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第13話・贖罪

13.


 暮れていく空と、冷えていく温度。シドウが発した言葉はそれ以上に冷たい事実を孕んでいたが、誰も批難の声を上げる者はいなかった。

「……上からか?」

 苦しい沈黙を破り、空気を震わせたのはハスミの声。彼の目線はずっと、肩を支えるアスカに向いたまま。アスカは深紅の目を見開き震わせて、今にも崩れ落ちそうな体を必死に堪えて立っているように見えた。

「うん。僕のスマホに直接連絡がきた。口頭での内部通達だから、正式な発表は後日ってことだったけどね……緊急議会での決定だってさ」

「世間からの文句を押さえらんなくなったんだろーよ。所詮俺らの振るう力も、敵さんと一緒くたにしてやがんだろ」

 吐き捨てるように言いながら、ヒイラギは地面に積もった死灰を蹴り上げる。パッと散る微細な白は、光を反射することなく空虚なまま、地に還る。

「仕方なくない? 被害もめちゃくちゃ出ちゃったし、結局うちら、なんも出来てないのも一緒だもんね」

 陽が沈んだせいもあり、ツバキは光の影がない昏く虚ろな瞳をして口元だけで笑った。しゃがんだ姿勢で爪先に体重を乗せ、ゆっくりと前後に体を揺らしている。

「そこまで自虐的にならなくてもいいでしょ。それなりの成果は得られてるわけだし」

「成果って?」

 上目遣いの視線を向けて、ツバキはシドウに問うた。シドウは電源の切れかけたノートPCを叩いて、眼鏡の奥の青眼を細める。

「一番大きいのは、ヴァンプの発生条件だね。やつらは無尽蔵に湧いてるわけじゃない。それなりに力を持ったグレン・ヴァンプの意志で生まれてるってこと」

「ふぅん……でも、グレン・ヴァンプって結局何体いるの?」

「――5体だ。始祖とアスカをいれたら、7体」

 暗闇をスゥと裂くように、ハスミの声が響いた。確信を強く含んだ声音に、全員の視線が集まる。

「……どうして、そう言えるの?」

 ぽつりと、ツバキの声が問う。不安げな赤眼を向けてくるアスカと視線を絡めたハスミは、彼を安心させるように柔らかく微笑んだ。そして軽く目を伏せて、吐息しながら呟く。


「グレン・ヴァンプは、俺の家族を模してる」


 アスカはハッとして目を見開いて、微かに開いた唇を噤んだ。少しの間を置いて瞼を開いたハスミは、静かな視線を周囲に向ける。

 数秒のはずの静寂が、重く、息苦しい。自身の内臓の音が一番大きく聞こえるほど、張りつめた緊張に指先が冷えた。

「……そっか。じゃあその線で考えたら、僕らはその全員の姿を見てるわけだね。ハスミそっくりのやつと、ツバキたちの母親を名乗ったやつ。あとあのゲス議員ヅラ野郎と、さっきの女の子と、老人。これで全部?」

 シドウは宙を仰いで指折りながら記憶を数え、そのままハスミを見た。一方のハスミは、シドウのリアクションにぽかんとした表情でフリーズしていた。

「……なにその間抜けヅラ」

「いやお前こそなんだよそのクソあっさりしたリアクション」

「どんな反応期待してたわけ? そもそもお前の家族構成なんて知らないから判断しようもないし、ただお前がそういうならそうなんだって納得するしかないでしょうよ」

「いやまあ、そう……だけど」

「まあ多少驚きはするけどね。言われてみれば確かに、あの女もうちらの『母親』名乗ってたし、リッくん拉致ったおじさんもやたら『父親』だって言ってたね」

「あの女の子も『お兄ちゃん』って言ってたしな。そのあとのじーさんは祖父さんってことか」

 ヒイラギとツバキも淡々と自身たちの気づきを述べる。重大な事実を明かす重さで言った自身が妙に恥ずかしくなって、ハスミはうぐぅと低く喉を鳴らして黙り込む。ハスミの様子を呆れ顔で見ていたシドウは、フゥと短く息をついて議論を進めた。

「ハスミの家族説を採用するとして、手段はどうあれ、とりあえず僕らは全員を一度退けてるわけだ。それに、目的もなんとなく見えたでしょ」

「ああ……目的の根元には、始祖がいる」

 調子を立て直したハスミは、重くなりすぎないよう吐息を混ぜて発言する。全員の表情にはそれぞれ困惑の色が浮かんでいた。――無理もない、と、ハスミは再び瞼を伏せた。

「あと話し合うべきは、これから僕らがどうするかだね」

 シドウの声は、暗闇に芯をもって響く。完全に夜に呑まれた空。濃い群青は、迫るような圧をかけて6人を取り巻いた――別れが、迫っている。

「俺らは自分らの家に帰るよな。もうここにはいられないし」

 ツバキの隣でしゃがんでいたヒイラギは、両腕を空に伸ばして勢いを突けながら立ち上がる。ハッと目を向けたアスカと視線を合わせて、ヒイラギは眉尻を下げて笑った。

「そんな顔すんなよ、アスカっち。俺らは役目を放棄する気はねえから。街中に残ってるかもしれねえヴァンプの《種》を見つけて、狩るとかする」

「そうね。あんだけたくさん撒かれたら、グレン・ヴァンプの意志とは関係なく目覚めちゃう子たちもいそうだし、監視は必要よね」

「権限はないけど、それでもやる?」

 口を挟む形で問うシドウに、ヒイラギとツバキはお互いを見交わして首を傾げる。

「権限とかいらなくね?」

「たしかに。軍部もほとんど人いなくなちゃっただろうし、助っ人して株上げとくのもいい手じゃない?」

「図太いねえ、お前らは」

 白い歯を覗かせて笑う2人に、シドウは呆れた口調で返した。

「あの、マスター……」

 それまで黙っていたリクが、シドウの背後から遠慮がちな声を上げる。

「僕も、彼らを手伝っても」

「ダメだよ、リク」

 リクが言い切る前に遮るシドウ。ツバキとヒイラギが向ける批難の視線を掌を振って払いつつ、シドウはリクと向き合った。

「お前は僕といなさい。組織がなくなったからってやることは山積みなんだから。これまでの研究データの回収と、システムの再構築。もしまたグレン・ヴァンプが襲ってきた時のために、万全の体勢で迎え撃つ準備をしておかないと……ってわけだから、僕らはしばらくここに残るよ。上からの正式な通達も誰かが受けなきゃならないから」

 シドウと目を合わせたリクは、軽く顎を引いて頷く。

「力になります。マスター」

「うん。頼りにしてる」

 柔らかく笑ったシドウは、自分よりも身長の高いリクの頭を慣れた様子で撫でた。

「なあシドウ。上からの連絡なら、俺が」

 片手を挙げて言いかけたハスミの言葉を、シドウは視線の圧で遮る。

「お前はお前にしかできないことがあるでしょ。グレン・ヴァンプの目的も、始祖の思惑も全部分かってるくせに。僕を失望させるな」

「しつ、ぼうって……」

 睨め上げるような青眼にたじろぐ間に、似たような視線が4人から浴びせられる。板挟みになったアスカがひとりうろたえる様子が視界の端に映って、ハスミは周囲の視線からアスカを守るように思わず彼を抱き寄せた。

「今までだって同じでしょ? お前はいつだって自分の思惑のために動いてる。僕は自分の興味の向く研究ができればよかったから別に気にしてないけど」

 シドウはふと視線を泳がせ、ツバキとヒイラギ、そしてアスカへと順番に目を向けた。

 ハスミはシドウの挙動に注視したまま、唇を引き結ぶ。

「ツバキとヒイラギを巻き込む形で組織に引き入れたことも、なによりアスカとつがいを結んだこともそう」

 モゾッと揺れた銀髪の頭が、澄んだ赤眼を向けてきた。ハスミは腕の中を見下ろして、グッと息を詰まらせる。

「別に責めてないからね? その全部に僕らは納得してたから一緒に行動していただけだし、お前に大人しく従ってただけなんて思わないでよ」

「……俺が何をしようとしてるのか、分かってるのか?」

 喉をキツく締めたまま、絞り出すようにハスミが告げた。シドウはハッと軽い息を吐いて肩を竦める。

「知らないよ。興味がない」

「お前は、またそれ……」

「でも別にいいんじゃない? お前の人生だろうよ。それをやり遂げなかったら死ねないって顔してるくせに」

 シドウの言葉が深く核心を抉る。内側で膨れ上がっていた決意の風船に針を通されたように、透明に澄んだ空気が喉から抜けていった。

 ハスミは唇の隙間を引き結び、軽く顎を引く。シドウの青眼を真っすぐに見据えた後、アスカの体に回していた腕を解いて、彼を隣に立たせた。

「……ごめん、でも」

「謝って楽になろうとしないでくれる?」

 言葉を途中で折った上に、槍で致命傷を残すくらいにキレのいい文句。ハスミはいい加減身に馴染んだシドウの皮肉を心地よいとさえ感じている自分に苦笑しながら、微かに口角を吊り上げる。

「――いってくる」

「いってらっしゃい」

 ヒラッと手を振って、シドウはハスミから視線を逸らした。リクを呼んで瓦礫を覗き込み、2人だけで会話を始める。

「俺らも行くわ。じゃーな、おっさん!」

「アスカっち、元気でね」

 ヒイラギとツバキもカラッとした様子で宣言して、瓦礫を踏み越え星空の下へと歩き出した。

「……ハスミさん」

「ん、行こう」

 傍らに並ぶアスカの手を握り、ハスミは誰とも交わらない方向へと歩き出す。


 足音が遠ざかり、シン、とその場に満ちる静寂。屈めていた体を起こしたシドウは、長い前髪を払って空を見上げた。

「……どうしました? マスター」

 声をかけたリクの方に向く、力ない視線。リクはシドウの瞳に浮かぶ感情を察して、肩を支えるように体に触れる。指先に伝わる感触に驚いたリクは、密かに強く息を呑んだ――シドウの体は、触れればわかるほどに震えていた。

「不思議だよね。説明のつかない感情を抱いたとき、涙でも怒りでもなく、人の体は震えるみたいだ」

「……――父さん」

 少しの逡巡の後、リクが選んだ呼び名にシドウはハッと吐息するように笑う。彼の理路整然とした思考には舌を巻く。組織を失った自分の立場は、リクのマスターではなく彼のいち父親だった。――ならば、多少弱みを見せることも許される。

 リクはシドウの胸の内を呼んだように、彼の肩に腕を回してピタリと体を寄せた。震えの止まない体を労わるように淡い息を吐いて、その肩をソッと撫でる。

 群青から、黒へ。深く沈んでいく空に、痛そうに鋭い三日月がひとつ、静かに浮かんでいた。



 どれだけ怒涛の変化を経たころで、世界の終わりがこない限り、変わらず朝は訪れる。

 寝返りを打つたびにギッと鈍い音で鳴くシングルベッド。染みついたかび臭い匂いはいくらシーツを洗濯しようが抜けなかった。ハスミは鼻の奥をついてくる不快な臭いに顔を顰めて、疲れの取れない体を起こす。

 寝起きの眼を瞬いて、見渡す光景はこれまでの日常と一変していた。破壊された街を出て、アスカと共に訪れたのはかつて吸血鬼の襲撃を経て人口のほとんどを消失し、ゴーストタウンと化した街。都市機能は完全に廃れていたが、捨てられた家屋と近くを流れる川、隣の街には通じている電力を拝借することで、ライフラインはなんとか確保できた。

「あ、ハスミさん! おはようございます!」

 部屋の入口に顔を覗かせたアスカが溌溂とした声で言う。頭をバンダナで覆い、焦げの目立つエプロンを身に着けたアスカは、明るい笑顔を浮かべた。

「……お前、オルビスを出てからやたらと早起きだな」

「オルビスは寝心地が良すぎたっていうか……あと、ハスミさんの部屋の窓、小さかったですし」

 呟くアスカの横顔に柔らかな朝陽が差し込む。ハスミは透けてしまいそうなアスカの白い肌を見つめて、眩しそうに目を細めた。

「そりゃ悪かったな。まあ、ここに比べたら大抵の建物の窓なんて小さいだろ」

 ハスミは苦笑して、アスカが立っている場所から横の空間へと視線を移す。そこにはかつて壁があったのだろうが、今は爆発に吹き飛ばされたように抉れて崩れ、内部の鉄骨を覗かせていた。屋根があって、比較的家具が無事だったというだけでこの廃屋を寝床に決めたけれども、街に残る他のどの家も、どれも似たような被害を受けている。

 ハスミとアスカが寝起きをしている部屋は、かつて夫婦の寝室だった場所なのだろう。2つ並んだベッドの間に置かれた無人のベビーベッドが、かつてこの場所にあった平穏を伝えていた。

「吸血鬼に襲われた街は、どこもこんな風なんでしょうか」

「まあな……最重要事項だとしても防衛に避ける予算は限られてるし、国のお膝元だったオルビスが飛びぬけて充実してたってだけで……それ以外の街は見捨てられたも同然だ」

 それでも、慎ましやかであってもここにも確かに尊い命の営みがあった。ハスミはベビーベッド中に置かれた手作りの木製玩具を拾い上げ、カランと微かな音を鳴らす。

「オルビスも崩壊したら、みんな、どこに行くんだろう」

「崩壊したっつっても、シェルターはまだ生きてるし、食料も十分にあるはずだ。見捨てられた街がある分、インフラはほぼ全部あそこに集中してるわけだし。生活を建て直すだけだったら十分可能だろ」

「守りも……、そっか。ツバキとヒイラギと、リクもいる」

 ハスミはベッドの中に玩具を戻して顔を上げた。アスカの深紅の瞳に悲愴な色はない。敗北の痛みも、拭えない喪失も、先の見えない不安も。すべて無いもののように感じさせてくれるアスカの態度に感謝しつつ、ハスミはベッドから立ち上がる。

「なんか美味そうな匂いする」

「わかりますか!? ハンバーグ作ったんです!」

「……お前が食事当番の日はぜんぶ同じメニューになりそうだな」

「べ、べつにオレが食べたいとかじゃないですよ!? オレそれしか作れないから……!」

 無駄に慌てるアスカの横のすり抜けて、ハスミは向かいの部屋へ足を踏み入れる。部屋に満ちる甘いソースの香り。ダイニングテーブルに並べられた2つの皿の上には、相変わらず歪な形のハンバーグが並んでいた。

「……まあ、願掛けみたいにしてもいいかもな」

「がんかけ?」

 アスカは使用したフライパンを汲み置きの水に浸しながら、首を傾げて聞いてくる。

「望みが叶うまで、同じことを繰り返すってこと。まあ、所詮気休めだけど」

「いいですね、それ! 叶うまで毎日ハンバーグで!」

「お前がうれしいだけだな」

 フハッと息を吐くように笑いながら、ハスミは椅子を引いて席につく。バンダナとエプロンを外したアスカも堪えきれない笑みを表情に滲ませつつ、ハスミの対面に腰を下ろした。

「いただきます」

 声を揃えて言って、表面が少し焦げ付いたハンバーグにフォークの先を突き立てる。割れたガラス窓から差し込む朝陽に照らされ、濃いソースの表面は光を撒いたように輝いた。

 甘いソースと、少しの苦味。ガリッと立つ不穏な音に苦笑しつつ、2人きりであることに慣れた朝は、今日も平穏なまま始まった。



「ただいまー。あー腹減ったぁ……って、あれ?」

「え?」

 帰宅してきた制服姿の弟を振り返ったミナミは、彼の反応に首を傾げる。

「なあに、どうしたの?」

 ミナミはダイニングテーブルに2人分の食事を並べつつ、テレビの電源を入れた。

 画面に映るのは隣接するエリアの被害状況。ここ一週間代り映えのしない映像に軽く溜息をついたミナミは、飲み物を取りに冷蔵庫へと向かう。

 弟は荷物を床に置き、制服の第一ボタンを外すまではしたけれども、その後は棒立ちのままジッと食卓を見つめていた。

「早く手洗って着替えてきたら? お腹空いたんでしょ?」

 職場近くでヴァンプに襲われ、治療のために長らく空けていた自宅に帰って一週間。ミナミが不在の間は弟も友達の家でお世話になっていたため、2人での日常は久しぶりだった。

 ミナミはチラッとテレビ画面に目線を向ける。倒壊したオルビスタワーは、かつてミナミの勤務していた場所。会社からはしばらく出勤を控えるようにという通達があっただけで、復職できる時期などは知らされていなかった。

 家事のために体を動かしてみてわかったが、特に不調を感じるところはない。なんのために長期間入院させられていたのだろう、と疑問に思いつつ、ミナミは腕に残る注射痕を指先で撫でた。

「あれ、まだ着替えてないの?」

「え、あぁ……うん」

 飲み物を手にダイニングに戻ると、弟はさっきと全く同じ姿勢で立っている。ミナミは首を傾げつつ、グラスに作り置きのお茶を注いだ。

「姉さん、これ」

「んー? あれ、あんたこれ嫌いだったっけ?」

「嫌いってことはないけど……さ。でも、さすがに一週間続けてだと……」

 満たしたグラスをテーブルに置き、ミナミはピタリと動きを止める。弟が言った言葉の意味は分かるのに、脳が理解を拒否するような。鼓動が耳に響く中、指先が震え、グラスから離れた。

 ふと、それまで聞き流していたテレビの音声が、やけに鮮明に聴覚を揺らす。

『続いてのニュースです。先週、ヴァンプの襲撃を受け、壊滅的な被害を出した責任を取り、解散となった【V-Unit】の代表から声明が発表されました。発表された文書によると――』

 ミナミはゆっくりと顔を上げ、引き寄せられるようにテレビに近づいた。近すぎる、と思うほどの距離で画面を凝視する横顔に、画面から漏れる青い光が反射して白い肌を染める。

「姉さん……?」

 弟は背筋の冷える感覚を覚えながら、ギュッと小さく拳を握りしめた。

 テーブルに並べられ放置されたままのハンバーグは、甘いソースの香りを滲ませながら、細く頼りない湯気を静かに揺らしていた。



「ハスミさん」

 呼びかけて、上を向く淡い赤眼と視線を交わす。アスカは両手に持ったマグカップを軽く持ち上げ、片方をハスミの手元に差し出した。

「なんか、逆転しちまったな」

「何がですか?」

 椅子に腰かけたハスミの視界に入る位置。壁に背中を預けたアスカは、マグカップから立つ湯気を吹きながら聞く。

「俺がお前に世話焼かれてる」

「ああ……でも、仕方ないですよ。ハスミさんは調べなきゃならないことがあるし、オレは特に他にすることもないんで。むしろ家事させてもらってたほうが気が楽です」

「お前は本当に素直で呑み込みが早いから助かるな……まあ、多少不器用だけど」

「うっ、ごめんなさい……」

 アスカはカップの表面を漂うインスタントコーヒーの粉に、ウッと表情を顰めて無念そうに目を閉じた。ハハッ、と軽く聞こえたハスミの声に瞼を開き、アスカは瞬きして彼を見る。

 ハスミは表情を緩めて、手元の紙資料に目を落とした。睡眠は十分とっているはずなのに、ハスミの目元に刻まれたクマは濃さを増している。笑うことが増えて、表情も雰囲気も柔らかくなったのに、そのどれもが実体を伴わない空虚なものに思えて仕方がない。

 あの日から身に着けたままの丈の長い白衣の背中に、目に見えない重圧がのしかかっているような。

「なあ、アスカ」

「う、ぁっ、はい!」

「なんだよ慌てて。どーした?」

「いやその……すみません、ボーっとしてて」

 アスカは誤魔化すようにヘラッと力の抜けた笑みを表情に貼り付けた。苦笑を返したハスミは軽く肩を竦めて、窓枠の上にマグカップを置く。

「悪い。俺に気遣ってくれてんだよな……分からないほど鈍くないから、正直に言ってくれていい」

「気、つかうとか、そんな……ただ、ハスミさんが苦しそうで……オレは……力になれないことが少し、いやです……オレは、ハスミさんのつがいなのに」

 マグカップに添えた両手の、左手の甲へと据える視線。そこに刻まれた跡は変わらずそこにある。熱を宿した余韻が鮮明に残る分、触れる度に体温のままの温度であることに、いつも落胆させられた。

「……そうだな。お前の言う通りだ」

「え?」

 パッと顔を上げた先。ハスミの柔らかな視線が向いている。拭えない痛みと焦燥の滲む瞳は、否応なしにアスカの内側をかき乱した。

「アスカ、座ってくれ。……俺の話を聞いてほしい」

「ハスミさんの話?」

「少し長くなるから」

 アスカは頷いて、ダイニングテーブから椅子を一脚引き出してきて、ハスミの対面に並べる。ハスミが手前にマグカップをずらしたので、空いた場所にアスカもマグカップを並べて置いた。割れたガラス窓から吹き込む冷えた夜風。アスカはゴクッと喉を鳴らして、正面からハスミの瞳を覗き込む。

「俺と始祖――ユアの話だ」

「ゆあ、さん……」

 アスカが繰り返した名前に、ハスミは軽く顎を引いて頷いた。

「俺とユアは、かつて一緒に暮らしていた。家族ぐるみの付き合いっていうか、ユアが俺の家に居候するみたいな形で。きっかけはよく覚えていないんだが、気づいたら、家族の一員のようにそこにいたんだ」

 アスカはかつて、ハンバーグを初めて口にした時にハスミが浮かべた表情を思い出す。遠く過去に想いを馳せるような、決して自分に向けられたものではない眼差し。

「家族もユアを可愛がってて、特に妹はユアにとても懐いていた。父も、母も、ユアが好きだったし、祖父もとてもよくしてくれた」

 ハスミが口にする「家族」。その構成は、彼がグレン・ヴァンプの人数について考察を述べたものと一致していた。アスカは「妹」と呼ばれるクオンの姿を思い出して、奥歯を強く噛み締める。

「そんなある日、祖父が死んだんだ」

 死、という重い単語。アスカはブルッと肩を震わせて、腿の上に置いた掌をキュッと握った。

「単に老衰だったんだが、俺は祖父に懐いていたせいですげー落ち込んだ。ユアはずっとそばにいてくれて、慰めてくれてたんだけど……悲しむ俺を見てユアは言ったんだ。――人間も、永遠になればいいのに、って」

「永遠、に……?」

 アスカが繰り返した言葉に、ハスミは窓外に向けていた目線をアスカに向ける。ハスミはパタッと静かに瞬きした後、ジッとアスカの赤眼を見据えた。


「あなたと、つがいになりたい――、って」


 ゾクッと、背筋が大きく震える。そのままドッドッと激しく脈打ち始める鼓動が全身に巡り、アスカは冷えていく指先を思わず強く握り込む。ゴクッと強く唾を呑んで、アスカは戸惑いの揺れる瞳をハスミに向けた。


 自身と彼とを繋ぐ誇らしい絆の名前が、悍ましい呪いの言葉のように聞こえて。


「その時は、ユアの言う『つがい』の意味を俺は理解していなかった。結婚とか、そういう意味かなくらいの……永遠の命があれば、寂しくないでしょう? ずっと私と生きていられるから、って……俺はその時、いいね、って……言ったんだ」

 ハスミの表情が、悲痛の色を湛えてぐにゃりと歪んだ。ハッと荒い呼吸を吐いて、大きな掌が顔面を覆う。手の甲に浮く歪な血管の影、震える指先。指がめり込んだ額にじわりと赤が滲んで、涙声に似たかすれた声が、掌の隙間から零れ落ちた。

「それで、願いを確信したユアは、暴走を始めた。……人間と吸血鬼をつがわせようと、次々にヴァンプを生み出して、実験を始めたんだ。つがいになる条件はまず、ヴァンプに噛まれても死なないこと……それで、生み出したヴァンプに、無差別に人間を噛ませた」

 アスカは奥歯を噛みしめて、漏れ出そうになる嗚咽を喉奥に押し留める。ハスミの頭を占めているであろう、痛ましい現実。その痛みは彼のもので、アスカのものではない。痛みを見せるのは、間違っている。それでも、血の共鳴を通じて伝わる感覚は、体が引き裂かれるほどに痛かった。

「願いが強くなるだけ、ユアの力も増していった。巨大なヴァンプが生まれて、見境なく人間を襲った。俺の家族も……ヴァンプに食われて死んだ」

「それで、ユアさんは……」

 掌を外したハスミは、流れる汗をそのままに、光のない瞳を上げる。

「ユアは……もう、壊れていた。血を流して、その血からヴァンプを何体を生み出しながら、ずっと、歌っていた」

 アスカはふと、夢で見た光景を思い出す。赤く枯れ果てた故郷の大地と、銀色の髪を風に遊ばせながら歌を口ずさんでいた女性の姿。彼女の姿と、ハスミの語る「ユア」がぴたりと一致する。

「とても綺麗な歌声だった。光を求めるように、天に手を伸ばして。その手から滴る血で、ヴァンプを生んで。俺は、ユアを止められなかった。やめてくれと叫んだけど、届かなかった」

 ハァ、と深く吐かれる息継ぎの音。堪えきれずにグズッと洟を鳴らすアスカを、ハスミは慈しみを込めた瞳で見つめた。

「俺も、家族を襲ったのと同じヴァンプに噛まれて、死んだんだ。地上の惨状も、ユアの願いも置き去りにして。ユアは俺が死んだことに気づいていたかどうかも分からない」

 ハスミは掌に視線を落とし、指先を握ったり閉じたりした。触れる現実の感触を確かめるように。

「二度、三度、四度……俺は人生を繰り返した。その全てを、ヴァンプの研究に捧げたんだ。ヴァンプと人間が結ぶつがいの理論を確立して、シドウに協力を求めて。シドウとリクがつがいを結ぶことに成功して、理論なんて知らずに偶発的につがいになっていたツバキとヒイラギにも会った。……後は、俺がヴァンプとつがいになれることを、証明するだけだった」

 全ての水分を失ったような、乾いた息が喉奥から漏れる。グッと喉を塞いでくる涙の予兆を無理に飲み込んで、アスカは口元に添えた指を噛んで声を堪える。

「お前に会えて、つがいを結んで。想いを遂げられたと思った。これですべてのピースが揃った、って。……でも、もう遅かったのかもしれない」

 ハスミは目を伏せて、フゥと短く息を吐いた。

「……お前と、つがいを結んだことがユアが作ったグレン・ヴァンプに知れて、そこから襲撃の動きが増した。つがいの絆を試すように……もっと言えば、壊すように。ユアの願いがあの頃のままかどうかは分からない……けど、すべては俺の軽率さが招いたことだ。多くの人間が犠牲になったことも、街が死ぬことも、吸血鬼に怯えるようになった世界も、全部」

 フッ、と。脱力するように息を吐いたハスミは、握っていた拳を解いて弛緩した指を広げた。表情に滲む苦悶の色だけが濃く、彼の内側を伝える。

「だから、全部。全部、俺が終わらせる……もう、俺のために、誰も死なせたくない……」

 ツゥ、と。音もなく眦を伝う涙。彼が度々口にしていた贖罪の意味を知って、アスカはただ力なく首を横に振る。

「……なんだよ。どーした?」

 いつもの軽い口調で、ふわふわの銀髪に掌を添えながら。ジワッと滲むハスミの体温が染みて、否応なしに広がる安心感に全身が震えた。くしゃっと揉みこんでくる指先の動きに堪らなくなったアスカは、堪えていた喉から嗚咽の欠片を零す。

「っく……、ぅえ……ひ、ぐ……う、ぅ……」

「泣き虫だな、お前は」

「ぅうっ……、だっ、て……ハスミさんは、なにもわるく、ないのに……ユアさん、だって、なにも……」

 理屈では、きっと違う。元凶を突き詰めたら至る明確な答えは、否定できるはずがなかった。それでも、こんなにも切実で純粋な罪があるだろうか? 答えの出ない問いが内側を占めて、それ以上声が出ない。

 ハスミはアスカの内側を見透かしたように、ただ黙って柔らかな銀髪を撫で続けた。指先に馴染む懐かしい感触――そんなことを思うこと自体が、罪だと自覚しながら。

「俺が俺として人生を繰り返して、人間のまま生まれ続けることが、罪の証だと思ってる。お前と結んだこの人生も、もしかしたら間違いなのかもしれない」

 ヒュッ、と。喉が詰まる音を立ててしまった。アスカは隠しきれない願いの所存に歯噛みして、深く俯く。

 ハスミはアスカの髪を撫でる手を止めて、摘まんだ細い銀糸をパララと散らした。群青の夜の灯。星影に似た煌めきに目を細めて、ハスミはポツリ、本音を零す。

「それでも俺は……初めて、終わってもいいと思ってる」

「え……?」

 聞き返したアスカの声に、ハスミは誤魔化すように曖昧に笑った。ハスミはアスカの髪から指を引き抜いて、感触の残る指先を擦る。


「お前は俺に、希望をくれたから。……ありがとうな」


 フッと、柔らかく咲く暖かな笑顔。ギュウと胸の締まる想いを覚えたアスカは、ギリギリで堪えていた線を決壊させるように、大声を上げて泣いた。呼吸が詰まり、裂かれる胸。それでもどうか、この声が彼を傷つけることが無いようにと強く願う。

 差し出された指先を握って。何度も、何度も、名前を呼んだ。

「ハスミ、さん……」

「ん?」

「ハスミさん、ハスミさん」

「なんだよ」

「ハスミさん……」

「はいよ」

「うっ、返事……しなくていいです……」

「俺の勝手だろうよ」

「ぅ、う……ハスミさん……」

「うん」

 繰り返す度、悲痛の角が取れていく。ハスミが律儀に返してくる柔らかな返事。呼びかけて、返される喜びを何度も味わわされて。終いにはアスカもフッと淡く噴き出していた。

 肩を揺らして、喉が笑い声に震えるのが心地好い。存分に呼吸を吐いて、空気に滲ませるように笑って。アスカは泣き声の余韻が残る喉を指先でサラリと撫でて、フッと息を吐き居住まいを正した。

「……すみません、たくさん泣いちゃって」

「いいよ。血が共鳴してたよな……痛かったろ?」

 赤く腫れた目元を労わるように、ざらついた親指の腹が皮膚を撫でる。アスカはハッと震える息の余韻を吐いて、フルフルと首を横に振った。

「強がんなって」

「いいんです、全然。むしろ、知れてよかったって思ってます」

「痛い思いしたのに?」

 下から覗き込むように向けられる瞳の色に、アスカは思わず苦笑する。痛みを心配するあなたの方が、よっぽど痛そうな顔をしている。アスカは頬を包むように押し当てられた掌に自身の手を重ね、そこにスリッと頬を寄せた。

「大丈夫ですよ」

 ホゥ、と淡く吐息して瞳を瞬く。ハスミは、まだ痛みの抜けきらない顔で確かに笑った。アスカはハスミの笑顔に目を細めて、ずっと胸に刺さったままの棘のような痛みに意識を向ける。

「オレ、ユアさんと夢で会った気がします」

「夢で?」

「はい……ユアさんには、あなたを知らないと言われてしまいましたけど」

「……そうか」

 軽く瞬きをした後、目を伏せて黙り込んだハスミの顔を見ながら、アスカは次にかける言葉を思って逡巡した。今、わざわざこの問いを向けるのは間違いかもしれない。それでも、彼とのこれからのためには必要なことだと、アスカはスッと空気を吸い込み、真っすぐな視線をハスミに据えた。

「ハスミさん」

「ん?」

 上目遣いに、甘えるように向けられる淡い赤眼。アスカは震えてしまう唇を一度軽く引き結んで、ハッと息を吐く勢いをきっかけにして問いを向けた。


「――オレとつがいを結んだこと、後悔していますか?」


 声は揺らぐことなく、凛として空気を震わせる。ピンと張った透明な弦を鳴らすように。

 ハスミは微かに唇を開き、視線をさ迷わせた。数秒の沈黙の間、アスカはただ、自身の内側で脈動する血の音を聴く。戸惑いに揺れるまま見えない答えを探して、迷子のように彷徨っている。アスカはソッと目を閉じて、唇の端に微笑みを浮かべた。――そして、凪いだ水面にポツリと垂れるような、彼の答えを聞いた。


 「……分からない」


 アスカは口元に刻んだ笑みを濃くして、伏せていた瞼を開く。どうかこの微笑みの意味を、彼が取り違えることがないように。

 アスカはそう祈りを添えて、ハスミに向けてもう一度笑った。


 真実を告げられた、2人きりの夜。死んだ街に唯一灯る淡い灯を見つめて、揺れる影がひとつ。影は家の明かりが消えるのを待って、静かに行動を開始する。


――この夜が、2人で過ごした最後の夜だった。



《13/END》

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