最終話・変わらぬ朝陽
16.
迸る稲妻が地上を打つたび、乾いた砂が舞い上がり、ぼんやりと空気を覆う砂埃の向こうに揺れる影。歪に並んだ赤い双眸を震わせ、三角翼のヴァンプは咆哮する。その度、球体の中にいるクオンは耳を塞いで蹲るように見えた。
「何かが、おかしい……」
つがいの力を得ていないアスカでも、一撃で倒せるヴァンプを次々と駆逐しながら、アスカは乱れた息の合間で呟いた。
抜いた刀で鮮やかにヴァンプを薙ぎ払うリクは、アスカの声に気づいて彼の傍へと身を寄せる。
「なにか感じますか?」
「うん……クオンに、前のような強さを感じない」
「確かに……」
リクは視線を上空に向けて、宙に浮く赤い球体を見上げた。ヴァンプの咆哮に脅えるように蹲っていたクオンは、やがてフラッと立ち上がり再び球体に稲妻を溜め始める。その表情は苦し気に歪んで、大きな赤眼に光はない。
「イニシアチブ……カゲハの……!」
アスカがハッとして叫んだ言葉に、リクは苦々しく表情を顰める。アスカはヴァンプの奥に見えるカゲハに視線を走らせた。カゲハは無表情で佇み、掲げた右手をボゥと赤く光らせている。初めてカゲハが襲来した際に見せた能力――上位から下位への絶対命令――その力に、クオンは操られていた。
「あいつ……」
飛び出しかけるアスカの前に、新たな稲妻が落ちて行く手を塞ぐ。そしてまた、乾いた大地から無数の歪なヴァンプが生まれた。
「きりがない……」
「……っ、アスカ! 伏せて!」
背後から飛んだ叫びに、アスカはハッとして振り向きかける。視界に手甲を纏う掌が伸びてきて、強く頭を押さえつけられた。そのまま地面に倒され、頭上を通過していく銃弾の音を聞く。
弾幕が止んで、シンッ、と鎮まる周囲の音と少しずつ晴れていく砂埃。ゆっくりと離れる掌の気配に、アスカは恐る恐る顔を上げた。
「あ、よかったー! アスカっち無事だあ! ありがとねん、リッくん」
「ツバキ!」
立ち込める砂埃の向こう、両手にハンドガンを構えたツバキは愛らしく首を傾げてウィンクする。その足元には深く首を垂れたシドウがいて、少し後ろには息を切らしたヒイラギがいた。
「マスター、大丈夫ですか?」
「うん……ちょっと乗り物酔いしただけだから」
シドウは片手を挙げ、青白い顔を向けながらリクに応じる。勢いよく顔を上げたヒイラギは、ツバキの手からハンドガンを受け取って新たな弾丸を補充した。
「なんかすげーことになってんな。アスカっち、おっさんは無事か?」
「うん、大丈夫! ただ、ここを突破しないと……」
背後に湧く気配に、肩越しに視線を向ける。ツバキの銃弾に一掃されたはずのヴァンプが、また同じ数だけ湧いていた。
「まーた、なんていうか……ビジュ弱なヴァンプだね?」
ツバキは補填の済んだハンドガンを受け取ってくるくる回しながら呟く。
「うん……クオンがイニシアチブで操られてて、力の元のカゲハが不安定なせい」
「カゲハ? ああ、あのハスミンそっくりなやつの名前ね」
「全然似てないっ!」
プゥと頬を膨らませて言うアスカ。ツバキは目を丸くして首を傾げ、傍らに立つリクとアスカを交互に見た。
「……なんですか?」
「え? ああ、なんかアスカっち、リッくんにちょっと似てきたなと思って。つがい過激派なところ」
リクはグッと息を詰まらせて、瞼を半分伏せてアスカを見る。そして、口布の内側で微かに笑った。
「アスカは、きっと僕以上です。僕もアスカを見習いたい」
「へーえ? じゃあこの件終わったら、誰が一番か競争しよ? 私も負けないよん」
ツバキは2丁のハンドガンを構えて、腐乱死体のような足取りで進んでくるヴァンプの群れに銃弾を撃ち込んだ。リクも小さく頷いて刀を構え、身を低くして突っ込んでいく。
「アスカ」
2人に続いて飛び出そうとしたアスカは、シドウの声に振り返った。
「ハスミの無事は確認した?」
「はい……一瞬ですけど。ハスミさんは、あの球体の中にいます」
アスカが指さした先。不透明な赤い球体は未だに沈黙したまま宙に浮いている。
「あの中は安全なの?」
「分かりません……けれど、あれを造ったカゲハはたぶん、消耗しています。まともなヴァンプを生み出せていないし、クオンを制御しきれていない。あの状態で、球体の中にいるハスミさんに攻撃するまでは出来ない……と、思います」
アスカは言葉の最後を言い濁して、小さく歯噛みした。実際に確かめられるわけではないから、あくまで憶測。ハスミの無事を願う心が、アスカを不安にさせている。
「たぶん、お前の予測は正しいよ。ハスミはきっと大丈夫だ」
シドウの言葉に、光を揺らすアスカの瞳。シドウはアスカの目を見つめ返してひとつ頷いた。
「僕らが策を考えるから、もう少しだけ頑張って」
「はい!」
アスカは溌溂と返事をして、身一つでヴァンプの群れに突っ込んでいく。軽い体を駆使しての立ち回り。動きは素早く、揺れるヴァンプに体を確実に撃ち抜いて消滅させていく。戦闘服を身に纏わない彼が奮闘する姿はどうしても痛々しく、シドウはフゥと焦燥の息を吐いた。
「んで、どーすんだよ、シドウ」
「……ヒイラギ。お前、あれ持ってる?」
「あれ? ああ」
しゃがんだ姿勢でツバキの残弾数を数えていたヒイラギは、ポケットに深く手を突っ込んでシドウが言うもの取り出す。開いたその掌に乗っているのは――金色の弾丸。
「一発、か」
「俺ん家の設備じゃ量産は無理だった。その一発だけでも作るの成功したの褒めてほしいんだけど」
「はいはい、すごいね。……っていうか、本当にすごいよ、これは」
ヒイラギの手から弾丸を受け取ったシドウは、そこにジッと視線を落として実感のこもった声で言う。
「試作品って言ってたけど、実験は成功してた……この弾丸は、グレン・ヴァンプを殺せる」
「え?」
ヒイラギは瞬きをしてシドウを見上げた。シドウはヒイラギに向けて微笑み、金の弾丸を誇らしげに掲げて見せる。
「リクが精神世界でソウマの支配を解くのにも有効だったと聞いたし、それに――あの女がいないだろ」
「あ……」
ヒイラギは戦場を見回して息を呑んだ。カゲハとクオン、そして、玉座に座ったままの始祖。それ以外のグレン・ヴァンプの姿は見当たらない。ただカゲハの側に落ちたローブと、回廊の中央で砂まみれになっているローブが見えた。そのどちらも、大きさ的に男性ものであることが分かる。
「お前たちが駆逐できてたってことでしょ。さすが、最強の血だね」
「へへ、だろ?」
ヒイラギは歯列を剥き出しにして笑った。自身の血を込めた弾丸を初めて実戦で使ったのは、ツバキの《母親》を名乗って現れたグレン・ヴァンプに対して。死体や死に様を確認していなかったことから半信半疑ではあったけれども、今この場に彼女がいないことが、ヒイラギたちの勝利の証明だった。
「さて、この虎の子の1個……どう使う?」
シドウは弾丸を指先で転がしながら、歌うように呟く。ヒイラギは緩んでいた表情を引き締めて、視線を上空に据えた。
「……早く、終わらせてやろうぜ」
「うん、そうだね」
シドウはヒイラギに同意して頷き、弾丸を彼の手に返す。弾丸を受け取ったヒイラギは、手にした銀の拳銃に一発だけの弾を込める。
「アスカっち!」
砂埃に塗れる華奢な背中に向けて呼びかけた。アスカはくるりと振り返り、ヒイラギのもとへと駆けて来る。
「これ使え。……あの子に」
アスカはヒイラギの手から拳銃を受け取り、上空を見上げた。か細い稲妻が表面でスパークを繰り返す球体。荒い息を吐くクオンは、消耗しきってもう倒れる寸前に見える。けれども彼女は、球体に手をついて立ち上がった。昏い赤眼は焦点を失い、頬には涙の跡がいくつも刻まれている。
「クオン……」
アスカは小さく呟いて、低く沈み込み強く地面を蹴った。球体の側面に取りついたアスカは、痛みに顔を顰めながらなんとかして上部までよじ登る。
クオンは球体の中で泣いていた。稲妻の音とヴァンプの咆哮に掻き消されていた声は、膜の内側からはっきりと漏れ聞こえてくる。アスカがジッと見つめる間に、気配に気づいたらしいクオンが顔を上げる。彼女は以前のように怯えた目を向けることはなく、縋るような眼差しをアスカに向けた。
「たす、けて……」
アスカは彼女の声を聞いて、手していた銃を構えた。銃口が向くと、クオンはフッと表情を緩めて、大きな赤眼を伏せる。パッ、と。音もなく弾ける球体。それと同時に、アスカは引き金を引いた。
――パン、と乾いた音が響き、撃ち抜かれたクオンの体が落下していく。アスカは空中でクオンの体を抱きとめて、乾いた地面に着地した。
撃ち抜いたクオンの腹はボコボコと脈打って、ヒイラギの血が作用して侵蝕されていくのが分かった。クオンはゴボッと口から血を吐いて、光のない赤眼をアスカに向ける。
「おに、い、ちゃん……やっと、きてくれたあ……」
フッと柔らかく細められるクオンの瞳。消滅していく彼女の目には、アスカが幼い頃のハスミの姿とダブって見えているのかもしれない。
「おじいちゃんと、おとうさんと、おかあさんに、あえるかなあ……」
「うん……大丈夫。きっと会えるよ」
「ふふっ……よかったあ。……おにいちゃん、ありがとう……」
最後の言葉を零して、クオンの姿は死灰に変わった。乾いた風に吹き上げられて、判別がつかなくなる細かい灰。アスカはそのひと粒まで見送って、ゆっくりと立ち上がった。
濃い砂埃が晴れると、ヴァンプを駆逐し終えた荒野の中にツバキとリクが立っている。もう、新たなヴァンプが生まれることはない――そう思わせるだけの明らかな消耗が、視界の先に映るカゲハから感じられた。
アスカは静かに深呼吸して、真っすぐ、カゲハのもとへと歩みを進めた。ほとんど地に伏すほど深く体を折ったカゲハは、荒い呼吸を繰り返しながら、虚ろな瞳でアスカを見上げる。
「ハスミさんを解放して」
カゲハはククッ、と喉を鳴らして笑う。上下に揺れる肩。頭が地面に擦れて立つ砂埃。カゲハはひとしきり笑った後、ハァと深く脱力するように息を吐く。
カゲハが静かに瞼を下した瞬間、背後で浮いていた球体が弾けて、ハスミの体が放り出される。
「ハスミさん……!」
アスカが動く前に、彼の真横を青い疾風が駆け抜ける。一瞬でハスミの元へ到達したリクがハスミの体を支えて、無事地面に着地した。
「ありがとう、リク」
「いいえ。早く、アスカのところへ」
「ああ、分かってる」
ハスミはリクの肩をトンと叩くと、地面の砂を踏みしめてアスカの元へと近づいていく。途中、傍らを通過するときにカゲハに一瞥もくれず、アスカの隣に立った。
アスカは正面からハスミを見上げて、フッと表情を綻ばせた。ハスミはアスカの心からの表情に苦笑を滲ませて、頬をジワリと染めて照れ笑いを浮かべる。
「まだ、1日も離れてねえのにな」
「一生分くらいの時間に思えました。オレはもう、あなたから離れられないみたいです」
「お前は、またそういう……」
ハスミは口元に掌を押し当てて眉根を寄せた。アスカはきょとんと首を傾げて瞬きをする。
「……リッくんの言う通りかも。私、あれに勝つのはちょっと無理かなあ……」
「僕も同意見です」
乾いた笑いを吐きながら所感を述べるツバキと、同意して頷くリク。掌の内側でンンッと低く咳払いしたハスミは、吹っ切るように手を離し、その手でアスカの頭をくしゃりと撫でた。
「そこで見ててくれ――終わらせてくる」
「はい」
離れて行く体温を名残惜しく見つめたアスカは、自身から離れてカゲハに向き直るハスミの背中を見つめた。
ハスミは地面に伏したカゲハを見下ろし、フゥと短く息をつく。
「もう終わりか?」
「……お前がそれを言うのか」
地獄の底のように、低い声。カゲハはゆっくりと体を起こし、憎悪を込めた瞳でハスミを睨め上げる。
「終わらせたのはお前のくせに……よくも、始祖を裏切ってくれたな」
ギッと鈍く鳴る奥歯を噛みしめる音。ハスミは微かに同情の浮かぶ瞳をカゲハに据えた。
「裏切る……な。最初は俺もそう思ってた。アスカとつがいを結んだとき、俺が結びたかった唯一の相手は、ユアなのにって」
一瞬、アスカの表情が揺れる。けれども、左手に宿る確かな熱を感じて、生まれかけた不安を呑み込んだ。
「血が呼び合うことが、つがいの条件だった。それを俺は、仲間たちの絆を見て知った。ツバキとヒイラギがまさにその証明だったし、リクを生み出して、7歳まで一緒に過ごした上でお互いをつがいに《選んだ》シドウとリクは、運命の結びつきさえ超えていた」
不意に言葉を向けられたツバキとヒイラギ、シドウとリクは、お互いを見交わして柔らかな表情を浮かべる。ハスミはその気配を背中に感じつつ、言葉を継いだ。
「俺も……ユアと引き合うものだとずっと思っていた。もし引き合うことがなくとも、シドウたちのように選べばいいとも思った。けれど、俺の血と呼び合って、現れたのはアスカだった」
ドクン、と。左手が震える。言葉を証明するように、確かに共鳴して震える左手。自身の中で自分のものではない心音が鳴る。喉を塞ぐような息の塊がせり上がって、ハスミは喉を揺らして震える息を吐いた。
「アスカと結んで、アスカを知って。血が呼び合うことの意味を知った。俺は最初のあの瞬間も、確かに俺自身の意志でアスカを選んだ。俺の血が、アスカを欲したんだ――俺のつがいは、アスカだ」
ザッ、と鋭い摩擦音と、ブワッと立つ砂埃。渾身の力でぶつけられたようなそれは、大した威力を持たずに虚しく掻き消える。ただ、眼差しだけは強く。禍々しい憎悪が燃えていた。
「許されない……そんな……そんなのは、ただの結果論だ。そんな紛い物に生きる意味を与えることになんの意味がある。お前の願いも、すべて無駄だ! なにより、始祖の願いを、なんだと……!」
砂に突き立てる指先。強く沈み込む爪は砕けて、乾いた砂に血が滲んだ。カゲハは激しくせき込みながら、呪詛のように言葉を吐く。
「始祖の願いを叶えるために……俺は……叶わないなら……どうして……っ!」
千切れそうなほどに見開いた赤眼。眦から血の滲む涙を流しながら、カゲハは喉が裂けるのも構わずに叫んだ。
「じゃなきゃ、俺は……なんのために生まれたんだ!!」
ザラついた空気を震わせる悲痛な叫び。アスカがビクッと大きく背中を震わせるのを、彼の背後で見守っていた仲間たちは目にする。なんのために――その問いは、アスカが最初から持ち続けていたものと同じだった。
「……それがお前の本音だろうよ」
ポツリ、と。ハスミが告げる。
「ユアの願いのためと言いながら、お前の存在を肯定してほしかっただけだろう」
カゲハは瞳を見開いたまま硬直している。彼の中の芯が、彼を支えていた唯一の想いが、崩れ落ちていく。
「仕方ねえさ。命っていうのは、そういうものだから」
ハスミは柔らかな笑いを滲ませながら続けた。その言葉は、もはやカゲハに届いているかどうかは、分からない。
「ユアの暴走を見て思い知った。あれは……あの惨劇を生んだのは、確かにユアの願いが発端だったから。……叶えることがすべてじゃない。間違っているなら、間違っていると正すことも愛情だろう」
「愛、だと……?」
擦り切れて掠れた声が、カゲハの口から零れる。ハスミは真っすぐにカゲハを見返して、淡い赤眼を細めた。
「俺はユアを愛してるよ。愛しているから、アスカは俺を呼んだんだろうよ」
「え……?」
不意に名前を出されたアスカが、小さく声を上げて首を傾げる。ハスミはそこでようやくアスカを振り返った。フッと柔らかな笑みを浮かべて、アスカを手招く。
「ユアの願いが、俺の血を呼んだ。お前は、ユアの願いから生まれたんだ」
ハスミはアスカに向けてそう告げて、視線を玉座の方へと移す。そこでずっとユアに寄り添っていたミナミが、強く何度も首を縦に振っていた。アスカは深紅の目を見開いて、唇の隙間を空けたままで呆然とハスミを見上げる。ハスミはアスカの間の抜けた表情を見て、フハッと吐息するように笑った。
「この血がすべての証明だ。――アスカの強さが、証明だ」
濃く、強く。はっきりとした赤がなぞる紋様。燃えるような熱を宿す左手を繋ぎ合うと、アスカの体を炎のような形の装甲が包んだ。アスカは鋼の拳を握り締めて、ハスミに強い眼差しを向ける。
虚ろな目をしたカゲハは、もう反論の気力もないようにダラリと四肢を投げ出していた。ガラス玉のような瞳の縁から、透明な雫が一筋零れ落ちる。
「終わらせてくれ、アスカ」
「……はい、ハスミさん」
アスカは強く拳を握り、ユラッと立ち上がったカゲハの前に立つ。カゲハは薄く微笑みを浮かべて、微かに両手を広げてみせる――消滅を受け入れる意志。
「あっ、……」
微かに、聴覚を揺らす声。ハスミがそちらを向くうちに、アスカの拳がカゲハの体の中心を貫いた。ドクンッと体を跳ね上げ上を向いたカゲハの肉体は、少しずつ白い死灰に変わっていく。
「――カゲハ」
凛と。ガラス細工を弾くように、高く澄んだ音。ハスミの視界にふわりと過ぎる、銀色の長い髪。ユアの赤眼は一瞬ハスミの方を向き、フッと柔らかく細められた。
銀色の唇が微かに動く。音は聞こえないものの、確かにユアは――ありがとう、と呟いた。
ユアは消えかけたカゲハの体に覆い被さり、両腕を回して抱きしめる。ユアの腕に抱かれたカゲハは、フッと柔らかく唇を綻ばせ、微笑んだように見えた。
「アスカ」
ハスミはアスカを呼んで、その腕をソッと引き寄せる。体にぶつかる軽い体と暖かな体温。ハスミは腕の中でアスカの形を確かめながら、2人の消滅を見守った。
「……また、泣いてんのか?」
腕の中で震えるアスカの肩をギュッと強く抱きしめて、ハスミは苦笑交じりに言う。アスカはヒクッと大きくひゃっくりを上げて、堪えきれない嗚咽を零した。
「うっ、ぅ……だっ、て……こんな……ぅ、う……ぁっ……」
「ありがとうな、アスカ――俺のつがい」
噛み締めるように言う声に、アスカは声を上げて泣き出す。仲間たちの笑い声が乾いた空間を包んで、2つの死灰は、キラキラと光を撒きながら吹き上げられていった。雲間が晴れ、光の柱が注ぐ。
――つがいの絆が、ひとつの世界を、永遠に終わらせた。
◇
光の満ちる大地に、鮮やかな若葉が萌ゆる。生命力に溢れた瑞々しい緑の上を、軽やかな足音が駆け回った。
「みんなーごはんだよー! おいでー!」
青空にグンと伸びる白い腕と、溌溂と揺れるオレンジのミディアムヘア。爪先立ちで見渡す限りに声を張り上げたツバキは、方々に散る子供たち全員に呼びかける。
「ツバキ姉ちゃん! きょうのごはんなに?」
無邪気にまとわりついてくる子供たちに手を引かれて、ツバキはそばかすの浮かぶ頬を愛らしく綻ばせた。
「今日の食事当番はねえ、アスカだよん」
「ハンバーグだ!」
子供たちはパァと顔を輝かせて、食堂に向かって一目散に走っていく。ツバキは微笑んで彼らの後ろ姿を見つめて、フゥと短く息を吐いた。
「アスカが当番だと、すぐにメニューを当てられてしまいますね」
背後からかかる穏やかな声。ツバキは振り返って苦笑を浮かべる。
「ねー。ハスミンももっといろんな料理仕込んでくれたらよかったのに」
藍色の長い髪を項の辺りで結び、肩に垂らしたリクは柔らかな微笑みを口元に滲ませてる。昔よりもずっと豊かになった表情に目を細めたツバキは、彼の後ろで動く影を見つけてしゃがみ込んだ。
「こんにちは。今日もリッくんにべったりだねえ、君は」
リクの後ろに隠れていた小さな男の子は、ツバキの姿にギュッと身を縮こまらせる。
「このお姉さんは怖くないですよ――ソラ」
リクが呼んだ名前に、ツバキはカーネリアンを瞬いてリクを見上げた。リクはサファイアブルーの瞳を窄めて笑い、男の子――ソラの青い髪をソッと撫でる。
「名前、決めたんだね」
「はい。父さんには、伝えられなかったですけど」
リクは目を伏せて呟き、瞬きをしてから空を見上げた。その仕草に、ソラの名前の由来を示すように。
「うん……でも、きっとシドりんも気に入るよ」
「僕もそう思います」
首を傾けて笑ったリクは、ソラの背中に手を添えて歩みを促した。
ツバキは立ち上がり、気持ちのいい青空を見上げた。風に乗って潮騒が聴こえる。変わらないままの世界の色に目を細めて、ツバキは過ごしてきた年月を思う。
――始祖と、彼女が生み出したグレン・ヴァンプが消えてから、100年の時が経った。
闘いの後、3組はじっくり話し合った上で、つがい関係の解消を決めた。
左手の紋様は消え、繋いでいた寿命も元の人間の肉体のものに戻る。人間たちは年齢を重ね、ヴァンプたちは姿が変わらないまま。
さらに、つがいを解消したことで、ヴァンプたちはそれまでのように食事をとることができなくなった。と言っても吸血衝動に襲われることはなく、代わりに、太陽の光は克服したままでいられた。長い年月をかけて研究したシドウが出した結論は、「君らはもともと大地から生まれたみたいもんだし、自然に還って光合成でも出来るようになったんじゃない?」という適当なものだった。結局、それ以外の結論を導き出すには至らずに、とりあえずそのまま納得して生きることにしたのだった。
それぞれが選択し、歩み始めた人生。
ヒイラギは、ソウマと対立したときのシドウの姿に影響を受けて、「父親になりたい」という夢を持ったことをツバキに明かした。そして2人で土地を買い、古い建物を手ずから改修して、孤児院を作った。
シドウはその土地の側に研究所を構え、趣味の研究に没頭した。リクはその助手を務めながら、孤児院の手伝いをしていた。
ハスミとアスカは旅に出て、2人で世界中を見て回った。数十年後に、アスカが孤児院を訪ねてきた時にはもう、既にハスミを看取った後だった。旅路で目にしてきた世界を、長い昔話として子供たちに語って聞かせるアスカの横顔は、どこかハスミを思わせた。
そしてつい先日、シドウもこの世を去った。シドウに病気が見つかり、現代医療ではもう治療の術がないと分かった時、リクはシドウの後を追うことを考えていたようだった。けれどもシドウはリクに「とっておきのプレゼントがある」と言って、孤児院で誰とも馴染めずにひとり浮いていた子を指して「この子に名前をつけること」とリクに命じた。プレゼントはその後にあげるよ、とつけ加えて。
リクはシドウから与えられた難題に、目に見えて狼狽しているようだった。シドウはそんなリクを見て笑い「たくさん悩んで。その子に人生で初めての宝物をあげるのはお前だよ」と言った――それは暗に、シドウが彼を「リク」と名づけたことへの意味も、同時に込められている言葉だった。
シドウが亡くなってからしばらく、リクはまだ名づけに悩んでいた。そして今日になって初めて彼が呼んだ名前は、果てしなく広がる希望の名前だった。
「そういえば、シドりんからのとっておきのプレゼント、貰いそびれちゃったね」
食堂の席にソラを座らせてから、隣に来たリクに向かってツバキが言う。リクはああ、と軽く相槌を打った後で、肩を揺らしてククッと笑った。
「あの子に名前を付けたらくれる、っていうの。そのままの意味だったんですよ」
「え、なあに?」
「とっておきの――未練です」
リクが目を細めて見つめる先。戸惑いながら周囲の子に合わせて小さな両手を合わせるソラの姿。リクは今にも泣き出しそうなソラの元へ、軽い足音を立てて駆け寄っていく。
「なるほどねえ。……いいパパになるね、リッくん」
ツバキは食堂の壁に掛けられたシドウの写真を見てそう言った。得意げな笑顔を浮かべるシドウの写真は「僕が育てたんだから当然でしょ」とでも言いたげだった。
壁にはシドウの写真の他に、6人全員で撮った写真や、それぞれの2ショット写真、旅先からハスミたちが送ってきた写真や、孤児院を手伝ってくれていたミナミの写真など、過去の時間を振り返る写真がたくさん、額に入れられ飾られている。そのどれもに溢れる笑顔を眺めて、ツバキは弾むように踵を上げた。
「……さあてと」
明るい声を出し、甘いソースの香りが満ちる食堂を後にする。静かな廊下を渡り、木造の建物の一番奥にある部屋に向かった。大きな大樹の陰が覆うその部屋は、昼間は優しい陽光が差し込む。白い扉をコンコンと2回ノックして、ツバキは金のドアノブを押し込んだ。
「ヒイラギ」
白いシーツの上に、光の粒を撒いたように差し込む葉影。柔らかな日差しを受けて、ベッドで眠る痩せた老人。オレンジの頭髪はほとんど色が抜けて、白髪が混じり、薄橙色になっている。唇のうえには豊かな口髭が蓄えられていて、ツバキはいつもそれを見る度に噴き出していた。
「……なんだよ、また笑ってんのか?」
低い皺嗄れ声になっても、変わらない口調。片目を開けて微笑むヒイラギに、ツバキは肩を竦めて見せながら彼の傍らに腰かける。ヒイラギは色褪せないカーネリアンの瞳を細めて、フゥと柔らかく吐息した。
彼の体に繋がれたいくつもの管。コードの伸びる先に映るモニターには、彼の心音の波形が静かに波打っている。ツバキは布団の端に覗いていたヒイラギの手を取って、緩く握った。皺だらけの骨ばった手。硬い指先は、器用な彼があらゆるものにこの手を駆使してきた証だった。
「ねえヒイラギ。リッくん、あの子の名前決めたって」
「へえ、なんて?」
「ソラくん」
「ソラ――空か。いいじゃん、ちょうど陸とも対になってる」
「あ、本当だ!? これはまたシドりんが喜んじゃいそう」
「やめろよ、あいつのドヤ顔すげー浮かぶから」
「なんで? 別にいいじゃん。ヒイラギに思い出してもらえるとシドりんも喜ぶよ?」
「いいよ別に……どうせ、もうすぐ会えるしな」
明るい笑い声を、ピタリと止めるツバキ。微かに落とした視線の先で、ヒイラギの薄い胸が静かに上下するのを見る。
――その下にある鼓動は、もうすぐ止まろうとしている。
「……いっちゃうの?」
わずかに微笑みを滲ませつつ、小さな声でツバキが呟いた。ヒイラギはフッと微かな笑みを浮かべて、繋がれたツバキの手を握り返す。
「なあ、姉ちゃん」
久しぶりに聞いた、懐かしい呼び名。子供たちから「父さん」と呼ばれて親しまれるヒイラギの傍にいるツバキは、歳をとらないせいでいつのまにかヒイラギの姉には見えなくなっていた。子供たちを混乱させてはいけないから、と、2人で話して決めたこと。ヴァンプと闘う役目を終えて、シドウを「父さん」と呼び始めたリクとは逆になってしまったことを、ツバキは少し寂しく感じていた。
「俺も姉ちゃんに、プレゼントがあんだ」
ヒイラギは言って、繋いでいない方の手でベッドサイドの引き出しを探る。そして、その中から掴んだものを、ツバキの掌に乗せて握らせた。
「……これ……」
翻った葉影が導く一筋の陽光が、ツバキの掌を照らす。一瞬の黄金が煌めく――それは、ひとつの弾丸だった。少し汚れているが傷などはついていない。ヒイラギが手ずから設計して作った、グレン・ヴァンプさえ消滅させる最強の弾丸。
「俺が最強だった証――伝えてよ、姉ちゃん」
顔をくしゃっとして笑うヒイラギに、一番長く一緒に過ごしていた時の彼の笑顔が重なる。
もっと、ちゃんと見たいのに。ツバキの視界は滲んだ涙で歪んでしまう。
「も、……なに……? やだもう……ほんと、ヒイラギ、こればっか……っ」
こみ上げてくる嗚咽。引きつる喉に塞がれて、上手く声が出せない。ツバキは喘ぐように呼吸をして、次々こみ上げてくる涙を何度も、何度も拭った。
「なんだよ、こればっかって。俺、うれしかったんだ。姉ちゃんに命繋いでもらって、守られてばっかの俺が、唯一姉ちゃんを守れた証だから」
「だから……それ、も……ぜんぜん、唯一なんかじゃ、ない、ってぇ……」
ヒイラギの皺だらけの手が、ツバキの鮮やかなオレンジの髪を撫でる。じわり染みる体温。生まれた時から、片時も離れず一緒にいた片割れ。なによりも、誰よりも強く結んできた絆も、一時は《つがい》であるせいだと疑ったこともあった。それでもヒイラギは、ツバキのそんな些細な迷いなど打ち消すように「血よりも強い絆」だと証明してくれた。
「泣かないでよ、姉ちゃん。俺、姉ちゃんにずっと笑っててほしかったんだ」
「もう……ヒイラギが、泣かせてるんでしょ……もー……やだぁ……私だって、泣きたくないよお……」
無理に口角を上げて笑おうとするツバキの表情は、泣き顔を笑い顔が一緒になってぐちゃぐちゃだった。けれどもそれが、感情のままに生きる彼女らしい。
「姉ちゃん、俺に最高に面白い人生をくれてありがとう。俺、姉ちゃんとつがいになれてよかった」
「それ、私の……私のほうこそ……私が、ヒイラギにいなくなってほしくて、ヒイラギのこと、普通に死ねなくさせちゃったのに……一緒にいてくれて……」
「なんだよ、それ。全部最高だった。だって、姉ちゃんが一緒だったんだもん。世界一可愛くて、綺麗で、めちゃくちゃ強い、最高の女がさ。俺を大好きって言ってくれんだもん」
「今でも、大好きだよ……バカ……大好き……ヒイラギ、大好き……」
「姉ちゃんだめ、それヤバい、心臓壊れる」
「あ……」
ズビッと洟を啜って、ツバキはベッドサイドのモニターを見た。確かに、弱々しい波形を描いていた心電図が大きく波打っている。
「あはは、丸見えなのウケる」
「こんな間際で酷使させんなっつの……もう……でも、すげー幸せ」
フゥと深く息を吐いて、ヒイラギは枕に深く頭を埋める。こうして、隣にいて。世界に2人だけのように過ごした途方もない時間。あと少しで終わりだと思うだけで、胸が苦しくなるほどに愛おしい――いっそ、このまま呼吸が止まっても構わないと思うほど。
2人の記録は、公にはなにもない。誕生日だって、とっくの昔に忘れてしまった。ただ、つがいを結んだ日だけが、2人の中に刻まれている。そして、ヒイラギに託された弾丸にも。
「ヒイラギを主人公にした映画でも作っちゃおうかなあ。それが、作家デビューしちゃうとか」
「げっ、サイン本手に入れられないのキツイ……」
「あはは、もう……お墓に入れるよ。ちゃんと、第1号のやつ」
「うん、頼むわ。約束な」
「……ん」
小指を絡めて、ソッと離した。白いドアの向こうから、ひそひそと小さな囁き声が聞こえる。ツバキは涙を拭って立ち上がった。
「今日も来たね、子供たちが。入れてあげていい?」
「ああ、いいぜ」
フッと瞼を伏せて、再び開くとき、ヒイラギはもう弟の顔ではなく、父親の顔をしていた。ツバキは名残惜しそうに微笑みながら、金のドアノブを押し込み扉を開く。ワッと一斉になだれ込んでくる子供たち。
「お父さん!」
ヒイラギの個室に、子供たちの声が溢れていく。
ツバキはドア枠に手を触れて、子供たちに囲まれるヒイラギの笑顔を眺めながら、部屋を後にした。
――これが、ヒイラギとツバキが交わした最後の会話になった。
夜、ひとり洗い物をするアスカの傍で、ツバキとリクは銘々に時を過ごしていた。水流の音が止んで、額の汗を拭いながらアスカが出てくる。
「あ、みんな待っててくれたんだ! ありがとう!」
アスカはフワッと明るく笑う。歳をとらないヴァンプだが、若いアスカはゆっくりと少しずつ成長していて、背もグンと伸びて二十歳くらいの青年の姿になっていた。だいぶ伸びた髪を項の辺りで小さく結んでいる。
「アスカっち、だいぶ家事手慣れたよね。昔と全然ちがう」
「うん。本当にいろんなところ旅して、たくさんのことを学んだから。すごく、すごく楽しかったよ」
アスカはフッと目を細めて、壁に飾られた写真に目をやる。旅先で2人で撮った写真。ハスミの瞳に一点滲む赤は、唯一残ったつがいの名残。アスカはその色を見て瞳を微かに潤ませた。
「ハスミさんは、最初の約束を守ってくれたんだ。オレが、生まれた意味と、生きている理由を見つけられるようにって、いろんな世界を教えてくれた」
――俺のために生きなくていい、と。それは突き放す意味ではなく、彼にとっての最後の贖罪であったように思う。
「そっか……ねえ、アスカっちは、これからどうするの?」
身に着けていた紺色のエプロンを解きながら、アスカはきょとんと首を傾げる。ジッと見つめてくる2人の視線を交互に見て、ああ、と声を上げたアスカは、エプロンを丁寧にたたみながら答えた。
「オレは……ハスミさんが生きた時間の分だけ、生きてみようと思ってる」
「ハスミンの時間って……転生してた間のこと?」
「うん。そして、どんなことを見て、どんなことができたかって。いつかまた逢えたとき、ハスミさんに話すんだ」
「アスカがいくより先に、ハスミの方が先にまた転生してきたりして」
リクが真顔で呟いた言葉に、ギョッと目を向けるアスカとツバキ。リクはひとつ瞬きした後で「冗談ですよ」と笑った。
「めっちゃありえそうな冗談過ぎて固まっちゃった……」
「私も……」
「でも、もしそうなら、アスカはまた会いたいと思うんじゃないですか?」
リクの美しい色の青眼に見つめられて、アスカはたじろいでわずかに身を引く。けれども、向けられた言葉は核心を射ていた。
「うん……その時は、きっとまたこの血が呼んでくれる」
もう何も刻まれていない左手に指先で触れて、アスカは静かに目を伏せて言う。
指の腹に感じる微かな脈動。ひとつきりのその音が、別の愛しい音と重なる感覚は今でも鮮明に覚えている。
「いいねぇ、めちゃくちゃ確実なやつ」
「うん。きっとまたどこかで、逢える気がするんだ」
鼓動の音に、あなたを感じる。あなと呼び合い、重ねた鼓動の片割れが、今も息づいている。
生きる時間の違う相手同士が引き合い、結び合うことは哀しいことかもしれない。けれども、それでも結び合うことができると、この血が証明してくれた。
少しだけ隙間の開いたガラス窓から、群青に染まる夜の風が、サァと静かに吹き込んだ。
夜を照らす月の下、光に焦がれた少女の願いが、一度壊したこの世界で。
つがいたちの絆が繋いだ明日の朝陽がまた変わらず昇ることを、永遠に祈りながら。
《グレン・ヴァンプ/END》




