と共鳴して引き寄せられたってことだろ。帰巣本能みたいなものかな」
「……ふぅん」
「おや、興味無いって?」
「逆だ」
「ん?」
俯きながらポツリと呟いたハスミは、シドウを押しのけて病室に足を踏み入れる。シドウは腕組みをして、ハスミの同行を見守る姿勢をとった。
ハスミはアスカの背後に立って、ゆったりとしたリズムで上下する背中を見つめて、スゥと静かに息を吸い込む。
アスカ、と口にする前に、アスカの肩がピクリと揺れた。アスカはゆっくりと体を起こし、無意識にミナミの手と重ね合わせていた指先を見つめて、首を傾げる。そこからソッと手を離し、アスカは寝起きでぼんやりした目でハスミを振り返る。
「ハスミさん」
振り仰ぐ瞳の真紅に、天井から降る照明の光が揺れた。ホゥと解けるように浮かぶ笑顔。ハスミも呼応するように微笑んで、緊張していた肩の力を抜く。
「おはよう、アスカ。朝飯食うか?」
朝飯、という言葉にアスカは更に瞳を輝かせ、グンと背筋を伸ばして椅子から立ち上がった。
「食べます! ハンバーグですか!?」
「嘘だろ?」
「あ、僕も食べたい」
病室の入口に立ったままのシドウも便乗して手を挙げる。
「朝からハンバーグとか、お前らの胃どんだけわんぱくだよ」
「わたしも、ハンバーグ……」
ベッドの上から寝言かどうかも判別のつかない夢見心地の口調で、ミナミがにやけ顔で割って入った。
「どいつもこいつも……」
痛みを訴える眉間を揉んで、ハスミがため息を吐いた瞬間。ドォンと不穏な音と同時に、リノリウムの床が大きく揺れた。次いで、反応した《塔》の防衛システムがけたたましい警報を鳴らす。ハスミは地面が揺れた瞬間アスカを抱き寄せ床に伏せた。シドウも低い姿勢を取り、ミナミは頭まで布団を被って蹲っていた。
初期行動を促す警報が、避難を促す館内放送に切り替わったところで、ハスミとシドウは体を起こす。
「とりあえず、朝飯はお預けだな」
「えっ」
本気のショックを表明したアスカは、場違いなリアクションと気づいて慌てて掌で口を塞ぐ。ハスミは苦笑してアスカの銀髪を撫で、ベッドの傍を離れて窓際に寄る。
館内放送によれば、オルビスタワーが外部から物理攻撃を受けたとのことだったが、窓から身を乗り出して上下に視線を走らせたところで、被害個所は見当たらない。
「襲撃ったって、んでこんな日中に」
「今日は曇ってるからね。力の強い吸血鬼なら動けるでしょ」
スマートフォンの上に親指を走らせながら、ジッと画面を凝視したままでシドウがシレッと不穏な予測を口にした。
「軽く言うねえ、お前。それ一番最悪なやつなんだが?」
「ハスミはまず防衛線を張って。僕はツバキたちに連絡を入れて先行させる」
『もう着いてるよ』
体制を指示しながら繋いだらしいスピーカーから、ツバキの緊迫の滲む声が響く。
『敵は数の割にザコばっかだし、うちらだけでもいけそうだけど』
「無理しないで、ツバキ。リクを援護に行かせる。……起こすところからだけど」
『おい、寝坊癖なんとかしとけやお坊ちゃん。今日は2人揃ってじゃないだけマシだけど』
吐き捨てるように言ったのはヒイラギ。シドウは無言で目を閉じ頭を振って、額を押さえながら廊下を走っていく。ハスミは防衛線を張るためのPCを取りに行くべく、アスカを連れて病室を出た。
病室に残されたミナミは、深く被った布団の隙間から少しだけを顔を覗かせ、無人の扉の向こうにエールを送る。
「がんばってください……」
恐々とした口調で呟く声の上に塗り重ねるように、クゥと控えめな音でミナミの腹の虫が鳴いた。
◇
昼の戦闘ということもあり、派手な重火器は使えない。ツバキはいつものロケットランチャーは封印して、マシンガンとハンドガンを駆使して群がる中級吸血鬼に応戦していた。
場所は《塔》の外側に壁に沿うように設置された非常階段の上。ヒイラギは応戦するツバキの足元でノートPCを操作し、ツバキが倒した敵の数、残りの弾数などを把握しながら、床に広げた複数種類の武器の中から有効なものを選んでツバキに手渡していく。
PC画面のみならず、ゴーグルをつけたヒイラギの頭の周辺にはいくつものモニター画像が展開していた。ツバキが応戦しているのとは別方向から回り込んでくる敵を捕捉したヒイラギは、床に並べた武器を避けて銀色のアタッシュケースを開き、中から透明なアンプルを取り出して、手首の皮膚を裂き中に血液を溜める。
敵がツバキの死角から襲い掛かる直前。ヒイラギは掴んだアンプルを振り被り、大きく開いた中級吸血鬼の口の中目掛けて剛速球を放った。
「これでも食ってろ!」
ヒイラギの血液入りアンプルを飲み込んだ中級吸血鬼は、グンッと大きく仰け反り腹のあたりを大きく膨らませてバンッと弾ける。
「オラオラァ! 姉ちゃんに近づくんじゃねえ!」
ヒイラギは両手の指に構えたアンプルを次々に群がる吸血鬼共にぶち込んでいき、風船が連続で割れるように影が消滅した。
「……ねえヒイラギ、カッコいいんだけど、それ割とグロいよ?」
酷使した肩を上下させ、息を荒げるヒイラギ。盲で次々と吸血鬼を撃ち殺して、かつ、慣れた手つきで弾倉交換までもやってみせながら、ツバキは若干引いた声で呟いた。
「別にいーだろ。使えるもんは使った方が」
ヒイラギはだらだらと血を流す手首を適当な布で縛って止血する。ツバキはハァとため息をついて、一歩ヒイラギの傍に寄った。
踵に体重を乗せ、ふくらはぎを寄りかからせながら。ツバキはヒイラギと彼の前にあるPCで繋いだ通信の向こうを意識して声を出す。
「ダーカーはぜんぶ囮だね、たぶんだけど。数は多いけど、出た瞬間太陽に焼かれて消滅してるのも多いし」
ツバキは機械的に狙いを定めて曇り空を覆う吸血鬼の群れを撃ち殺しながら、パタッと瞬きして冷静に状況を見る。
「問題は、明らかに使役されてるってこと」
ツバキが呟いた予測に、PCの向こうの気配も皆、息を呑んだ。
『主導権か』
返されたハスミの声に、ツバキは頷いて応じる。リアルタイムの動画はきっと、《塔》に据えられた監視カメラが映してくれている。
『上位の吸血鬼から下位の吸血鬼に作用する絶対命令――使えるとしたら、始祖の血を継ぐ吸血鬼だけだね』
シドウの発した「始祖」という単語に、ツバキは焦れたような息を吐いた。呼応するように、ヒイラギもまったく同じ温度の息を吐く。
『……アスカ、か?……』
ポツッと、ハスミが呟く声。ツバキは予想していた事態に頭をブルッと振って、喉を詰まらせる息の塊を吐き出してから声を出した。
「ハスミン、番を疑ったらダメだからね」
『……ああ、だな』
すぐに返ってくる脱力した声に、ツバキも緊張を解いて応じる。
「よしよし! でも、まずうちらが探るから、ハスミンは待機してて」
『あいよ。悪いが、観察させてもらう』
「お願いね」
戦況を確認していたヒイラギが不意に立ち上がり、ツバキと背中を合わせた。
ツバキが視線を向けると、同時にヒイラギも目線を向けていて、2人は同時に瞳のカーネリアンを交わしあう。
「姉ちゃん、合わせ技」
ヒイラギは両手の指に持てるだけのアンプルを掲げて見せながら低く呟いた。ツバキは呆れた溜息を吐いて、ヒイラギの指からアンプルをすべて回収する。
赤黒い液体の満たす弾丸サイズのアンプルをリボルバー式中のシリンダーに一発ずつ詰めていった。
「ヒイラギ、今日はハスミンに頼んでお肉ね」
「うげ、おっさんの肉料理、味がなんか繊細すぎて苦手なんだよな……」
「文句いわなーい」
弾を詰め終えたツバキは、重なり合い増幅していく影をジッと見据えた。群れで襲い掛かることをやめた吸血鬼たちは、ひとつにまとまり歪な影に姿を変えていく――まるで、ツバキの攻撃が狙いやすくするように。
「軍隊かよ」
「いずれにせよだけど、ちょーやな感じ」
舌を出してげんなりと呟いたツバキは、スゥと短く吸って狙いを定める。
「ばーん」
おどけた口調を添えながら、歪な影の腹から順に、脳天までと、胸のあたりを一直線に裂くようにして、込めた弾丸の数だけ十字の形に撃ち抜いた。ヒイラギの血の効果を受けて、誘発するように膨らんで爆発四散していく影。引き裂かれたその余韻が晴れて見通せるようになった視界の先に、ツバキとヒイラギはひとり佇む人影を目にする。
ゾクッ、と。湧き立つ背筋。圧倒的上位の風格に気圧されそうになったツバキは、咄嗟にヒイラギの手を掴んだ。ツバキの瞳に脅えが滲むのを察したヒイラギは、強い力でツバキの手を握り返す。
視界に色をつけるゴーグルを外し、凝視した先。ヒイラギは思わずゴクリと唾を呑んだ。
「あれ、って……」
風が吹き上げる目深に被ったフードの下。白に近い銀髪の髪が静かに揺れた。
◇
司令室代わりのミーティングルームで、ハスミのPCを覗き込んでいたシドウはカメラが映し出した人影を目にして青眼を見開く。
「……ハスミ……?」
風が吹き上げたフードの裾から微かに覗いた顔立ち。薄く笑う表情は、シドウの目にはハスミと瓜二つに見えた。
「あ? 寝ぼけてんのか? 俺はここにいんだろうが」
眼を凝らすシドウの一方で素っ気なく吐き捨てたハスミは、画面をチラッと見ただけですぐに視線を窓際へ向けた。そこにはアスカが立っていて、驚異的な視力を以て肉眼で戦闘を見つめている。
「……まあね。とりあえず、観察だ」
◇
「姉ちゃん、大丈夫か?」
震えるツバキの手をギュウと握って、ヒイラギは囁いた。ツバキはゴクンと音を立てて喉を鳴らし、険しい表情で目の前に佇む影を見据える。影は幸い攻撃を仕掛けてくる様子はなく、ジッと動かないまま。
「大丈夫。たぶん、私にイニシアチブをしかけてくるつもりはないみたい」
「そうか、よかった。もし姉ちゃんが動けないなら、俺が行く」
「ばか言わないでよ。いくらヒイラギ血だからって、始祖の血引いてる吸血鬼相手じゃ無理だよ」
「やってみなきゃわかんねえだ……、ろ!」
ヒイラギは語尾に力を込めて、手にしたハンドガンで影を撃ち抜く。影は一瞬ユラッと揺れて、ヒイラギの撃った球を躱す。
「……チッ」
足場もない空中に浮かんでいるその影は、頬を掠めた傷口を指先で拭い、そこについた血液をジィと眺めた。
「そもそも当たんないんじゃダメじゃん」
「……ごめん」
「ううん、全然。……お姉ちゃんもいいとこ見せなきゃね」
「え……?」
握っていた指先がスルリ解けて、ヒイラギが状況を把握する前にツバキが飛び出していた。非常階段を蹴って飛んだツバキは、最短距離で空中に浮く影に掴みかかる。
「……ッ、姉ちゃん!」
ツバキは影の襟首を掴んだまま、近くのビルの屋上に影を叩きつける。ツバキは影の上に馬乗りになったままで、スカートの中に手を入れホルスターに嵌めた銃を引き抜いた。撃鉄を起こしてトリガーを引く一瞬。影は再びユラッと体を揺らしてツバキの下から抜け出す。
「……っく……なんなの」
ツバキは強く奥歯を噛んで、両手で構えた銃でひたすら影を打った。影は重力の制約を持たない、幽霊じみた身のこなしで左右に避け、ツバキに狙いを定めさせない。
「はっや……、んもう……!」
ツバキはもう片方の脚のホルスターに触れ、もう一丁のハンドガンを取り出す。両腕の筋肉の筋が浮き立つほどの力で握りしめる両手の銃。ツバキはカーネリアンの瞳を大きく見開いて、超人的な吸血鬼の視力を発動して影の動きを追った。
「っ、当たれ……、当たれ……!」
左右に加えて上下にも動いて弾丸を躱していく影。ツバキは相手の動きを先読みするように弾丸を撃ち込むも、影には当たることなく足元に薬莢が散らばるだけ。
「姉ちゃんやめろ! 弾切れだ!」
ヒイラギの叫びが届いた直後、カスッと空気の音を立てて指が滑った。ツバキは痛そうに顔を歪めて、二丁の拳銃を投げ捨て袖の下からナイフを取り出す。
雲に透ける弱い陽光を受けてキラッと閃く銀の切っ先。影は一瞬ピタリと動きを止め、ツバキが距離を詰める隙が生まれた。ツバキは妙な胸騒ぎを覚えつつも、体が反応するままに地面を蹴って跳ぶ。胸を反らすようにして右手に持ったナイフを振りかぶり、とびかかる勢いのままに切っ先を突き立てた。
刃の先が届きかけた一瞬。首を逸らしてツバキの正面から体勢をずらした影は、ツバキの攻撃を受け流し、近づいた彼女の耳元でソッと言葉を囁いた。
「これが絆の力か……なるほど」
「は……?」
影はスゥと手を持ち上げ、ツバキの背中を軽く押す。ツバキは簡単に前につんのめる形になって、不安定な姿勢のまま地面に倒れ込む。
「きゃあああ!」
「姉ちゃ……っ」
体を引きずりながら数メートルは飛ばされ、ツバキは痛みを堪えながら体を起こした。立ち上る砂埃が晴れた先。ぼんやりと霞む視界がクリアになると、ツバキはそこで目にした光景に息を呑んで硬直する。
いつの間に、ツバキたちが元いた非常階段に移動していた影。影がまっすぐ突き出した腕の先には、ヒイラギの体がぶら下がっていた。首を掴まれ、自重が深く食い込む体勢。影は腕一本で人ひとり支えていると感じさせないほど涼し気な様子で、ヒイラギの体を吊っている。
「ひい、らぎ……!」
ツバキはふらつく脚を叱咤して立ち上がり、屋上の縁まで走る。フッと振り仰ぐ影のフードが外れ、白に近い銀髪が風に煽られた。病的なほど白い肌に、鮮やかな色彩の深紅の双眸。ツバキを見上げる面立ちを目にした瞬間、ツバキは全身の血の気が引くのが分かった。
「……うそ……」
――ハスミだ。
動揺で硬直する間に、ハスミに似た影は予告なしにヒイラギの首を掴んでいた手を離す。ハッとして硬直を解いたツバキは、ビルから身を乗り出して落下していくヒイラギに向けて悲痛な叫びを上げた。
「いやああぁぁぁぁ!」
瞬間、《塔》から飛び出す青い影。ひとつ結びの長い頭髪を閃かせた忍び装束姿のリクは、空中でヒイラギの体を抱きとめ、壁を蹴って別のビルの上に着地した。
「ひ、ぅ……あ……っ……」
一連の救出劇を目撃したツバキは、一気に脱力して嗚咽を漏らす。ドクン、ドクン、鼓動が体の奥からせり上がるように暴れ出し、赤い衝動が脈と一緒に身体を支配していく。
「ああ、これはすごい」
ふと、鼓動に支配されそうな聴覚に響く平坦な声。導かれるように顔を上げたツバキの視界に、ハスミそっくりの影が映った。影は躊躇いなくツバキに近づき、彼女の顎に触れて顔を上向かせる。ツバキは表情に憎悪を滲ませながら、目の前の影を睨みつけた。美しいカーネリアンに滲む《赤》の気配に、影は赤眼を見開いてパタタと瞬きする。
「……やはり、家族は強いな。ならば、それを模倣しても《《力》》は得られる、ということか」
「は……?」
「君の家族がどれだけ強いかは知らないけれど――人間はとても脆いから」
影の言葉にハッとしたように身を震わせたツバキは、屋上の縁を乗り越えて階下に飛んだ。
影はガクリと首を倒し、フードをもとの位置に戻す。顔面に掌を添えてスゥと息を吸い込み、静かに目を閉じた。
――ドクン、と脈打つ鼓動の音。静かに、深く。海流が船底を打つ音に似た繊細な響き。影はスゥと細く息を吸い込んで、ほんのわずか唇を震わせる。
「来い」
パリィン、と。聴覚に引っかかる位置で聞こえた破砕音。影は伏せていた瞼を開き、ヌラァと赤眼を動かした。ヒュッと吹き抜けた鋭い風の気配に、影は背後に向けて腕をかざす。
肉を打つ音が炸裂した。影が見開いた赤より濃い深紅が映り、呼応する感情のままに影はニィと深く唇の端を吊り上げる。
「《《初めまして》》」
影は急襲をかけてきた人物に告げた。アスカは深紅を零れそうなほど見開いて、白い眼球に稲妻のような血管を浮き立たせ影に迫る。アスカの攻撃を受け止めた腕の骨がしなり、ミシミシと不穏な音を立てた。
影は力を緩める気配のないアスカを見下ろし、一度フッと体を揺らしながら身を引く。アスカとの接触部分にほんのわずかに生じた隙間を見逃さず、その場にしゃがんで攻撃を躱す。見下ろされる位置と、見下ろす位置とで交わす視線。アスカはすぐさま蹴りを放ち、幽霊のように交わし続ける相手に対して猛攻をかけた。
アスカの突然の行動に危機感が走るミーティングルーム。次々とカメラを切り替えアスカの行方を捕捉したシドウは、窓枠を掴んで今にも飛び出しそうに身を乗り出しているハスミに向けて叫ぶ。
「ハスミ、非常階段!」
「分かってるよ……っ、あそこまでどうやって行けってんだ……!」
ハスミは窓枠に足を乗せるまではしたものの、あまりの高さに躊躇する。
地上800mの高さに及ぶ《塔》。ハスミたちが拠点を置くドーナツ型の浮遊区も600mを超す高さにある。
「なにしてんの。お前はただの人間なんだからそこからいけるわけないでしょ!? 中から行けって」
シドウはモニターを気にしつつハスミが無茶な行動をしないか何度も首を巡らせる。ハスミは限界まで身を乗り出して、肉眼で彼らのやりとりを捕捉しようと歯を食いしばった。
「一瞬も逸らしたくないってか……なにをそんな焦ってるの」
「アスカに番の力をやってねえんだよ! あいつは今本能だけで暴走しかけてる!」
「な……っ!?」
シドウはハスミの言葉に青眼を剥いて、別画面を呼び出し番システムのリアルタイムデータを表示する。アスカのパワーゲージは限界値を超え振り切れているものの、ハスミの指摘通り、番のシンクロ値を示すゲージは欠片も動いていなかった。
「噓でしょ……本能って……血が、呼び合ってるってこと……?」
シドウはウェーブのかかった前髪を差し入れた掌でグシャッと握りしめ、高速で思考巡らせる。脳裡に閃いたのは影のフードの隙間から見えたハスミそっくりの顔。
彼が何者なのか、未だに仮説を立てるまでに至っていない。周辺の下級吸血鬼に悉く影響を及ぼすイニシアチブの強さから予測して、おそらく始祖の血を引く吸血鬼そのものか、もしくはそれと同等の血族の吸血鬼。しかし、グレン・ヴァンプと引き合うと言うハスミが彼と呼応している様子はなく、むしろグレン・ヴァンプである可能性が高いアスカの方が彼に引っ張られ、窓を破って飛び出していった。
さらには、警戒の赤色で明滅を繰り返す限界を超えた数値。シドウはパンクしそうになる思考にハァと長く息を吐いて目を閉じた。再び開くまでの一瞬の間に、視界からハスミの姿が消える。
「は? え? 嘘。何考えてんの!?」
シドウはPCを置いて窓枠に取りついた。左右に視線を走らせるも、ハスミの姿はない。シドウは舌打ちをしてさらに大きく身を乗り出し、ドーナツ型の浮遊部の上に動く人影を見つける。ハスミは完全に腰が引けた姿勢で、ブルブル脚を震わせながら少しずつ進んでいく。
確かに足場を踏んでいるはずなのに、踏み外している感覚が抜けない。胃がひっくり帰りそうな感覚に、ハスミはカラカラに乾いた喉に欠片も湧かない唾液を何度も押し流した。
「バカなの? 死ぬ気!?」
「……っるせえな! 俺の運動能力分かってんだったら、救急隊でも安全マットでも下に手配しとけ!」
「ハスミの運動能力なんてミジンコ並みでしょうが! 安全マットなんて通用する高さだと思ってんの? 頭おかしくなった!?」
「番のために必死になんのは当然だろがっ!」
腹の底から叫ぶ本音に、シドウはハッとして息を呑んだ。
ハスミは一度真下に視線を向け、肝を冷やす高度にゴクリと喉を鳴らす。バクバク鼓動を打つ心音を落ち着ける意味も込めて深呼吸をして、淡い赤眼をジッと非常階段に据えた。
アスカは獣のような動きで影に向かって猛攻を仕掛けていた。対する影は地に足をつく必要もないといった様子で、重力を意に介さない動きでアスカの攻撃を躱し続ける。時折ローブで覆われた腕を突き出し、アスカの軽い体を突き飛ばす。接触部で弾ける空気砲に似た衝撃波。アスカは顔の前で両腕を組んでガードし、血走った赤眼で影を睨んだ。
カァ、と。音を立てて吸い込む息。隙間を開く口内に除いた発達した犬歯を伝う透明な唾液。白に近い銀髪は逆立ち、獣のように四つ足をついて構えるアスカの全身から異様なオーラが立つ。
「ハスミ、止めないとマズいよ。アスカの力が増幅してる。このままじゃ、彼自身が兵器になる」
大きく身を乗り出したシドウが叫んだ。ハスミはシドウが口にした「兵器」という言葉で、街が焼かれる様をリアルに想像してしまう。ハスミは最悪のビジョンを打ち消すように目を強く瞑り、口の中で苦々しく舌打ちを吐く。
「クソが……聞け、お前の番は俺だろうが。聞け、アスカ……俺を見ろ、俺と共鳴しろ」
スゥ、と。吸い込む息。見据えた先に届くよう、腹筋に力を入れ、声を張り上げる。
「――ッ、アスカァァァァ!!!!」
曇天の空を割るような、ビリビリと空気を響かせる咆哮。今にも影に飛びかからんとしていたアスカは勢いをピタリと動きを止めて、見開いていた瞳孔をスゥと収縮させる。
首を竦めてブルッと頭を振るアスカ。震える空気の余韻を探るように視線を巡らせ、ようやくハスミを視界に入れた。
「……ハスミ、さん……?」
フードの下から赤眼を向け、影はジッとアスカを観察する。アスカの瞳の深紅が揺らぎ、重力に引かれるまま垂れ下がった左手の甲に刻まれた紋様がボゥと光る。
影は赤眼を見開いて、アスカと呼応する先のハスミを見た。そして、驚いた様子で呆然と言葉を零す。
「――番? まさか、あなたが……」
「え?」
アスカはパタタと瞳を瞬いて影を見る。影は顔を隠すように深くフードを引っ張って、ユラッと陽炎のように揺れアスカから距離を取った。アスカは影に警戒の目を向けつつ、同時に後ろに下がり、非常階段から飛び降りる。
壁や窓枠を足場にして跳んで、ハスミのもとへと急ぐアスカ。アスカの行動に気づいたハスミは、ギョッと目を見開いて叫んだ。
「ばっか! お前正気戻ったならそいつほっとくなよ! 俺は後でいいから! 逃がしたら街にも被害が」
「オレはハスミさんの番だから、あなたを失うわけにはいかない!」
渾身の想いを込めてアスカはハスミに叫び返す。
「あなたはオレが守ります!」
「……っ……」
息が詰まる思いと、はち切れそうに痛む胸。ハッと苦しい息を吐いたハスミは、アスカに向けて左手を伸ばした。甲にビリィと走る痛みと燃え上がる熱。まるで血が通うに、赤がなぞって光る紋様。そこから直接注がれでもするように、熱く滾る血液が心臓で暴れる。
「再契約……なるほど、番はそうして生まれるのか」
影はそう独り言ちて、フードの奥で笑った。けれどもその笑みはすぐに消え、影は苦々しく唇を歪め、感情を飲み込んだ赤眼を据える。
一連の様を目撃したシドウは、驚愕に何度も瞬きを繰り返す。
「血が呼び合って、物理で結びつくなんて……番の第二段階ってこと……? 嘘だろ、こんなに早く進化が……これも、グレン・ヴァンプの力か」
影は能面のような顔になると、ハスミに向かって腕を突き出す。掌底をわずかに突き出すように震える掌。生まれた衝撃波はまっすぐにハスミの体を襲い、足元を攫った。
「ハスミさん!!」
グラッと体が揺れ、ハスミがドーナツ型の浮遊区から落下していく。アスカはハスミの名を叫びながら左手を伸ばした。――瞬間、赤く共鳴していた紋様のツタが伸びて、ハスミの左手と繋がる。
赤い光で結ばれた2つの手。アスカは渾身の力で飛び上がり、ハスミの体を引き上げる。足場を探して周囲を見回す視界に、窓から身を乗り出したシドウの姿が映る。
「アスカ! こっち!」
シドウは大きく腕を振り、手招いて、大きく開いた窓を示した。アスカはグッと顎を引いて頷いて、ハスミと繋いだ左手を必死で引き寄せながら、シドウが呼ぶ窓へと勢いをつけて飛び込んだ。
「シドウさん、退いて……!」
「もちろん……っ」
飛び込んでくるアスカの体を避けたシドウは、反動でその場に尻もちをつき、アスカに引き上げられたハスミが無事床に転がるのを見届ける。
不格好な姿勢で床に突っ伏したまま、ぼんやりと開いたハスミの赤眼と視線を交わしたシドウは、苦笑を浮かべて問いかけた。
「……無事?」
「辛うじて。死ぬかと思ったわ」
ハスミはハァと深く息を吐き、体を起こしながら応じる。
「あいつは」
ハスミの言葉にシドウはすぐさま立ち上がり、窓に取りついて外を見た。そこには曇天の空が広がるだけで、誰の姿も見えない。
「……消えました、たぶん。もう、なにも感じないです」
深く項垂れたままのアスカがそう呟くのを聞いて、シドウは安堵の息を吐く。ふと視線を向けた先のPCが映すカメラの画像も「LOST」と表示を示していた。
ポツッ、と。割れたガラス窓を叩く始まりの雨のひと雫。ほどなくしてサァと振り出した雨が地上を濡らす。シドウは階下に視線を向け、雨に打たれたままでいるリクとツバキ、そして負傷し気を失っているヒイラギを見下ろしてギッと強く奥歯を噛んだ。シドウはすぐさま軍部に連絡を入れ、3人の回収を要請する。
アスカは深く頭を垂れて荒い呼吸を繰り返すアスカに近づいた。微かに頭を上げてハスミを認識したアスカは、長い白衣の袖を掴んで引き寄せ、ハスミの胸に額を寄せる。
「……アスカ?」
「もうあんな、危ないことしないでください」
グズッ、と小さくなる洟の音。ハスミは意外そうにパタタと瞬きして、やがてフッと柔らかく微笑んだ。
「ああ、悪かった。それより、お前が無事でよかった」
「こっちのセリフです」
ジワッと、熱く染みる胸の中心。ハスミは自らアスカに体を寄せ、銀髪の頭を抱きしめた。アスカの髪を撫でる左手の甲には、赤く染まったままの紋様が刻まれている。
◇
地上の雨が届くことのない、乾いた大地。赤く染まった空に、黒い翼の鳥が数羽渡っていった。ガァと嗄声で鳴く音を遠くに聞きながら、《《彼》》は深く被っていたフードを外した。
進む先は、彼の《女王》が待つ場所。大地を踏んだ砂埃を払って、固い床に靴底をつける。まるで鏡のように磨かれ光る床。それと同じ素材の柱が無数に立つ神殿のような建物。ひやり冷たい空気の囲う間に、彼女は今日も独りでいた。
彼はローブの裾をふわりと広げ、彼女の前に跪く。彼女の長い銀髪が揺れ、美しい眼差しが注がれるのを待って、彼は口を開いた。
「あなたの《《願い》》を確認しました――あなたの元へお連れします、必ず」
彼女は声を出すことはせず、ただ静かに微笑む。遠くで聞こえる嗄声と、舞い落ちる一枚の黒い羽根。彼は深く頭を下げてから立ち上がり、彼女に触れることなく神殿を後にした。
《4/END》