第14話・願いの行方
14.
眩く光る球体が、彼の掌で淡く光を放つ。クオンは目を細めて首を傾げ、憧憬の滲む瞳をその球体に据えた。クオンの傍らに立つ男は目深に被ったフードの影に隠した瞳で、その光の行方を追う。
アマネは掌に乗せた球体を恭しく掲げ、玉座に進み出て膝をついた。そこに座る人は、虚ろな瞳を微かに上げる。肩からハラッと零れる細く長い銀糸の髪。ゆっくりと瞬きをする銀色の睫毛が誘うままに、アマネは彼女の前に光の球体を差し出した。
彼女――ユアはゆっくりと両手を持ち上げ、その球体を受け取った。ユアの両手の内で一層眩く光った球体は、ユアの白いワンピースの胸に触れた途端、パッと霧散する。
「……っ……!?」
息を呑む音を立てたのは、アマネだけでなかった。アマネは自身と同じ反応をした気配を辿り、背後に控えた男を振り返る。クオンが不思議そうな顔で見上げる男は、フゥと短く息をついて、フードの影に隠れた赤眼をヌラッと光らせた。
アマネは男の瞳から意志を読み取ったように、小さく頷き立ち上がる。ユアは、スカートに散る光の欠片に触れ、虚ろな視界の中にその破片を撒いた。キラキラと降る美しい一片を眺めながら、彼女はゆったりと唇の端を吊り上げる。けれども瞳は昏く、生気を失くしたままだった。
「これは所詮、残滓か。本物は、やはり――」
ポツリと呟いたアマネは、ローブの裾を翻して姿を消す。クオンは痺れを切らしたようにユアに駆け寄り、その膝に飛びついた。ユアはクオンを見下ろし微笑んで、彼女の頬に光の欠片を降らせる。
音もなく、静かな2人の戯れを見つめる男。彼はフードの影の中でギッと苦々しく奥歯を噛んだ。
「ユア……」
零れた声にユアが反応を返すことはなく、男は表情を歪める。赤く、乾いた風が吹く。その風の音に、彼女の唇が紡ぐ優しい歌声が溶けた。
◇
まるで羽虫が飛ぶ音に似た低いバイブレーション。耳元で振動する音に目を覚ましたリクは、端末を手に取り画面をスワイプする。
『……――リク!』
耳元で弾けた聞きなれた声に、リクは寝起きでぼんやりした思考を一瞬で覚醒させ、端末を握り直した。
「その声、アスカですか?」
体を包むシュラフからもぞもぞと体を起こして、傍らで眠るシドウを揺すって起こす。備蓄倉庫の中の備品をかき集め、オルビスタワーの瓦礫の中にテントを張っただけの簡易キャンプ。シドウはシュラフの中から伸ばした手で枕元を探り、眼鏡を手に取り鼻に乗せた。
リクはシドウが起きたのを確認して、通話をスピーカーに切り替える。
「アスカ。マスターも傍にいます。何かありましたか?」
リクがゆっくり呼びかける声に、事態を察したシドウが身を乗り出してきた。
『リク、シドウさん……ハスミさんが、いなくなりました』
「なんだって?」
即座に返したシドウはリクと視線を交わす。リクはゴクッと強く唾を呑んだ後で、努めて冷静な声で応じた。
「……それは、ハスミがアスカを置いてどこかに出ていったということですか?」
『違う、と思う。昨日の夜は、全然そんな感じじゃなかった。ただ、朝起きたらハスミさんがいなくて……たぶん、連れ去れたんだと思います』
シドウはアスカの声を聞きながら、スマートフォンに目を落とす。画面に表示されている名前はハスミのもの。手に取る前に連れ去れた可能性の方が圧倒的に高いが、あるいは――。
「きっかけや、心当たりはある?」
シドウの問いかけに、アスカは数秒の間を空けてから答えた。
『ほんのちょっとだけど、ハスミさんの抵抗する意志を感じました。でも、本当にほんのちょっとで……』
「ってことは、ハスミを連れ去った犯人は、ハスミと顔見知りの可能性がある、か」
シドウが呟いた言葉に、電話の向こうでアスカが息を呑む気配が伝わる。リクは熟考を始めたシドウの横顔を見て、スピーカーに向かって呼びかけた。
「アスカ。まずは、連絡をくれてありがとうございます。よくひとりで動かずに、僕らに連絡する気になりましたね」
自分なら、連絡などせず衝動のままに単独で動いていただろう――リクは微かに苦笑を浮かべる。シドウはその横顔を見て、呆れよ滲む柔らかな息を吐いた。
『それは……たぶん、ハスミさんがそうするようにって意味で、オレがすぐ気づく場所にスマホを置いていったんだと思って……パスコードを書いたメモも、裏に貼ってあったから』
「ああ、なるほど」
用意周到な行動に、思考のピースが嵌まっていく。シドウは静かにひとつ頷いて、スピーカーに声をかけた。
「アスカ、とりあえずそのスマホ持って僕らのところに戻ってきて。ツバキたちにも僕らから連絡しておくから」
『はい……シドウさん、ハスミさんは大丈夫でしょうか』
「大丈夫に決まってる。それはお前が一番感じてることでしょ。つがいの命は、お前にしか感じられない」
シドウの力強い宣言を傍らで聞いていたリクも、思わず自身の左手に触れた。脈打つ血流は自身だけのものではない。確かに重なる鼓動の気配を感じて、リクはホゥと淡い息を吐いた。
『――はい、大丈夫です』
「よかった。じゃあ、待ってるから。道中気を付けて」
『はい! ありがとうございます。またあとで』
プツン、と通話の切れる音。シドウはフゥと息を吐いて、スマートフォンを手に取り画面をタップする。アドレス帳からツバキの名前を呼び出して、ワンコールで応じた彼女に状況を告げた。
「ツバキたちもすぐ来るって」
「はい、マスター」
いつもよりハリのある声で応じるリクに苦笑して、シドウはシュラフから抜け出した。白い朝陽が、少しずつ青に染めていく広い空。遠く地平線まで望める大地を見回して、視界にかかる前髪をかき上げる。
「敵が動いた、か。……さあ、最終決戦だ」
予感を口にして、シドウは内側を占める重苦しい空気を大きく一気に吐き出した。
◇
街の境に立つと、無意識に脚が震えた。明確に目に見える境界線が引かれているわけではない。けれども、そのエリアに足を踏み入れて、中心部に向かうごとにグラデーションのように濃くなっていく気配を目の当たりにすると、否応なしに気が沈んだ。
あの日から、一週間と少し。復興の気配はなく、踏み荒らされた大地にぽつりぽつりとテントが立ち、人影がまばらに揺れている。積み重なっていた兵士たちの死体だけは、さすがにすべてなくなっていた。
「アスカっち!」
懐かしい呼び声に俯けていた顔を上げる。折れたタワーの根元付近で、ツバキとヒイラギが並んで手を振っていた。
「やっほー! 一週間ぶり!」
「ツバキ! ヒイラギ!」
アスカは乾いた大地を蹴って駆け出す。両手を広げて待つツバキの胸に飛び込んで、頭を掴んでくるヒイラギの手に銀髪を掻き回された。
「元気してた? ちゃんとご飯食べてる?」
「うん、オレも食事当番したりしてたよ!」
「アスカっちの料理……それ、大丈夫だったか?」
「大丈夫、唯一作れるやつあるから、それで!」
「毎日ハンバーグかよ。豪勢だな」
ヒイラギがハハッと苦笑し、アスカは照れ笑いで返した。アスカは2人に促されて瓦礫の中を進んでいく。
「皆さん、こっちです」
瓦礫の山の頂に姿を現したリクが、片手を挙げて3人を呼んだ。瓦礫を越えた向こうに、タワーに残った2人が築いたベースがあった。
「マスター、全員揃いました」
「うん。ありがとう、リク」
シドウに迎えられ、彼を囲む形で車座になって地べたに座る。シドウは一週間ぶりに顔を合わせた面子を見回してから、口を開いた。
「状況は電話で説明した通りだけど、ハスミが何者かに連れ去られた」
「なあ、それなんかすげーヤバい感じ? その割にはアスカっちもシドウも妙に落ち着いてっけど」
胡坐を組んだ膝をパタパタと上下に揺らしながら、焦れた様子でヒイラギが問う。
「まあ、落ち着いてる場合ではないんだけどね。ハスミの無事はアスカがいれば分かるから。あと、連れ去れた時の状況から、犯人はハスミと顔見知りの可能性が高い」
「おっさんの知り合いって……襲ってきたグレン・ヴァンプの誰かってこと? なあ、あいつらって本当におっさんの家族なのかよ」
シドウは片手に持ったノートPCの画面を覗き込みながら、フゥと細く息を吐く。
「本当に、というのは語弊があるね。ハスミ自身も家族を『模している』と言っていたし、あくまで家族構成を真似ているだけと考えるのが妥当だろう……ただ、『クオン』というのは、確かにハスミの妹だった」
「……だった?」
言葉尻を捕らえて聞き返すヒイラギ。シドウは小さく頷き返して、PCから顔を上げて言葉を足した。
「ただし、200年前に死んでいる」
ヒュッとツバキとヒイラギが息を呑む音と、ひとり黙り込むアスカ。リクは静かにアスカの様子を見つめる。
「200って……おっさん俺らより年上だったのかよ」
「それはないね。クオンの兄である『ハスミ』も、200年前に死んでるから」
「ああそっか……って、余計にどういうことだよ?」
首を捻るヒイラギの横で、アスカが静かに顔を上げた。細い銀糸の髪が流れ、澄んだ深紅の瞳が覗く。
「ハスミさんは、何度も人生を繰り返しているんだ」
全員の視線がアスカに向いた。アスカは真っすぐにシドウを見つめて立ち上がる。シドウはアスカの赤眼を見返して、スゥと青眼を細めた。
「転生してる、ってこと……それは、本人から聞いたの?」
「はい……」
アスカはフッと視線を逸らし、手の中のスマートフォンを握りしめる。アスカの逡巡と、スマートフォンを残して行ったハスミの無言のメッセージ。シドウはフッと短く息を吐いて、アスカの迷いを和らげる口調で言った。
「全部話さなくてもいいよ。僕の憶測を話すから、その上でお前が伝えるべきだと思ったことだけ教えて」
アスカは戸惑いの揺れる瞳でシドウを見上げて苦しそうに顔を歪めた後、勢いよく頭を下げた。シドウはアスカが再び顔を上げるのを待って口を開く。
「ハスミは200年前に始祖と会ってるね?」
「……はい、そうです。とても仲が良かったみたいで……その子に『つがいになりたい』って言われたって」
「なるほどね。ってことは、ヴァンプが人を襲うようになったことにも、ハスミは絡んでるんだ?」
「ハスミさんは、ユアさんが次々とヴァンプを生んだのは、2人がつがいになるための実験だったって言ってて……人を襲うヴァンプが生まれたのは自分のせいだって……だから、全部自分が終わらせるって……」
「そう」
シドウは痛みを感じたように瞼を伏せ、開いていたPCの蓋を閉じた。ヒイラギも揺らしていた膝を止めて、ツバキは抱えた膝をギュッと強く自身の体に寄せる。リクはアスカの傍に近づき、震える背中を静かに見守った。
「その、ユアって始祖の願いが200年経った今もまだ生きているとして、それを叶えるためにグレン・ヴァンプをも生み出したっていうなら……まずいね。この仮説が正しいなら、ハスミは彼らの思想からすると反逆者だ」
「……え?」
アスカを取り巻く空気が変わる。驚いたように見開いた赤眼は一心にシドウを見つめて、続く言葉を待っている。シドウはアスカの強い眼差しを正面から受け止めながら、覚悟をもって口を開く。
「グレン・ヴァンプは始祖の意志が生んだもの。ならば、彼女の願いを叶えようとするのが道理だろう」
「はあ? んな子供の約束みてえな願いのために、ヴァンプが人間を襲うのを見過ごせって言うのかよ」
「そうは言ってないし、そのことについてはハスミも僕らと同意見……というか、一番強くヴァンプの殲滅を願ってる――だから、反逆者だって言ったんだ」
あ、と小さく声を漏らして、シドウに食って掛かっていたヒイラギが身を引いた。
シドウはアスカに視線を向ける。アスカはもともと白い肌を青ざめさせ、引き結んだ唇の隙間から荒い息を吐いていた。シドウは話の中心をアスカに戻す意味でも、正面から彼の赤眼を見据えて告げる。
「ハスミが危ない」
短く告げた確信に、アスカの眼差しに滲む色が更に濃くなった。漲る緊張感に、座していたツバキとヒイラギも立ち上がる。アスカは繰り返していた呼吸を止めて、泣きそうに潤んだ瞳をシドウに返した。
「アスカ、なにか分かる?」
頼れるのは、彼とつがいを結んだアスカの血の共鳴。未だなんの変化も見せない左手の紋様を握りしめて、アスカはフーッと強く息を吐き宣言する。
「……分かって見せます」
「頼もしいね」
フッと表情を崩し、笑うシドウ。彼らはアスカを囲んで、ジッと手掛かりが掴めるのをひたすら待った。
◇
両手に熟れた果実に似たソースの匂いが染みついている。ミナミはそのことに違和感を覚えつつも、スゥとその残り香を胸いっぱいに吸い込んだ。
「……いいにおい」
なぜかとても心が落ち着く。空腹を覚えるのではなく、胸がいっぱいになって膨れるような。ミナミは部屋着にしているワンピースの上から腹に触れて、柔らかなそこに掌をゆっくりと滑らせた。
常夜灯だけをつけた薄暗い室内に、刻を打つ秒針の音けが単調に響く。ミナミはその音に合わせて呼吸する内に、深く眠りの底へ引きずり込まれていく意識を、抵抗することなく手放した。
ゆったりと、揺れる体。羊水に包まれているような安心感と温かさ。ミナミは質量を持った空気の中を泳ぐように、空間に漂っていた。足は地に着いていない。けれども不思議と、疑問に思うことはなかった。
(わたしは、知ってるんだ。この場所を)
ミナミはパチパチと瞬きをして、馴染んだ感覚の中を進んでいく。何もない、真っ白な空間。けれども平面ではなく、両手で掻くたびに奥へと進んでいる感覚がある。果てしなく深い。そして、胸が締め付けられるほどに温かい。
流れ込んでくる感情がいっぱいになって、ミナミは堪らずハッと強く息を吐いた。言葉にならない感情が内側に溢れてくる。溺れてしまうような息苦しさに、ミナミは顎を上げて喘ぐように呼吸した。
「苦しい、よ……」
呟いた瞬間に、眦から雫が伝った。苦しい息は涙に変わり、止め処なく溢れてくる。飽和した感情が溶かされていくようで、ミナミはあふれ出るのに任せてひたすら涙を流した。
「ふ、ぅ……く……ぅ、ぁ……あっ、ぅ……ふぅ、ぅ……」
「苦しいよね、ごめんなさい」
「え……?」
不意に聞こえた声と、頬に触れる細い指先。ミナミはハッとして顎を引き、そのまま少し後退する。パタッと瞬きした先に映る、長い銀髪を揺らす女性。細い輪郭に対して大きな真紅の瞳。ハッと目が覚めるほど整った顔立ち。神秘的な赤眼を縁どる銀の睫毛は美しく、宝石のような瞳を飾っている。
「こんにちは、初めまして」
凛として、ガラスを弾いて立つ音のように澄んだ声。ミナミはハッとして慌てて居住まいを正す。
「は、はじめまして……! あの、どこかでお会いしましたか?」
我ながら下手なナンパの誘い文句のようだと絶望した。ミナミは頭を搔き毟りたい衝動を堪えて、胸の前で拳をギュウと握りしめる。銀髪の女性は首を傾げ、柔らかく微笑んだ。
「ええ……あなたは覚えているかもしれない。私は、あなたの中にいたから」
「わたしの、中に?」
ミナミは彼女の言葉を呟いて、自身の体をジッと見下ろす。生まれた時から見慣れている自身の体型。大人になってもくびれも出来ないどころか胸もささやかにしか膨らまないままの成熟しきらない肉体――今はそんなことはどうでもいい。
「あの、どこに?」
「あはは。私そのものが入っていたわけじゃないわ。あなたの中にいたのは、私の感情」
見た目の印象よりも明るく、花が咲くように笑う。彼女は、フッと右手を持ち上げて見せた。複雑な形に伸ばされた指の先に、ポゥと淡く光る球体が現れる。まるで鼓動を打つように明滅する柔らかな球体。
「それが、私の中に?」
「ええ、そう。私の感情が、あなたの心と共鳴したの」
「共、鳴……」
言われてみれば、その光には見覚えがある気がした。感触も、温度も知っている。ただ、ミナミの中にはもう存在していないもの。
「あなたの感情は、もう……あなたの中に還ったの?」
彼女は寂しそうに笑うと、銀の睫毛を伏せて首を横に振った。再び赤眼を上げた時、手にしたいた球体はパッと弾けて霧散する。
「あ……」
「もう、ないの。使い果たして、尽きてしまったから」
「あ、ぁ……」
ミナミの脳内に高速でビジョンが駆け巡る。無残に崩壊したタワー。空中に浮く三つ編みの少女と、少女を囲む赤い球体。球体が膨れ上がるごとに大きく、激しく爆ぜる赤い稲妻。限界まで膨らんだ球体の表面でその稲妻は龍のような形になり、今にも地上に襲い掛かろうとする。そして、次の瞬間、眩い光が辺りを包んだ。
ホワイトアウトした視界を瞬くと、思考を占めていたビジョンは消えていた。ミナミは荒い呼吸を吐きながら、攻め上がるように内側を叩く鼓動の音を聞く。
「わたし、が……」
ミナミが零した言葉に、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「あなたじゃない。確かに、あなたが私に共鳴してくれたお陰で、あれだけの威力が出せたけど……決して、あなたが悪いんじゃないわ」
「でも……」
「私が望んだことよ」
彼女は何も持っていな両手の指を組み合わせて、柔らかく口角を上げる。
「でも……あれがないと、あなたは困るんじゃないですか?」
「いいえ、大丈夫――もう、大丈夫なの。私は、彼が誰だか分かったから」
「彼……?」
「そう、あなたの心が共鳴した、あの人」
彼女は少しの哀しみを含んだ調子で呟いて、ソッとミナミの方へと体を寄せた。ふわりと揺れる銀糸が体を包むように優しく触れ、ミナミは彼女の雰囲気に吞まれるまま、茫然として彼女を見上げる。
彼女は両手でミナミの頬を包み込み、ソッと額を重ね合わせた。伝わる熱が、肌を同じ温度へと変えていく。
「私がずっと気づかなかったせいで、彼にはとても辛い思いをさせたから」
「あの、彼って……」
触れた場所から記憶が流れ込むように、ある人物の姿が浮かぶ。ミナミはハッと瞳を見開いて、その人物を思った。今なら、思い出せる。どうして忘れてしまっていたのだろうと思うほど、色濃い記憶が甦った。
「お願い。どうか、彼に伝えて――……」
ミナミは彼女の願いを胸に刻んで、顎を引いてしっかりと頷く。彼女は額を離し、ミナミと視線を交わして笑った。
「ありがとう。私は――ユア」
名前を口にして、彼女――ユアは幻のようにミナミの目の前から消える。いつの間にか握りしめていた掌の内側から、自分とは異なるリズムの鼓動が聞こえた。ミナミはゆっくりと、その手を開く――キラッと光を揺らす赤い雫型のチャーム。
ミナミは再び手の中のそれを握りしめて、顔を上げた。上空から注ぐ眩い光が、意識を覚醒させていく。
ベッドの上で目を覚ましたミナミは、掌の中にチャームがあるのを確かめると、ゆっくり体を起こした。
「……行かなきゃ」
瞬きして見つめた部屋の暗闇が、一瞬ぐにゃりと大きく歪む。空気が一瞬、氷のようにヒヤリと凍てついた。反射で悲鳴を上げる前に現れた赤眼に射すくめられて、ミナミは思わず顔を強張らせて息を呑む。影から姿を現した、黒いローブを纏った長身の男。目深に被ったフードを骨ばった掌が払うと、その下には老人の顔が現れた。
老人はヌラッと光の揺れる赤眼をミナミに据えて、口髭に覆われた唇を開く。
「来い」
抑揚のない一言。ミナミは老人の赤眼を強い眼差しで見つめ返し、微かに顎を引いた。差し出された手に自身の手を重ね、暗闇の中に身を沈めていく。
ミナミの部屋には、人がいた形に皺の寄ったシーツだけが残された。
◇
赤く、乾いた風が吹く。少しでも口を開けば細かい砂が入り込んで、舌がザラつく不快な感じ。ハスミは努めて唇を引き結び、俯いたままで鼻から静かに呼吸する。
砂に埋もれた石畳の回廊。吹きさらしのまま、掃除されている形跡もない。それでも、革靴の底を擦りつける硬い石は、きっと磨けば眩く光る性質のものだろうと感じた。
回廊を囲む石柱も、行きつく先に設えられた玉座も同じ。設計者が、祀り上げる“王”を何よりの宝と思っている証。
後ろ手に縛られた両手を擦り合わせ、ハスミは淡々と歩みを進める。背後に添う男は深くフードを被っているせいで顔が見えないが、不気味なほど、ハスミとそっくりの背格好をしていた。
顔もそっくりだったというツバキやシドウの証言を聞いても、ハスミにはいまいち実感が湧かない。長く、何度も転生を繰り返す内に、自身の本当の顔など忘れてしまった
――だから、これから引き合わされるであろう相手を前にしても、「自分」を名乗れるかどうか分からなかった。
(それに、彼女も、もう)
背後の人物がピタリと足を止める。ハスミの背中を強く押して前に差し出し、縛った手首を下に引いて跪かせる。ハスミは俯いけたままでいた顔の角度から、チラッと淡い赤眼だけを上向けた。細かい砂がノイズのようにかかる視界。その中に、彼女はいた。
ミモレ丈の軽そうなワンピースに、裾から覗いた白く細い裸の脚。吹き付ける風が揺らす銀色の髪は細く、それ自体が発光しているかのようにキラキラと儚い光を散らしていた。ふっくらとした、サイズの小さな銀色の唇。スゥと通った鼻筋の付け根近くに並ぶ、真紅を揺らす大きな瞳。縁どる銀色の豊かな睫毛は軽く伏せられていて、白い頬にわずかに影を落としていた。細い顎を折り曲げた指の背で支えて、頬杖をつくような姿勢で斜めに体を傾けたその人は、目の前に現れたハスミたちに一瞥をくれることもなく、ただジッと沈黙している。
昏く、生気がまるで感じられない真紅の瞳から、ハスミは思わず目を逸らした。少女の頃の面影を残したまま成長した彼女は、記憶の中の少女とはまるで違っている。
「――ユア」
背後に立つ男が呼ぶ声。ハスミはビクッと肩を震わせ、再び視線を彼女――ユアに戻した。ユアの赤眼は微かに揺らぎ、昏い瞳がハスミを捉える。ハスミはギッと強く奥歯を噛んで、一心にその瞳を見つめ返した。
喉奥で、何度も爆ぜる空気の塊。渦巻く名前が今にも零れ落ちそうだけれども、音にした瞬間、何かが終わってしまう気がして声にできなかった。
何度も、繰り返し呼んだのに。何十年、何百年、ついこの間まで。何度も夢に見て、想い焦がれた相手。彼女の願いに報いるためだけに、生きてきたのに。
ハッ、と。声にならない声が弾けて、ハスミはただ吐息した。遣り切れなさに沸き立つ感情が、視界をジワッと滲ませる。漏れ出そうになる嗚咽を懸命に奥歯を噛んで堪えて、グッと強く息を呑み、喉を震わせた。
彼女の眼差しは、動かない。ハスミは深く頭を垂れて、強く目を瞑る。ドッドッと激しく内側を叩いてくる心音。縛られた手首の綱が、ミシッと微かに鳴いた。
「……ユ、ア……」
ついに、零れ落ちる名前。確かな音になって空気を震わせた声に、ハスミは縋るように視線を上げた――ユアの赤眼が、光を取り戻すことはなかった。
背後の男が、落胆の息を漏らしたあとでフッと皮肉に笑う声が聞こえる。ハスミは再び深く項垂れて、漏れそうになる呼吸さえ喉奥に深く押し込めた。
終わりは、あまりに呆気ない。これまでの人生の記憶が、色褪せて沈んでいく。
「この人間も、もはやトリガーではないか」
無感情に呟く声がして、地面の砂がフワッと一斉に巻き上げられた。背後に、なにか強大な力が育っていく気配。ハスミは項垂れた姿勢のままで、介錯を待つ武士のようにただ項を晒し続ける。
「――待って! 待ってください!」
突然、静謐な空気を裂いて響いた声に、ハスミはハッとして顔を上げた。背後の男も掌で育てていた球体を霧散させて振り返る。
「……ミナミ?」
回廊の先に立っていた人物――ミナミを見て、ハスミがポツリと声を零した。フードの男はチッと苦々しい舌打ちを吐き、伸ばした腕でハスミの髪を掴み上げる。
「……っ、ぐ……」
次いで、袖の内側から取り出した小さなナイフをハスミの喉笛に突きつけた。ミナミは駆け寄りかけた足をビクリと竦ませる。
「行きなさい」
ミナミの背後に控えていた長身の老人――アマネが、わずかに身を屈めてミナミの耳元でそう命じた。ミナミは数秒逡巡したあとで、顎を引いて頷き、一度躊躇った歩みを力強く踏み出す。
「どうして……」
喉を震わせるたび、刃先が微かに肌を掠めた。ハスミはグッと言葉を呑んで、懸命にミナミの挙動を見つめる。
「どうしてもハスミさんに伝えなきゃならないことがあるんです」
ミナミは薄茶色の瞳に強い決意の光を揺らして、一歩、一歩と玉座に近づいてきた。フゥと緊張を解くように深呼吸した後、ミナミの視線はハスミを通り越してユアに向けられる。そして、ミナミは親しの滲む表情でフッと柔らかく微笑んだ。
「なに……?」
背後の男が訝しむ声を漏らして、ハスミの喉に刃を突き立てたまま肩越しに玉座を振り返る。ユアの姿勢に変化はない。けれども、昏い真紅に一瞬光が揺れたように見えた。
「……っ、その女は違うと言っただろう! なぜ今更連れてきた!」
フードの男の怒声は、回廊の先に立つアマネに向いていた。アマネは伏せていた瞼を開き、真っすぐにフードの男を見据える。
「……我は観測者。真実を、見極めるのみ」
「真実、だと……?」
フードの男はギッと強く奥歯を噛んでたじろぐように顎を引いた。喉元に突きつけられた手の力が緩み、ハスミはゆっくりと呼吸する。
「お前も見届けろ。そして聞け、真実を」
「……」
フードの男は噛みしめていた歯列を解き、ハスミを拘束していた手を緩めた。ハスミは強張らせていた体の力を抜いて、すぐそばまで来ていたミナミと対峙する。
ミナミは一度ハスミに視線を向けた後で、再びユアの方へと目を向けた。
「ユアさんは、もうここにはいません。ここにいるのは、ユアさんの器だけ」
傍らに立つフードの男が息を呑む。ハスミはゆっくりと瞬きして、ミナミの語る言葉を聞いた。
「ユアさんの本質が願いだとするなら、ユアさんはきっと今ここに向かっているし……ハスミさん、あなたともうとっくに結び合っているんですよ」
「どういうことだ……」
ジリッ、と。迫るような声音で問うフードの男。一方のハスミは、内側をうるさく叩く鼓動の音にゴクリと息を呑んで、ミナミの言葉を頭の中で反芻する。
ユアはもう、ここにはいない。けれども彼女の本質である願いまだ生きていて、ここに向かっている。更には、とっくにハスミと結び合っているというのなら――。
ハスミは淡い赤眼を瞬いて、零れそうなほど見開いた。ミナミはハスミの視線に気が付いて、柔らかな眼差しを彼に向ける。
「まさか……、――アスカ……?」
ハスミが零した名前に、ミナミは満面の笑みで何度も頷いた。痛いほど速い鼓動が、いつしか心地よい高揚に変わり、全身に満ちていく。指先が震えて、ハスミは思わず叫び出してしまいそうな衝動に自身の口元を掌で覆った。
「彼が、ユアさんの願いです」
誇らしげにミナミが告げた時、傍らで強い憎悪の炎が、静かに揺れた。
《14/END》




