番外編・Cの行方
――現在より数年前。シドウとリクが番を結ぶ前の話。
◇
目の前で展開されているのが、まるで魔法でもあるかのように。光が揺れる青眼を大きく見開いて、シンクの縁にぶら下がるように齧りついたリクは、はぁぁと大きすぎるため息を何度も零した。
「……面白いか?」
ハスミは一度食材をかき混ぜる手を止め、腰の位置辺りで揺れる藍色の丸い頭を見下ろして問う。リクはフンフンと荒い鼻息を立てながら赤べこのように首を上下させた。
ハスミは冷えたひき肉の上でフラフラと手を振り、んー、と微かな声で唸る。
「……お前は食えないぞ?」
リクはキョトンとした表情を浮かべて、こくりと深く頷いた。
「シドウは食えるけど」
重ねた言葉に、リクはパァと顔を華やがせて大きく頷く。――なるほど、そういうことか。
フム、とひとつ頷いたハスミは、ひき肉の上で振っていた手を止めて、全開にしたノズルの下に両手を突っ込み手についたひき肉を洗い流した。
相変わらずハスミの手の動きを視線で追い続けるリクに、ハスミはソッと提案を投げる。
「……やってみるか?」
「うん!」
ようやく声を出して頷いたリクに苦笑して、ハスミは作りかけていたハンバーグのタネをリクの鼻先へと差し出す。瞳を輝かせたリクは、ぴかぴかに洗った手をタネの上にヌッと伸ばした。
――幼い挑戦を微笑ましく眺めるハスミの表情が硬く凍り付くまでは、ほんの数秒しかかからなかった。
◇
「なんでお前が料理なんかしてるの」
シドウの発言は最もだったが、もっと他に言うことがあるだろう、とハスミは思う。
「もっと他に言うことねえの?」
「お前もなんで付き合ってるの」
「そうきたかあ」
顔中煤まみれで火傷の跡を腕や足にたっぷりと残すハスミに対して、リクは指先を少し切った程度で収まっているのが不幸中の幸い。そして、一番の被害者である焼死体――もとい、黒焦げのハンバーグは、皿の上で文句も言えずに静かに横たわっている。
「リクはお前のために作ったんだろうが」
小さな唇を千切れるほど強く噛み締めて、青眼にいっぱいの涙を溜めて震えるリク。ハスミはリクとシドウに交互に視線を向けながら、表情ひとつ変えないシドウに焦れた思いを覚えた。
シドウは真一文字に結んだ唇の隙間から冷たい溜息を吐く。リクはビクッと肩を震わせ、今にも決壊しそうな涙の膜を溜めた視線を恐る恐るシドウに向けた。
「……そんなことしなくていい」
シドウが突きつけた言葉に、リクは噛みしめていた唇を解放して、シュンと萎れるように俯く。すすり泣く音のひとつさえ立てない様が痛々しかった。
「そりゃねえだろ」
「お前は黙って」
「はあ?」
「材料も無駄になるし、お前もケガして後片づけまでさせられるんだから割にあわないだろ」
後片づけはしろよ。
「いや後片づけはしろよ」
ハスミの冷静なツッコミを聞き流したシドウは、萎れたリクに近づき、ギュウと握り締められていた手を引く。
「誰もがお前のように器用じゃないんだよ」
ハスミの薄茶色の瞳を真っすぐに覗き込んで、シドウは冷たい青眼を据えて言った。その瞳の奥に滲む諦めと焦燥の色。ハスミは何も言わずにその瞳から目を逸らし、掌を振って「行け」と合図した。
シドウはリクの肩に手を置いて、歩みを促しながらキッチンから出て行った。
ひとり残されたハスミは、キッチンから出ていく父子の後ろ姿を見送り、腕を組んで溜息を吐く。
「器用じゃない、ねえ……」
それは家事に向いていない性質を指すのか、素直に感情を表せない性格を指すのか。――どっちもだろう、と結論づけたハスミは、フゥと短く息をついて、惨状を晒すキッチンと向き合った。
◇
紅葉のような掌に、小さく走る切り傷。微かな赤い線の上にそっと、柔らかな包帯を押し当て巻き付けていく。リクはシドウの手つきを食い入るように見つめて、クッと小さく息を呑んだ。シドウは好奇心の影をチラつかせるリクの瞳から目を逸らして、慣れない手つきで手当てを進める。
(素直に喜んで見せればよかったのかもしれない、けど)
ハスミに告げた理屈はどれも本音。努力したところでもともと壊滅的に不器用なのだ。失敗することが分かっている料理にわざわざ手を出そうとする理由が分からなかった。
驚くほど、鏡のようにそっくりな存在。それはシドウの研究に対するベストアンサーであり、本来ならば喜ぶべき成果だった。けれども、端々に思い知らされる――リクと自分は違う人間であるということを。
そして厄介なのが、その「違い」が限りなく愛しく思えてしまうこと。
包帯を留めて、手を離す。隙間が空いて今にも解けてしまいそうな包帯を自身の方に引き寄せて、リクは頬を染めて淡い微笑みを浮かべた。
隠そうとする素振りは見せるけれども、どうしようもなく滲んでしまう胸の内。彼の内側を満たしている感情の形があまりに柔らかく、眩しくて。しかもそれを与えているのが自分だという自覚は、どうしても烏滸がましく思えてならなかった。
(親の愛情を受けて育つ子供は、こんなにも素直に感情を見せるんだ)
(傷つけたくないなあ)
シドウはフゥと深く息を吐いて、仄かな赤が滲むリクの頬にソッと触れる。パチッと瞬きする大きな青眼に、彼の魂の形が透けて見えるようだった。限りなく澄んで、傷ひとつない美しい色。
滑らかな肌に指を添わせながら、シドウは心の底から湧く後悔を思い、皮肉を音にする。
「僕にそっくりならよかったのに」
目の前のリクの瞳が揺れる。――またやってしまった、と気づいたけれども、その痛みがシドウには心地よかった。
自分は、ろくでもない人間だから。
◇
普段の倍以上の時間を要した片付けが終わり、ハスミは凝り固まった肩を回してエプロンを外す。スゥと開く自動ドアの音。視線を向けると、複雑な表情を浮かべたシドウが立っていた。
「……終わったぞ。どうしたよ?」
「それちょうだい」
シドウは複雑な表情のままで、テーブルにぽつんと残された皿を指さす。
「もともとお前のだろ」
「だよね」
シドウは皿に近づいて、岩石のような形をした黒焦げの塊を転がした。揺らすたびにぽろぽろと欠片を散らす塊。シドウはフッと笑みを零して、大きな塊を手に取る。
「炭だね」
「炭だな」
「炭……炭素ってさ、生命の基礎でもあるんだよね」
「あー……んだな。それにあれだろ、ダイヤモンドの同位体だ」
「ダイヤ……」
シドウは角度を変えるように動かしていた手をピタリと止めた。天井から降る白い明かりが照らす炭の塊は、お世辞にも宝石には見えない。そもそも、鉄壁の現実主義者相手に理想主義寄りの発言をしてしまったことに少しだけ後悔しつつ、ハスミはカウンターに凭れて腕組をした。
シドウは青眼を細めて、長いこと塊を眺めていた。やがてフッと短く吐息して、塊を口元へ運ぶ。
薄い唇が開いて、凹凸の目立つ表面へと突き立てられる前歯。ゴリッ、と鈍い音の後、思い切りよく齧り取る音が爽快に響く。
ガリ、ゴリ、と、立つ音はあまりにひどいのに、シドウは苦い表情ひとつしなかった。それどころか、次々と歯を立て塊をどんどん小さくしていく。最後のひとかけらを口内に収め、指を舐めとったシドウは、フゥと両肩を下げて息をついた。
「味は悪くないね」
「……そうか?」
思わず素直に返してしまった反応に、シドウの視線の圧が突き刺さる。ハスミは両手を上げてハンズアップの姿勢を取りつつ、皮肉を込めて笑った。
「お前に似なくてよかったな」
皮肉屋の彼には皮肉が効く。シドウは微かに目を丸くして首を傾げ、唇の端を吊り上げて返した。
「自慢の息子だからね」
――僕は自分しか信じない。
出会ったばかりの頃にそう主張していた彼は、徹底した合理主義を貫き、何事にも執着することなどないように見えた。
それが、自らの手でリクを生み出し、純粋な魂に触れ続けて。彼の中を満たしていく「何か」の影を感じたハスミは、喉元までこみ上げた賛辞を腹の奥に仕舞い込んだ。
「胃薬いるか?」
「場所だけ教えておいて」
短いやりとりを交わして再びキッチンから出ていくシドウ。
ハスミはテーブルの上に残された皿を拾い上げて、シンクに運びながら、仕舞い込んだ賛辞を吐き出す。
「――似た者親子だな」
《END》




