第3話・守る力
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すぎるほどの清潔に、鼻の粘膜がウズウズ違和感を訴える。真っ白な壁と天井。光を受けることに慣れていない瞳孔は数分開いているだけで悲鳴を上げて、ヒリッと引きつるような痛みにアスカは思わずギュウと目を瞑る。
朝日を浴びた時に、番となったハスミから聞いた。人間と番関係を結んだから、もう日光を怖がることはない、と。
夜明けまで続いた戦いの後で、対吸血鬼特殊戦力研究機関・通称【V-Unit】のあるオルビスタワーへとハスミに連れられてきたアスカは、新しい服を与えられ、伸び放題だった髪も整えてもらった後で、生まれて初めてシャワーを浴びた。アスカはソッと自身の腕を持ち上げて、皮膚の傍でスンッと鼻を鳴らしてみる。シャワールームに満ちていた爽やかな石鹸の香りが自身の体からもして、アスカは気恥ずかしさに頬を染め、小柄な体を縮こまらせた。
アスカがいる医務室のベッドには、上級吸血鬼に襲われたミナミが眠っている。深刻な外傷はなかったものの、ショックが大きかったせいか意識が戻らない。それでも、静かな空間を微かに震わせる寝息のリズムは穏やかで、アスカはソッと安堵の息を吐いた。
「アスカ」
スゥとスライド式のドアが開き、聞きなれた声に呼ばれたアスカは、パッと跳ね上がるように振り返る。
「ハスミさん、おはようございます」
寝ぐせのついた白と黒の斑頭を掻きながら、ハスミは欠伸を噛み殺して室内に足を踏み入れた。
「んぁ、はよ。お前は寝ないでいいのか?」
「はい……100年くらい寝てたんで」
「吸血鬼ジョーク、規模でけえな」
ハスミはハハァと呆れた笑いを吐きながら言って、ベッドサイドに座るアスカに近づく。
「お嬢ちゃんの具合はどうだ?」
ジッ、と。ベッドに横たわるミナミに真っすぐ据えられる視線。アスカは複雑に表情を歪めて唇を開いた。
「変わらず、眠ってるみたい」
「おー、そうか。呼吸が変だったり痛がってそうな様子がなかったらまあ大丈夫だろ。ずっと看ててくれてありがとな」
「いえ……」
白に近い銀髪の頭をなでる大きな掌。じんわり染みた温もりに、アスカはフッと視線を上げてハスミを見る。
「なんだ?」
「んぁ、いえ! ……なんでもないです」
自身と同系色の瞳に心臓がブルッと震える感覚。アスカは詰まりそうになる息を懸命に吐き出して、大きく深呼吸した」
「……っ、ん……」
「あ……!」
微かな声音に視線を向けると、ミナミの瞼がフルリ震えて、内側から澄んだ茶色の瞳が覗く。歓喜を浮かべたアスカはベッドに飛びつき、間近でミナミと視線を交わした。
「起き、たぁ……! よかった……」
アスカの近すぎる距離に、ミナミは一瞬驚いた様子で硬直する。瞳を輝かせるアスカとは裏腹に、ミナミの顔は徐々に恐怖の色に変わっていった。
「あ、ぁ……あっ……」
「アスカ、離れろ。俺の後ろにこい」
ミナミの変化に気づいたハスミは、アスカの首根っこを掴んで自身の後ろへと引っ張る。小柄なアスカの体は呆気なく引き剥がされて、アスカは状況が理解できていない顔のままでパタタと瞬きした。
「あっ、すみません……! ごめんなさい、あの、ちょっと、待って」
ミナミはハスミの気遣いに気づき、慌てて状態を跳ね上げ謝罪する。恐る恐るといった調子で少しだけ顔を覗かせるアスカをチラッと一瞥し、ミナミはお仕着せの胸に掌を当て、スゥと深呼吸した。
「無理すんな。もともとクソほど憎かったんだろうし、しかもこんなあからさまな見た目のヤツ目の前にしたら、その態度になってもしょーがねえわ」
「あからさまな見た目」という発言でアスカはようやく事態を察する。ミナミは、吸血鬼が怖いのだ。アスカはあっと気づいた表情を浮かべて、姿勢を低くしてハスミの傍から離れる。そして、壁沿いに重ねて置いてあった丸椅子を持ってきて、ハスミの背後にストンと下した。アスカはフゥと息を吐き、ミナミに背を向ける格好でその椅子に座る。
ハスミは背中越しにアスカの行動を見て苦笑を浮かべた。そして、さっきまでアスカが座っていた椅子を引き寄せ、アスカと背中合わせになる姿勢で座る。
「一先ず、これで」
「はい……すみません。同じ吸血鬼って言っても、私を襲ったのはあなたじゃないし、そもそも、ちゃんと電車が止まった位置まで避難しなかったわたしにも落ち度があります。助けていただいて、本当にありがとうございました」
深く頭を下げたミナミの言葉は、ハスミを通り越してアスカの方へと向けられていた。アスカはハッとして頭を上げ、照れくさそうな笑みを表情に滲ませる。
「そういえば、なんであんた防衛線の内側にいたんだ?」
「ああっ、あれは……電車に乗っている間に急に気分が悪くなって、ホームで休んでたんです。もちろん、日が暮れる前にはなんとかして帰るつもりでした。でも、なんか寝過ごしちゃったみたいで、気づいたら真っ暗で、防衛線も張られてて、その」
「はぁ、そりゃ落ち度だな」
「だから反省してるって言ってるじゃないですかぁ!」
ハスミの相槌が不本意だったらしく、弾かれたように大声で抗議するミナミ。突然の大きな音に驚いてビクゥと体を跳ね上げながら、ミナミの元気な様子にアスカは密かに安堵する。
「それにしても、なあ、あんた」
「なんですか」
「生きててよかったな」
ハスミが不意に零した柔らかな口調に惹かれ、アスカは背中側の光景を覗き見た。ハスミの白衣の腕が伸びて、ミナミの茶色いショートカットの頭に触れる。ミナミは首を竦めつつ、ハスミの行動を受け入れている。
「……どういう、意味ですか?」
「生きてなきゃ抗えないだろ。覚えてるかどうかはわからないが、お前は人間の番を持つ吸血鬼の戦闘を見たはずだ」
ミナミは一瞬体を硬直させ、コクンと小さく頷いた。
「現在のところ、やつらに対抗できる手段は番システムしかない。あともうひとつあるが……」
ふと、頬を掠める反射光。アスカは瞬きして、一瞬の光が閃いた方を視線で探る。中途半端に開いたままになっていた扉の隙間から伺える廊下に、何かが落ちていた。ジィと目を凝らしてその正体を確認したアスカは床を蹴って立ち上がり、しゃがみこんでその物体を拾い上げる。
「アスカー? どうした?」
「あっ、あの……、ハスミさん! これ、ヒイラギの!」
「あ?」
アスカが両手で持って突き出したその物体は、ヒイラギの顔写真のついた入館IDだった。IDに因縁があるハスミとミナミは気まずそうに視線を逸らし、アスカは2人の態度にキョトンと首を傾げる。
「このID、ものすごく大事なんですよね? 常に身に着けてなきゃならなくて、特にこの建物出るときは絶対に持ってなきゃダメだって」
ハスミは今朝、オルビスタワーに戻ってから一通りアスカの身の回りを整えたあとで、同時にシドウが用意していてくれたIDを手渡しながら確かにそんな説明をした。ミナミは感動に目を潤ませ、無言でウンウンと頷いている。一日の大半をこの使命に燃える新人ゲートマンと過ごしていたせいで、半ば嫌がらせのように盛って説明してしまったことをハスミは内心で悔いる。本気で感動しているミナミを前に「あれは冗談だ」などとは死んでも言えない。
「んぁ……まあ、うん、ね」
「早く届けないと!」
純粋な赤眼を輝かせ、本気で焦った調子で訴えるアスカに、ハスミは掌で顔面を覆って項垂れる。
「ああ、うん……でもお前、まずその髪と眼を目立たないようにしてからだな」
「はい! いってきます」
「最後まで聞けよ」
ハスミの虚しい呟きを聞くより早く、アスカは病室の前から姿を消していた。感動の涙でも流さんばかりにひたすら頷くミナミをよそに、ハスミは大きくため息を吐く。項垂れる頭のすぐそばで、ハスミはミナミが「言質」と呟くのを聞いた気がした。
「あの、追いかけないんですか?」
「んぇ、あー……」
ミナミが放った最もな指摘に、ハスミは言いよどんで口を閉じた。嫌悪というか、嫌気というか。とにかくそういう類の感情を浮かべるハスミを、ミナミは訝しげに凝視する。
「あんたは知らないかもしれないが、吸血鬼の身体能力って人間の数十倍で、人間にとったら些細なラグだと思っても吸血鬼と比べたら取返しもつかない差になるっつーか。そもそもアスカはこの周辺の地理詳しくないだろうし、ほっといてもすぐ帰ってくると思うんだけど」
「周辺詳しくないのに一人で行かせたらダメなんじゃないですか?」
「いやだからマジで追いつけないんだって。だったらあんたが……」
ミナミは真顔のままで自身の腕に繋がった点滴ラインをハスミの眼前に示した。ハスミはくっきりと苦笑いを浮かべて、ガクンと両肩を下げる。
「無理だな。……行ってくる」
◇
勢い込んで走ってきたはいいものの、アスカはエレベーターの操作が分からず途方に暮れていた。オルビスタワーの最上部に近いドーナツ型の構造をしたこの研究所は、基本的にハスミが研究している吸血鬼と人間との「番システム」の運営に関わる者しか足を踏み入れないため、たまたま使用中の誰かに便乗するということも出来ない。
「どうしよ……でも、急がないと……あっ」
周囲を視線で探っていたアスカは、高い天窓にロックがついてるのを見つける。他の窓はすべてはめ込み式だけれども、あの窓は空くかもしれない。そう判断したアスカは、一度床に低く沈み込み、爪先にグゥと体重を乗せてから床を強く押し返した。
タッと軽やかな音を立てて天井付近まで跳び上がるアスカ。手をかけて操作したロックはキィと音を立てて開き、跳ね上げの小さな窓が開く。アスカは小柄な体をねじ込みスルンと枠を潜り抜けて外に出た。
ブワッと吹き付ける強い風。アスカは一瞬目を瞑って風圧に耐えてから、中に吹き込まないよう窓を閉めた。フゥ、と一息ついて振り返る景色。
「うわ……っ」
張り裂けそうに高鳴る胸を突き破って、感嘆の音が喉から零れる。アスカの深紅の瞳に、晴天の青がジワッと溶ける。生まれて初めて目にする、太陽光が生み出す数多の色彩。
浮かぶ雲の下にはビル群がひしめく街が広がり、縦横に走る幹線道路には色とりどりの車が行き交って、高架を電車が通り過ぎて行った。シンボルタワーであるオルビスタワーを中心に形成・発展してきた街は、アスカの故郷である荒廃した大地とは似ても似つかない。アスカは震える息をゴクリと飲み下し、目を細めてしばらくその美しい景色に見惚れていた。
パタッ、と。握りしめていたIDが風に揺れる音を合図のように聞いたアスカは、鼻先をクンッと空に向けて階下に目を凝らす。
特徴的なデザイナーズビル。屋上遊園地を備えた商業施設に、ギュッと密集して建つ住宅地。その近くにある大きなグラウンドを擁する立方体の建物が、おそらくヒイラギやツバキの通う高校だろう。
「……あれ?」
高校から近く、けれども敷地からは外れた場所。丁度、校舎の裏に当たる場所に、制服姿の小集団が見えた。その数人は全員が結託している様子ではなく、1人の男性生徒対複数人という構造のようで、複数人がその1人に対して何かしらの交渉を持ちかけているかもしくは、因縁をつけているような構図。アスカは身を乗り出して目を凝らし、空間の違和感に気づく。
男子生徒が複数人に迫れて後退していく先。建物の影が一瞬ボコッと盛り上がり、彼の足元に近づいていく。膨らみの頂点に近い場所に灯る、赤い双眸。ゾクッと背中が震える感覚を覚えたアスカは、オルビスタワーの壁面を蹴って空へ飛びあがった。
重力に引かれるまま落下する勢いに乗って、アスカはいくつかの建物の屋根を経由して地面に降りる。深く膝を曲げ、両手をついて着地すると、周囲が騒めき「きゃあ!」という悲鳴が上がる。アスカは向けられる恐怖の目を気にしつつも、方向を定めて駆け出した。すれ違う人たちは悲鳴や驚きの声を上げ、皆一様にアスカを避けた。アスカは反応のすべてを無視して、校舎の裏手に回り込んで双眸を見た場所へと急ぐ。
「……あっ……」
巨大な建物を回り込んだ先。1人に迫っていた複数人の内の一人が、男子生徒のブレザーの胸をドンッと押した。背中から倒れこむ彼の背後に突如円柱のように影が立ち、赤い双眸がギラリと光る。絶望の色に染まる男子生徒の表情。グッと息を呑んで飛び出しかけたアスカの視界に、オレンジの影が過ぎった。
次の瞬間、視界に飛び散る、赤。
「うわあああっ!」
「きゃあああっ!」
悲鳴を上げたのは複数人に属している方の生徒たちだった。彼らは白いジャケットに赤い飛沫を浴びて、叫びながら散っていく。アスカは呆然と、その赤の正体を見つめて震える声を出す。
「ヒイ、ラギ……?」
オレンジの短髪に、同系色のカーネリアンの瞳。ヒイラギは襲われかけた男子生徒の襟首を掴んで後方に放り投げると、襲ってくる赤い双眸の前に立った。
「オラ、くれてやるよ」
噎せ返るほど濃い血の匂い。
「ふ、ぅ……っ」
空腹の腹がギュウと締まって、口内に唾液が噴出してくる。アスカはグルッと漏れ出た自身の喉の音にハッとして、咄嗟に口元を掌で覆った。背中を伝う冷や汗。零れそうな程見開いた瞳が血走って、どんどん呼吸が荒くなる。
獰猛な牙を剥いて、理性を食い破ってこようとする本能。アスカは脳が単調な欲に支配されていく感覚にガクンと首を追って、ゆっくり、濡れた深紅を滴る血に据えた。ヌラァと光る牙の先端からトロォと線を引いて零れる唾液。ハァと掠れた吐息を聞きながら、アスカは体を揺らして前に進みかける。
「アスカ」
静かに呼ぶ声と、アスカの動きを制するように背中から抱きしめてくる温かな両腕。掌が視界をソッと隠して、覆い被さる人の息遣いがアスカの呼吸とシンクロした。意識して調子を合わせてくれているのか、単に息が上がっているだけなのかは知れない。アスカは背中に伝わる心音と、自身の心音が共鳴する音に意識を向けることで、ようやく落ち着きを取り戻す。
「ハ、スミ……さ……ん」
「よく耐えた。偉かったな」
「オレ……オレ」
「いいから、落ち着け。そんで、できればちゃんと見とけ」
ハスミはアスカの体をギュウと抱きしめてから、視界を覆っていた掌を避けて、彼の頭にサイズの大きいキャップを被せた。アスカはキャップのつばが作る影の下から痛み残る瞳を瞬いて目の前の光景に目を凝らす。
赤い双眸は中級吸血鬼の形に姿を変えて、ヒイラギの血に飛びついた。ヒイラギは怯む様子を見せず、軽く頭を傾けるだけで中級吸血鬼の牙を受け入れる。血の吹き出す傷口にむしゃぶりつく中級吸血鬼。周囲に醜い嚥下音が響き、言葉を失くした生徒たちの引きつった息遣いが聞こえた。
「今朝、吸血鬼を討伐する方法は番システムともうひとつあるって話したの、覚えてるか?」
「はい……」
「それがあれだ。吸血鬼と番契約を結んだ人間の血。番以外には不可侵になるその血は、吸血鬼を殺す」
突然、ヒイラギの首筋を貪っていた中級吸血鬼が動きを止め、ブルブルと震えだす。形が保てないほど、まるで見えない力に裂かれるようにブレた姿はやがて高い咆哮を上げて、空中でバンッと弾け散る。空を舞った欠片は地面に落ちると白い砂に変わり、風に吹かれて霧散した。
「……ッ、ヒイラギ!」
アスカは緩んだハスミの腕から抜け出してヒイラギに走り寄る。立ち上がってアスカに続いたハスミは、未だ撮影を続けている一団を睨みつけて散会させた。
去り際に、無情な呟きが聞こえる。
「自分の首切るとか、異常だよな」
「吸血鬼の番も、あいつらと同じバケモンだろ」
ハスミは眉間に力を込めて、彼らの姿が一人残らず見えなくなるまでしつこく視線を据え続けた。
「血まみれで、ザマァねえよな。あいつら」
「……お前が言うか?」
ハスミはハァと呆れた息を吐いて、ヒイラギを抱き起そうとするアスカに手を貸す。
「《種》までイッたか?」
「多分な。致死量だろ……くっそ、力入んねえ……」
血の気の引いた顔を空に向け、腕を投げだしたヒイラギは、カーネリアンを上向けアスカと視線を交わす。
「アスカっち、近づかない方がよくね? 俺めちゃくちゃ腹減る匂いしてるかもよ?」
「腹は減ってるけど、大丈夫」
パタッと瞬きしたヒイラギは、真意を問うようにハスミの方へと視線を向ける。
「そいつな、人間の血恐怖症なんだと」
「うそだろ。ウケる」
ハハッと乾いた笑いを吐いたヒイラギは、蒼白な顔で目を閉じた。アスカはヒッと短い悲鳴を上げて、動揺した様子でハスミを見上げる。
「吸血鬼に血くれてやったんだ、しばらく動けなくてもしゃーないだろ」
「吸血鬼と番になった人間の血が吸血鬼を殺すっていうのはわかったけど、なんでこんな無茶を……」
ヒイラギは一度閉じた瞼を薄っすらと開いて、血の気の引いた唇を開いた。
「番システムで前線に立つのは、どうしても吸血鬼側だろ? 人間ができることなんて、実質なんもねーの。それなのに守られてんのは人間側なんだぜ? 姉ちゃんは世間への露出も全然気にしてないからさ、『同族殺し』っつわれて、アンチも多いんだよ。だからあんなフリフリのメイド服着て戦って『こんなの全人類が好きでしょ』って笑ってんだ。めちゃくちゃいい女だろ」
ヒイラギは目尻を窄めて、歯列を覗かせて笑う。アスカはまっすぐにヒイラギの目を見て頷いた。
「姉ちゃんたちみたいに闘う力は持てないけど、俺にはこの血がある。どんな強い武器作ったところで、俺の血のが全然最強なんだよなあ。いざとなったら、姉ちゃんを守ってやれんだ」
フゥと淡い息を吐いて、ヒイラギは再び目を閉じる。一瞬苦しげに寄った眉根が、スゥと弛緩した。唇の隙間から微かな息の音が漏れ出て、ヒイラギが完全に意識を失ったことが知れる。
「そんなこと、させるわけないんだよなあ」
建物を回り込んで近づきながら、響く高いトーンの声。フワッと花の香りを漂わせてしゃがみ込んだツバキが、上を向いたヒイラギの鼻頭を摘まんだ。ヒイラギはフゴッと鼻を鳴らすも、意識を取り戻すことはなかった。
「もー……なんでこう危ないことすんのかなあ……」
ツバキは唇を尖らせて呆れた声を出す。顎に両手を添えてジッとヒイラギの寝顔を見つめるツバキのカーネリアンは、零れそうな光を湛えて揺れた。グズッと小さく洟を鳴らして、両目の下を拭ったツバキは、アスカの手からヒイラギの頭を引き取り、自身の腿の上に乗せる。
「血で釣れなかったら、ヒイラギがケガしちゃうかもしれないのに」
「それはお前らだって一緒だろうが。誰だって大切な人を前にしたら、守られてるだけでいるなんて無理な話なんだから」
ツバキは無言でハスミを見上げた。アスカの胸には、ハスミの発した「大切な人」という言葉がチリッと微かに引っかかる。
「私、今回は別に守られてなくない?」
「守られてんだろが。さっきまでそこに悪意丸出しのガキどもが蔓延ってた。お前らがいるそばで吸血鬼に人間襲わせて、『同族殺し』の瞬間でもネット配信するつもりだったんだろ、どうせ」
「夜の戦闘は防衛線の中入れないからって? ばっかじゃないの? そんなもん見て誰が喜ぶんだっつーの……とは思うけど、案外喜んじゃうんだからやんなるよね。サービスしすぎかな、私。って言っても、私自分の戦闘服めちゃくちゃ気に入ってんだよねえ。ねえ、可愛くない?」
キラキラとあからさまな期待を湛えるカーネリアンを向けられて、アスカは反射のように何度も頷いた。ツバキは満足したように鼻を鳴らして、腿の上に乗せたヒイラギの髪を優しく撫でる。
「ってかさー、ハスミンも。私のトラウマ抉んのやめてくんない? それNGワードだかんね」
「んぁ、悪い」
「同族殺しなんてさ、分かりやすくてゲスいワード使って煽って。世間って本当にめちゃくちゃ冷たいよねえ。でもね、アスカっち。どんなひどい言葉も、そのまま受け止めちゃダメだよ? 潰れちゃうから。それに、人間ってみんな悪い人たちばっかじゃないしさ」
柔らかく笑ったツバキは、ヒイラギの頭に両腕を回して、胸に引き寄せるようにして抱きしめた。深い慈愛に満ちた抱擁に、アスカはツバキのいう「人間」が、ヒイラギの形をしているだろうことを知る。
「とりま、ヒイラギはうちらの家に連れて帰るわ。オルビスのうちらの医務室、昨日のあの子が使ってんだもんね」
「ああ、悪いな。シドウが気になることがあるって、少し調べたいって言っててな」
「全然いいよ。うちらはうちらでなんとでもできるし、そういうの、番って本当便利だよね」
「あ、手伝……」
「だーいじょうぶ」
ツバキは手を伸ばしかけたアスカの行動を遮って、んしょ、と軽い気合いの声を添えつつヒイラギの体を楽々抱えあげた。
「お前、昨日の戦闘見てんだろ。ツバキの武器、あれ総重量いくつだと思う?」
「んぁ、おぅ……」
アスカは昨夜の戦闘で目にした、自身の身長よりも大きいロケットランチャーを軽々操るツバキの姿を思い出して納得する。ツバキは抱え上げたヒイラギの手首を掴んでアスカとハスミにひらひらと手を振り、軽やかな足取りで去っていった。
「ツバキたちは、オルビスの外にも家があるんですか?」
オルビスタワーに連れてこられた際、アスカはハスミたちがタワーの中で暮らしていると聞いていた。各人の個室があり、共通のキッチンやダイニングスペースもあるという。
「あいつらは番になっていちばん長い。俺がまだ番システムを構築する前に……というか、本人たちも番なんて仕組みも知らないうちに番になってて、長い時間を2人きりで生きてきたんだ。もちろん、V-Unitとしてのオルビスができるずっと前の話だ」
「……長い、時間」
「番になれば命を繋ぐから、俺もお前と同じ時間を生きるってことだ」
ピタリと身を寄せて歩いていく2人の後ろ姿に見えかけたのは、希望か、それとも気の遠くなるほど過酷な何かか。アスカは答えを求めるように傍らのハスミを見上げる。ハスミは肩を竦めて見せてから、アスカに視線を返した。
「なあさっき、腹減ってるって言ったよな?」
「んぇ?」
◇
V-Unitに戻ったハスミは、アスカを連れて共用のキッチンへと足を踏み入れる。ダイニングスペースの椅子にアスカを案内したハスミは「ここで待ってろ」と言って離れて行った。アスカが戸惑いながら周囲を見回す内に、ハスミは手慣れた様子でネイビーのエプロンをつけ、冷蔵庫を開けて食材を取り出す。
「何か作るんですか?」
「作るっつーか、作り置きがあんだよ。それちょっと焼いたりするだけ」
「見ててもいいですか?」
「どーぞ。好きにしな」
ハスミはアスカとの会話に応じながら、同時に作業も進めていた。取り出した保存容器の中に並んだ肉の塊を取り出し、油を引いたフライパンに落とす。隣のコンロでは底の深い鍋に水を張ってお湯を沸かし、沸騰したところで保存袋に入れて冷凍したソースを湯煎で解凍する。
ジュワッ、と。フライパンが油を爆ぜる音を立て始めると、グゥと胃をて飽和させるような、芳醇な匂いがあたりに立ち込めた。
「うわ……っ」
グゥゥと素直に鳴く腹の虫。ハスミは肩越しにアスカを振り返り、期待に輝く赤眼を見てフッと噴き出す。
「犬みてえだな、お前」
「犬?」
「知らねえか? あとでネットで画像見せてやるよ。お前にそっくりなやついたなあ、確か」
「ぅええ……?」
アスカは絶対ロクなものじゃないだろうと予想しつつ、椅子から身を乗り出して一心にハスミの作業を見つめた。
焼きあがった肉の塊を皿に移し、ハスミは肉汁の残るフライパンの中に解凍したソースを流し込む。パチパチと弾ける音と、熟れた果実のような香りが溶けた香ばしい香りが立った。ハスミはフライパンの火を弱火にした後、再び冷蔵庫を開けて下拵えの済んだ野菜を取り出していく。必要な分を耐熱容器に移してレンジにかけ、タイマーがカウントダウンする間にコンロの火を止めた。
皿に乗せた肉の上に、トロリと流しかける飴色のソース。電子レンジがチャイムを鳴らし、ホカッと湯気を立てる付け合わせの野菜をメインの横に飾る。
「オラ、ちゃんと座れ。できたぞ」
ハスミは盛り付けの済んだ皿を片手に持って、大人しく座面に尻をつけたアスカの前にサーブした。
「ハンバーグだ。食ってみ?」
「ハンバーグ……え、食っ、……え、る、んですか?」
「俺と命を繋いだって言っただろ」
アスカはハスミがそう言うのを聞いて、ゴクリと音を立てて唾を呑みこむ。空っぽの胃がキュウキュウと鳴いて、ジワァと噴き出す唾液。ヒイラギの血の匂いを嗅いだ時は脳を直接食い破られるような感覚があったのに、今感じている《《欲》》はどうにも性質が違うようだった。鼻腔に触れる果実ような匂いと、芳醇な肉の香り。柔らかな温度と引き合って、必ず埋められると感じる。
「いただきます、って言うんだ」
「いただき、ます」
両手を合わせてみせたハスミに倣って、アスカも両手の掌を重ね合わせて軽く頭を前傾させた。皿の横に置かれたフォークを握り、肉の塊に刃を突き立てると、透明な肉汁溢れさせながらホロッと一口分が剥がれる。アスカはそれに改めてフォークの先を突き刺し、ふぅふぅと湯気を吹いてからはくんと食いついた。
舌に染みる甘いソースと濃い肉の味。噛みしめる度にジュワジュワと肉汁が沸いて、アスカは咀嚼の度に小さくなる欠片をゴクンと音を立てて喉に通す。
キランと濡れて輝く深紅の瞳。真雪色の肌にじんわりと赤が滲んで、アスカは今にも立ち上がりそうに手脚を小さくバタつかせた。
「うん、ま! すんごい、うんまい!」
「そりゃよかった。すげえな、全身が美味いっつてんわ」
心底愉快そうにハスミが笑うのに、アスカはジワッと胸の内が熱を持つ感覚を覚える。熱は全身を巡る血流を静かに急かして、鼓動を高鳴らせた。
「あの、ハスミさん。オレこれ、すごく好きです」
「もうちっと手間のかからないもんにしといたらよかった」
「? なんですか?」
「いや、なんでもねえよ。全部食っていいぞ」
ハスミは掌を振ってアスカに食事の続きを促す。アスカは一口頬張るごとに何度も「美味しい」と絶賛し、蕩けるような笑顔でフォークを進めた。ハスミは対面の席からアスカが食べる様子を眺めて、脳内にふと、古い映像がダブるのを感じた。
――自分たちとどこも変わらない姿をしながら食事するのは「初めて」という少女がハスミの手料理を何度も「おいしい」と言いながら食べる光景。
目の前の見知った顔に重なる少女の残像に目を細めたハスミは「おいしいって、こういうことなんだ」と呟いた小さな声を思い出す。
ハスミは唇に添えた親指の爪を深く薄い皮膚に突き刺せて、ホゥと零した息に紛れさせるように、脳内に浮かんだその光景を思考から消した。
◇
「ハスミのハンバーグの匂いがします」
スン、と。壁の上部に設えた通気口の方に鼻先を向けたリクが、スンッと微かな息の音を立てて呟く。
複数のデータが表示された3面展開のディスプレイを眺めていたシドウは、白衣姿のリクを振り返って「ああ」と声を出した。
「もうそんな時間か……って、どんな時間だよ。朝飯なの、昼飯なの?」
「中途半端ですね」
見上げた時計の時刻は午前11時を少し過ぎたところ。シドウの疑問は的を射ていて、リクはフッと柔らかく噴き出す。
「お前も腹減ったの?」
「いえ、僕はそんなに。マスターこそ、朝食を召し上がってないですが、大丈夫ですか?」
「僕らが朝食食べないのなんていつものことでしょーよ。ハスミたちの食事に便乗させてもらうのもありだけど、多分、アスカに初めての食事を摂らせてやってるんだろうから、邪魔するのもね」
シドウは肩を竦めておどけた口調で言い、ディスプレイに向き直る。
データ読み込み中の黒い画面に、反射して映るリクの横顔。タブレットに表示された画面をジッと見つめる青眼をジィと観察したシドウは、モニターの方を向いたままで、そこに映る像に向けて問いかけた。
「ねえ、リク」
「はい」
「羨ましい?」
画面の中のリクは顔を上げ、シドウが見据える自身の姿をまっすぐ見つめて瞬きをする。
「……何がです?」
「いや、なんかハスミたち、順調に絆育んでるみたいだから」
「そのようですね」
リクは手元のタブレットを見つめて呟いた。表示されている数値は各々の番たちにおけるリアルタイムの合致率。3つ並べたデータの中で、特出して高い数値を示しているのはハスミたちのペアだった。リクはスゥと瞳の温度を下げて、変化するパラメーターの画面を閉じる。
「絆なら、僕とマスターに勝るものはないです」
「言うねえ」
「だって僕たちは《《そういう風に》》なるように作ったんだと、あなたが」
データを読み込んでいた進捗バーが、残りわずかなところで一旦止まる。シドウはその間に背後を振り返る。リクは薄く微笑んで、澄んだ瞳でシドウを見据えていた。
「お前は本当に優秀だね」
「マスターのお陰です」
リクは薄く浮かべていた笑みを深めて、首を傾けてみせる。
「それよりマスター、悪質な動画が上がっているのですが、削除要請しますか?」
「ん? 見して」
シドウは椅子の背もたれに体重を乗せて、リクの手元に手を伸ばした。リクがシドウに手渡したタブレットには「※グロ画像・流血注意」という文字と安っぽいモザイク処理のかけられた画像が表示されいた。顔もぼかされているけれども、シルエットからヒイラギのものであることが知れる。
「ヒイラギたちの高校の傍で一瞬中級吸血鬼の出現反応があって、すぐに消えたやつか」
「はい。ヒイラギが、《血》を使って処理したようです」
「ふぅん。これ、ツバキがくるとこまでは映ってないね。別の誰かに蹴散らされたか……おーっとっと、おやおやまあまあ」
「これは、アスカと……ハスミですね」
「アスカへの課外授業かねえ。はい、絶対削除」
「承知しました」
シドウから返されたタブレットを受け取ったリクは、画像の通報ボタンを押して、サーバー会社にメッセージを送る。数十秒後に、問題の動画は「削除されました」という無機質なサムネイルに変わった。
リクはフゥと安堵の息を吐き、タブレットの電源を落としてシドウの傍に歩み寄る。
「アスカはやはり、始祖の血筋なんでしょうか」
リクがポツリと呟いた言葉に、ハスミはキーボードを叩いて昨夜の映像を呼び出した。巨大な姿の上級吸血鬼の前に座り込む女性の姿。
「ハスミは、《始祖の血守り》をゲートマンの彼女に渡していたらしいね。確かに、血は呼び合うものだ」
街中に取り付けた防犯カメラの映像ゆえに、画角やサイズは思うようにはいかない。画面の端にハスミが見えたところで、奥にアスカの姿が現れる。
「……どれが実際の鍵かは、知らないけど」
シドウは画面から視線を外し、手元に置いたアンプル立てに目を向けた。透明な容器を満たす血液のひとつは、昨夜現場にいたミナミからとったもの。
「マスター、これ……」
「ん?」
ふと、画面を指さしたリクがマウスを操作して動画を止める。シドウはモニターへと視線を戻して、リクが示す辺りを凝視した。ドーム状に張られた防衛線の手前ギリギリの位置。向こう側に突き出した電車の車体に寄りかかるように立つ人型の影。マウスを慎重に操作してコマ送りで再生すると、次のコマではもう、その影は消えていた。
「なんでしょう、これ」
「……誰かが、見ている……?」
シドウは呟いて、進めたコマをまたひとつ前に戻す。性別も、身長も、体格さえも不鮮明で判断できないその像。ひっそりと佇んでいるようでありながら、明らかに「見ている」と思わせる不気味さを放っていた。
《3/END》