第10.5話・ハンバーグパーティー!
◇
左右にスライドして開く銀の扉を抜けて、真っ白な空間に漂っていたのはただならぬ空気。負傷したシドウの体を支えながらエレベーターを降りたリクは、キンッと張りつめた気配に素早く周囲に視線を走らせた。
「ん? どうかした? リク」
「マスター……何かが変です」
「確かに。全員揃っているはずなのに、妙に静かだ」
襲撃を仕掛けた政府の建物から徒歩でオルビスタワーまで戻ってくる際、タワーの上部に突き刺さるようにして在るドーナツ型の浮遊区には暖かな光が灯っていた。傍目には空に浮かぶ眼球のようにも見え、不気味な光景ではあるものの、シドウたちにとっては心安らぐ「家」の明かりでもある。
最悪、ツバキとヒイラギはオルビスタワーの外にある自宅に戻っていたとしても、浮遊区で暮らすハスミはそこにいるはずだし、ましてや眠っている番を置いて外出するということもありえない。シドウは脳内であらゆる可能性を潰しながら、回廊を慎重に進むリクに歩調を合わせて周囲の気配を探った。
唯一の扉のないオープンエリア。彼らが「食堂」と呼ぶダイニングルームに差し掛かった際に、2人はキッチンとの間を隔てる扉に張り付いて、神妙な表情を浮かべる人物たちを見つける。
「なんだ、いるじゃない」
シドウの声に顔を上げたハスミとツバキは、そろって唇の前で人差し指を立てた。
「なに、どうしたの?」
あえて声のトーンを落とさないまま問いを重ねるシドウに、ハスミとツバキはシドウの行動をコントロールする無謀を憂いて、ハァと大きく溜息をつく。
「お前なあ……」
「とりあえずおかえり。シドりん、リッくん」
「……ただいま」
微笑みあうリクとツバキのやりとりを数秒待って、シドウはリクから体を話してハスミに向き直る。
「で、なに?」
「んぁ……ひとまず先に報告するんだが、アスカが起きた」
「えっ!? ああ、そう……よかった」
シドウは青眼を大きく見開いた後で、ホゥと安堵の息をついた。ハスミは目で頷いて、言葉を継ぐ。
「起きた直後はボーッとしてたんだが、徐々に覚醒して本人も『なんともない』って言った。たくさん眠って、むしろ体の調子がいいって」
「そう。まあ、状態もずっと安定していたしね。ただ眠っていただけっていう可能性も十分ある」
「ああ……ただ、お嬢ちゃんのほうはまだだ」
「彼女はあくまで体組織の上では人間だし、血液がヴァンプに近いからと言って彼らと同じ回復力を持っているとは考え難いからね。それもまあ順当だとは言える」
「んああ、俺もそう思う。だから、問題はアスカなんだ」
「はあ」
ハスミが溜息を吐きながら視線を移した銀の扉。シドウも彼に倣って、その扉を見つめる。
不意にがタンッと鳴る衝撃音。丈夫なはずの扉がガクガクと揺れ、中で立て続けに音が暴れた。ブシャァァと水が噴き出す音に、ゴォォォと炎が唸る音。ガシャン、バリンという破砕音はまだ可愛いもので、時折空間をつんざいて響く甲高いチェーンソーのような音と、ゴリゴリと何かを削る音、ドンドンドンと何かを打ち付ける音は、正体さえも掴めなかった。
「な、なに……? なにが起きてるの?」
珍しく動揺を浮かべるシドウと、その傍らで静かに息を呑むリク。ハスミは掌に顔面を押し当てるようにして項垂れ、ハァと何度目か分からない重い溜息と同時に地獄のような声で告げる。
「アスカが……料理している」
「これ、料理の音?」
シドウの冷静なツッコミに、ハスミは静かに首を横に振った。それは否定ではなく、現実を受け止めろと諭すための動作だった。
「一応ヒイラギも生贄……じゃなかった。アシスタントでついてるんだけどね……ヒイラギ、無事かなあ」
この暴力的な音の嵐の中に捧げられたヒイラギの無事を祈って、4人はゴクリと強く息を呑む。
ふと、静寂が落ちる扉の内と外。ハスミたちが固唾をのんで見守る中、ゆっくりと細く、銀の扉の隙間が開いた。
「……っ、ヒイラギ!」
瞳を潤ませ口元を掌で覆ったツバキが、扉から倒れ込むように吐き出されたヒイラギの体を支える。ヒイラギはツバキの腕に抱きとめられて、数度瞬きした後で焦点の合わない瞳を天井に向けた。
「ヒイラギっ! ヒイラギぃ……しっかりして……!」
「痛て、痛い、痛いって姉ちゃん……ちょ、苦し……」
ツバキの怪力で気道を塞がれ、ヒイラギは青い顔で腕を叩いて抗議する。ツバキは「あ、ごめん☆」と言いつつ芝居がかった仕草を収め、側頭部に軽く握った拳を添えてウィンクで誤魔化した。
「とりあえず、キッチンの機能だけは守ったけど、あとはどうにも出来なかったわ……言い訳は本人から、聞いて、くれ……」
「ヒイラギー……――ッ!!」
泡を吹いてガクリと首を垂れたヒイラギの亡骸(?)に手を合わせた一同は、ヒイラギが明けた扉の内側へと恐る恐る視線を向ける。
黒焦げな上に水浸しの床。真っ二つに割れた作業台と、散乱する食材。無残な闘いの爪痕を残すキッチンの隅で縮こまり、土下座を通り越した土下寝の姿勢で震える人物を目にした一同は、無言のまま彼に視線を注いだ。
「すすすすすすすすす、すみませんでしたたたた……」
ガタガタ震えるせいでビブラートのかかりまくった声。極度に震えているせいか、透けるぎん髪はブレて輪郭を留めていない。ハスミはぐるりと室内の惨状を見回し、現実逃避も兼ねて修理代はいかほどかと見積もり始める。ヒイラギの遺言――もとい、証言を信じるならば、キッチンの昨日は守られたらしいので、掃除くらいで済むのかもしれない、などという希望的観測を抱きつつ。周囲は立ち尽くすハスミの背中に無言の圧を掛ける。――お前の仕事だ、と。物言わぬ視線に背中を押されたハスミは、グッと唾を呑んで室内に足を踏み入れた。
「……アスカ」
「ひゃい」
ガタガタ震えたまま発音するので、舌を噛んだように上ずる声。ハスミはアスカの前にしゃがみ込み、綿毛髪の中央に覗くつむじを見下ろしながら頬杖をつく。
「俺の言うこと素直に聞いとけばよかったって思わねえか?」
「ごもっともです……」
シドウとリクの闘いの結末を見届け、2人の足元しか移さなくなった画面を切ったあと。勝利を祝って彼らを食事でもてなそうという話になったところまではよかった。ハスミが伸びをしてキッチンに向かおうとするのをアスカが引き留めて、「オレがやります!」と言い出した。
深紅の瞳にキラキラのやる気をみなぎらせて、ハスミの白衣の袖を引く様はさながらよく懐いた飼い主のそれで。もちろん最初は渋って止めたが、頑として譲らない勢いと愛らしさに絆されてしまったハスミは、数分後に自身の迂闊を後悔することになる。
なんだかんだ面倒見のいいヒイラギがアスカを手伝うといって一緒にキッチンに入り、閉じた扉から聞こえだした破壊音。扉を開こうにもなぜかビクともせず、ハスミたちは扉が内側から開くまで焦れて待ち続ける落ち着かない時間を強いられたのであった。
「お前に見せたのは既に作り置きがあった状態だったし、一から作ろうとすんならハンバーグは手間がかかるし初心者は失敗しやすいしでめちゃくちゃハードルが高けえんだよ。調理器具もまともに握ったこともねえのに、勢いだけでなんとかできるだなんて思うな」
「うぅ……はいぃ……」
尻すぼみに消えていく切ない涙声。ハスミはひしひしと積もっていく罪悪感に心を抉られながら、無言でアスカのリアクションを待った。アスカはぐすぐすとすすり泣く声を上げながら、目元を両手でグイグイと拭いつつ顔を上げる。吸血鬼特有の白い肌は、擦りすぎたせいで真っ赤に腫れあがっていた。ひゃっくりを上げるアスカは、ハスミにジィと上目遣いの視線を向けて涙声を呑み込む。
「あの……」
「んだよ」
「なんでオレがハンバーグ作ろうとしてたって知ってるんですか?」
「ああ……なんとなくだが、それ」
ハスミは猫背の先で揺らした頭で、アスカの傍らで一緒に土下座するように添えられた皿を指す。縁に装飾がついた皿の上に乗った拳大の黒い塊。平らな表面でフラフラと揺れるアンバランスな球体は、底にぶつかる度にホロッと崩れて欠片を散らす。どうみても消し炭にしか見えないそれから、ほんのわずかに肉の香りがした。
アスカはハスミの視線の先を目にして、再びシュンと力なく肩を窄める。その体にしょぼくれた耳と尻尾の幻影を重ねたハスミは、低く唸って銀髪交じりの黒髪をガシガシと引っ掻く。
「――……あっ」
予告なしに掌大の塊を掴んだハスミは、大きく開いた口内にぶつける勢いでその表面に歯を立てる。ガリッと不穏な音を立てて塊をかみ砕くハスミ。齧り取った一口をゴリゴリと音を立てて噛み砕いた後、ゴクンと喉を鳴らして塊を呑み込んだ。
「ふ、ぁ、あ、あわわ……」
サァと顔を青ざめさせたアスカは、無言で咀嚼を続けるハスミを止めるべきか逡巡しているようで、空中で犬かきをするように両手を力なく上下させる。
ハスミの思い切りがよすぎる行動に戸惑うアスカを哀れに思った一同は、遠巻きに2人に近づいた。
アスカの助けを乞う視線を受けて、ツバキとヒイラギ、そしてシドウの目くばせを受けたリクの3人がアスカの側につく。ひとりハスミ側についたシドウは、彼の傍らにしゃがみ込んで、顔を覗き込みながら問うた。
「なに食ってるの、お前」
「あー……炭?」
ハスミの発言にうぐぅと情けない音を発しながら項垂れるアスカ。シドウはふぅんと気のない相槌を打った後、空中で頬杖を突きながら唇を開く。
「それは素晴らしいね。炭素は生命の基盤であり、ある宝石の同位体でもある」
「……何言ってんだ、お前」
「独り言」
膝に手をつき身を屈め、アスカの背後から気遣う視線を向けていたリクが、シドウの発言にヒクッと反応してわずかに顔を上げた。シドウは一瞬だけその視線に応じたものの、すぐに逸らして口元に淡い笑みを浮かべる。
「ん? リッくんどうしたの? なんかツボることあった?」
「いえ、別に何も……」
アスカの傍らにしゃがみ込んでいたツバキは、リクを見上げて問いかけた。リクはツバキに見られてしまった口元を隠しつつ、目を逸らしてはぐらかす。
ツバキはシドウとリクの間にだけ流れる親密な空気を感じ取り、つっこむのも野暮だなと興味を逸らした。
「ごっそさん!」
パァンと大きく柏手を打つように両手を合わせたハスミは、フンッと荒い鼻息を吐きながらそう宣言する。勢いに押されるまま「おー」と声を上げて拍手を送る面々の中、ハスミは勢いをつけて立ち上がり、アスカの鼻先に手を差し伸べた。
「ふぇ……?」
「オラ、一緒にもう1回作んぞ。……作り方教えてやる」
「一緒に……?」
「なんだ、不満か?」
「いいえっ! はい!」
矛盾する2つの返事を重ねて、跳ねるように立ち上がるアスカ。元気いっぱいに復活した耳と尻尾の幻影に苦笑したハスミは、握り返してきたアスカの手を掴んで引っ張り、焦げ付いた調理台に向けて歩みを進める。
2人の後ろ姿を見送った4人は、互いに顔を見合わせ苦笑した。
「さて、掃除するかあ」
ヒイラギの発した言葉にキッチンの惨状を改めて見回して、ため息が4つ重なった。
◇
床に散った水と、焦げた壁があらかた綺麗になる頃、キッチンの中に芳醇な肉の香りが広がる。
「うーん、めっちゃお腹減る匂い!」
「だなー!」
はしゃいだ声を上げる双子の影で、胃の辺りに手を添え黙り込むリク。シドウはそんな彼の背後から、藍色髪の影に覗く耳元へソッと囁きかけた。
「リクもお腹空いた?」
「マスター……僕は」
シドウは困惑の揺れるブルーを覗き込み、リクを安心させるように柔らかく微笑む。
「本当は少し前に約束してたんだ。倒れたお前を戦場まで迎えに行ったときにね、ハスミが僕たちに食事を作ってくれるって」
「あ……」
「お前が食事する姿を見るのは初めてだから、楽しみだな」
「う……上手く食べられるかどうか」
「大丈夫。むしろその機会を与えてこなかった僕を詰るところだよ? ここは」
「そんなことしません」
少しむくれた様子で返すリクに、シドウは苦笑して彼の頭に掌を置いた。
ヒイラギの号令で掃除用具を片付けた4人がキッチンに戻ると、ダイニングスペースにあるテーブルの上に、きちんとテーブルコーディネートされた料理がほかほかと湯気を立てて待っていた。
それぞれの席が分かりやすいよう色分けされた皿が3組。歪な形のハンバーグも、美しく添えられたソースに盛り立てられて、形の悪さはさほど気にならない。
「わぁ、すっごーい! アスカっち頑張ったじゃん!」
ツバキが絶賛の声を上げるのに、トレーに乗せてグラスを運んでいたエプロン姿のアスカは、はにかみながら応じる。
「んへへ……ハスミさんにいろいろ教えてもらっちゃった」
「よかったねえ」
「うん!」
ツバキに頭を撫でられて嬉しそうに首を竦めるアスカ。ハスミはその光景をほほえましく眺めながら、皿の横にカトラリーを並べていった。
「おら、早く席つけよ。冷めんぞ」
「はーい!」
声をそろえて返事をする双子についで、シドウとリクも席につく。ハスミはエプロンを外しながら、トレイを置きに戻ったアスカを手招いた。
「アスカ! 早く」
「あ、はいっ!」
アスカはテーブルに駆け寄りながらエプロンを外し、ハスミの隣の席に座る。全員が席についたところで、なぜかすべての視線がハスミに向いた。
「……なんだよ?」
「号令頼むよ、お母さん」
からかう笑顔を向けながら、右手を差し出す促すシドウ。
「誰がお母さんだ」
「それはマスターがお父さんだからですか?」
「リク」
微かに不穏な空気を滲ませながら聞くリクを、シドウが何事かを耳打ちして黙らせる。
「ママ早くー」
2人がやりとりをする間を受けてツバキが悪乗りし、ヒイラギもニヤついた表情を浮かべた。
ハスミがいじられている空気を察して落ち着かない様子でいるアスカに、ハスミは彼の視界を遮るように掌を差し出した。不安げな視線を向けるアスカに微笑みを向けたハスミは、両手を合わせてスゥと大きく息を吸い込む。
「残さず食えよ。いただきます!」
「いっただきまーす!」
勢いをつけた声が場の空気を一掃し、一斉に陶器と金属がぶつかる音が響いた。
切り取った欠片にはくんと食いつき、頬に手を当て顔をほころばせるツバキ。ヒイラギは慎重に咀嚼して味わいながら、ウンウンと深く頷いてゴクンと喉を鳴らす。シドウはハンバーグにナイフを差し入れながら、視線をジッと傍らのリクに据えていた。リクはブルーの瞳に光を揺らしながら、銀色の切っ先が繊維を割って、覗く切り口とあふれ出す肉汁に、さらに大きく目を見開く。
コクッ、と。小さく唾を呑んで上下する喉に目を細めたシドウは、自身の口内へと切り取った一口を運んだ。唇を閉じて咀嚼するシドウを横目で見て、リクは再び自身の皿に向き直る。適度な大きさに切り取った塊にフォークを差し入れ、ぱかっと開いた唇の内側へとハンバーグを招き入れた。
いつの間にか全員の視線がリクに向いていて、静かに咀嚼するままを息を呑んで見守る。むぐむぐと微かに頬を膨らませて咀嚼をつづけたリクは、ゴクンと喉を上下させた後、ホゥと淡い息を吐いた。
「美味しい、です……」
「よかった」
傍らで破顔するシドウと、照れたように頬を染めるリク。ツバキとヒイラギも顔を見合わせて笑い、アスカも興奮した様子でリクを見つめている。
「みんなで食べるのってめっちゃいいね! 毎日する?」
「いやあ、毎日はさすがに……」
「えぇー? いいじゃん! 最高にハッピーって感じで!」
ツバキの提案に日和るヒイラギの背中を、ツバキが景気よく叩いて悶えるヒイラギ。
広がる笑いの輪に空中で揺れるフォークの先を視界に入れたハスミは、隣に座るアスカに水を向ける。
「アスカ、手止まってんぞ。自分で作ったハンバーグはどうよ?」
ハスミに言われ、ハッと慌ててハンバーグをぱくついたアスカは、キュウと目を閉じて歓喜に体を震わせながら、ハァと満足の溜息を吐いた。
「すっっっっっごく、うんまいです!」
「そりゃよかった」
ハスミはハハッと声を出して笑い、瞼を伏せてハンバーグを口に運ぶ。
隣にはかけがえのないパートナーがいて、周りは気の置けない仲間たちが囲む空間。芳醇なソースの香りと、肉汁溢れるジューシーなハンバーグ。熱の余韻が満たす空間に溢れる温度と熱が心まで満たして、アスカは震える心のまま、グズッと洟を鳴らした。
「アスカ?」
「ん、へへ。なんかすごい、すごい楽しいなあって」
「……ああ」
ハスミは食べ終えた皿にフォークを置き、自身の位置から全員の顔を見回した。それぞれの死闘を経た過去が嘘のように、痛みのない顔で笑う面々。特に番同士の2人はより強く、深く結びついて、親密な空気を漂わせている。
「ハスミさん」
呼ぶ声に、傍らに視線を向けた。口の端にソースをつけたアスカが、ふにゃっと力の抜けた笑みを浮かべる。ハスミは愛らしいその笑顔に目を細めて、汚れた口元に指を這わせた。
◇
食事を終えて、食器も荒い終えた後。アスカはひとつだけ残ったハンバーグの種を保存袋に収めて、冷凍庫にしまった。まるで幼い子供が宝物を大事にしまうように。残ったひとつは、未だに目を覚まさないミナミの分。
「ミナミさん、早く目が覚めるといいですね」
「ああ。シドウの見た目ではもうすぐ目を覚ますだろうってことだったし、明日にはひょっこり起きてくるんじゃねえの?」
ハスミは自身で発した声を自分の聴覚で聞き、密かに苦笑する。――明日、なんて。ずいぶん軽々しく口にできるようになったもんだ。
「だといいですね! その時はまた、ここでみんなで食べましょうよ」
「……ああ」
首を傾け返した返事が、どこか上滑りするように響いた。
「ずっとこうしていられたらな」
ポツリ零した呟きの答えだとでも言うように、ゾワッと、嫌な感覚が蠢く。胸に運んだ指先に触れる凹凸を密かに握り締めると、ドクン、と脈打つような震えが伝わった。こんな時に感じたくなかった、と思う。――アスカに出会う前、長年待ち望んだグレン・ヴァンプの気配。
「……ハスミさん?」
アスカの呼ぶ声を聞いて。ハスミはハッと苦しい息を吐き、遠ざかっていく感覚に目を伏せた。今宵は、まだ。静かな夜を過ごすことを許してくれるらしい。
「アスカ」
「はい?」
「片付けはもういいから。部屋に帰って休もう。疲れただろ?」
「はい!」
アスカはエプロンで濡れた手を拭って、小走りで駆け寄ってきた。ハスミの体にぶつかる直前で勢いを収めて、触れ合わない距離を保って隣に並ぶ。2人の体の間に垂れた指先を握ろうかと、一瞬過ぎった考えをハスミは小さく頭を振って打ち消した。
(伝えない方がいい――余計な期待は)
キッチンを出て、白い廊下を進む。連なる窓に映る、光を撒いたような夜の街。その明かりのひとつひとつに息づく命を思って、ハスミは小さく唇を引き結ぶ。
服の内側に潜ませた石は沈黙している。それでも微かな息遣いだけは続いているような気がした。
部屋に入って、寝る準備を整えてベッドに入る。十分な広さのベッドに2人で寝るのは久しぶりのこと。ハスミは傍らに感じる体温に視線を向けて、真っすぐ天井を向いたままでいるアスカの横顔を眺めた。その瞳はゆったりと瞬き、クァと開いた唇から欠伸が零れる。
「あんなに寝たのに」
「病み上がりで暴れ倒したからだろ」
「あば……っ、ぅ……すみませんでした……」
「謝るのはもういいっつっただろ。またいつヴァンプが襲ってくるかもわかんねえし、休めるときにちゃんと休んどけ」
「はい……ハスミさん」
「んぁ?」
返事を返しても、アスカからの声はなかなか返ってこなかった。薄闇に眼を凝らすと、アスカの瞼はもうほとんど落ちかけていた。
「ハスミさん……オレ、眠ってる間……夢を見て……」
「もう寝ろ、アスカ。明日聞いてやる」
「はい……また、明日」
スゥと消え入る声に、重なる寝息。穏やかな音階の息遣いが繰り返されるのを聞いて、ハスミは天井に視線を移し、フゥと長く息を吐く。
「明日――な」
何事もなく来ればいい。何事もなく、守れればいい。
ハスミは握った拳を胸に置いて、白い天井を閉ざすようにゆっくりと、瞼を下した。
――キッチンでアスカと2人で交わした約束が、この先、叶うことはなかった。
《10.5/END》




